1 作品紹介
死神に与えられたわずか十五秒間の余命が尽きる前に犯人を告発しなければならない。第一二回ミステリーズ!新人賞佳作となった榊林銘「十五秒」はそんな奇抜なシチュエーションが話題となった。
この作品を含む四編を収めた『あと十五秒で死ぬ』が二〇二一年に刊行される。ノンシリーズ短編集だが、タイトルどおり十五秒後に死ぬという要素がどの作品にも絡んでくる。なかでも、首が取れても十五秒間は死なないという特殊設定を扱った「首が取れても死なない僕らの首無殺人事件」のナンセンスな状況と緻密な論理の組み合わせには唖然とすること請け合いだ。このデビュー作は『2022本格ミステリ・ベスト10』で一〇位にランクインした。そのレビューで浅木原忍は、著者が『東方Project』の二次創作を手がけていることを紹介している*1。
まるでアントニイ・バークリー『毒入りチョコレート事件』(一九二九年)とジョン・ディクスン・カー『火刑法廷』(一九三七年)を組み合わせたようなタイトルの、第二作にして初長編『毒入り火刑法廷』が刊行されたのは二〇二四年のことだった*2。人類の前に突如出現した魔女と呼ばれる者たち。法では裁けない魔女を裁くための特別法廷、火刑法廷において魔女とみなされたものは火炙りに処される。そんな特殊設定の下での裁判劇を描く小説だ。
航海中の客船にて、箒で飛来してきた魔女が甲板にいた船客を短銃で撃ち殺した。科学的見地からは不可能な行為を罪に問うことはできないとして魔女は無罪判決を勝ちとる。このモーリスリンク事件をきっかけに魔女狩りが復活し、魔女を裁くための特別な審判すなわち火刑法廷が設けられた。
ここでいう魔女とは三つの超常的な能力を有している者を指す。箒で空を飛び、猫に変身し、そして他者の感情を操ることができる。裏返せば、これらの能力を使ったと証明されたならば魔女とみなされ火炙りとなる。
火刑法廷は魔女たちを回収しようとする超常的な存在によって取り仕切られている。判決は論理的破綻が少なく人間心理の蓋然性を含む、いわば市民たちの判断を総和したものになる。
エリス・カーソンはある夜、空から落ちてきた一人の少女と出会う。彼女の名はアクトン・ベル・カラー。魔女と疑われ逃れてきたカラーは火刑法廷の被告人となり、エリスは絶望する。なぜなら、カラーは本当に魔女なのだから。
この作品は三部構成となる。第Ⅰ部では《デイリー・レコード》紙のヘッドライナー(編集長)にしてエリスの母親の交際相手でもあったハロルド・ヴェナブルズがプラッツ・マンションから転落死した事件の裁判模様が描かれる。火刑審問官のオペラ・ガストールと弁護士の毒羊が激論を交わし、実はエリスもまた魔女であったという秘密が決め手となってカラーは無罪判決を獲得する。
第Ⅱ部ではカラーの故郷であるウィッチフォードへの帰還や、魔女であることを公言している歌手シュノとの邂逅および列車爆破事件が描かれる。アルマジャック記念公会堂の執務室にてシシリー・アルマジャック市議が殺され、市議の姪であるダレカ・アルマジャックを被告とした火刑法廷が開かれる。
毒羊、ジョン・カレッジの学生であるバッドマ・スタンダール、ダレカ、そしてエリスとカラーは同じ魔女として協力しあうための同盟を結んでいた。虚実入り乱れる攻防の末、毒羊はこの裁判が魔女を殺そうとする何者かの意志によるものだと気づく。ダレカは無罪とされたものの、カラーがエリスをかばうべく自らを魔女だと認め、火炙りとなる。燃え盛るカラーを救おうとしたエリスは熱傷で意識不明の重体となる。
そして第Ⅲ部では、アルマジャック市議の裁判をきっかけに魔女だと噂されるようになったバッドマが、火刑法廷を通じて知りあったアンデルセンにその疑いを逸らしてやろうともちかけられる。黒猫に変身したバッドマはベルガード療養院にて篤志家のクロスパトリック夫人からポーチを奪う。だが療養院の近くにある空き家ではオペラの部下であるミチル・トリノザカが銃殺死体と化して発見され、アンデルセンが逮捕される。
アンデルセンを被告とする火刑法廷が開かれ、大時計が正しい時刻を指していたかどうかが判決を左右することがわかる。それを確かめるべくベルガード療養院からエリスがベッドごと運ばれてくる。入院していたエリスは徐々に回復し、ときおり意識を取り戻していた。真犯人であるアンデルセンのたくらみによってエリスはアンデルセンどころかダレカ、バッドマ、エリス自身までも魔女だと結論づける破滅的な証言をしかけるが、夢の中でカラーの言葉に心動かされて翻す。魔女どもを皆殺しにするという目的を打ち砕かれたアンデルセンは自らを魔女だと偽りの証言をし、火刑に処される。
法廷での争いが三度も描かれ、証言や証拠に基づき議論の応酬がくりひろげられる。その論理の糸は長く複雑に絡みあっており、書評家ならば常套句である「エラリー・クイーンばりの」という形容を使いたくなる。
だが、それは誤りだ。この作品に描かれる推理は確かに緻密だが、クイーン作品を引き合いにするのは間違っている。そのことを次の四つに整理し、説明していこう。
- 一、悪意のある視点選択
- 二、姑息なフェアプレイ
- 三、能動的な推理
- 四、実用主義的態度
2 悪意のある視点選択
まずは「悪意のある視点選択」から始めよう。冒頭の場面に目を通してほしい。夜空からカラーが落ちてきてエリスと出会う。魔女や火刑法廷という特殊設定について説明される。開始五ページ目にして〝何故なら、アクトン・ベル・カラーは本当に魔女なのだから〟(七頁)という非情な一文が突きつけられる。これ以降、読者は間違いなくカラーやエリスに感情移入しながら読み進めることになるだろう。
これが罠だ。エリスもまた魔女であるという事実が伏せられている。第Ⅰ部のハロルド事件では、カラーがどうやって窓から侵入したかが争点となる。運送業者が窓を塞ぐようにピアノを置いたため、そこからの侵入は不可能なはずだった。ピアノは二人がかりでようやく動かせる代物であり、エリス一人では動かせない。だが、エリスが魔女ならば箒を用いた飛行魔法でピアノの重さを無にして動かすことができた。
同じ手口が第Ⅱ部でも、より鮮やかに使われる。ダレカは被告であり、隠し事などしているはずもないと読者は思いこんでしまう。アルマジャック市議が殺された後、意識を取り戻したダレカは猫に変身して執務室から逃げだす。大ホールを経由し、そして支配人室にて、鐘楼から落下してきた鐘の下からダレカがみつかる。このめまぐるしい逃走劇は偶発的なものであり、そこに裏があるとは思えない。まさか「猫」が指すものが途中でダレカから別の魔女へ入れ替わっているとは思いもしない。
この他にも二人一役など視点の工夫が多数ある。エリスたちの味方であるはずの毒羊がなにを考えているのか、どのように勝利するつもりなのか策がなかなか明かされないことも同様だろう。三人称における神の視点は、事実をわかりやすく公平に綴るはずだ。視点を恣意的に選択し、作品のいたるところに読者を欺こうとする悪意を込めている。
もちろん、そもそも叙述トリックはそういうものだ。なにか特筆すべきほどの新しい技巧があるわけではない。ただ物語という情動を煽る装置と特殊設定を掛け算し、最大限の効果を発揮させていることには注目すべきだろう。
3 姑息なフェアプレイ
このように読者を欺くべく恣意的な視点を選択する一方で、名づけるなら「姑息なフェアプレイ」とでも呼ぶべき態度を採る。クイーン作品のように作者が正面から堂々と読者に挑戦状を示すのではない。作者は紙背に身を潜めたまま、しかし読者に気づかなかったとは言わせない手掛かりを仕込む。
ひとつは叙述トリックを見破る手掛かりを示していることだ。第Ⅱ部では、カラーの正体を知る老夫婦に声をかけられ、焦ったカラーは二階テラスへ通じる通路へ駆けこむ。そこで足がもつれて転倒し〝背中の鞄の蓋が開き、エリスは床に投げ出され〟(一六一頁)る。
たった一文のため、深く考えず読み飛ばした読者は多いだろう。慎重になれば、いくらエリスが少女とはいえ鞄に入ることはないし、カラーがエリスを担いでいるのも妙だと気づく。そこまで来れば、魔女であるエリスが猫に変身し、鞄に入れられていたという解釈は難しくないだろう。
ここを正しく解釈していれば、後続の場面の重大さにも気づく。カラーはエリスの丸眼鏡を拾う。そこへ通路の奥からアンデルセンが現れ〝よぉ、エリス〟(一六二頁)と声をかける。エリスはお久しぶりですと返事をし、カラーはマフラーで口元を覆う。
エリスの姿が少女なのか猫なのかで、この場面の解釈はまったく異なる。とっさにカラーはエリスの眼鏡をかけたため、アンデルセンはカラーをエリスと誤解した。猫に変身していたエリスが代わりに返事をしたことで、アンデルセンの誤解は確固たるものとなった。結果的に、老夫婦が目撃したカラーが消えてしまうという不可能事象が発生する。たった一行を正確に読み解けていたか否かで、裁判の行方を予想できるかどうか決まったわけだ。
裁判の途中、休憩から戻ったエリスたちが法廷へ戻ると、空席になぜか小ぶりな箒が立て掛けてある。これもまた露骨な手掛かりだ。読者に向かって「この箒は誰が、なんのために残したのか?」と問いかけている。
第Ⅱ部はアルマジャック市議の殺害を巡ってダレカが魔女かどうかを争う裁判だ。だが前述のとおり、最後はカラーがエリスを救うべく法廷にて自ら箒に乗って宙を飛び、魔女として業火に包まれる。物語の焦点はダレカではなくカラーのほうにあったことを作者は箒によってフェアに示していた。示していたのは確かにせよ、どこか姑息さを感じる。
もうひとつ別の例を示そう。第Ⅲ部ではエリスの病室を訪れたオペラが、なぜか笑いが込み上げる。このとき地の文である〝不意に可笑しくなって、笑い声が零れる。〟(二五六頁)は太字になっている。これ以降、地の文で太字が用いられる箇所がたびたび現れる。
後に裁判の場面でもオペラの心情が太字となり、バッドマが人の感情を操る感応の魔法をオペラにかけていたことが明かされる。読者は当然そこで、それなら裁判の前に感応の魔法を使ったのは誰だったのか自問すべきだろう。
つまり第Ⅱ部と同様のたくらみがくりかえされている。アンデルセンを被告とする裁判だが、物語としてはエリスの破滅的な証言が到達目標だ。エリスがアンデルセンに操られていたことのヒントを作者は抜かりなく太字を用いて示していた。
4 能動的な推理
この作品を「エラリー・クイーンばりの」と呼ぶべきではない最大の理由を説明しよう。この作者は読者に対して「能動的な推理」を求めてくる。手掛かりから機械的に論理を紡ぐことをよしとしない。物語世界を現実そのものとみなし、想像力を駆使した思考を要求してくる。
第Ⅰ部では、エリスもまた魔女だったという真相が火刑法廷での勝利の決め手となった。ピアノをどうやって動かしたのか、不可能状況の謎を解くには論理的思考よりも閃きが求められる。
ヒントは示されていた。この物語は夜空から落ちてきたカラーをエリスが助ける場面で幕を開ける。カラーは航空機のプロペラによって箒を分解され、飛ぶことができない状態だった。エリスがただの人間なら、遥か空の高みから落下してきた人間を助けられるわけがない。能動的に考えを巡らせていれば、エリスは魔女の力で空を飛ぶことでカラーを救ったと察することができた。
毒羊からバッドマを経由してエリスに告げられた〝友人を救いたいなら、お前が身代わりになれ〟(七六頁)という言葉も暗示の役割を果たしている。この直後にエリスは弁護側の証人として証言台に立ち、ピアノによって塞がれていたため窓からは入れなかったと証言する。それはカラーを無罪にする有力な証言だが、エリスが魔女だと気づかれる危険な証言でもあった。
もちろん、この程度なら他の本格ミステリ作品にも当然あるだろう。より決定的な例を示そう。さきほど第Ⅱ部ではエリスが猫に変身して、カラーの鞄に潜りこんでいたと説明した。ところが第Ⅱ部の初めのほうでは〝エリスは幼い頃、こっそり変身魔法を試みたことがあった。だが、何度やっても成功する気配すらなかった〟(九四頁)とある。
答えは単純なものだ。エリスはダレカに教わって練習し、変身に成功した。しかしこの事実は読者に提示されていなかった。「エリスは猫に変身できない」という前提を信じたままではどうしたって「なぜエリスは鞄から飛びでてきたのか」という問いに答えをだすことはできない。
卑怯だと思うだろうか。これが論理パズルやなぞなぞのたぐいだったなら非難轟々だろう。だが現実の社会において人が腕前を上達させ、できなかったことができるようになるのはよくあることだ。あなたが求められているのは大工が三千万人いれば一秒で家を建てられるという思考ではない。
同じく第Ⅱ部の、足跡を巡る論理も特筆すべきだろう。逃げた猫は大ホールのバックヤードでペンキ缶を倒し、点々と足跡を残す。ところが逮捕されたダレカにはペンキが付着していなかった。これを以て、猫に変身していたのはダレカではなかったと毒羊は主張する。
魔女はどのような超常的能力を使用できるのか。それは魔女であることを公言しているシュノが実験に協力し、ヴィクトゴー・ルールと呼ばれる文書にまとめられている。だが、猫のとき身体についた汚れが人の姿に戻っても残るかどうかまではその文書に記されていない。
毒羊は火刑法廷の前に、シュノに実証実験を依頼したという。変身解除後も塗料の汚れは残るという王立学会の報告書を突きつけられ、オペラは狼狽する。報告書が本物か王立学会に問い合わせようとするが、なぜかずっと通話中でつながらない。この報告書は毒羊が偽造したものではないかと疑う。
前述のとおり、猫は途中でダレカからバッドマに入れ替わっていたというのが真相だった。しかし、この時点では読者にそれは明かされていない。第Ⅰ部でも毒羊は証拠品の偽造をしており、読者はこの報告書も偽物だろうと思いこむことになる。
ところが後にオペラは気づく。逮捕されたときダレカの手には血液が付着していた。執務室には殺されたアルマジャック市議の血による猫の足跡が残っていた。すなわち、毒羊が提示した報告書の内容は正しかった。変身解除後も身体についた汚れは残る。となればペンキの足跡のほうはダレカではなかったことになる。これを踏まえて、猫が途中で別の魔女に入れ替わった可能性をオペラは疑う。
なお裁判の場面よりも前に、執務室の猫の足跡(一六六頁)はもちろん、手が血で汚れていたこともダレカが手錠をかけられる場面(一六三頁)で示されている。オペラと同じ筋道で読者にも推理は可能だった。言い方を変えればこの作品は、魔女の超常的能力について特殊なケースでの詳細なルールを、自ら頭を使って発見するよう読者に要求していたわけだ。
報告書の内容そのものは正しかった。しかし、それならなぜ毒羊は王立学会への連絡を阻むのか。時間切れを狙ったのだろうとオペラは推測する。わざと報告書の真偽を疑わせておき、審理終了ぎりぎりで間違いなく本物だったと示す。そうすればオペラは反論を組み立てる余裕もなく敗北する。
一読者として、このとき狼狽したことを告白しておきたい。物語世界の中で突然迷子になったような気分だった。これまでそれなりに本格ミステリを読んできたが、これと似た不安を覚えた作品を他に思い出せない。叙述トリックを用いた作品の謎解き場面で思い込みを打ち砕かれたときの崩壊感とも、単に登場人物に騙されていたと知ったときの驚愕ともまったく異なる経験だった。
ペンキの足跡を巡るやりとりの時点では、安心して毒羊に感情移入することができた。「また偽造したのか、やりやがったな」と思い、慌てふためくオペラに滑稽さを覚えた。しかし血の足跡を巡るオペラの思考の道筋をたどるうちに背筋に冷たいものを感じた。騙されていたのは他ならぬ私自身だった。
一般的にミステリ作品において探偵役は手掛かりを集め、それらを解釈して真相を推理する。客観的事実から機械的な論理操作によって真実にたどりつく。探偵役/読者は光の中にいて、なにが潜んでいるのかと闇を照らそうとする。
猫の足跡を巡る論理はそれとは異なる。特殊設定ミステリながらルールの細部をあえて明示せず、叙述トリックによって猫が途中で入れ替わっていたことを伏せ、巧妙な視点選択によって毒羊の考えをあえて語り落とし、そして人が人を騙して当然という舞台を整える。状況を正確に理解しようと努めなければ、なにを信じてよいのかすらわからない。読者は闇の中を手探りで、光を求めて歩かなければならない。
5 実用主義的態度
最後に「実用主義的態度」について語ろう。第一章にて説明したとおり本格ミステリは長きにわたり、真実はたったひとつだけという思想を当然のものとしてきた。しかしこの作品は基本的な設定からしてその価値観に背を向けている。
火刑法廷が明らかにしようとするのは誰が人を殺したかではない。被告が魔女であるか否か、それだけだ。物語を読み進める者は誰もがカラーたちに同情する。いかにして人々を欺くか、魔女を魔女ではないと聴衆を欺く方向へ物語は向かうことになる。毒羊はそのためなら証拠品の捏造や時間稼ぎといった汚れた手段を用いることをためらわない。
これが倒錯を生む。第Ⅱ部の火刑法廷では、なんと毒羊はアルマジャック市議を殺害したのはダレカだと主張する。争点はあくまで魔女か否かであり、ダレカを殺人犯に仕立て上げることで勝訴できるなら充分に合理的なわけだ。
第Ⅲ部はさらに複雑だ。毒羊は推理によって、ミチルは自殺したと結論する。客観的真実をつかんでいながら、それを法廷で明かすことはしない。なぜならミチルの動機は魔女への恨みだったから。魔女を処刑したいがために人を殺し、自らの命さえ絶つという非合理な動機は到底受け容れられない。なぜなら過去の判例からして火刑法廷では人間心理の蓋然性を踏まえた判決が下されるからだ。
これは本格ミステリへの、いや、むしろ現実社会への強烈な皮肉じみている。ミステリ読者は犯行動機に意外性を求める。一般的な感性の持ち主なら、そんなことは現実に起こり得るわけがないと嗤うだろう。そんな健全な市井の感覚を象徴する火刑法廷は、客観的真実を真実として認めることができない。
事態はさらに深刻だ。毒羊は推理を誤っていた。ダクトへの細工によるトリックで、アンデルセンは空き家での居場所をバッドマに誤認させた。その影響で毒羊はミチルではなくアンデルセンこそ真犯人だという真相を見極めることができなかった。
客観的真実など火刑法廷では役に立たないからと虚構を捏造した毒羊その人が真実を見抜けていなかった。まるで谷底に突き落とされるような感覚だ。不可知論的な状況ではいくら推理を重ねようとそれが真実だという保証はない。自分の力量不足で誰かに騙されているのかもしれない。それならば、人々を欺き罪から逃れることさえできさえすれば、真実などどうでも良いという気分にもなるだろう。
アンデルセンの仕掛けた爆弾によって重症を負いながら、皮肉にも毒羊はオペラの前で客観的真実を明らかにする推理を披露する。クロスパトリック夫人のロザリオを糸口に論理を重ね、ダクトの工作を見破りアンデルセンこそが犯人だと指摘する。
第Ⅰ部や第Ⅱ部ではカラーやダレカは魔女であり、火炙りを免れるために魔女ではないと欺こうとした。それが第Ⅲ部では裏返されている。いや、単なる裏返しではない、宙返りとでも呼ぶべきだろうか。そもそもアンデルセンは魔女ではない。だがミチルは自殺したという真実は火刑法廷に通用しないため、嘘をつかねばならなかった。しかし真相だと思いこんだそれこそがアンデルセンの作り上げた虚構だった。
たしかに毒羊は演繹的な推理で真実にたどりついた。だが、そこだけを切りとって「やはり真実は大切だ、これこそ本格ミステリ精神だ」などと称揚することは完全に間違っている。重要なのは目的を果たすこと、他ならぬこの私をいったい誰が騙そうとしているのか見抜き、死に物狂いで生き延びることだった。
目的さえ果たせれば真実などどうでも良いという実用主義的な態度は、犯人であるアンデルセンからも伺われる。第Ⅱ部ではエリスが猫に変身して鞄に潜んでいたことから、結果的に老夫婦の前からカラーが消失したかのような出来事が起きた。こうしてカラーとエリスの少なくともどちらか一方は魔女に違いないと誰もが認める状況を作り上げた。追い詰められたカラーはエリスをかばうべく衆目の前で箒に乗って宙を飛び、火炙りとなる。
客観的真実としては、このとき猫に変身したのはエリスだけだ。恐らくアンデルセンにしてみれば、それはどうでも良いことだったのだろう。カラーとエリス、どちらでも良いから一人でも魔女をこの世から抹消できればそれで良かった。アンデルセンは火刑法廷を殺人装置として利用した。
この姿勢は第Ⅲ部でも貫かれる。いや、より徹底している。アンデルセン自らが被告として火刑法廷に立つ。審理の末に、大時計が正しい時刻を指していたかが争点となる。もし大時計の指す時刻が正確だったなら魔女はアンデルセンのみ、遅れていたならば誰も魔女ではない。そして進んでいたならアンデルセンはおろかダレカ、バッドマ、エリス、カラーの四人もまとめて魔女という結論になる。
犯人がアンデルセンだと知った上でふりかえると、これは恐ろしいことだ。エリスに偽証させたことからしても、アンデルセンが狙っていたのは一人でも魔女を多く殺すこと、すなわちダレカたち四人を火炙りにすることだろう。だが、そこには自分自身も含まれる。アンデルセンはこの法廷に捨て身で挑んでいた。魔女たちが命を奪われないよう必死に嘘をついたのと同等に、アンデルセンも死に物狂いで人々を欺こうとしていた。
6 生理的限界という桎梏
長期的には作風に変化があったにせよ、ミステリファンの多くが「エラリー・クイーンばりの」という常套句で思い浮かべるのは、手掛かりから長々しい論理の糸をたどる演繹的な推理だろう。
すでに琳の虚構本格ミステリ論で紹介したとおり、クイーンは決してリアリズムを疎かにしない。作中の名探偵と作者を重ねあわせ、読者に向かって挑戦状を堂々と叩きつける。手掛かりはフェアに提示され、読者はパズルを愉しむように作中の探偵と同じ立場で事件の謎に挑むことになる。
この作品は違う。作者は紙背に隠れ、決して姿を現そうとしない。視点には悪意が込められ、それでいて抜け目なく手掛かりは提示し、読者に「気づきようがなかった」とは言わせない。なにを信頼すれば良いのかわからない暗がりへひきずりこまれた読者は物語世界を現実と同等とみなし、必死に頭を働かせなければならない。さあ考えろ、誰が騙しているのか見抜かないとおまえは死ぬぞ。そう耳元でささやかれ続ける。
クイーン風の推理は精密機械のごとき理性の産物だ。それに対し本作の推理は、人間の生理的限界を描いている。怒りや不安に頭はまわらず、思い込みに惑わされ、そしてなにより時間がない。火刑法廷での審理には制限時間があり、前述のとおり毒羊はしばしば時間切れを狙った作戦を採る。
アンデルセンが自決する場面も象徴的だ。クロスパトリック夫人が襲われた直後、エリスの病室のドアの前に夫人のポーチが落ちていた。もしドアを開けたなら、ドアに押されてポーチは動いたはず。それが動いてないのは猫に変身して、扉の上にある開口部をくぐったから。すなわち自分は魔女だとアンデルセンは偽りの主張をする。
オペラに残された時間は十秒しかなく、反論を思いつかないまま遂にアンデルセンは灼熱の炎に呑まれる*3。十秒という時間制限に、作者がミステリーズ!新人賞佳作を受賞した「十五秒」を思いだした読者は多いだろう。コンピューターのように一瞬で計算することなどできない、感情に左右される当たり前の人間の姿を描いている。
人間は理性がすべてではないと示す最大の場面は、エリスが自死を望んでいたと明らかになる箇所だろう。第Ⅱ部の終わり、自ら魔女と明かしたカラーを助けようとしたエリスも熱傷を負う。命こそ助かったものの、意識がある間は絶えず激痛にさいなまれ、しかも回復の見込みがない。アンデルセンにそそのかされ、偽りの証言をする。それが仲間であるダレカやバッドマも巻き添えにする破滅的な証言だと知りながら、この苦痛から解放されるなら仲間たちを巻き添えにしてでも火炙りにされて構わないと思い詰める。
この作品は、まさにこの一点にすべてが集中している。物語の構成、登場人物たちの役割、小説的主題とミステリとしてのたくらみ、すべてがここに支えられている。
考えてみてほしい。第Ⅲ部でエリスが自死を望んでいたと明らかになる。遡って考えれば、それまでにエリスは重傷を負わなければならない。第Ⅱ部は、目くらましとしてダレカを被告とした火刑法廷とし、カラーが火炙りとなる結末へ向かうことになる。となれば、第Ⅰ部はエリスがカラーのためなら命の危険を省みないほどの関係性を築く物語でなければならない。こうして自身が魔女と見抜かれる危険を冒してまでピアノについての証言をすることになる。エリスは自死を望んでいたという一点へ向かうべく、すべてが逆算されている。
魔女という設定はもちろん架空のものだ。しかし、読者の多くは社会的マイノリティを連想するだろう。「魔女」という言葉は、現実にヨーロッパやアメリカで無実の者たちが苦しめられた魔女狩りの歴史を想起させられる。
アンデルセンがなぜこれほど執拗に魔女たちを火刑に処そうとするのか、その動機は明かされない。だからこそ逆に、アンデルセンはマイノリティを苦しめる象徴的な存在として迫力がある。感応の魔法によってオペラは憎悪を掻き立てられ、それを自覚しながら抑えることが難しい。その姿には現代的な、情動によって左右されるポピュリズムを連想させられる。
第Ⅲ部の冒頭では、火刑法廷とは超常的存在がエネルギーを回収するための仕組みだと明らかにされる。魔女の出現頻度は減少傾向にあり、いずれ火刑法廷も開かれなくなる。このため魔女の人権は軽視されたままなのだという。これも、すべてを経済効率に還元して倫理を軽視しかねない新自由主義や、最大多数の最大幸福のためなら少数の犠牲はしかたないとする功利主義を連想させられる。
モーリスリンク事件では確かに魔女は私欲のために人を殺し、しかも法から逃れた。だが、エリスたちは死刑もやむなしと思えるほどの悪事を為していない。社会の敵として排除されかねない少女たちが抗う姿に読者は安心して感情移入し、悲劇に涙することができるように作られている。
そんな読者の背中に、作者はバケツいっぱいの氷水を浴びせる。ケラケラと嗤いながら「世の中はそんなに甘くないぞ」と囃し立てる。この地上のどんな宝物とも替え難い唯一無二の己が命は、圧倒的な肉体的苦痛に敗北する。そんな誰もが知るありふれた、しかし残酷な事実を示す。物語の甘美な夢想に溺れようとする者たちに批評的な態度で身も蓋もない現実を突きつける。「これぞミステリ!」と快哉を叫ぶ他、私たちに許される言葉はない。
すでに確かめてきたように、この作品は局所的な論理が重要になる。読者は与えられるルールを鵜呑みにするのではなく、目を凝らして一行一行を確かめ、どんな法則が成立するのか自ら見出さなければならない。客観的真実より、相手がなにをたくらんでいるのか見抜かなければ空論に殺されかねない。パソコンならCPUやメモリを良いものに替えれば性能が上がるだろう。だが、人間はそうはいかない。限られた時間内で死に物狂いで論理を闘わせなければならない。
虚構と虚像の関係を意識しつつ、物語をふりかえってみよう。この作品における虚像といえば当然「魔女」だろう。魔女すなわち社会の敵であり、基本的人権さえ認められない。魔女という社会的アイデンティティを押しつけられないよう火刑法廷では嘘をつきとおさなければならない。
第Ⅰ部ではエリスがピアノについて証言することでカラーを守った。ただしそれは、エリスもまた魔女という可能性に気づかれる恐れがある行為だった。火刑法廷に時間制限があるおかげで追求から逃れることができた。カラーは魔女ではないという虚構、カラーもエリスも魔女だという真実、それらは同じコインの裏表だ。ただ時間の制約のおかげで裏返されずに済んだ。
こうしてエリスは命がけでカラーを守る仲間となった。表向きはただの友人だ。それは確かに火刑法廷が始まるまでは真実だった。だが結審とともに虚像へ転じた。ただの友人ではなく、運命共同体となった。母から魔女と疑われ、エリスはカラーと二人暮らしを始める。エリスにしてみればそれはやむを得ない、消極的な選択だったかもしれない。しかし新しい生き方が始まったのも確かなことだろう。
言うなれば、こういうことだ。虚構が実在を生んだ。人は虚構という言葉に、風に吹かれてパチンと消え失せるしゃぼん玉のようなイメージを抱くかもしれない。けれど、命がけの覚悟で守り抜いた嘘はときに人を生まれ変わらせる。
恐らくアンデルセンはこのハロルド事件の火刑法廷をきっかけにカラーとエリスを、そして毒羊に協力したダレカを魔女だと疑ったのだろう。第Ⅱ部ではアルマジャック市議を殺害し、猫に変身するしかない状況へダレカを追い詰め、火刑法廷を殺人装置として利用しようともくろんだ。
老夫婦たちがカラーを目撃したり、そのときエリスが猫に変身していたのは偶然だった。したがってカラーとエリスを追い詰めることは当初の計画にはなかったのだろう。運良く転がりこんできた幸運を利用したまでにせよ、結果的にそれは実に狡猾な罠となった。
カラーとエリス、どちらが魔女なのか。答えはどちらも虚構だ。真実は、カラーとエリスどちらも魔女なのだから。しかしアンデルセンはこのような選択を迫ることで、カラーとエリスの少なくともどちらか一方は確実に魔女として火炙りにされる状況を作りだした。カラーは自らを犠牲に、エリスを生かす選択をする。
そして第Ⅲ部では、虚構を操るアンデルセンの手法はさらに徹底される。死を救いとしてエリスの証言を操り、一人でも多くの魔女を火炙りにしようともくろむ。火刑法廷を傍聴する者たちからすれば、エリスは事件と利害関係のない、信頼できる証言者だ。しかし、それは虚像に過ぎない。死を望むエリスはアンデルセンの巧みな言葉によって偽証へ誘導されていた。
つまり、虚構のために虚像を作り上げた。これは〈ルヴォワール〉シリーズを連想させられる。龍師たちは華麗に論理を操り、嘘偽りによって名誉を獲得する。だが、方向が真逆だ。〈ルヴォワール〉シリーズでは自身の尊厳のために嘘偽りを並べる。つまり虚像のために虚構を操った。アンデルセンは魔女を火炙りにする嘘のために、エリスの心を捻じ曲げた。すなわち虚構のために虚像を捏造した。
ここで思いだされるのは、諸岡卓真が『現代本格ミステリの研究』にて述べた言葉だ。偽の手がかり問題に対処すべく超能力者という設定を導入した。それは後期クイーン的問題から逃れるための延命策にはなったが、それでも決定不能性から逃れることはできなかった(一一四頁)*4。
とはいえ、そもそもこの問題が解決可能なのかという疑問は残る。ここまで、偽の手がかり問題を軸に作品を分析してきた結果、むしろその解決不能の難問を、いかにして解決しているかのように見せかけるのかということが、本格ミステリの変容を生み出してきたと把握する方がより適切なのかもしれない。九〇年代の後半には、奇妙な超能力者という設定が多用され、本格ミステリ論理の根幹にあいている穴を、一瞬とはいえ埋めた。それと同じように、他の時代・他の社会の本格ミステリでも、その時々の何かがその穴を塞いでいるはずだ。このジャンルのダイナミックな変容を把握する上では、各時代・社会の「延命策」を探り、その展開を追いかけることが不可欠だろう。
客観的真実を確信できない状況で、人はどうすれば人を信じることができるのか。『丸太町ルヴォワール』は、自意識に囚われず真の意味で現実をみつめ、他者に働きかけて理想を追い求めることを説いたと拙稿「虚ろの騎士と状況の檻」にて論じた*5。
駆け引きと騙し合いの末にいったんはクイーン流の手続きで真相にたどりつき、失われたメッセージの回復に成功したかに見えた。だがそれすらも偽りであったとき、人と人とはどのようにして気持ちを確かめあうことができるのか。騙りに満ちた夢物語のようでありながら、本作は身も蓋もない解答を示す。自意識ばかりに囚われていずに、状況を肯定的に捉えて現実的な解決手段を採れ。どれだけ仮面を被ろうと、人は心に潜む欲求を隠し通すことなどできるはずがない。さっさと目の前にいる女の手を握るがいい。
物語に淫したかに見える終幕だが、決してミステリとしての興趣と無縁ではない。ここには他者の救済を巡る真摯な問いと、それに対する磨き抜かれた答えがある。[中略]本作品で描かれたのは、失われた客観性を回復することを目的とした死者のための静謐な論理ではなく、肥大した自意識から逃れ理想の現実をつかもうとダイナミックな反転を続ける、生者たちの武器としての論理だった。
高度情報化社会が到来し、経済的格差や価値観の多様化が分断をもたらし、一人ひとりが異なる現実を生きている。自分の物語を信じて他者に働きかけ、客観的真実を確信できない状況でも自身の尊厳のため全力を尽くす。それは後期クイーン的問題が常態化した不可知論的状況における新しい延命策として当時の読者の心に響いただろう。
しかし、自身の物語のために他者を翻弄しようと考えるのは犯人のほうも同じだ。二〇〇九年の『丸太町ルヴォワール』から実に十五年かけて、ポスト後期クイーン的問題の延命策すら有効期限を迎えたのではないだろうか。