はじめに
追跡編では、論点毎に議論の応報を追い、点を線でつなぐことを試みる。
客観性、中立性には配慮するが、「これはこの論点についての発言だろう」と判断した部分を抽出する作業のため、どうしても私感が混じる内容であることをご了承頂きたい。
Xは本格ミステリか
二階堂黎人の主張
『容疑者Xの献身』は本格ミステリではない、と二階堂黎人は主張した。
論点を明確にするため補足するが、二階堂黎人は『容疑者Xの献身』を直接的に批判しているわけではない点に留意してほしい。
批判の矛先は『容疑者Xの献身』を本格ミステリとして評価した人々に向けられており、小説のほうではない。
では、なぜ二階堂黎人は『容疑者Xの献身』を本格ミステリではないと判断したのか。二階堂黎人にとって本格ミステリの定義とはなにか。
2005.12.05 の恒星日誌でも触れられているが、「ミステリマガジン」2006年3月号の記述のほうが時間的に後のため、こちらを引用しよう。
たった一行、簡潔で明確な定義だ。
しかし、この一行には欠けていた要素があった。実は、それが後々の議論で問題になってくる。
その要素とは、謎を論理的に解くことが必要とされるのは誰のことなのかという点だ。作中の探偵役なのか、それとも読者なのか、その両方あるいはどちらか最低一方なのか、その点が明示されていない。
p18上段では探偵役(湯川)にそれが不可能だったこと、p19下段では読者も不可能だったと書いている。
このことから推測すると、二階堂黎人はこの時点で、探偵役と読者の双方とも論理的に謎を解くことができないと判断していたようだ。
探偵役は謎を論理的に解いたか
二階堂黎人の主張通り、湯川の推理は「推測」だったろうか。
巽昌章は、湯川の推理に「推測」の面があることを認めた。しかしその上で、ジャンルの発展史観や教養主義的な立場から過去の実作を鑑みて考察したとき、探偵役の推理に曖昧性があることを本格ミステリではないとする考えそのものが妥当ではないと指摘した。
同上
巽昌章氏の投稿>2-2 湯川の推理は本格の推理か>(3) 「推理」の実態
同上
巽昌章氏の投稿>2-2 湯川の推理は本格の推理か>(4) 想像と検証
同上
巽昌章氏の投稿>2-2 湯川の推理は本格の推理か>(6) 実例の検討
同様の指摘を笠井潔、有栖川有栖も行っている。
同上 p22下段
(※ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』の内容に触れる箇所を隠しました)
それではそもそも、二階堂黎人による本格ミステリの定義はなんだったのか。
実作者の立場から理想を目指す定義だったのだろうか。巽昌章の言葉を借りれば「初期クイーン風の論証をめざすべきだという提言」だったのだろうか。
どうも、そうではないらしい。本格評論の終焉(最終回)には以下とある。
二階堂黎人と巽昌章らの間に、ジャンルの発展史観や教養主義的な立場から鑑みた本格ミステリ観に乖離があることがうかがわれる。
読者は謎を論理的に解けたか
読者にとってはどうだったろうか。二階堂黎人の主張通り、読者にも論理的な推理は不可能だったろうか。
この点についても巽昌章は言及している。
笠井潔はホームレスの一人がいなくなったことと合わせて、富樫殺しの日付が明示されていないこと、死体の入替を推測できる工作がされていたことを手がかりとして指摘している。
羽住典子は石神が隠蔽工作をしたにも関わらず指紋から死体の身元があっさりとみつかった点も手がかりとして挙げている。
杉江松恋は美里が加勢したことでついたはずの傷が死体になかった点を指摘している。
二階堂黎人の再反論
巽昌章の指摘について、二階堂黎人は以下を述べている。
この時点では、探偵役の推理に曖昧性があるのは当然なこと、読者への手がかりが明示されていたことの指摘への回答は見当たらなかった。
念のため引用しておくと、確かに巽昌章は反論を必要としない旨を記述している。
ある程度の回答が示されたのは「ミステリマガジン」2006年6月号だった。
探偵役の推理に曖昧性があって当然とする考えは認めないようだ。
ただし、ジャンルの発展史観や教養主義的な立場から具体的な作品例を示すといった、客観性のある反論はその後も確認されていない。
読者に真相を推理する手がかりが明示されていたことへの反論はなかった。
「ミステリマガジン」2006年3月号の時点では否定していたが、上記引用の通り、読者に手がかりが明示されていたことは二階堂黎人も暗に認めているようだ。
2006年3月号の時点では明記されていなかったが、読者のみならず探偵役も謎が論理的に解けることが、本格ミステリの正確な定義だったようだ。
つまり、読者には論理的に解けたが、探偵役にはそれができなかった(曖昧性があって当然とする考えは受け容れない)ため、『容疑者Xの献身』は本格ミステリではないらしい。
考察
二階堂黎人は「本格評論の終焉」で次のように述べている。
私的な考えになるが、ジャンルの発展史観や教養主義的な立場からの正しい認識は、確かに重要と思う。
しかし現在の議論では、探偵役の推理に曖昧性があるのは当然という点について、ジャンルの発展史観や教養主義的な立場から具体的な過去の作品例を挙げた巽昌章らと意見が食い違ってしまっている。
なぜ同じ教養主義的な立場の者同士で本格ミステリ観に乖離が生じたのか?
苦労して過去の名作を学んでも、けっきょく意見がバラバラで共通認識が得られないのならば、本格ミステリの教養主義はなんのためにあるのか?
同じ本格ミステリにおける教養主義を重視する者として、ぜひ二階堂黎人の回答を待ちたい。
Xは優れた本格ミステリか
「難易度の低さ」への批判
仮に『容疑者Xの献身』を本格ミステリと仮定した場合、優れた作品だったろうか。
笠井潔は『容疑者Xの献身』を難易度の低い本格と主張し、そのような作品を作家、評論家が指示したことを批判した。
では、具体的にはどんな点が「初心者向けの水準」だろうか。
あまりにも早い段階で真相が見抜けてしまう点を笠井潔は指摘している。
同上 p22上段
(※丸数字は機種依存文字のため、括弧付数字に置き換えました)
小森健太朗は、顔のない死体があれば死体の入れ替えを疑うのが常道であり「既存の技法を縮小再生産したミステリにすぎない」と指摘した。
更に「ミステリマガジン」2006年7月号では、石神の犯行計画に死体の調達、入れ換え、そして靖子が自首する可能性などリスクへの配慮が低い点を指摘した上で、「評価し受容する側に蔽い隠しようのない頽廃と荒廃が広がっている」と主張した。
「難易度の低さ」批判への反論
鷹城宏と佳多山大地は、自身が真相を見抜けなかった理由を分析し、ミスディレクションの巧みさを理由として挙げた。
鷹城宏は、まず作品世界の雰囲気が人工的なトリックを隠す役割を果たしている点を指摘した。
更に、死体入替トリックと倒叙形式を組み合わせたことがミスディレクションとなっている点を指摘した。
佳多山大地も「本格ミステリ大賞」の選評で、倒叙スタイルを挙げている。
(第二の理由も述べられているが、個人的な錯誤に近いため、省略する)
蔓葉信博は難易度の低さを認めた上で、逆に「読者に推理を促す仕組み」こそが重要と主張した。
巽昌章は、美しい論理のカタチを鑑賞するという受け止め方を挙げた。
さらに、鷹城宏や佳多山大地と同じくミスディレクションについて分析し、パズル性の高かった「第三の波」作品と同じ前提(死体入替を疑うべき)を評価基準とすることに疑念を呈している。
本格ミステリとエンターテイメントの中間的な位置づけ
以下、『容疑者Xの献身』が本格ミステリとエンターテイメントの中間的な位置づけにあることへの言及を並べる。
ただし、実はこれらの発言はお互いの記述を挙げていない。直接的にお互いを批判/援護したものではない。
類縁性を感じたため並べるが、その意味では私感に近いものであることを留意した上で読み進めてほしい。
羽住典子は本格ミステリとしてのシンプルさだけではなく、トリックとストーリーとの一体化を評価している。
巽昌章は『容疑者Xの献身』をパズル性から大衆性へ折り返した作品と位置づけた。
つずみ綾は、トリックが本格ミステリ長編を支えるに足るものではなく、かつ先例があるトリックであることから「過去の作品の縮小再生産にすぎない」と批判した。
本格ミステリとの関係性から「純愛」を読み解く
以下、石神の動機――「純愛」についての評価を追っていく。
二階堂黎人は、石神の「純愛」は「ストーカーもしくは変態的な気持ちの悪いもの」であり、人間ドラマとして物足りなさがあると主張した。
千街晶之は連城三紀彦の某作品と比較し、動機の特異性を評価した(ただし、連城作品を超えていないとしている)。
大森滋樹は「純愛」を巡ってプロットの合理性が本格ミステリ固有の歪みを生んでいる点を指摘した。
波多野健は石神の人物造形がサプライズとして働いたことを指摘し、それが「純愛」とされていることへの「胡散臭さ」があるとした。
杉江松恋は、本格ミステリとしてのフォーミュラを逆手に取ることで石神の特異な人物を描いた点を評価し、ただしそのような仕掛けは先例があると指摘した。
本格ミステリとの関係性から「純愛」を読み解くことへの批判
これら本格ミステリとの関係性から「純愛」を読み解く姿勢について、明示的に名前は挙げられていないがいくつかの批判がされた。
小森健太朗は、ミステリ通であれば「純愛」を文字通りには受け取らないが、そのためにかえって本格ミステリとしての空虚さ(天才とされる石神の犯罪計画はリスクが大きいこと、死体入れ替えトリックに気付かないこと)を見抜けず騙されていると指摘した。
更に、石持浅海の某作品と比較した上で「自らの物語世界にはまりこもうとする現代人の感性」を作者は批評意識を持って書いたとしている。
同じ2006年6月号で我孫子武丸は、石神の行動に対する湯川や靖子の反応を基に、「純愛」を「二重の読みが可能なたくらみ」と解釈するのは深読みのし過ぎではないかと指摘した。
ただし、小森健太朗と異なり石神の「純愛」は作者の価値観に基づくものとしている。
野崎六助は、石神の「純愛」を「純愛路線の取りこみ」「商魂」とし、作者の戦略として受け取ることを批判した。
考察
「難易度の低さ」に対する反論について、笠井潔、小森健太朗による再反論はされていない。
個人的には、ひとつの作品を「客観的に」評価することの難しさを深く痛感させられた議論だった。
羽住典子、巽昌章、つずみ綾の分析は、『容疑者Xの献身』が本格ミステリらしさとエンターテイメントの中間的な位置づけにあることを浮き彫りにした。
同じことを言及するのでも、そのスタイルや論調、評価が全く異なる点に注目頂きたい。
「純愛」については「本格ミステリとの関係性からの評価」と、それに対する批判の二分類とした。
私感だが、「純愛」を巡る解釈は混乱しているように思う。
本格ミステリとしての技巧、現代社会の人間像を反映した部分、そしてそれらの組み合わせを、『容疑者Xの献身』というテキストに則して、より厳密な議論を行うべきではないだろうか。それでなければ、「純愛」が大衆性への迎合なのか、批評的意識があるのか明らかにならない。