1/22(土) 限界小説研究会[編]『サブカルチャー戦争 「セカイ系」から「世界内戦」へ』(南雲堂)刊行記念イベント第二弾「ポスト9.11のハリウッド映画と日本映画」に参加してきました。場所は西武池袋本店別館9階、池袋コミュニティ・カレッジ28番教室。午後六時半開始、八時過に終了。
 エートね、ごめん、土下座するわ m(_ _)m m(_ _)m m(_ _)m。ふう……二ヶ月か……いやもう、泊まり込みの休日出勤に花粉症に風邪(MAX39℃)に、極めつけは千年に一度の大地震と来ましたよ……そもそも映画ヒョーロンの世界をまったく知らん者にはキビスィー内容だったので、内容の正確さは期待するな(命令)。
 「しねふぃる? それってウィーン・フィルハーモニー管弦楽団みたいなの?」とか思っていたわたくしですが、しょうがないのでトークイベント後に『ユリイカ』のスピルバーグ特集を読んだり『サブカルチャー戦争』『社会は存在しない』を読み直したりネット検索で調べたりしましたよ。しかしまあ、しょせんは付け焼きおせんべい。メモはとっていましたが思いっきり記憶捏造していますので、レポートというより再構成に近いと思ってください。悪しからず。
 なおTogetterに記事があるので、こっちのほうが正確かと思われ。

Togetter - 「ポスト9.11のハリウッド映画と日本映画 @sasakiyusuke」
http://togetter.com/li/91644

映像のリアリティが変わった!

 会場は、学校の教室より少し狭いくらい。四十人くらいはいたかしらん。長机にブックオフ池袋サンシャイン60通り店で立ち読みしていたところを捕まえてきました風のカジュアルな服装をした四人が着席。向かって左から二人目、黒縁眼鏡の藤田直哉から趣旨説明がされる。

 限界小説研究会[編]『サブカルチャー戦争』の帯には「なぜハリウッド映画には手ブレカメラの作品が増えたのか?」というコピーが記されている。所収の「9・11系ハリウッド映画群の謀略 ――テロリズム以降の映画表現」で藤田直哉は次のように指摘する。
 2001年9月11日、ワールドトレードセンターがジャンボ・ジェット機の突入で崩壊する映像が全世界に報道された。以降、ハリウッド映画は急速な変化を遂げつつある。数々のドキュメンタリー作品、事実を基にした再現ドキュメンタリー作品、そして手ブレカメラなどドキュメンタリーの手法を利用した疑似ドキュメンタリー作品が生みだされた。それらの作品ではフィクションと現実の境界が揺るがされ、9・11を想起させるような混乱と破壊を描いている。
 なぜこのような変化が生じたのか。本日はそのことについてお話しする。予定でしたが、番組を急遽変更してハスミンをdisります。じゃなくて映画と映画評論が大きな変化を迎えてるんじゃないかなってことを話すよ!

 藤田直哉と同じ限界小説研究会所属で、向かって左端、タータンチェック+ネクタイ姿の渡邉大輔について紹介。限界小説研究会[編]『社会は存在しない』所収の「セカイへの信頼を取り戻すこと――ゼロ年代映画史試論」では「映像圏」という概念を提唱している。従来の映画文法では、演劇的な平面構成による“映像”が自然主義的な語りを実現していた。それに対し篠田昇、相米慎二、岩井俊二らは、キャラクターたちの自走自立する環境全体を“映像圏”として、カメラが無目的かつ偶発的な進路をさまようかのような映像を生みだした。
 資本主義の発達にともないサブカルチャー化が進み、情報技術の発達や世界内戦状態の緊張と相まって映像のリアリティは変質し続けている。過去のあらゆる名作からマイナー作品までデータベース化が進み、TSUTAYAには生涯鑑賞しきれない本数のDVDが並ぶ。断片化された無数の映像をニコニコ動画やYouTubeでサンプリングしながら、監視カメラやケータイのカメラに囲まれて日々を過ごす。
 もはや、映像の積み重ねから物語という名の意味を生みだす文脈依存の映画文法に映像のリアリティは無い。9・11系ハリウッド映画群やゼロ年代国内映画の一部が新しい手法でセカイへの信頼を取り戻そうとしている現代において、映画評論もまた新しい形を模索しなければならないのではないか。

 さてさて、本日のゲスト二人もこういった映画と映画評論の変化を感じているらしい。向かって右から二番目、映画レビューサイト「FLOWER WILD」の編集者、三浦哲哉は先人のやりかたを学び先人に追いつこうとしてきたが、映画評論家を志す若い人たちの間ではどうも評論のやり方そのものが変わってきているように感じるという(後述)。
 向かって右端、黒シャツを着た映像作家の佐々木友輔は、秋葉原通り魔事件を題材にした『夢ばかり、眠りはない』など、実際にドキュメンタリーの手法を利用した作品を発表している。映画『ノルウェイの森』に現代美術家の村上隆は、全体のまとまりよりもワンシーンだけを拡大した見方をした。そのような見方は悪しき批評だとも言われているが、映画『トランスフォーマー』(2007年)のCG技術を駆使した凄い映像のために観客が映画館に足を運ぶ昨今、むしろそういう需要のされ方を理解する必要があるのではないか。

(補足。村上隆が『ノルウェイの森』に言及したというのは恐らく以下のことかと思われる)

Togetter - 「映画「ノルウェイの森」を読み解きながらほとばしるドーパミンっ、村上隆さん @takashipom の 壮絶・悶絶・絶賛!っぷり。」
http://togetter.com/li/81298

手ブレカメラに映るのは、元気なゾンビだけ?

 佐々木の指摘を受けて、三浦から岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)の話に。この作品はネット掲示板でユーザ参加型の小説を原作とし、伝統的なカット割りの形式を無視して広角レンズや手持ちカメラを利用した映像には「これは映画じゃない」という反応さえあったという。
 ハリウッド映画のほうでも似たことが起きている。ポール・グリーングラス監督『グリーン・ゾーン』(2010年)では誰が誰に銃を撃っているのか映像から理解できない。かつての、例えばマイケル・マン監督の作品なら戦術まで理解できるというのに。

 批判的な三浦の意見に対し、藤田はむしろそこを評価すべきだと説く。被写体が動かなくともカメラのほうが動けばいい。物理的制約にとらわれずアフターエフェクトをかければいい。これこそ従来の、固定視点と生の肉体に縛られた演劇的な発想を超える映像表現ではないか。
 佐々木もまた、これに賛同する。かつては手ブレ=安易な手法だったかもしれないが、CG技術の発達と相まって成熟を遂げつつある。『クローバーフィールド/HAKAISHA』(2008年)ではCGで追加配置した物体に複雑な手ブレを与え、『アイアンマン』(2008年)では空中であることを考慮した独特なブレを表現している。

 三浦は手ブレ映像の技術が進化していることを認めつつも、伝統的手法の長所を訴える。『理由なき反抗』の監督ニコラス・レイはハリウッドのスタジオが崩壊したことさえ利用し、光が動くだけで生命の充足を感じられるようなスペクタクルな映像を実現した。YouTubeで衝撃映像ばかり追いかけるような、刹那的な刺激を連ねるだけの映画からは緊密な生の緊張感が失われているのではないか。
 生命の充足感が失われているという意見には佐々木もうなずく。コメディ映画『ゾンビランド』(2009年)ではないけれど、9・11以降しばらくハリウッド映画はスペクタクルばかりが連続し、『トランスフォーマー』では倫理観さえ欠如した印象を受けた。藤田もまた、似た印象をスピルバーグ監督『宇宙戦争』(2005年)から受けたという。映像から受ける迫力は命あるものの輝きではなく、青冷めたゾンビが大量に疾走しながら迫ってくるかのような、物量でごり押しするパワーだ。

(ちなみに、藤田直哉はこのトークイベントの後で「極私的ゾンビ論」の連載を始めました)

「極私的ゾンビ論」はじめました - the deconstruKction of right
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20110205/1296879505
極私的ゾンビ論(第一回): 21世紀、SF評論
http://sfhyoron.seesaa.net/article/182793169.html

映画評論は、記憶から検索へ

 ここまでのまとめ。ぶっちゃけ普通に映画を撮っても、それってただの映画じゃんフィクションじゃん虚構じゃん監督の押しつけメッセージとかウゼー。YouTubeで9・11の“ほんもの”の衝撃映像観てるほうが面白いよね。
 てなご時世に映画を観てもらおうと思ったら“ほんもの”を擬装するっきゃない。そこで奥様ドキュメンタリー手法ですよ。ハリウッドが総力をあげた最新CG技術で手ブレ映像もすっかりオシャレに!
 でもなんかパニックばっかり映してもB級ホラー映画みたいでむしろ単調になってきとるんとちゃう? ホントにこの方向性で映画に未来はあるのかしらん……大雑把にはそういうことを言ってた気がする。多分。んで、話題は映画評論のほうの変化に移る。

 まずは三浦から、蓮實重彦について。かつて、ひとつの産業として確立した映画には、完成された型があった。映画評論家の蓮實重彦は伝統的な型が失われ廃墟化しつつある歴史を受容してきた。立教大学で蓮實重彦から教えを受けた黒沢清や『Helpless』(1996年)の青山真治ら、若手で日本映画の最前線にいる監督は、いきなり廃墟からスタートしている。
 ハイ、それでは若手映画評論家のお二人に語っていただきましょう。渡邉はしみじみと述懐する。十代の頃から蓮實重彦の文章を読んできたので、そういう映画史的記憶の文脈はわかる。ただ実感として90年代後半の映画批評よりはむしろ東浩紀の活動に惹かれてきた。なぜか? 当時の映画批評は「これを観ていなければ語る資格はない」という、映画体験の蓄積が無ければ参入することができない閉ざされた業界だったから。
 田舎からでてきて渋谷の有名なミニシアター「ユーロスペース」で凄い変な映画を観たりもしたけれど、自分たちから下の世代にとって映画はシネコンやTSUTAYAでレンタルして観るものだった。藤田もまたうなずく。田舎では、蓮實重彦が評した映画なんて観る機会が無い。『ロボコップ』しかないようなレンタルショップから借りた作品をTVやパソコンで観るしかない。単館公開のマイナー作品なんて知らんがな。

 三浦によると、かつて評論家を志す若手はパリで修行し、いっぱしのシネフィル(Wikipediaによると、映画通、映画狂を意味するフランス語)になってオーラを発揮するものだったらしい。そうして蓄積した記憶を簡潔な言葉で綴るのが優れた映画評論だった。
 けれど渡邉、藤田らは違う。記憶など無い。ひとつの映画を見終わってから、検索が始まる。連想的にあらゆる話題へと飛び火し、脚注がずらりと並ぶ。青土社「ユリイカ」2008年7月号のスピルバーグ特集に寄せられた渡邉大輔の「ポスト・ハリウッドは規約で遊ぶ。 ――スピルバーグの〈言語〉論」には“黒船”が到来したと感じたという。
 それは意識的にやったわけではない、と渡邉は言う。Web的・DB的に検索し連想しメタデータが肥大化していく、そんな思考方法をまったく無意識に進めていた。「記憶体験という全体→ひとつの映画」とは真逆の「ひとつの映画→検索と連想から生まれる全体」という、まるでTwitterでひとつのツイートが偶発的に反応の連鎖を引き起こし、波紋を広げていくかのような全体感。
 もはや映画=フィルムという等式は成立しないのではないか。かつてサイレント時代には弁士がいた。情報化が進むにつれ、ネットを利用したプロモーションが盛んになりつつある。映像と鑑賞者とのつながりまで含めた、身体化された広がりとしての“映像圏”を映画として捉えるべきではないか。
 リュミエール兄弟が映画を発明したのは1894年、Yahoo!とAmazonが開始したのがちょうど百年後の1994年。21世紀、Webは映画と同じ道をたどるのかもしれない。

映画は死んで、ゾンビ映画になりました。

 従来は{映画=映像}→{映画評論=映像体験の蓄積}という図式だったわけですな。けれど{映画≠映像}→{映画評論=映像と鑑賞者の身体的つながり}に変わったと。となると映画のほうもまた捉え直さなければならないのではないか。というわけで話題はまた映画のほうへ戻る。
 佐々木は監督を務めた『新景カサネガフチ』を「風景映画」と呼んでいることについて、宮台真司とのトークイベントで話題になった。風景でしかないならば、なぜ映画としてまとめる必要があるのか。映画という形式へのこだわりはなんなのか。
 『トランスフォーマー』ならシーンの一部を切りとってYouTube向けの動画にしたてられる。けれど『リリイ・シュシュのすべて』はそれができない。岩井俊二作品は、初めからMADだからこそ断片に分解することができないのではないか。
 映画という名の器に、脱文脈化した情報環境の現在を押しこめている。当然、そんなごちゃごちゃしたものを詰めこめば器のほうが歪む。佐々木は拡張現実を体験できるアプリケーション「セカイカメラ」を利用したアートプロジェクト「gARden」などを通じて、空間的な映画の見方を追求してきた。
 では、映画はこういった新しい試みへと取って代わられるのだろうか。藤田はTwitterを例にあげる。無関連なツイートが連綿と並ぶタイムラインには事実性がある。だが、その身も蓋もない事実性に果たして人々を惹きつける魅力はあるだろうか。
 渡邉もまた、古いものを捨て新しいものだけでやっていくことはできないという。1930年代、アメリカ映画は映画製作倫理規定(通称ヘイズ・コード)に縛られたが、1950年代には有名無実化していた。だが表現の自由を奪う倫理規定こそが逆に作品を洗練させていた側面があった。

 前島賢『セカイ系とは何か』では「オタク」という呼称の変化について触れられている。かつて「おたく」はマニアックな知識と長年の体験から先行作品へのオマージュを見抜くことができる者を意味していた。しかし後に「オタク」はアニメ・まんがファン全般を指すようになった。エンターテイメントである映画もまた、教養主義はもはや通用しない。
 作り手もまた同じだという。三浦によると、若手のクリエイターは憧れてきたクラシック作品と同じものを作ろうとして失敗しているという。蓮實重彦を読むこともなく、代わりにB級映画中心の映画情報誌「映画秘宝」を読み、『駅馬車』の監督ジョン・フォードを真似ようとして、けっきょくはゾンビ映画を作ってしまう。
 では、これからの映画と映画評論はどうあるべきか。佐々木は、教養主義が終わったことを指して映画が死んだなどと嘆いているうちに、ハリウッド映画に差をつけられてしまったという。教養主義が崩壊しても、クリエイターたちの現場は続いている……と、ここらでタイムアップ。質疑応答に。
 タイトルが「ポスト9.11のハリウッド映画と日本映画」だから、なぜ9・11が映画を変えたのかという話題になるかと思ったら、ならなかったじゃんとツッコミ。藤田から、9・11がリアルへの感受性を変えたのだと回答。粒子の粗い手ブレカメラの映像が「現実」を映すものと信じられるようになり、同時にその「現実」は映像に過ぎないという不安が真実への到達不能性を生むようになった。疑似ドキュメンタリーというメタフィクショナブルな仕掛けで陰謀論的世界観を描き、逆説的に新しい時代のリアルに到達したと鑑賞者を錯覚させることで、ハリウッド映画は娯楽を成立させた。
 最後に藤田直哉から「活き活きとしたゾンビは、生きているのと同じでは?」と質問。「なら、もっとキリッとしてくれ」と三浦が回答して締め。

感想

 いやもう……隣の芝生にもゾンビだよ。
 なんのことかというと、同じようなことがミステリでも起きていたのね。大雑把に説明すると、綾辻行人『十角館の殺人』を嚆矢として1987年から本格ミステリが盛んに発表されるようになった。この「新本格ムーブメント」は大戦間の英米で黄金期を迎えた本格探偵小説のルネッサンスという面もあったけれど、同時に叙述トリックや日常の謎、情報小説といった新しい試みをともなっていた。
 こうして、以前からのミステリマニアと、新本格以降から参入したファンとの間では知らず知らず認識の相違が深まっていた。それを象徴したのが東野圭吾『容疑者Xの献身』(2005年)を巡る論争だった。ちょっと、国内ミステリ(とミステリ評論)が迎えた変化と、上記レポート内容との類似点をあげてみる。
 まず、映像のリアリティが変わったこと。ミステリのほうは、まんが・アニメ的リアリズムをとりいれたことがあげられる。あと、渡邉大輔が「セカイへの信頼を取り戻すこと」で映画『ションベン・ライダー』のワンシーンを題材に映像圏という概念を説明する文章には叙述トリックを連想させられた。自然主義文学において暗黙の前提だった無作為かつ客観的な視線を裏切り、本格ミステリでは作為的かつ編集された視線で読者を欺く叙述トリックの技法が発達した。
 そして教養主義の崩壊。例えば『容疑者Xの献身』を巡る論争で笠井潔や小森健太朗は、謎解きとしての難易度の低さを評価できないとしていた。けれど、正にその本格ミステリマニア的な価値観に対し、真相の意外性やエンターテイメント性を重視する新本格ムーブメント以降の価値観から反論が寄せられた。あわせて、本格ミステリを定義することの是非という問題は、映画とはなにかという疑問に通じるところがあるように思う。
 詳細は以下を参照。あ、もちろん思いっきり『容疑者Xの献身』のネタバレしているので注意。

X論争黙示録>追跡編>Xは優れた本格ミステリか
/pages/2006/061009_devotion/2.html#id2_8
X論争黙示録>評論編
/pages/2006/061009_devotion/4.html

 ただまあ、だからといって「映画とミステリでゼロ年代に同じことが起きていた」とは必ずしも言えないだろうなあ。例えば叙述トリックの発達は新本格ムーブメント当初の90年代から(あるいは幻影城のときから、いやいや大戦間から、いやいやいやエドガー・アラン・ポーだって……)継続して続いている。だからといって「ミステリは映画よりも遙か以前からリアリティの変容に対応してきたのだ!」とは言えない。
 1981年に高千穂遙が『機動戦士ガンダム』はSFではないと主張したことに端を発する論争を思いだす。教養主義なんて通用しないだの価値観の多様化だのは以前から継続的に進行していたことらしい。この辺り、バブル崩壊に至る70-90年代の安定成長にともなって大量消費から個々人に固有のニーズにあわせる方向へ消費構造が変化したことが背景にあるのかなと思う。

流星改>ガンダム資料館>SF者達の挽歌
http://www2s.biglobe.ne.jp/ryuseik/SF1.htm

 類似性に着目するだけでは生産性のない一般論にしか到達しない。ミステリの場合は後期クイーン問題だの探偵役の道徳的役割だのといった面で苦労してるけど、映画もまたゾンビ映画にしかならないことに苦労している。どちらもそれは時代への即応を試されている(平たく言えば娯楽性の追求)という意味では共通する問題なんだけど、その答えはけっきょく創作者たち一人一人が艱難辛苦しなければ答えはみつからない。
 評論家がやることは、その答えの妥当性をいちはやく判断し評価することにある……のかなあと思うのでした。