作成 2004.03.13 一部修正およびHTML化 2004.03.14

 島田荘司『眩暈』と『ネジ式ザゼツキー』は両翼のようだ。互いに似ているがすべてがあべこべである。『眩暈』では幻想が解体され、『ネジ式ザゼツキー』ではフィクションが解体される。江戸川乱歩はかつて「うつしよは夢 夜の夢こそまこと」という言葉を残したが、島田荘司はうつしよと夜の夢が地続きであることを示す。

 と、いきなり結論付けても説得力がないので順番に語ることにしよう。

 酒井邦嘉『言語の脳科学』(中公新書)によると、アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーは生成文法理論を主張している。「人間に特有な言語能力は、脳の生得的な性質に由来する」という仮説である。この仮説は完全には実証されていないが、以下正しいものとして説明を続ける。
 脳にはあらゆる言語をより抽象化した普遍文法を扱う機能が生まれつきある。他の動物にはこのような機能が脳にないため言語を扱えない。ある文章が文法に従っているかどうか、人はそれが全く新しく目に触れた文章でも判定できる。

 ここで次の例文を見てみよう。

(1) Colorless green ideas sleep furiously. (無色の緑の観念が猛烈に眠る)
(2) Furiously sleep green colorless. (眠る猛烈に観念緑の無色の)

 (1)は意味がおかしいが文法的に語順が正しい。(2)は文法までおかしい。
 (2)についてはほとんどイメージを持つことができない。しかし(1)についてはぼんやりとしたイメージが浮かぶと思う。
 例えば「緑色の青虫」のように、「緑」と「青」で矛盾していても一般常識(かつての日本では緑を青に含んでいたため、その表現があちこちに残っている)から意味をつかめる。
 例文(1)についても同じことが言えるだろう。「無色の緑」は存在しない。しかし例えば緑という名前の女性がとても清々しい気分になったことを「無色の緑」と暗喩的表現をしたというのはどうだろう。
 これは四則演算に似ている。あなたが「3765-2831+4296=?」という計算式を、たまたま小学校の宿題やその後の社会生活で一度も機会がなく初めて目にしたとする。しかしあなたはこれを計算できるだろう。しかし「9563+=-4125?」はどうだろうか。演算記号が正しく並んでいなければ、あなたはこれを計算できない。
 同じように、文法的に正しい文章は「意味可能性」を持つと考えることができる。しかし四則演算は計算可能ならば計算結果が存在するが、意味可能性があるということとその文章が正しいことは異なる。私達は文字通りの意味での「無色の緑」を想像することができない。

 例えばいつも嘘しか言わない人と、いつも本当のことだけを言う人だけがいる国を想像してみよう。あなたがその国で会った住人が「私は嘘つきです」ということは有り得るだろうか。
 正直者は当然「私は嘘つきです」とは言わない。嘘つきは嘘をつくのだから「私は嘘つきです」と本当のことを言うはずがない。
 つまり、本当に嘘つきと正直者しかいない国では「私は嘘つきです」という文章は決して話されることがない。もし話されるならば、最初の前提が誤っている。嘘つきと正直者以外の誰かがいるはずだ。
 文法的に正しい文章は意味可能性を持つ。しかし意味可能性は必ず意味が成立するとは限らない。論理によって意味が否定されることが有り得るのだ。そしてそれでもそのような文章が成立することを実際の存在で示されたとき、変わるのは論理のほうである

 ここまでのことをまとめると次のことが言えると思う。

  1. 文法に従っていればその文章は意味可能性を持つ
  2. 意味可能性があっても論理が成立しなければ意味を持たない
  3. 論理が成立しないにも関わらず存在を示されたならば既知の論理が誤っている

 このように考えてみると意味、論理、存在は強い結びつきがあることがわかる。
 しかし、存在とはなんだろう。通常、存在というと物理的存在、五感により認識する存在を思い浮かべる。しかし例えば「テーブルの上に林檎があります」という文章を読んで、私達はたやすくテーブルの上の林檎の存在を思い浮かべることができる。しかし「富士山よりも大きな林檎があります」という文章はどうだろう。これでもぎりぎり巨大化した林檎をイメージできるかもしれない。更に「小指の中に林檎があります」はどうだろう。そんな林檎は実際には存在しない。しかしSF小説ならばありそうだ。
 文法に従ってさえいれば意味可能性を持つ。同じように、私達は論理にさえ従っていれば「論理的存在可能性」を受け容れることができる。

 「幻想」という言葉には様々な意味がある。ここでは「論理が成立しないにも関わらず存在が示されたときの理解不能な感情」としておく。
 「フィクション」という言葉も定義は人それぞれだろう。ここでは「論理的存在可能性が成立するが、実際の存在は成立しないこと」としておく。

 さて、島田荘司『眩暈』と『ネジ式ザゼツキー』は基本的な骨子は同じように思える。どちらも奇妙奇天烈で絵空事としか思えない文章が登場する。しかし御手洗はそれがある現実を反映したものだと指摘する。事実、調査を進めると現実の犯罪事件が明らかになる。
 しかし(作者がどれほど意識的だったのかはわからないが)『眩暈』と『ネジ式ザゼツキー』はことごとく反対である。『眩暈』では三崎陶太の手記が提示され、古井教授が脳障害や精神病を疑うのに対し御手洗は事実そのままだと指摘する。『ネジ式ザゼツキー』ではエゴン・マーカットの童話が提示され、御手洗は脳障害によるフィクションだがそこには真実が隠されていると指摘する。
 他にも細かい対応がある。『眩暈』では石岡や古井教授、記者の藤谷を交えて北海道やインドネシアへ精力的に調査にでかける。そして面白いパズルがあったから解いたまでだとして三崎陶太や野辺兄妹には基本的に興味を持たない。『ネジ式ザゼツキー』で御手洗は終始安楽椅子探偵を決め込みウプサラ大学の研究室をでない。そしてエゴン・マーカットを救おうと尽力する。

 だがもっとも興味深い相違は、『眩暈』では「幻想」とされた手記が解体されるのに対し、『ネジ式ザゼツキー』では「フィクション」が解体されることだろう。
 『眩暈』では次々と常識外れの出来事が起きる。数字の羅列をしゃべる人々が現れ、恐竜が片腕を食いちぎり、太陽が姿を消す。三崎陶太が提示する論理的存在可能性は、私達の日常論理とは矛盾し受け容れることができない。
 しかし御手洗は日食とインドネシアという新たな論理を読者に提示する。日常論理では論理的存在可能性はあっても受け容れることができない。しかし日食とインドネシアという新しい論理のもとでは論理的存在可能性は実際の存在として受け容れられる。
 『ネジ式ザゼツキー』では「タンジール蜜柑共和国への帰還」がエゴン・マーカットの創作として提示される。つまり論理的存在可能性が成立するが、実際の存在は成立しないものとして提示される。
 しかし御手洗はその童話を『Lucy in the Sky with Diamonds』とスペース・コロニー、そしてひとつの犯罪事件という実際の存在が反映されていると指摘する。

 ここまで来ると『眩暈』も『ネジ式ザゼツキー』も御手洗潔シリーズというフィクションであるという事実が奇妙にさえ思えてくる。
 通常、幻想やフィクションとは「存在しないこと」「誤っていること」だというのが一般的解釈だろう。幻想とは「ある論理では否定される存在」であり、フィクションとは「論理的存在可能性があるが、対応する実際の存在がないこと」である。
 しかし『眩暈』は、幻想とは「別の論理ならば解釈可能であること」を示した。そして『ネジ式ザゼツキー』は、フィクションとは「対応する実際の存在をまだ知らないだけで、本当は存在するかもしれない」ことを示した。
 かつて江戸川乱歩は「うつしよは夢 夜の夢こそまこと」という言葉を残したが、島田荘司はうつしよと夜の夢が必ずしも隔たってはいないことを、幻想やフィクションが存在の否定や誤りを必ずしも意味しないことを小説作品によって示したのである。