エー、以下「うみねこのなく頃に」の感想と考察と妄想です。
 「ひぐらし」のときはなんとかまとまった推理をでっちあげましたが「うみねこ」はもう……魔女は“い”るんだよ! というわけで、つらつら思いついたことをダラダラ書きとめるだけとします。

 なお、総プレイ時間は約40時間(Ep.1 8.5h + Ep.2 9.5h + Ep.3 9.5h + Ep.4 11.0h = 38.5h, 「Tea Party」「????」を含む)でした。ナーンダ、たっぷり8時間寝ても2日で終わるよ!

感想

 なにが凄いって、メタの暴走が凄い!
 Ep.1をプレイしたときは「フーン、なかなか本格してるやないの」と感心半分、ちょっと寂しさ半分でした。竜ちゃんにはミステリファンのダメだしなんかに負けず、もっと生き生きと破天荒な物語を綴ってほしいくらいに思っていたので、こてこての館物がでてきたのがちょっと残念に感じました。
 でも相変わらず密室の物理的な条件とかあいまいだし、まっとうなトリックなんて無いんだろうな……と思いつつ Ep.2を始めて……グォオーッ!
 イヤー、続けるのやめようかと一時は本気で悩みましたよ。でも、新本格ムーブメントで鍛えられたロートルは、こんな程度ではへこたれません!
「ははあ、あれだな。これは SFミステリってわけだな。ベアトリーチェの能力は物語内現実として存在していて、その規則性を推理しないといかんというわけだ」
 と、前向きに解釈して……ていうかメタ戦人、おまえの存在そのものが魔法以外では説明つかんだろう……とツッコみたい気持ちをぐっと抑え……Ep.3に入ったら………………。
 そうか。
 そう来ましたか。
 ブラウン管の逸話。結果として残された状況だけを信じ、あからさまな魔法シーンはフィクションとして否定してよい……なるほど……。
 そして Ep.4です。縁寿が登場し、ここでやっと話の全体が見えてきました。Ep.3は過去にあった現実として扱われ、どうやら Ep.1と Ep.2はメッセージボトルで流されてきた手記の内容であるらしい。
 たぶん、Ep.4で起きる事件やメタ戦人とベアトとの戦いは、ひとりぼっちな縁寿の悲しい妄想なんだろうな。これが現実なんだ、やっとメタ戦人の説明がついたよ、なるほどね~。
 と、安心していたら。
 縁寿、薔薇庭園へ。縁寿、真理亜と再会。縁寿、ミンチ。メタ戦人、怒る怒る怒る。
 ハ? ヘ? ホ?
 現実はどこ? この物語は、いったいなんなの?

 例えば、以下のページでは物語内物語として手記を扱った作品をいくつか例に挙げています。

おれせん! ≫ 魔王のMYSCON話読んでうみねこについて思ったことなど。
http://www.oresen.net/blog/2009/05/31/200905311430/#identifier_0_2098

 しかし「うみねこ」は、これらの作品とはハッキリと違います。段違いです。ただの物語内物語として安心して受けとれるような代物じゃありません。「うみねこ」は問題編が終了しても挑戦者に対し叙述の土台が与えられていないんです。メタの階層を客観視できない。普通なら手記の内容こそ怪しく、その手記が手記として存在する物語内現実は揺るがないはずなのに、「うみねこ」はそこが逆転している。惨劇は形を変えて揺るがず繰り返され、メタ戦人のほうがむしろどんな存在なのか説明されないまま話が進んでしまう。やっと絶対的な現実存在だと思った縁寿はメタ戦人のセカイに入り込んでミンチになってしまう。この複雑な構成によって読者は、統一された記述の客観性を持つことができなくなってしまう。どこまで現実でどこからが幻想か、読者によって意見が異なってしまうんです。こんな試みは、いままで誰もしたことがないんじゃないでしょうか。

 順番に話していきましょう。まず、「うみねこ」はメタフィクションに対する意識がまったく違う。「うみねこ」はプレイヤーが物語を「たんなるフィクション」として享受していることを、あからさまな前提としてしまっています。
 例えば、新本格ムーブメントの初めの頃、叙述トリックの技法がいろいろと試されました。この当時はまだ、読者にしか意味をなさない叙述トリックは不自然だとみなされていました。
 例えば、Aの性別が本当は男なのに、女だと勘違いさせる性別偽装の叙述トリックをしかけたいとします。このとき「Aはある事情から周囲の皆に自分は女性だと嘘をついていた。読者もだまされた」というのはOKです。それは別に不自然ではない。
 しかし「Aは普通に男性としてふるまい、周囲の皆もそれを知っていた。しかし、巧妙な叙述の工夫によって読者だけが誤解させられた」というのはNGでした。なぜなら、それはあからさまに作者が読者に罠を仕掛けているから。こんな不自然な叙述は「作り物の小説」以外に有りえないから。
 それがだんだん叙述トリックの技巧が発達するにつれ、こういうものでも不自然とはみなされなくなりました。作者が読者に直接罠を仕掛けること、それが珍しくなくなりました。
 騙しの技巧が発達したことだけが理由ではありません。読者の側の受容と順応、意識の変化があったればこそです。フィクションをフィクションとして受け入れること、作り物を作り物として「素直に」楽しめる読者が増えたからこそ、こういった不自然な物語が発達できたのだと思います。

 もう少し、ミステリにおける幻想/現実のとらえかたについて説明しておきます。
 パッと思い当たるのが、幽霊騒動が起きたり霊能力者が登場するタイプの話でしょう。そのとき、前半でいくら不思議なことが起きても後半で謎解きされるものです。不可思議にみえた事象はすべて裏に合理的な理由があったというオチがつきます。また、そういう「常識」をあえて逆手にとり、ラストで幻想小説のほうへ反転させて読者を驚かす作品もあります。
 特殊な例として、竹本健治『匣の中の失楽』のような作品もあります。三十年も前の作品だってのに、奇数章と偶数章がたがいにたがいをフィクションだとみなすなんて奇妙な構成を実現した小説です。これは「うみねこ」に近いと言えるかもしれませんが、それでもまだ幻想と現実を二項対立のものとみなしてますね。幻想と現実の間には明確な線があります。
 ところが、近年のミステリ作品では二項対立の枠組みは崩れ、幻想と現実の関係はもっと複雑多様になってきています。例えば島田荘司は本格ミステリー論と名付けて、前半で壮大かつ幻想な謎を提示し、それを後半で合理的に解き明かすことを提唱しています。ところが、その島田荘司ですら『眩暈』と『ネジ式ザゼツキー』とで変化がみてとれます。

眩暈的幻想、ネジ式フィクション
/pages/2004/040315_screw/

 ここら辺、説明しだすときりがないのでやめておきます。言いたかったことは要するに、こういうことです。近年のミステリだって幻想と現実をただの二項対立とみなしていたわけではなく、むしろ「人によってみている現実は違う」「幻想と現実の境界は曖昧で、誰かにとっての現実が他の人にとって幻想だったり、その逆だったりする」「その人その人に固有の現実(リアル)を生きている」ということを見出しています。てゆうか、この傾向はミステリ作品に限らず、もっと広範囲に起きていることなんです。

幻想小説の系譜から読む『涼宮ハルヒの憂鬱』
/pages/2003/031102_suzumiya/

 「うみねこ」も、ある意味こういう流れに沿っているかのように見えます。でも、そのためにとった方法があまりに斬新かつひどすぎて、ワクワクする!
 ミステリはそもそも事件が起きて、それを探偵役が調査し、推理をします。謎解き場面では、調査の過程で見聞きしたことをふりかえりながら推理を進めます。その意味で、ミステリって本質的にメタな構造を持っています。このとき、当たり前ですが探偵役と事件の関係者はみんな「同じ現実」を共有しています。そりゃ、そうでなきゃ「こいつが犯人です!」って説得できんもんね。
 ところが、幻想と現実が二項対立ではなくなり、一人一人に固有の現実があるということになると、推理を進めることなんかできなくなってしまう。実際、新本格ムーブメント以降のミステリはそういう実験をたくさんやってきた。例えばさっき挙げた叙述トリックなんかまさにそうで、読者がなんとなく信じこんでいたことと物語内登場人物の認識との間にズレがでてくるわけです。
 それを「うみねこ」はもっと妙な方向へ進めてしまった。「うみねこ」のプレイヤー達はおたがいに現実と幻想の階層区分について意見を一致させることができないんです。ある人は完全に魔女が“い”るでいいじゃんと思うし、ある人は赤き真実だけを信じて(いや、それすら疑って!)推理を築こうとする。戦人視点での情報だけは現実と思う人もいれば、いやいや他の登場人物のあの切ない恋心や熱い想い、恨みつらみが嘘のはずはないと願う人もいる。
 メタフィジカルな仕掛けとしては積木鏡介『歪んだ創世記』が「うみねこ」に近いと言えなくもない。でも、この作品でもまだ読者は一様に同じ読書体験をすることができた。でも、「うみねこ」はもはや誰一人として同じ「うみねこ」が存在しない。
 いや、もちろん「作品の解釈は人によってさまざまであり、その意味では読者の数だけ作品があるのだ」とは言えますよ? そりゃ常識です。でも、それはあくまで文学的解釈としての話です。「うみねこ」は(まがりなりにも!)それをミステリの世界でやってしまった。そこが凄い!
 この作品はもはや小説ですらないのかもしれないなー。一人の作者から一人の読者へではなく、一人の作者からマスの読者へ。これは小説じゃなくて、ゲームなんですね……からすとうさぎさんからMYSCON10でうかがった話がやっと理解できてきました。

MYSCON10感想、および若者におけるミステリーの現況について。あとうみねこ。 - 魔王14歳の幸福な電波
http://d.hatena.ne.jp/Erlkonig/20090530/1243676826

 ホントにまあ、つくづく思いますが……よくもまあ、こんなものをエンターテイメントにしたてあげたもんです。
 この底のない不安、メタの暴走ぶりを描いた作者も凄いけれど、追走できるプレイヤーも凄いとしかいいようがない。こんなにも嘘くさくて作りものめいた話に呆れながらもワクワクしてしまう。いいぞ、もっとやれ!
 もちろん、こんな汚いやり口をひどく思う人もいるでしょう。たとえば以下の文章はとても納得させられます。

ねこねこブログ : うみねこのなく頃にep3ep4クリア。犯人及びトリック、犯行動機について推理。後期クイーン問題と間主観性。メルロ・ポンティから読み解く「うみねこのなく頃に」 - livedoor Blog(ブログ)
http://nekodayo.livedoor.biz/archives/872127.html

 これはもう、ホントにおっしゃるとおりだと思う。あまりにも自分勝手な読みが許容されてしまう。誰もがみんな自分の信じたい世界だけを信じて閉じこもってしまう。それじゃまずいわけです。
 いまはただ、解決編を期して待つしかありません。私は、これに対する答えを竜ちゃんは用意していると期待しています。
 なぜなら「ひぐらし」がそうだったから。「ひぐらし」では、問題編で一人きり閉じこもって過ちを犯した者達が、解決編で惨劇を喜劇に変え奇跡を起こしました。竜ちゃんは既にそこを通過しているんだから、引き返すわけがない……はずだと。
 そしてEp.4でそのヒントは既にでているんじゃないか、と直感しています。縁寿はベアトでさえ成し遂げられなかった魔法を実現した。たぶん、あそこに意味がある。それが具体的になんなのか、いまはただ期して待つしかありませんが……。

考察

 ちょいっとばかり、推理もしてみますよ。
 まず、記述の客観性に線をひくとしますか。まず (1)赤き真実は全面的に信用する。ここを疑うと進めようがないので……ただし、なにか言い回しにごまかしがあるかもしれないという疑いは保持しましょう。
 次に (2)戦人視点で考える。さすがに魔法バトルしてる紗音や嘉音はミステリとして説明しがたいですし、といって誰も彼も疑ってしまっては推理の始めようがない。というわけで、戦人が見聞した情報だけは現実にあったことだと仮定します。もちろん、伝聞情報は相手が嘘をついていたとか幻をみていた可能性もあるわけですが。そして(3)それ以外の視点人物からの情報は眉に唾しましょう。

 で、どこから手を着けるか。やっぱり金蔵かな。赤き真実によって、金蔵はゲームのスタート時点で既に死んでいると明言されている。かつ、島には十八人以上の人間はいない。
 ところが同時に、Ep.4で食堂に姿をみせた金蔵は本物だ、替え玉ではないとまで言っている。どうやら「名前の継承」があったと解釈するしかないようです。
 そこで問題になるのが、金蔵の立ち絵やセリフです。あれはいったい誰なのか?
 順番に考えてみましょう。(1)オリジナル金蔵が死亡し、(2)人物Xが金蔵の名前を継ぎ、(3)事件当日を迎えます。オリジナル金蔵はボイラーで焼却されます。この人物Xは誰なのか?
 十八人以上の人間はいないわけですから、Xは残された十七人のなかにいるはずです。初めに戦人視点を信頼すると仮定しましたので、その線で考えてみましょう。
 すると、途端に思い当たる場面があります。Ep.2のラストで戦人は源氏に案内され、書斎で金蔵やベアトリーチェと会っています……メタ戦人でさえ、金蔵の名前が誰かに継承されているなどとは知りませんでした。六年ぶりとはいえ、他人が祖父の名前を名乗れば驚くでしょう。
 ここから、ひとつの仮説が浮かびます。金蔵の死は、もっと早かったのではないか。ゲーム開始どころか、ずっとずっと前からオリジナル金蔵は死んでいた。プレイヤーの前に姿を現した金蔵の立ち絵はすべて、何年も前にオリジナルの金蔵から名前を継承した誰かではないか。戦人が知っている金蔵とはその偽金蔵のほうではないか。

 もちろん、この仮説は十八人以上はいないという赤き真実と矛盾します。オリジナル金蔵が、名前を継承した正統な金蔵に置き換わっただけですからね。人数は十八人に戻ってしまう。
 しかしそもそも、Ep.4で戦人はベアトリーチェと言葉を交わしています。戦人視点を信じるなら、この時点で十八人目(十九人目?)が堂々と登場し、赤き真実を踏みにじっています。
 どういうことなのか? ひとつの手段としては、推理の進め方自体を見直し、戦人視点も疑うことが考えられます。しかし、そうなると戦人視点のなにを信じ、なにを疑うのかという基準が必要になります。それはちょっと難しいうえに無理そうなので、ここではその方向には進みません。
 戦人視点を信じます。となると、疑うべきは逆でしょう。十八人以上はいないという「言い方」がおかしいんじゃないか? 本当は十八人以上いるのに、ベアトリーチェはそこをうまく言葉逃れしているんじゃないか。
 ここで思いだすのが「家具」です。

 そう、ベアトリーチェは何度も源次たち使用人のことを家具と呼び、人間ではないと明言しています。ベアトリーチェは使用人達を人間とはみなしていない。従って、使用人のことを人数に入れていないのではないか?
 こう考えると十八人「以上」という曖昧な言い方も納得できます。六軒島には十八人どころか、十三人しかいない!ベアトリーチェを含めて四人もの人物、ひょっとすると顔すら見せていない登場人物が隠れる余地がある。いやそれどころか、使用人なら何人いてもいいんです!
 こう考えると、例えば Ep.1の嘉音殺しがうまく説明できます。すべての死者、生存者にアリバイがある。かつ、自殺でも事故死でもない。どう考えろっちゅうねんという感じですが、こういう者達――グループXと仮称します――がいたと考えればなにも問題はない。
 密室はどうか。Ep.1の絵羽、秀吉殺しはチェーンによる密室ですが、死体発見時に犯人が室内に隠れていたという仮説が否定されていないので、これでいいでしょう。Ep.2の礼拝堂や数々の密室のほうは正直よくわかりません。私の覚えている限りでは「合い鍵が作られていた」可能性が否定されていないように思います。

妄想

 ところで、そもそもこの者達――グループXはなんなのか?
 これはただの妄想です。金蔵は関東大震災によって親戚を一度に失いました。その悲惨な経験をもとに、金蔵はあるアイデアを思いついたのではないか。
 自分のバックアップを作っておく、というアイデアです。
 この不安な世の中、いったいどんな天災が起こるかわからない。いつ自分が死んでもいいよう、自分の身代わりとなる人物を作っておこう。そう金蔵は考えたのではないか。
 こう考えると「片翼の紋章」も意味深です。片方の翼……もう片方の翼は、どこでしょうね。使用人の一部も紋章をみにつけることが許されています。右代宮家の使用人は家具であり人間とはみなされない境遇にありながら、いざというときは右代宮家の誰かに代わることができるのではないか。右代宮家の者になにかがあったら、その人物の名前を継承し、入れ替わることができる……。
 これは当然、六年前に戦人が犯したという罪にも関係してくるでしょう。戦人が右代宮家を捨てたとき、金蔵はすぐさま他の誰かを「戦人」に代えたのかもしれない……。

 Ep.4でロノウェが源次を「この世界における、私の正しい姿」と呼んでいたり、Ep.2で熊沢がワルギリアに変身するのも意味深です。ひょっとすると、ロノウェやワルギリアも人間として実在しているのではないか。
 考えてもみてください、九羽鳥庵の黄金が金蔵の隠し遺産だとします。しかし、オリジナルの金蔵は死に、いま生き残っているのは偽物だったとします。黄金は、本当に右代宮家のものでしょうか? いや、むしろ法的には偽金蔵のものとなるのではないでしょうか?
 Ep.2の六人殺しの前の晩、ベアトリーチェに対し蔵臼達はベアトリーチェこそ魔女だと認めます。しかし、それがファンタジーとしての魔女ではなく――足の六本指を示されたのだとしたら?
 ベアトリーチェの足には六本指があり、間違いなくオリジナル金蔵の血縁である。黄金の正しい継承者である。右代宮家の者達こそ、実は偽金蔵の子孫達であり、遺産の正統な相続者ではなかったとしたら。

 更に妄想を重ねます――Ep.3で一人だけ生き残った絵羽。彼女は、この右代宮家の真実を隠すためにグループXと取引したのではないか。真相を隠す代わりに、島への永住権を譲ってもらった。六軒島にはグループXの者達が隠れ住む黄金郷が実現している……。
 Ep.4で縁寿を襲った須磨寺霞とその部下が「魔法」で撃退されたとき、現実にはなにが起きていたのか? もちろん、心配になって後を追った天草が援護した可能性が高いでしょう。でも、実はそれこそミスリーディングではないか。誰もいないはずの六軒島に人が隠れ住んでいる可能性から目を逸らさせようとしているのではないか。
 とすると、あの薔薇庭園のシーンも。
 真里亞との再会が“現実”だという可能性は、果たしてゼロでしょうか?

 現実って、そもそもなんでしょう。かつて、携帯電話やネットがこんなにも「現実」になるなんて誰が想像できたでしょうか。魔法を否定し、現実の出来事として推理する。では、現実的に考えてみましょう。
 錬金術といえば文字通り黄金を生みだす技術を求めていたと思われがちですが、もうひとつ至上の目的としてものがありました。生命の創造です――って、なんかのマンガで読みましたよ。
 莫大な財産を有していた金蔵が、現代の錬金術、クローン技術を密かに研究していたとしたらどうでしょう。自身や右代宮家の身代わりもまた、クローンという形で作りだしたのかもしれません。
 金蔵が求めていた、天文学的に低い確率の奇跡。それはかつて愛した女性、ベアトリーチェの再生にあったとしたら。楼座によって引き裂かれたさくたろが、たまたまどこかのメーカーにより偶然にもまったく同じ形で製造され、マルフク寝具店に並んだ。金蔵は、ベアトリーチェの身体を何度となく繰り返し製造することで奇跡的にかつて彼が愛した本物のベアトリーチェが再生されると信じたのではないか。
 とすると、繰り返される惨劇はなんなのか――十二年後に縁寿が訪れた六軒島に、九才の外見のままの真里亞が現実にいたとしたら? メタ戦人が戦人のクローンだとしたら?

 「うみねこのなく頃に」とは、すべてが現実の物語ではないのか?
 ……などと妄想してみたりするのでした……。