予め白状しておくと、筆者はライトノベルを読んだことがほとんどない。ブギーポップだの撲殺天使だの、なんだか面白そうなのがあるらしいが積読を片付けるのに一生懸命で手をだせてない。そういうわけで、これから『涼宮ハルヒの憂鬱』について筆者が語ることは見当外れの可能性がある。
 もうひとつ白状しておくと、幻想小説のほうも熟知しているとは言えない。そもそも一口に幻想小説といっても幅が広く、それらと筆者の読書量を比較すれば無知とさえ言える。
 従って以下はあくまで筆者が認識している小説観としての幻想小説となる。

 個人的幻想小説観については後で説明するとして、まずは『涼宮ハルヒの憂鬱』について紹介しよう。
 筆者は谷川流、この作品で第8回スニーカー大賞<大賞>を受賞し、角川スニーカー文庫から平成十五年六月に出版された。現在はシリーズ続編『涼宮ハルヒの溜息』があり、電撃文庫からは『学校を出よう!』シリーズを刊行中とのこと。
 宇宙人、未来人、超能力者といった非日常的な存在を追い求め、周囲から変人扱いされている強気な少女、涼宮ハルヒが、超常的存在を探すためのクラブ「SOS団」を結成、周囲の人間を巻き込んでドタバタを引き起こしていく「ビミョーに非日常系学園ストーリー」だ。

 それでは個人的幻想小説観を説明しよう。いや、正確にはツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(三好郁朗・訳、創元ライブラリ)からの借り物だが、この本で例に挙げられている作品群は読んだことがないものばかりだし、そもそもこの本をちゃんと理解できたか筆者にはあまり自身がない。そんなわけで以下はできるだけ自分の言葉で幻想小説観を説明してみたい。

 幻想小説は、文字通り「幻想」を扱った作品を指す。ただ、幻想というものは定義が難しい。
 例えば、あなたが外出しようとして玄関ドアを開けたら目の前に馬がいました、というのは幻想だろうか?
 幻想かもしれない。しかしそこに作業服を着た男がやってきて「すいません、運送中にトラックから逃げ出しまして」などと説明してくれれば、それは明らかに幻想ではない。
 では作業員も来ず、しかも馬には背中に翼があり、あなたを背に乗せ空を飛んでいくとしたらどうだろう。もちろんあなたの精神は正常で、疲労から生じた幻覚などではないとして。
 この場合は幻想だろう。しかし、馬に乗ったあなたはどこかの研究施設に連れられていく。中から白衣の女が現れて「どうです、遺伝子操作は素晴らしいでしょう。いまなら格安であなたの背中にも翼を生やせますよ」と説明してくれる。これは幻想だろうか? あるいは研究施設ではなく、突如空中に出現した門をくぐり、見知らぬ森に降り立つと魔法使いが「異世界からの勇者よ、お前を招いたのは私だ。妖魔に捕らわれた姫を救ってほしい」と説明してくれる。これは幻想だろうか?
 筆者は、これらは幻想ではないと思う。
 つまり、私達の生きる日常の世界のロジックで説明がつく現象(運搬トラックから逃げ出した馬)は幻想ではない。そして、フィクションの中で提示されるロジックによって説明がつく現象(遺伝操作による身体改造の勧誘、異世界からの召還)もまた幻想ではない。
 幻想とは、玄関ドアを開けたら目の前に馬が立っていた、という瞬間のことである。既知のロジックでは説明のつかない現象に直面したときの理解不能な感覚が幻想であり、それは現実上のロジックであれ物語上のロジックであれ、説明されてしまえば幻想ではなくなる。
 幻想小説とは、幻想を描くことに重点を置いた小説と定義される。例えば読者や小説内登場人物が幻想に直面し、そこに異世界ロジックを見いだすことで新しい現実として受け入れたり、あるいは逃げ出したり、逆に異世界ロジックに慣れていくことで、それまで現実だと思っていた世界を受け入れられなくなっていく過程を描いた物語となる。

 以上が筆者の個人的幻想小説観の基礎となる。しかしこれがすべてではない。もうひとつ説明しなければならないことがある。幻想小説に特有のプロット、ほとんどの幻想小説が踏襲する基本的なプロットのことだ。
 それを説明する前にひとつ考えてほしい。筆者が上記に例示した「玄関ドアを開けたら馬が立っていた」という事象は、そもそもなぜ幻想的なのだろう?
 理由は簡単で、私達が日々を送る当たり前の現実世界では、玄関ドアの前に馬が立っていることなど有り得ないからだ。馬は動物園や牧場、競馬場にいるものであり、昼日中に往来を横切ったりはしない、というロジックを私達は知っている。普段意識しないが、そのような数え切れない程のロジックに支配された世界に私達は住んでいる。
 それら日常のロジックが破壊されたような光景を目撃したとき、私達はそれを幻想と呼ぶ。そしてそのロジックの破壊現象が「運搬中に動物が逃げ出すことがたまにはある」という運送業者のロジックに解体されたとき、幻想は消える。あるいは「遺伝子操作の素晴らしさを広報する」というマッド・サイエンティストのロジックにより解体された場合も同じだ。
 上記した通り、幻想とは未知のロジックに支配された現象との出会いを指す。しかし、そもそもなぜ私達はある現象が未知のロジックに支配されているとわかるのか? 当然、それは私達が無意識に、あるいは意識的に日常という名のロジックを受け入れているからだ。
 このため、ほとんどの幻想小説は同じプロットを踏襲せざるを得なくなる。すなわち幻想との出会いは、日常の崩壊から始めざるを得ない。すべての読者は日常のロジックに支配された世界に生きている。従って幻想は日常が次第に浸食され崩壊してゆき別の世界が現れるという決まった手続きを取ることになる。
 もう少し具体的には、以下のようなプロットになる。
 まず、登場人物達の淡々とした日常世界が描かれる。そして、予兆的ないくつかの事件が起きる。それらは最初、錯覚や偶然で片付けられる程度の軽い出来事に過ぎない。しかし事態はエスカレートしていく。やがて(霊界や未来世界、宇宙人の侵略といった)別世界のロジックが提示され、登場人物は最初それを受け入れられない。しかし遂には日常のロジックではまったく説明不可能な現象が発生し、最初に提示されていた日常世界から逃亡したり、日常世界のほうこそが幻想だと認識したりするようになる。

 以上が筆者の個人的幻想小説観となる。いいかげん『涼宮ハルヒの憂鬱』の解説を始めたいところだが、その前にもうひとつ説明したいことがある。
 既知のロジックに支配された世界から未知のロジックに支配された世界への移行における「幻想」を描いたのが幻想小説であると先程定義した。それでは、そのような移行のない状態とはなにか。
 ここでは、既知ではないロジック、日常ではない異世界ロジックに従っている状態をファンタジーと呼ぶことにしたい。そして、そのようなファンタジーを描くことに重点を置いた物語を、ファンタジー小説と呼ぼう。

 念のため注記しておくと、幻想小説とファンタジー小説とは決して相容れないものではない。
 例えば最初は現実世界の描写から始まったとする。主人公は突然異世界に召還される。そしてその世界で冒険し、なんらかの結末を得て現実世界に戻ってくるとする。この物語は異世界への移行という点は幻想だが、その世界に慣れきって冒険を行う段階ではファンタジーとなる。
 この物語を「幻想小説」と呼ぶべきか「ファンタジー小説」と呼ぶべきかは、けっきょく重点が幻想とファンタジーのどちらに置かれているかによる。

 さて、以上を踏まえた上で『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んでみよう。すると大変興味深い事実が浮かび上がってくる。

 簡単に『涼宮ハルヒの憂鬱』のプロットを説明すると以下のようになる。
 高校に入学した語り手のキョンは、同じクラスで席が後ろになった涼宮ハルヒと知り合う。ハルヒは宇宙人、未来人、超能力者といった非日常の存在を追い求める変人だった。
 ちょっとした会話のやりとりからハルヒは「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」略してSOS団の設立を思いつく。活動内容は、宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶこと。
 キョンを巻き込み、ハルヒは三人の団員を集める。乗っ取った文芸部の部室にいた、無表情に読書ばかりしている長門有希。萌えでロリっぽいキャラも必要という理由だけで連れてこられた朝比奈みくる。さわやかな笑みの転校生、古泉一樹。ハルヒがでたらめに選択したはずの三人だったが、背後関係を予感させる言葉や身振りがいくつか漏れる。
 ある日、長門有希からキョンは告白を受ける。実は長門有希は、異常な「情報フレア」を発している涼宮ハルヒを観察するため地球にやってきた、宇宙人である。
 ある日、朝比奈みくるからキョンは告白を受ける。実は朝比奈みくるは、時間の断層の原因となっている涼宮ハルヒを監視するために送られた、未来人である。
 ある日、古泉一樹からキョンは告白を受ける。実は古泉一樹は、世界を自らの意志だけで改変できる能力を持つと推測される涼宮ハルヒを観測するため、ある『機関』から送られた超能力者である。
 そして三人は同じことをキョンに告げる。ハルヒこそが超常的な潜在能力を秘めた存在である。しかし本人はそれを自覚していない。影響を与えためないにも自分たちのことはハルヒには秘密にしてほしい。
 ごく平凡な高校生であるキョンは当然三人の告白を信じない。そもそも、なぜ三人はキョンに告白したのか。三人は答える。涼宮ハルヒはキョンを選択した。ハルヒ本人は私達の正体に気付いていないにも関わらず、この三人が集められた。キョンもまたハルヒに選択されたことには重大な意味がある。
 そして三人は自分たちの告白が真実であることを次々と示してみせる。実は長門と同じ宇宙人だったクラスメートが、独断専行でキョンを殺そうとしたところを長門有希が助ける。未来からやってきた、現在より身体が成長している朝比奈みくるがキョンの前に姿を現す。現実とそっくりだが誰もいない、巨人によって破壊行為が繰り返される「閉鎖空間」に古泉一樹はキョンを案内する。
 ようやくキョンは三人の言葉を認めざるを得なくなる。一方で、そんな事実にはまったく気付かないハルヒはビラをまき、サイトを立ち上げ、街を歩いて超常現象を探すが徒労に終わり、日を増す毎にイライラをつのらせていく。
 ある晩、家で眠りについたはずのキョンはハルヒに起こされる。いつの間にか制服姿で学校に来ている。しかも外は古泉一樹に以前案内された閉鎖空間になっており、巨人が校舎を破壊し始める。長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹の助けも得られない。超常現象を希求するハルヒの潜在能力により、二人は異世界に迷い込んだのだ。
 長門等から得ていたヒントから、キョンはハルヒにキスをする。次の瞬間、キョンは自分の家で目が覚める。学校でのことはハルヒにとって夢の中の出来事となっていた。しかし例の三人と、キョンはそれが夢ではなかったことを知っていた。

 以上の『涼宮ハルヒの憂鬱』のプロットが幻想小説の基本プロットを大まかに満たしていることはわかると思う。
 語り手であるキョンはごく当たり前の男子高校生であり、隠れた能力や秘密はない。涼宮ハルヒと知り合ったのも、席が後ろになったというささやかな偶然がきっかけとなったに過ぎない。
 しかし三人が漏らす言葉や身振りから、なにかの秘密が暗示される。そして三人の告白により異世界ロジックが提示される。そして遂には日常のロジックでは解決できない超常現象を三人が提示し、キョンは異世界ロジックを受け入れる。最終的にはハルヒもまた異世界へ移行しようとするが、キョンによってそれは阻まれる。
 これは日常が異世界に侵略されてゆく幻想小説の基本プロットを完全に満たしている。

 しかし、注意して読めば『涼宮ハルヒの憂鬱』は幻想小説の基本プロットとは少し異なることがわかるはずだ。
 まず、最初にキョンが当たり前に感じる日常世界が、それほど当たり前の日常ではない。登場する女性はすべて容姿が優れているし、なにより涼宮ハルヒの行動は変人という言葉で片付けるには奇矯過ぎ、ほとんどファンタジーだ。
 だがまあ、これはライトノベルとして標準なのだろう。例えば本格推理小説では議論好きな者、頭脳明晰な人間が不自然に多く登場する。長々しい仮説検討や密室といったコードと同じく、いわゆる萌え要素はライトノベルにとって重要な意匠なのだろう。小説である以上、どうしても日常を描こうとしても本当の日常そのままではなく「日常ファンタジー」となることは否めない。
 このように割り引いて考えれば、やはり最初の箇所はキョンにとっては日常だと言える。従ってこの点は問題ではない。

 幻想小説として『涼宮ハルヒの憂鬱』を読むときの最大の特徴は、宇宙人、未来人、超能力者の三人が平行して描かれる点にある。つまり、異世界がひとつではなく三つ、しかもそれらが平行して訪れる点だ。
 大概の幻想小説では(少なくとも筆者の知る限り)現実と幻想は二項対立的に描かれる。
 日常世界Aと異世界Bの関係は大まかには二つのパターンがある。ひとつは、世界Aと世界Bは異なる場所にあり、なんらかの特殊なインタフェースを通じてのみ行き来できるというパターン。この場合二つの世界は場所が異なるため、重なることはない。もうひとつは、世界Aは見せかけであり真実は世界Bであるというパターン。この場合は登場人物が真実を知ってしまったため世界Aを世界Aとして認識できなくなってしまう。その意味において二つの世界はやはり重ならない。
 日常世界Aと異世界Bはこのように簡単には行き来できないもの、共存できないものとして二項対立的に描かれる。
 それに対し『涼宮ハルヒの憂鬱』では三つの世界が同時並行的に現れる。二項対立な、ある単一異世界への移行(あるいは往還)ではない。ここから、異世界という観念そのものに対して意識的になるという結果を引き起こす。
 通常の幻想小説では「自分の知らない異世界Xがあった」という認識にまでしか至らない。しかし『涼宮ハルヒの憂鬱』の語り手キョンは「自分の知らない異世界X、X、Xがあり、更にはX、X、X……といった異世界があったとしてもおかしくはない」という認識に至る。
 一言で表すと『涼宮ハルヒの憂鬱』は、メタ幻想小説ということになる。

 この特徴は物語の終わりに明確に浮き出てくる。家で眠ったはずのキョンがなぜか学校でハルヒに起こされ、巨人が校舎を破壊しだすシーンだ。
 一見、この世界は古泉一樹に案内された閉鎖空間と同じに見える。しかし巨人を倒す能力があるはずの古泉は、このシーンではなぜか超能力が使えなくなる。つまり、閉鎖空間とは見かけが同じだが別のロジックに支配された異なる世界だ。この世界は、長門有希、朝比奈みくる、古泉一樹がそれぞれ提示した異世界ではない。まったく新しい第四の異世界だ。古泉一樹が作中で説明したように、現実世界に飽き飽きした涼宮ハルヒがキョンだけを道連れに新しく作り上げた異世界、生まれたての異世界と解釈できる。
 そしてその異世界はキョンのキスにより崩壊する。ハルヒは超常的存在に憧れながらも、そして異世界を生み出す潜在能力を持ちながらも、あくまで現実は現実でしかないという強い認識がある。その認識があるがために「キョンにキスをされることなどありえない」というロジックからハルヒは新しい異世界を異世界として認識できなくなる。結果として、日常ロジックで成立可能な異世界、すなわち「夢」に新しい異世界を解体してしまう。
 従来の幻想小説では、登場人物が知る前から既に異世界は存在し、そこへの漸進的移行が描かれる。異世界の存在は登場人物達の思惑や意志とは無関係に存在していた。それに対し『涼宮ハルヒの憂鬱』では大枠としては基本プロットに合致するが、提示される異世界は三つあり、そして第四の異世界は登場人物達によって生み出され、そして解体される。このような異世界観は(少なくとも筆者の乏しい読書経験では)かつてどのような幻想小説にもなかった新しいものと思われる。

 最後にもう一点指摘しておきたい。
 巨人が校舎を破壊するシーンで、キョンはもとの日常世界に帰ろうとハルヒを説得する。しかし待ってほしい、キョンは日常を失ったのではなかったろうか? 一見普通の高校生に過ぎないクラブ仲間達が実は宇宙人、未来人、超能力者であるという非日常に移行したのではなかっただろうか?
 実はそうではない。このシーンの直前、キョンはSOS団に慣れ親しんでいる自分に気付く。宇宙人、未来人、超能力者、そして神かもしれないクラブ仲間を、ひとつの現実として、かけがえのない日常として受け入れている。
 この感覚は興味深い。例えば殺人鬼や天才、武芸の達人が当たり前に存在する世界を描いた西尾維新の戯言使いシリーズを思い出してみよう。登場人物のそれぞれが異なる異世界ロジックに従属していることを受け入れたまま日常を送るという枠組みは、かつての幻想小説にはなかったものではないかと思う。
 言ってみれば、個々の登場人物がそれぞれのファンタジーを生きる世界。主人公もまたひとつのファンタジーに生きているのであり、言い換えれば日常の存在しない世界。日常が存在せず、それぞれの登場人物がそれぞれの異世界を生きながら不意に交わる世界。そこではもはや幻想もファンタジーも日常ロジックの一部に過ぎない。
 かつて幻想小説では異世界に対するオーラがあった。しかし『涼宮ハルヒの憂鬱』では、そして既にあるいくつかの小説では、異世界は個々の登場人物が所属するありふれたものに過ぎない。ありふれた異世界にオーラはなく、それは複製印刷物のようにありふれたもの、日常に組み込まれたものとなる。
 この新しい幻想小説観から、どのような物語が生まれていくのかはまだわからない。一読書人として期して待つとすることにしよう。