はじめに
X論争では『容疑者Xの献身』の作品内容についてはもちろん、そこから離れて評論の在り方そのものに対する意見も活発に交わされた。
評論編ではそれらの発言を拾っていく。
評論に定義は必要か
二階堂黎人の指摘
二階堂黎人は、本論争を通じて批判したいのは評論家であることを明言している。
批判の根拠として、評論家が本格ミステリの定義を示さない点をかなり初期から指摘している。
定義の要求に対する反応
作品を論じる上で、評論家は本格ミステリの定義を示すべきか。この問題には千差万別の反応が寄せられた。
田中博は、本格ミステリの定義をどのように提起しても様々な意見のひとつとしかみなされないため、定義を示すことは評論活動として意義を持たないと主張した。
巽昌章は、評論家の仕事は手探りでされるものであり、定義や論争にはないと主張した。
吉野仁は、完璧な分類そのものが不可能であり、理性による「屁理屈」よりは優れた読み手(評論家)の印象批評こそが読者に役立つと主張した。
大森滋樹は、厳密な定義による視野狭窄を起こすよりは、全体を見るべきと主張した。
杉江松恋は歴史的な見地からも「本格」の定義は曖昧であり、逆にその曖昧さがジャンルの豊かさを生んだと指摘した。
つずみ綾は(上記の論者の名前を挙げてはいないが)価値観や時代によって本格ミステリの定義が曖昧であれば、ある作品を「本格である」「本格ではない」という主張のどちらも相対主義の観点から等しく認められるべきと主張した。
二階堂黎人もまた上記の議論を踏まえて、それでも評論家は定義を示すべきとした。
羽住典子は、議論を深めるためにもその前提として定義を述べることが重要と主張した。
千野帽子は、二階堂黎人らを自分こそがジャンルの代表者であると信じて疑わない立場とし「ボクら派」と呼ぶことで、自分達こそ定義ができるという(勝手な)感覚を批判した。
佳多山大地は、定義が趣味嗜好の表明に過ぎないとした。
考察
この論争の発端は、二階堂黎人が自身の定義からすれば『容疑者Xの献身』は本格ではないと主張したところから始まっている。素朴に考えれば、二階堂の定義と、評論家の定義とを照らし合わせて、どちらが妥当か検証すればよいということになる。
しかし上記の通り、議論はそれほど単純には進んでいない。定義は必要だ、いや不要だ、定義しても不毛だ、定義なんて不可能だ、定義なんて時代遅れだ、いやとりあえず定義しないと議論が始まらない、定義できると考えること自体が一部の特殊な人達だ――正直なところ、ここまで人は違うことを考えられるのかと感心したくなる。
X論争は、個々の論者が自分の定義こそ正しい、自分こそ本当の本格ミステリを知っていると争ったものではなかった。
いっそ、そのほうが清々しかっただろう。実際は、そうではなかった。X論争は「私こそが正しい議論の仕方を知っている」という主張の争いだった。それが、議論の閉塞感を生んでいたように思う。
評論はどうあるべきか
島田荘司は、意見表明をすることはいいことだがなによりも創作をすべきと提言した。
原書房『2007本格ミステリ・ベスト10』>
インタビュー 「本格」Man of the Year 2006 島田荘司 聞き手 円堂都司昭 p87下段
正論だ。作家は創作をすればいい。しかし、評論家はどうすればいいのか?
本格ミステリを巡る評論のありかたについての意見を追ってみよう。
相対化が生む排除
田中博は、相対化が進むことで批評行為が困難となる現状を鑑みつつ、全体のジャンル観と自身の定義を照らし合わせ「相対化の嵐の中で踊る」ことが必要と主張した。
諸岡卓真は(田中博の指摘を踏まえたうえで)個々人が独自の本格定義を持つことが、結果的に共通して非本格とみなすものを暴力的に排除してしまっていることを指摘し、そのような仕組みを検証、批判していくことが必要とした。
評論とはなにか
その一方で、笠井潔とその主張に対する批判者との間で、そもそも評論とはなんなのかという点について意識の違いが明らかにされた。
論考編でも紹介したが、有栖川有栖や佳多山大地は、時代精神を根拠として作品を論じる笠井潔の姿勢に違和感を表明した。
これらの主張に対し笠井潔は、本格ミステリもまた小説作品である以上は時代の影響を受けると反論し、評論の手続きを形式性や技術に純化しようとする姿勢そのものを批判した。
(先の引用箇所と文章の流れが前後するが)笠井潔は、評論家の仕事とは時代精神を読みとることを通じて小説家と対等の立場で発言し、ジャンルの機能に従うだけではなくジャンルの危機をとらえ提言することだと主張した。
考察
田中博や諸岡卓真が指摘しているように、現代はあらゆる評価軸が相対化され批評が有効に機能せず、見えにくい排除のシステムを生んでしまう状況にある。
その意味において、危機にあるのは評論家ではなく、評論そのものだ。本格ミステリの定義と同じく、評論の定義もまた相対化する。
評論家は時代精神を読むべし、評論家は小説家と対等な立場でものすべし、そのような「前提」はどんな思想や教養や歴史を根拠にしても「ああ、あなたはそう考えるのですか」の一言で無視される。笠井潔は、こういった根本的な問題を自覚していない。
探偵小説研究会から本来望んだ批評家を育てられなかったのは、相対主義という時代精神を読み解けなかったからというのでは皮肉が過ぎるように思う。
「我こそがもっとも正しい主張をする者なり」という意見はもちろん、もはや「我こそがもっとも正しい主張の仕方を心得る者なり」という意見さえ許されない。X論争を通じて痛感したのはそういうことだった。
笠井潔の主張通り「探偵小説の超一般的な形式性は、謎かけやクイズ、論理パズルの類に還元されるしかない」もので、「偉大な古典的形式をクリエイティブに再構築しようとする後発者の技術」は「ニーチェなら遠近法的倒錯の産物と表する」ものや「文学主義的な観点」だ。
しかし、そのように言い表すことは同時に、笠井潔の「正しさ」でもって有栖川らの言葉を切断していることでもある。本格ミステリから形式性や技巧の発展をマイナスし、時代性に翻弄されるただの小説として読むことが本格ミステリ評論家の仕事だろうか。本格ミステリから本格ミステリの固有性を差し引いて、なぜそれが本格ミステリの評論となるのか素朴な疑問を感じる。
これは逆も言える。有栖川有栖や佳多山大地が主張するように、本格ミステリの固有性は時代精神を完全に無視することができるだろうか。もちろん、それはできる。しかしそれは、自身の信じる「正しさ」でもって言葉を切断するだけでもある。
互いに言葉を切断しあうことで、互いの主張の境界に属する領域、本格ミステリの固有性に対する時代精神の影響が、論点から抜け落ちてしまっている。
自分が信じる「正しさ」から外にでて、たとえ不利であっても相手と同じ土俵に立ち、お互いの言葉をつなげていく。そのような手続きが必要に思う。
もちろん、これは愚かな戦略だ。少なくとも、プライドを傷付けることになるだろう。しかし、たとえプライドを捨ててでも誠実さに身を投げ、相手とのプロトコルを確立しなければ、価値観の多様化した現代において議論を深めることはできない。
信仰としての正しさを掲げるのではなく、探り合うリアルを叩き付けてくれる論を望む。