1 論理は不変か

 論理は不変だろうか。そんな問いを投げかけたならば、本格ミステリを愛する読者は「もちろんだ」と力強く頷いてくれるだろう。
 では、簡単な算数の問題について考えてみよう。一軒の家を建てるのに、大工が四人がかりで三ヶ月かかるとする。もし大工が六人いたなら何ヶ月で済むだろう。
 答えは二ヶ月だ。四人がかりで三ヶ月ということは、一人だと十二ヶ月かかることになる。それを六人で分担するのだから、十二を六で割れば良い。
 同じ論法を押し進めてみよう。一ヶ月で家を建てるには十二人の大工を雇えば良い。では、八六四〇人いれば一時間で、三一一〇万四〇〇〇人いれば一秒で家が建つのだろうか。
 私はシステムエンジニアを本業としており、いわゆる「人月の神話」については実感している。たとえ話をするなら、こんな感じだ。とあるシステムに新しい機能を加えるのに仕様検討からリリースまで私一人では四ヶ月かかると見込んだとしよう。私は上司に「四人月の稼働が必要です」と報告する。
 すると上司はこんなことを言いだす。「実はAさんの稼働が空いているんだ。二人で取り組めば、二ヶ月で終わるよな」と。そのうち、こんなことも言うかもしれない。「新人が二名入ってくるから面倒を見てくれ」当然という顔をして上司は「四人だから一ヶ月で充分だよな」とつけくわえる。
 人間は数値ではない。能力差があり、育成には手間暇がかかる。人が増えるほど意志疎通の時間が必要になる。手分けして進められる作業ばかりとは限らない。先行すべき作業を誰かが取り組んでいる間、手の空いた者にもなにかさせなければならない。
 香西秀信は『レトリックと詭弁』の「文庫版のためのあとがき」にて、論理的であることは常に正しいが〝問題は、その「正しさ」が、日常生活の中ではしばしば無意味になってしまうところにあります〟(一九八頁)と述べて前述の大工の問題を紹介する*1
 三千万人の大工を雇えば一秒で家が建つ。そんなことを主張すれば誰だって笑うだろう。しかし、十二人の大工を雇えば一ヶ月で家が建つというのはどうだろうか。割り算による見積もりに無理が生じるのは具体的にどこからなのか。論理的な正しさが日常生活の中で微妙に効かなくなる局面がある。〝論理的であることが必ずしも解決に結びつかないが、非論理的であれば必ず間違う―こういう微妙な問題に対峙できる思考力こそが、日常生活で最も必要とされる論理的思考能力〟(二〇一頁)だという。
 このような論理をひとまず「局所的な論理」と呼ぶことにしよう。それは次のような特徴がある。

 まずは「一、局所的」から説明しよう。光速に近い速度で移動したり重力の影響を受けると時間の進み方が遅くなる。観測するまで箱の中の猫の生死は確定しない。ニュートン力学に親しむ日々を過ごす私たちは、相対性理論や量子力学をSF小説のようだと感じる。
 かといって、このようなスケール依存性にはどこかに断絶があるわけではない。ミクロからマクロまでのどこかで、ここからは相対性理論を適用すべき、ここまでは量子力学で説明すべきという境界があるわけではない。相対性理論や量子力学が我々の日常ではニュートン力学に収束される。
 スケールによって利用する計算式が変わってくるという面にだけ着目すれば、これは大工の問題に似ている。しかし、ひょっとすると大工の問題は相対性理論や量子力学より難解かもしれない。
 人数の違いが数人ほどであれば、割り算だけで間に合う。極端に人数が増えると無理が生じてくる。大工たちの力量や作業の性質、仕事の進め方を踏まえて計算方法を吟味しなければならない。施主の希望や立地条件など、さまざまな前提条件がある。正確さに配慮しようとすればするほど局所的な、対象に固有の論理が必要になる。
 偶然にもこれを執筆している二〇二六年現在、イランによるホルムズ海峡の閉鎖に起因する原油調達の不安定さから、建築費が高騰したり資材を調達できない事態が起きている。相対性理論や量子力学なら計算式を学ぶだけで済むが、国際問題となるとそうはいかない。
 現実的には、見積もりにそこまでの正確さは求められない。スケジュール立案の目安にさえなれば良い。作業を始めて、やがて遅れがでたなら残業したり人員を追加したりして辻褄を合わせる。そもそも小学生相手の算数問題やなぞなぞならば、三千万人の大工が一秒で家を建ててもなんの不都合もない。目的は子供たちに計算能力を培ってもらうことであり、それさえ果たせるなら現実性など二の次だ。役に立ちさえすれば良いという「二、実用主義」の態度を採り、正確無比な客観的真実など求めない。
 もうひとつ興味深いのが「三、自他領域の混乱」だ。自分を取り囲む他人やモノとの弁別のことを心理学や精神医学では「自他領域」(自他境界)と呼ぶ。
 六人の大工がいるとき、家を建てるには十二割る六で二ヶ月かかる。この「一二÷六=二」という数式に、実存だのアイデンティティだの文学的な要素はまったく関わらないはずだ。私やこれを読んでいるあなたが墓の下に入り、数百年数万年数億年が過ぎても十二割る六の答えは二のままで在り続けるだろう。
 新しい機能の開発を検討するとき、私は私自身が作業する前提で考えれば良かった。Aさんや新人たちが加わるならば、私はその人たちの力量について知らなければならない。打ち合わせの場を設け、スキルや開発経験をヒアリングするだろう。そもそも既存のシステムについて深い理解がなければ、開発は容易には進まない。まったく逆のこともある。予想もつかないトラブルに備えて、必要な稼働を何割か水増しする。私は何者で、なにを知り、なにを知らないのか。それが見積もりに関わってくる。
 冒頭の問いに戻ろう。論理は不変か。もちろん、答えはイエスだ。数学や論理学、自然科学が扱う、真に客観的で普遍的な法則は永劫に不変だ。もちろん自然科学の世界では、実験方法や統計手法などに誤りがあり、再現性を確認できず、法則が誤っていたと後になって判明することはある。それは愚かな人類が誤りを犯したに過ぎず、この世界は神の手が編みだした整然たる秩序に従っている。
 だが、私たちが日常生活において親しんでいるのは、むしろこの局所的な論理ではないだろうか。それはスケールや前提条件によってたやすく形を変え、目安にさえなれば大雑把で構わない。問題を解いているつもりで、いつの間にか問題のほうにお前は誰なのかと問い返されている。名探偵たちが謎解きに挑む物語世界は、論理的な正しさが効かなくなりかねない危うい場ではないだろうか*2

2 実存とキャラクター

 本格ミステリにはリアリティが欠かせない。謎解きの可否に関わってくるからだ。なにが起こるか法則をまったく見出せないのでは真相を見抜いてやろうという気にはなれない。現実世界と同じ常識が通用するという信頼がなければ読者は推理できない。
 一方で、本格ミステリは意外性も追求しなければならない。凡庸な発想ではたやすく真相を見抜かれてしまう。すべての読者にアッと言わせ、膝を叩かせなければならない。現実と虚構、日常と非日常、相容れないものをどうにかして馴染ませなければならない。
 現代の国内本格では問題はさらに複雑だ。新本格ムーブメントはSFやホラー、ファンタジーといった隣接ジャンルの要素を採り入れることに挑んできた。アニメやマンガの奔放な想像力の影響も無視できない。もはや現実の社会風俗や日常の光景をありのまま描写することばかりがリアリティではない。その物語世界で起こり得ることと起こり得ないことの境界をどこに設けるか、リアリティラインを作者は自由に設定できる。
 リアリティラインの判断が読解を左右する一例として円居挽〈ルヴォワール〉シリーズを巡る井上貴翔と琳との意見の相違を紹介しよう*3
 井上貴翔は「〈拡散〉と〈集中〉をこえて」にて、おおむねゼロ年代後半から一〇年代前半の国内本格における推理と空気という問題系を巡るミステリ的想像力の潮流を追っている*4。米澤穂信『インシテミル』(二〇〇七年)ではあいつが怪しいぞという場の雰囲気、いわゆる「空気」が重視され、一部の者が論理的な推理を披露してもそっぽを向かれる。共同体の秩序を乱す探偵行為は歓迎されず空気によって推理の是非が決定される傾向が〈日常の謎〉作品群や特殊ルールもののミステリにも影響していく。
 そこから、いっそ空気を利用してやろうという倒錯が生じてくる。城平京『虚構推理』(二〇一一年)は、事件は超自然的な存在によってもたらされたという真相を、そんなものなどいなかったという虚構の推理で上書きする物語だ。まとめサイトで多数の者たちに支持された仮説が、すなわち空気をつかんだ推理こそが真実とみなされる。円居挽〈ルヴォワール〉シリーズは同じ試みの作品として次のように紹介される(一三四頁)。

 実のところ、このようなミステリ的想像力は『虚構推理』に限ったものではない。たとえば、円居挽『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)に始まる〈ルヴォワール〉シリーズは、古来より京都で続く私的裁判「双龍会」での推理合戦を描いているが、そこで「真実」が重視されているかというと多分に疑問符がつく。そこで描かれるのは、いかに自分のペースに相手や観衆を引き込み、打ち負かすかというディベート的なやりとりである。もちろん一定の論理性がなければそれは望めないわけだが、「真実」よりも場の「空気」を加味した口上やはったりこそが、裁判の行方を左右するのだ(円居の〈シャーロック・ノート〉シリーズでも同様のシチュエーションが描かれる)。

 空気こそが推理を導き、ひいては真実を決定する。客観的真実の解明と共有という本格ミステリの根幹とも呼べる価値観が後景化する傾向を井上は〝推理それ自体の前景化〟(一三五頁)と呼び、多重解決ミステリへの注目を招き寄せたことを説明している。
 この解釈に琳は「シャーロック・セミオシス――円居挽論」にて異を唱える*5。空気を重んじて思考が放棄される『インシテミル』に対し、精緻な思考がされる『丸太町ルヴォワール』を同列視できないという。
 では『丸太町ルヴォワール』の登場人物たちは客観的真実だけを直視し、空気など一顧だにしないのか。そんなことはない。作中の私的裁判では証拠品のすり替えといったインチキが横行し、まやかしなのは承知でもっともらしい嘘が並べ立てられる。
 空気に代わって精緻な思考はなんのために為されるのか。琳はそれをキャラ立ちのためだと指摘する(四四頁)。

 そして円居もまた『丸太町ルヴォワール』で、キャラクターを「実在的なもの」に高めるようにして、彼らの「メタ物語的な読解の可能性」を作品内部に開いていく。井上は本書を「重要視され、前景化されるのは、もはや「真実」ではなく「推理」それ自体」と書いた。しかし本書で重要視され、前景化されているのは推理それ自体ではない。『虚構推理』がそうであったように、『丸太町ルヴォワール』で真実にとって代わられているのは彼らのキャラ立ちなのだ。解説に麻耶雄嵩が、「最終的なルージュの正体も、ミステリー的な意外性よりも、物語の収まりを優先した格好」と書いた通り、双龍会における勝利の栄誉は、より立ったキャラ解釈(=ミステリー的な意外性)にこそ与えられている。まんが・アニメ的なキャラクターにとって双龍会は、千年の都に「映える」伝説となり「ささやかな永遠を生き」る為の、つまりは言葉の外に開かれた〝他者〟に昇華させる為の、「尊厳を目指した生死を賭しての闘争」の舞台装置だったのではなかろうか。

 キャラ立ちという言葉に面食らったなら、ひとまず名誉あるいは尊厳といった言葉にでも置き換えてほしい。嘘偽りなのは承知で聴衆を華麗なロジックで魅了し、稀代の名探偵として後世に語り継がれることを望む。精緻な思考は空気のためではなく、推理を語る自分自身のために必要というわけだ。
 そう、琳の主張は、恐らくは大多数の本格ミステリ愛好家が当然のこととみなす価値観に背を向けている。客観的真実を究明し、それを事件関係者たちで共有するという当然至極のことを当然とみなさない。琳は井上の主張について間違いを指摘したのではなく、物差しそのものをひっくり返した。
 乱暴にまとめるなら、井上が「空気に屈して嘘偽りを並べるとはなんと嘆かわしい」と非難したのに対し、琳は「嘘偽りを弄してまで人としての尊厳を守る姿を描くとはなんと素晴らしい」と褒め称えた、とでもなるだろうか。慌てて言葉を補うなら、井上は状況を論じたまでで〈ルヴォワール〉シリーズを低評価したわけではないが。
 ざっくり輪郭を理解いただいた上で、琳の文章をより深く追ってみよう。琳の主張は〈ルヴォワール〉シリーズを虚構本格ミステリとみなすところからスタートしている。虚構本格ミステリとは琳が「ガウス平面の殺人」にて提唱した概念だ*6。「シャーロック・セミオシス」では〝探偵の世界観がまんが・アニメ的であるからこそ、時として現実を生きる我々の常識から乖離した解決に導かれる作品〟(三四頁)と説明されている。
 たしかに『丸太町ルヴォワール』はまんが・アニメ的なところを数多く指摘できる。京の都にて古来から伝わる私的裁判という設定からして派手はでしい。検事や弁護士に相当する龍師たちは衆目の場で証拠品をすり替え、まったくの別人に変装できるなど超人的なところがあり「念仏八丁、唱える余命は残しておいた」といった外連味ある決め台詞を吐く。
 それを踏まえて琳は登場人物たちを生身の人間ではなくキャラクターとみなす。読者たちに忘れられないための生存戦略を練る存在として扱う。したがって、私がさきほどキャラ立ちという言葉を名誉や尊厳に置き換えれば良いと述べたのは間違っている。人間ではなく、紙の上の記号的存在だ。
 少し前に私が述べたことをまだ覚えているだろうか。そう、井上と琳との〈ルヴォワール〉シリーズに対する解釈の違いは、リアリティラインの判断に起因している。
 井上は自然主義的な受け止め方をしている。客観的真実はひとつしかなく、本格ミステリはそれを探求し事件関係者で共有するのが最善だという価値観を言わずもがなの前提としている。だから嘘偽りを口にする者たちは空気に屈していると感じる。
 琳はまんが・アニメ的リアリズムでは価値観が異なると説く。そこでは私達の知る現実とはかけ離れた荒唐無稽なことが物語内現実として起こり得る。キャラクターたちは読者の記憶に残り続ける存在となるためなら嘘偽りさえ平然と口にする。それはなんら恥じることではない。
 すると素朴な疑問が浮かんでくるだろう。井上と琳、正しい解釈はどちらなのか。当然それは二人が主張としている前提のどちらが正しいかによって決まるだろう。〈ルヴォワール〉シリーズの物語世界は自然主義的リアリズムとまんが・アニメ的リアリズム、どちらに支配されているのか。
 たしかに私はさきほど『丸太町ルヴォワール』についてまんが・アニメ的な箇所を説明した。ところが困ったことに、この作品は自然主義的なところも数多くある。若者たちは悩みを抱え、恋をする。しっとりした地の文で長々と心理描写が続く箇所もある。文学らしい滋味のある文章と外連味に満ちた場面とのメリハリがこの作品を語る上で欠かせない魅力のひとつだ。
 すると折衷案もありえるのではないか。〈ルヴォワール〉シリーズは二つのリアリズムの間を行き来する。登場人物たちはときにたったひとつの真実を求めて懊悩する実存的な存在であり、ときに論理を自在に操り読者を魅了するキャラクターでもある。そう解釈することに、なにか不都合はあるだろうか。

3 虚構本格ミステリ論

 本稿は局所的な論理をキーワードに榊林銘『毒入り火刑法廷』について読み解いていく。
 第一章では琳の虚構本格ミステリ論を踏まえて、本格ミステリと虚構との関係について原理的な考察をしていく。第二章では『毒入り火刑法廷』について、生理的限界に縛られた推理という特長を詳しく見ていく。第三章では、局所的な論理にともなう自他境界の越境という性質を切り口に国内本格の状況を概観する。その上で、二〇二〇年代の国内本格ミステリが後期クイーン的問題を巡って迎えた、物語からゲームへの変化について整理する。
 作品論に入る前に、準備として虚構本格ミステリ論とはなにか、そもそも虚構とはなにか整理しておこう。「ガウス平面の殺人」で琳は次のように論じる。
 本格ミステリはスピノザの神即自然なる汎神論を、実在論的世界観を堅持してきた。それは自然主義文学作品のように、ありのままの現実をただ写生しさえすれば良いわけではない。ましてやパズルの部品を記号のまま剥き出しで提示すれば良いというものでもない。探偵小説的リアリズムは探偵小説とリアリズムを形式的に結びつける数多くの工夫を必要とする。
 琳は一例としてエラリー・クイーンを挙げる。ダイイング・メッセージを扱うにしても〝その取扱いは「記号的」と揶揄やゆするには実に込み入っており作中必然性に満ちて〟いる。作者と同名の探偵を登場させ、メタレベル(現実的存在である作者)とオブジェクトレベル(探偵キャラクター)を接続することで探偵小説的記号を実在論へ誘う。読者への挑戦状もまた〝隅々にまで綿密に実在的・論理的根拠を巡らせた無矛盾かつ恣意なき作品世界を構築〟したことの宣言であり、読者がいる現実世界と作品世界を強固に結びつける役割を果たしている。
 私たちの知る現実とそっくりな、しかし唯一の解を導けるパズルを巧妙に埋めこんだ物語世界にて、私たち生身の人間とそっくり同じ心を抱える探偵が謎を解く。実に巧みなこの様式はしかし、ひとつの問題を抱えてしまう――後期クイーン的問題だ。私たちと同じ人間に過ぎない名探偵は〝「真実はいつもひとつ」という実在を信じれば信じるほど、いくら消しても消しきれない(ありえたかもしれない可能性)を手掛かりの背後に幻視し、やがて探偵は操りの糸をたぐりよせて〟しまう。
 従来の本格ミステリについて理解した上で、いよいよ虚構本格ミステリにとりかかろう。清涼院流水は第二回メフィスト賞を受賞した『コズミック 世紀末探偵神話』(一九九六年)でデビューした。これはJDC(日本探偵倶楽部)に所属する探偵たちの活躍を描くJDCシリーズの第一作でもある。密室卿を名乗る人物の、千二百個の密室で千二百人が殺されるという犯行宣言だけでも驚きだが、探偵たちも負けてはいない。あまりにも美しいためサングラスをしていなければ目にした人を失神させてしまうだの、探偵たち一人ひとりに独自の推理方法があるだの、いかにもマンガじみた世界観が展開されている。
 琳は『コズミック』と同じJDCシリーズの『ジョーカー 旧約探偵神話』(一九九七年)における密室の解法に着目する。それは奇蹟と呼ぶしかないほど極端に確率の低いものだった。人をバカにした解決だと呆れるものの反論もできず、それを信じるしかない。
 ここで『ジョーカー』の登場人物は自身をキャラクターだと、虚構の存在だと自覚しているわけではないことに注意してほしい。〝現実世界では考えられないほどに荒唐無稽でデータベース的な純虚構的存在でありながら、同時に現実世界の常識に強く支配〟されてもいる。清涼院は実在する京都の地名を多用し〝彼らが徘徊はいかいする作中世界をリアルに描き、まんが・アニメ的リアリズムと自然主義リアリズムという、相容あいいれない世界を同一空間に同居〟させる。ごく当たり前の世界で、自分を当たり前の人間だと思っているからこそ、奇蹟じみた密室の解法を解く記号的な探偵に「人をバカにして」とツッコミを入れながらもひれ伏すしかない。
 こうして〝まんが・アニメ的存在の繰り出す推理にフラストレーションを感じてしまう作中キャラクターの自然主義的世界観を、自らも虚構でしかない探偵によって「お前も単なる虚構に過ぎない」と暴き解体していく〟ことで『ジョーカー』はすべてが虚構に呑みこまれていく結末を迎える。実在論的世界観の崩壊とともに、後期クイーン的問題は超克されたと琳は主張する。

 キャラクター固有の世界観を描くこれら作品が、いずれもシャーロック・ホームズの消去法推理を荒唐無稽なアイロニーとして扱ってしまうのは決して偶然でない。もはや「真実はいつもひとつ」という実在論的信念の結晶である消去法推理は、自らを虚構と認識するキャラクターにとって、作者がいかようにも捏造ねつぞうできてしまう迷信でしかあり得ないだろう。改めて、後期クイーン的問題がどのように生じたかを思い出して欲しい。真の手掛かりにまで操りの糸を幻視する後期クイーン的問題は「真実はいつもひとつ」である事を疑わない実在論的世界観においてこそ自覚される妄念であった。だからこそこの問題は人々が実存的主題と向き合わざるを得なかった大量死/大量生の時代に顕現してしまったのかもしれない。しかしここに、現実的基底を持たないキャラクターが存在する。創られた虚構を生きる彼らにとっての真実とは、作者の気分でいかようにも揺らぎ得る可能世界のひとつでしかない。存在自体が作者の恣意に過ぎないキャラクターの世界観の中に〝真実はいつもひとつと宣言し得ない挫折感〟など宿りようがなかろう。キャラクター小説は、こうしていとも容易たやすく本格ミステリに巣食う憑物を祓い清めてしまうのである。

 この主張はどういう意味なのか慎重に解釈したほうが良いだろう。少なくとも後期クイーン的問題が「解決」されたわけではなさそうだ。いっそ前提条件である実在論的世界観を投げうってしまえ、というのが虚構本格ミステリの指し示した道だったのだから。真実など作者の気まぐれに過ぎないというなら、それは「あきらめ」や「開き直り」と呼ぶほうが適切ではないか。
 このようにして琳はまんが・アニメ的リアリズムが謎解きにどのような影響を与えたか、西尾維新『クビキリサイクル』、城平京『虚構推理』、井上真偽『その可能性はすでに考えた』を虚構本格ミステリとして読み解くことで示してゆく。

4 虚構と虚像

 ここまで虚構本格ミステリ論について説明してきたが、その出発点はどこだろう。『ジョーカー』が迎えた結末を指して琳は〝これはもはや虚構本格形式としか言いようのない新たなミステリ形式の誕生を意味する〟と述べている。つまり清涼院を虚構本格ミステリの開祖とみなしているようだ。一方で琳は、虚構本格ミステリは清涼院よりも前から存在した普遍的なものかもしれないと認めている。

 さらに詳しく見ると、巨匠クイーンの後期作品や、あるいは本稿では言及できなかった若竹七海わかたけななみなどもそうかもしれないが、キャラクター小説が本格ミステリと出会う以前から、ガウス平面の位相のずれを巧みに利用しジャンルの可能性を広げようと目論む作家は多く存在していた。だからそもそも虚構本格ミステリとは、現代的なキャラクター小説の文体で書かれた本格ミステリに限定されるものではなくて、昔から互いの世界を領空侵犯し各々の世界観を深耕し、現代の虚構本格ミステリ作家の舞台を整えた伝統的営為というべきものかもしれない。

 では、今からそれをやってみよう。虚構本格ミステリ論からまんが・アニメ的リアリズムを引き剥がしてみよう。そのためには虚構とはなにか改めて問い直さなければならない。
 虚構とは「手掛かりと整合する、ありえる解釈のすべて」としよう。狭義かつ直感に沿ったものにするなら「謎に対する解釈で、物語内世界で提示された手掛かりの一部とは整合するが、すべてとは整合しないもの」のほうが良いだろう*7
 どういうことか説明していこう。本稿ではあくまで本格ミステリ作品を論じるための概念として虚構を扱いたい。メタフィクショナルな扱い、たとえば作中人物が「ここは小説の中で、自分はキャラクターに過ぎない」と自覚するようなタイプの虚構は扱わない。
 狭義のほうの定義は、ハズレの仮説を思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。素人探偵が自信たっぷりに推理を語る。それを拝聴していた仲間の一人が「申し訳ないんだが、実は」と新事実を明かす。後出しされた手掛かりによって仮説は画餅に帰す。
 新事実が明かされるまでその仮説はありえるものだった。このような仮説が示す可能世界のことを虚構と呼ぶのは不自然ではないだろう。しかし、慎重に考えてほしい。物語の最後まで否定されず、すべての手掛かりと整合した仮説すなわち物語内客観的真実とみなして本当に構わないのだろうか。最後のページの後で、読者には隠されていたもうひとつの手掛かりが提示され、名探偵の推理が崩れ去ることが決してないと断言できるだろうか。
 それは本格ミステリに求める価値観次第だろう。素朴実在論を信じる者にしてみれば、最後まで否定されなかった仮説こそ真実に他ならない。本格ミステリはゲームに過ぎない、最後のページより後ろに物語世界など存在しないという形式主義者の態度を採る場合も同じだ。本稿では、名探偵が最後に語る真実もまた虚構になりうる可能性があると指摘するにとどめておこう。
 くわえて、探偵役が謎を解き明かした後ですら虚構は執念深く生き続ける。すべての手掛かりと合致する仮説がたったひとつとは限らない。密室殺人事件が起きて、トリックを実行できた唯一の人物を探偵役が謎解き場面で指摘したとしよう。そこで聴衆の一人が、宇宙から飛来してきた異星人の仕業だと主張したらどうだろう。密室は人類の知性を遥かに凌駕した技術によって形成された。
 もちろん、そんな主張は馬鹿らしい。だが確率がゼロとまでは云えない。そんな超知性の持ち主なら物的証拠を残したりはしないだろう。蓋然性を無視してしまえば、そんな真相もありえたかもしれないという可能性は無数に考えられる。これもまたひとつの虚構だろう。
 さて、もうひとつ概念を整理しておきたい。まんが・アニメ的リアリズムから距離を措くならば、必然的にキャラクターという言葉も避けるべきだろう。そこで「虚像」という言葉を用意しよう。意味はおおむね「キャラ」や「外面そとづら」と変わらない。他者との意志疎通のための人格、社会的アイデンティティのことだ。
 物語内で人格の象徴を果たすものも虚像と呼ぶことにしよう。超能力で悪の組織と戦うスーパーヒーローは、社会的責任を担い人々に称賛され正義を体現する象徴的存在でもある。前述のとおり〈ルヴォワール〉シリーズにおいて龍師たちは自在に論理を操り堂々と嘘をつき姿を変え、人々から喝采を浴びることでその名を歴史に刻もうとする。名探偵は謎解きのための機械仕掛けの神であると同時に、虚像でもある。
 虚像は華々しいばかりではないことに注意すべきだろう。つまらないミスで信用を失い、どれだけ努力しても汚名を返上できない。色眼鏡で見られ、悪い噂が独り歩きし、陰口を叩かれる。虚像は思いどおりにならないことのほうがむしろ当たり前だ。
 そこで次のような疑問を抱く者もいるだろう。虚像などという実に文学的なものが、理屈の他には目もくれない本格ミステリとなんの関わりがあるのかと。たしかにシャーロック・ホームズのように、あらゆる事件に正解を突きつけ続けるタイプの名探偵であれば虚像が問題となることはほぼ無いだろう。だが虚構が、物語の途中で推理が外れることが大きな要素となる一部の謎解き物語では、虚像と実存との関係が重要になってくる。

 具体例として大正十二年に発表された江戸川乱歩のデビュー作「二銭銅貨」を採り上げよう*8。電機工場の職工給料日に約五万円が盗まれる。紳士泥棒(紳士盗賊)と呼ばれていたこの泥棒は後に逮捕されるも、五万円の隠し場所については白状しなかった。
 語り手の「私」と松村武は〝場末の下駄屋の二階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のドン底に沈んで〟(一八頁)いた。机の上に私がのせていた二銭銅貨を、どこから持ってきたのかと松村に訊かれる。それを皮きりに松村の不審な行動が増えていく。貧窮しているはずなのに按摩を呼び、新聞紙の余白になにかを書いては消し、東京の地図を熱心に研究したかと思うと私から十円札を借りてでかけてしまう。
 翌朝、私が目を覚ますと、商人風の男に変装した松村がニタニタ笑いをしながら〝この風呂敷包みの中には、君、五万円という金がはいっているのだよ〟(二四頁)と打ち明ける。紳士泥棒がどこかに隠したはずの大金を、縁もゆかりもないはずの松村が手に入れたのだという。
 私が煙草のつり銭として受けとった二銭銅貨は、練り薬の容器のように開くことができた。中には南無阿弥陀仏の六文字が不規則に綴られた紙片が入っていた。私から聞いた話では、煙草屋の娘は監獄の差入屋に嫁入りしたという。そこから松村は、これは暗号文ではないか、紳士泥棒が獄中から手下に五万円の隠し場所を知らせようとして、手違いから二銭銅貨は私に渡ったのではと推理する。
 暗号を解くと「ゴケンチヨーシヨージキドーカラオモチヤノサツヲウケトレウケトリニンノナハダイコクヤシヨーテン」という文章が表れる。紳士泥棒は盗んだ五万円をおもちゃの紙幣と入れ替えたに違いない。松村は変装して五軒町にある正直堂に赴き、大黒屋商店の者だと偽って紙幣を受けとったという。
 狂喜する松村に、しかし私は解読後の文章を八字ずつ飛ばして読むよう促す。それは「ゴジヤウダン」すなわち御冗談となる。松村が風呂敷を解いて確かめると、そこにあるのは紛れもなくおもちゃの紙幣だった。
 すべては私による悪戯に過ぎなかった。正直堂という印刷屋は私の遠い親戚であり、借金を頼むため訪ねた折におもちゃの紙幣をみかけた。そこから計画を思いつき、暗号文を自作した。煙草屋の娘が差入屋へ嫁いだというのはでたらめだった。
 本邦初の本格的な創作ミステリとして称揚されたこの作品に、しかし中相作は『乱歩謎解きクロニクル』で、探偵小説から逸脱してしまったと指摘する(四一頁)*9

 エドガー・ポーの「黄金虫」と比較してみましょう。これもまた暗号を取り扱った小説ですが、用意されている解はひとつだけです。暗号は論理的に解読され、解かれたあとでその意味が揺らぐことはありません。暗号は合理の枠内にとどまり、作品は探偵小説の規範に収まっています。いっぽう乱歩は、「二銭銅貨」の暗号をいったん論理的に読み解きながら、八文字ずつ飛ばして読むことで確定性を放棄してしまいました。ご冗談という言葉を裏づける小道具としておもちゃの紙幣が登場し、作品内のつじつまは合っているものの、ふたつめの解は作品外の何者にも支えられていません。

 暗号を解くことができたと判断する材料のひとつは、意味のある文章になることだろう。可能性だけなら、まったく別の解法でも文章になることはありえる。しかし確率が極端に低い。二銭銅貨に封じられていた紙片に綴られていた文字が「ゴケンチヨー……」という文章になることは疑いようがない。
 一方で、八字ずつ飛ばせば「ゴジヤウダン」という言葉になることは事実としても、なぜ五文字や十文字ではなく八字なのか。〝八文字ずつ飛ばし読みするという解読方法は、どんな合理にももとづいていません〟(四二頁)すなわち作品内に根拠がないと指摘する。
 強いて挙げれば、私と松村の関係性がある。〝二人の多少知識的な青年が、ひと間のうちに生活していれば、そこに、頭のよさについての競争が行なわれる〟(二五頁)のは当然であり、私と松村は議論を交わし頭の良さを張り合う仲だった。それを踏まえた上で少しの想像力を加えれば「ゴジヤウダン」という言葉の恐ろしい意味を読み解くことができる。
 とはいえ、たしかに根拠不足なのは否めない。「ゴジヤウダン」の六文字くらいなら偶然そのような言葉が成立した可能性も疑われる。試しに妄想を広げてみよう。実は「私」こそ紳士泥棒の手下だったとしたら、どうだろう。
 正直堂の親戚である私なら、紳士泥棒がおもちゃの紙幣と取り替えた五万円を安全に入手できる。暗号文には「受取人の名は大黒屋商店」としか書かれておらず、別に大黒屋商店を騙って店先で受けとれとまでは指示されていない。数多ある注文品の中から五万円を探すための目印として大黒屋商店という名前が必要だった。二銭銅貨を通じて紳士泥棒に五万円の在り処を知らされた私は、それを別の安全なところへ隠し、代わりに再びおもちゃの紙幣と取り替えた。
 何気なく暗号の解読文を眺めるうちに、八字ずつ飛ばして読めば偶然にも「ゴジヤウダン」という言葉が浮きでると気づいた。その瞬間、私の心にむくむくと悪戯心が芽生えた。前述のとおり二人はおたがい頭の良さを張りあう仲だった。憤懣が募り続けていたならば、このような馬鹿げた計略を実行に移しても不思議ではない。
 わざと二銭銅貨を机の上に放置し、松村にみつけさせた。松村がでかけた夜、私は〝松村のその後の行動についていろいろ想像をめぐらした。そして独りほくそ笑んで〟(二三頁)いる。思惑どおり松村が操られていることに笑みを浮かべたわけだ。
 終わりのほうでは、このような仕掛けのある二銭銅貨をどうやって入手したのかという疑問に対し〝私がへまなことを書いては、後日、あの品を私にくれた或る人が、とんだ迷惑をこうむるかもしれないから〟(四〇頁)と言い訳を述べている。或る人とはもちろん、紳士泥棒その人だろう。
 この文章からは二人の関係性も伺える。貧窮にあえぎながらも五万円には手をつけず、紳士泥棒の出所あるいは脱獄を待つ。それだけの志、語られることなき大義があったのだろう。それはすなわち、罪なき市井の人々から奪われた金を横取りしようと目論む松村への精神的な勝利をも意味する。
 成功に酔いしれた私はこれを小説に仕立て、世間に発表するという誘惑に勝てなかった。こうして後に大乱歩と呼ばれる稀代の探偵小説作家が――いやいや、失礼。メタフィクショナルな虚構は扱わないのだった。
 筆が滑ったようだ。私が伝えたいのは極めてつまらないこと、粗筋紹介だけで誰にでも読み解ける平凡なことに過ぎない。「二銭銅貨」とはどのような話なのか。それは貧窮にあえぐ無名の青年が束の間、名探偵という称号を勝ちとり、そして失うまでの物語だ。
 松村はふと手に入れた暗号文を読み解き、五万円という大金を手に入れる。貧窮から逃れる経済的勝利、人生への勝利こそ、私との知的闘争に決定的な終止符を刻むものとなっただろう。意味のとおる文章という蓋然性、そして入手した紙幣という物的証拠。それらに裏打ちされて松村は客観的真実に到達できたことを疑わなかったに違いない。だが、それは幻想に過ぎなかった。名探偵の成功譚は「御冗談」という三文字によって迷探偵の失敗譚へ裏返る。
 松村の長々しい謎解きを聞き終えた後、私は八字ずつ読み飛ばすよう促す前に〝君の想像は、小説としては実に申し分がないことを認める。けれど世の中は小説よりはもっと現実的だからね〟(三七頁)と告げている。乱歩登場以前から探偵小説は存在した*10。もちろん「二銭銅貨」内に松村や私が知識的な青年という記述はあれど、探偵小説の愛好家だったと伺わせる直接的な描写は存在しない。だが、私の言葉を目にした当時の読者はそこに自身の似姿を発見したのではないか。
 整理しよう。暗号解読を通して客観的真実をつかんだと確信したのはハズレの推理、虚構に過ぎなかった。これにより虚像は変化する。好敵手に知的勝利を収めた名誉ある人物から、探偵小説と現実の区別を見失い無駄金を投じた愚か者へと落ちぶれる。
 南無阿弥陀仏の六文字を組み合わせた暗号は世間一般の知識、いわば大局的な論理によって解読できるものだった。一方で八字ずつ読み飛ばすことで得られる「御冗談」という答えには客観的根拠が無い。ただの偶然にしては確率が低いこと、そしてなにより、普段から知的争いをしていた仲という個別具体の状況がそれを裏づける。
 ここで自他領域の混乱が生じていることに注目してほしい。この作品の謎は「紳士泥棒は五万円をどこへ隠したのか」だった。紳士泥棒とは縁もゆかりもない松村は安心して謎解きを味わえるはずだった。それが「御冗談」の三文字を介して、松村と私との知的闘争にリンクしてしまう。
 あの有名な書き出し〝あの泥棒が羨ましい〟(一〇頁)に連なる文章を通じて読者は若者たちの生活に感情移入したことだろう。前述のとおり、読者は謎解きの果てに自身の似姿を見出す。紳士泥棒-松村と私との自他境界が混乱し、それにひきずられるようにして読者-松村と私の境界もまた混乱する。
 このようにして局所的な論理、論理的な正しさが効かなくなりかねない危うい領域では、真実と虚構、実存と虚像がダイナミックに絡みあう。試験問題の採点で、誤った回答にはバツをつけ正しければ丸をつけるような、そんな単純なものではない。虚構のための論理と真実のための論理は深く絡みあっている。
 以上のことを念頭に置いていただき、いよいよ『毒入り火刑法廷』の読解を始めたいところだが、その前にひとつ個人的なことを告白しなければならない。

5 虚構と本格ミステリ

 私のミステリ評論をまとめた『探偵が推理を殺す』は作品論集であり、平成時代後半の状況論もあり、その一方で全体を通して、ざっくり次のような主張をしていた*11
 笠井潔は『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』の「はじめに」にて〝一九八七年に開始された現代本格ムーヴメント(第三の波)は、筆者の判定するところでは二〇〇六年をもって終焉〟(五頁)したと主張した*12。「第三の波」とは笠井が提唱した用語で、新本格ムーブメントと同義と思ってもらって良い。
 飯田一史もまた二〇一二年に刊行された『21世紀探偵小説』の序論で〝いま新本格ミステリムーブメントは、衰退期にある〟(一〇頁)と発言している*13。私個人としても、ゼロ年代後半に新本格はひと頃の勢いを少なくとも相対的には失っていただろうと襟元をつかまれて説かれたなら、まあ渋々頷かないでもない。
 だが――くりかえすが、ジャンルの状況を客観的に示すことは難しいことにせよ――二〇一〇年代に入ると本格ミステリが復調してきたのも多くの者が実感する事実かと思う。
 ライト文芸ブームの波に乗って東川篤哉〈謎解きはディナーのあとで〉シリーズ、三上延〈ビブリア古書堂の事件手帖〉シリーズ、岡崎琢磨〈珈琲店タレーランの事件簿〉シリーズなどがベストセラーとなった。深水黎一郎『ミステリー・アリーナ』(二〇一五年)、今村昌弘『屍人荘の殺人』(二〇一七年)、米澤穂信『黒牢城』(二〇二一年)、結城真一郎『#真相をお話しします』(二〇二二年)など映像化された作品もある。『本格ミステリ・ベスト10』(原書房)のランキング上位作を眺めるだけでも、新しい才能が陸続していることがわかるだろう。
 このような状況を笠井はなぜ予見できなかったのか。それは大量死理論に限界があったからではないか。そう主張したのが『探偵が推理を殺す』だった。
 いわゆる大量死理論とは、第一次世界大戦における大量死の経験が探偵小説の興隆を招いたとする説だ*14。「大量死と探偵小説」に寄れば〝現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗〟(七九頁)したのが探偵小説だった*15。第三の波の成功には大量死の裏返しである、強いられた大量生が背景にあるという。
 ある不分明な状況において人が問題を解決しようとするとき、その思考には二種類ある。論理的思考についてビジネス書などをめくれば、垂直思考と水平思考という用語を目にするだろう。『探偵が推理を殺す』では蓋然性に重きを置く推理、整合性に重きを置く推理として論じていた。
 大量死理論では〝犯人による、巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまりない推理という第二の光輪〟(七九頁)によって、名前を奪われた死者の名誉を回復しようとする。客観的真実を厳密な論理によって明らかにすること、私の言葉では、蓋然性の推理に重きが置かれていた。
 だが、人間の知的活動はそれだけでは半分に過ぎない。なにが起こるかわからない、既存の常識が通用しない不確実さに満ちた状況では、人は確率の低いことさえ疑い、さまざまな思惑が渦巻く状況で生き残るために闘わなければならない。ゼロ年代後半から徐々に、時代状況の変化に応じて整合性に重きを置く推理へ重心が移ったのではないか。
 この主張には当然の前提があった。本格ミステリとは真実を探求する物語という定義だ。蓋然性と整合性、どちらに重きを置こうと目的は物語内の客観的真実を見出すことにあった。たしかに『探偵が推理を殺す』の「結論」ではこれに疑義を呈している。白状すると当時の私としては、それは多元性に目を向け、開かれたミステリ評論を目指すべきという気持ちから述べたものに過ぎなかった。
 しかし、状況は変わった。琳の「ガウス平面の殺人」で提唱された虚構本格ミステリ論や、二〇二三年に刊行された『現代ミステリとは何か』所収の各論に触れたことで、虚構という概念と向きあうことなしに現代の本格ミステリを論じることはできないという思いを抱くようになった。
 要するに私はこう呼びかけているわけだ。撤退しよう、と。唯一無二の真実に到達することは大切なことだ。それはミステリ作品においてはもちろん、実人生にも欠かせない。しかし人が生きていく上でそればかりがすべてではない。ありえたことを探すのと同じくらい、ありえなかったことに想いを巡らせるのも人の営みとして避けては通れないことだ。
 本格ミステリとは虚実の狭間を見定め、現実とはなにか批評する文学だと定義しよう。真実の探求と同等に、ときにはそれ以上に、虚構という怪物と腰を据えてじっくり向きあわなければならない。