終わりを迎えることは許されなかった。家彦も湖に飛びこみ、良子をひっぱりあげた。気を失った良子をボートに乗せて辰木家へ連れ帰った。リビングのソファで意識を取り戻した良子は、家彦の目を盗んで台所に入った。包丁の刃先を自身の喉笛に押しあてたところで家彦に体当たりされた。二人まとめて吹っ飛んだ身体がぶつかって食器棚がこの世の終わりのような音を立て、手から離れた包丁が床の上を回転しながら滑っていった。
 自死を選ばないことの交換条件が失踪だった。三浦家へ帰ることも、横浜のアパートに戻ることも、家族に伝言を残すことすら良子には耐えがたかった。手紙だけでも残していけ。少しの間だけ一人になりたい、必ず帰ってくるからと約束すれば警察沙汰にならずに済む。そう説得する家彦に首を左右にふり続けた。
 丹奈のキャミソールやスラックスに着替え、麦わら帽子を被った。駅や列車内では家彦の視界にずっといるよう命じられた。一緒だったとバレれば警察は必ず追及する。別々に行動すべきだと説いても家彦は納得せず、そんな手段を採るしかなかった。ホームでは素知らぬふりで家彦が隣に並び、列車が迫ってきても飛びこむ機会はなかった。
 良子が自身の変調に気づいたのは、家彦のマンションでの生活が始まった日の夜だった。
(ころそう)
 ボートで耳にしたのと同じ声だった。ようやく聞こえなくなったかと思うと、油断するのを待っていたかのように再び聞こえた。かすかだが自分の声であり、けれどなにか違う。列車でトンネルに入ったときの、気圧の変化によって耳がおかしくなったときに似ていた。
 坂峯家への放火から四日後、良子はすべてを語った。子供の頃に何度もデジャヴュを覚えた。十四歳のとき名前さえ知らない子供を殺しかけた。夕貴にくりかえし殺意を抱いた。富士夫が巫女の生まれ変わりについて否定的な文章を書いていたのを偶然みつけ、天の意志を悟ったように感じた。
 家彦はなにひとつ理解しなかった。しかし良子が心を開いたと感じて安堵したのだろう、火事の日から初めて眠りに落ちた。
 ベッドからサイドテーブルまでが遠かった。失敗をくりかえし、ようやく足指で家彦の財布をつまんだ。玄関の鍵を歯でくわえて何度もこすりつけると、腕を縛っていた梱包用のビニール紐がちぎれた。棚を探してもハサミやカッターはなかった。薄暗いキッチンで包丁を探した。炊飯器があった。持ち手があって扱いやすく、適度に重い。なんて間抜けな凶器なのかとおかしくなった。こんなものを鈍器代わりにするなんてミステリの美学に反するぞと家彦に呆れられそうだ。
 エアコンの排気音がしている。足音を忍ばせ、ゆっくりとベッドに近づく。両手で炊飯器を高々と掲げる。家彦が瞼を開いた。真っ黒な、光のない瞳があった。
「ころせ」
 動いたのは家彦の唇だった。それでも聞き間違いようがなかった。良子にしか聞こえないはずの、あの声だった。
 あらぬ方向へ炊飯器を投げた。机の上の液晶ディスプレイが床に落ちる音と同時に家彦は目を覚ました。天井に向かって夕貴は「うるさい!」と叫び、床へくずおれた。絨毯に向かって頭をぶつけ続けていると家彦に後ろから羽交い絞めにされた。
 家彦から信頼を得るにはさらに二週間が必要だった。幻聴がひどくなっていき、何度か理性を失った。悪魔に憑かれたように暴言を吐き散らしながら身悶えした。縛られた手足に青痣が残った。それが過ぎると酩酊に似た状態に陥り、吐き気を覚え、寒気で震えた。体温が三十九度を越えても、病院へ連れていくわけにはいかないと家彦は理解していた。
 日常生活が回復するまで半年を要した。皮肉なことに、世の中は逃亡者に都合の良いものへ変わった。新型コロナウイルス感染症の世界的な流行が日常の光景を塗り替えた。誰もがマスクで顔を隠し、接触を避けた。屋内に閉じこもることがむしろ推奨された。
 家彦の名義で新しいスマートフォンやマンションを与えられた。週に一度だけ買い出しにでかけた。誰かの目につかないよう、複数のスーパーマーケットやコンビニエンスストアを替わるがわる訪れるようにした。在宅で可能なアルバイトに応募した。家彦の助けを借りてプログラミングの技術を身に着けた。マンションの家賃がいくらなのか訊いても、家彦は決して答えなかった。
 家彦の生活も変化を迎えていた。ゲーム制作が莫大な富をもたらした。車を購入し、駐車場付きの新しいマンションへ移った。些細なことは匿名メッセージアプリでやりとりしていたが、ゲーム制作に没頭する家彦から連絡が長く途絶えることもあった。
 隔週で会うことを良子は義務づけられた。ドライブしながら、あるいはレストランで食事をしながら近況を語った。物理的な接触について家彦は慎重だった。待ち合わせ場所や時間帯をいつも変え、誰かの印象に残らないようにした。三年目が過ぎると気が緩んできたのか、良子のマンションを家彦が前触れもなく訪れることもあった。
 生活が落ち着いてくると、報告すべきことを良子は思いつかなくなってきた。夜の高速道路をおたがい無言のまま走り続けたこともあった。スーパーで買った冷凍のクアトロフォルマッジが思ったより美味しかった。そんな話をしかけて馬鹿ばかしくなり口を閉ざした。家彦は自作ゲームへのネットでの酷評に愚痴をこぼした。三浦家に連絡するよう促されることはあの日から一度も無かった。
 安定した、あまりにも不安定な、先の知れない日々。世界中の人々から日常が奪われたとき、二人は在るはずのない日々を過ごしていた。姉と弟がたまに顔を合わせて食事し、言葉少なに近況を語り合う、ただそれだけのありふれた日々を。人を傷つけ、家族を裏切り、世間の目から逃れ、故郷を遠く離れて。罪深い日々をいつ終わらせるべきか良子には答えがみつからなかった。

 素尚から電話がかかってきたとき、家彦と良子は地下鉄に乗っていた。音が聞こえづらく、たまたま停車した駅で二人とも降りた。盗み聞きをするつもりはなかったが、夕貴の名前が耳をかすめると家彦の背中に忍び寄った。
 通話が終わった。良子の詰問を家彦ははぐらかそうとしたが、うまくいかなかった。夕貴が死んだことこそ認めたものの、それが素尚の犯行だとは頑なに認めなかった。
 店の予約はキャンセルしておく、おまえは帰れ。家彦の命令に良子は頷き、折良くホームの向かいに来た列車に一人で乗った。スマートフォンで路線案内のアプリを起動し、紫ヶ森湖への移動について調べた。
 列車を乗り継ぎ、暮れてゆく光景を車窓から眺めた。あの大人しそうな素尚に夕貴とどんないざこざが起きたのか。不思議に感じたが、家彦から弟について話がでたことは少なく、理由を想像できなかった。
 少し眠った。間もなく紫ヶ森湖と告げる車内アナウンスに目が覚めた。駅舎をでると夜の帳が下りていた。良子は歩いた。駅まではしかたなかったが、ここからは人の眼や防犯カメラを避けるに越したことはない。
 湖を半周し、辰木家の裏庭に忍びこんだ。庭木の奥にスチール製の物置があった。床面積は三畳ほどだろうか、家彦なら屈まないと中に入れないだろう。どうやって鍵を壊そうか。試しに手をかけると、するりと開いた。
 奇妙な光景があった。金属棚の中段に並ぶ、逆さに伏せた園芸用の鉢の上に女が横たわっている。ソフトジーンズにTシャツ姿で、胎児のように横向きに膝を抱えている。しばらく眺めるうちに理解した。雑多な品々で溢れ、人を横たえられる隙間はそこしかない。
 夕貴はうっすら瞼を開いていた。首に絞められた痕があり、身を捩じらせたまま硬直している。良子はようやく妹の死を実感した。
 懐中電灯の光を死者の顔に向けている少年がいた。棚で囲まれたわずか半畳ほどの隙間に立ち尽くしている。少年の横顔を、記憶と照らし合わせるには時間を要した。最後に坂峯家で会ったとき素尚はまだ小学生だった。眼鏡をかけた顔が、家彦に見せてもらった高校の入学式の写真と重なった。
 おずおずと少年はふりむき、顔を強張らせた。良子は素尚の肩をつかみ、家に戻るよう促した。素尚は涙を流しながら抗った。「妹と二人にさせて」小声で頼むと、素尚はようやく懺悔室じみた場所から歩みでた。庭木の向こうへ弟の姿が消えると良子は「ごめんなさい」とつぶやいた。
 夕貴はウエストバッグを身に着けていた。中を探ると手帳とスマートフォンがあった。手帳を改めると宿泊先らしきメモが記されていた。
 スマートフォンの電源を入れ、死体の指をあてるとロックを解除できた。メッセージアプリの履歴から、大学の友人たちと旅行中だとわかった。友人たちは食事にでかけているらしい。恐らく素尚が偽装のため送ったのだろう、体調悪化を理由に夕貴は一人だけ宿へ戻ったことになっていた。宿泊先の雲外荘についてネットで調べ、しばらく考えた。
 服を脱がせた。死後硬直はまだ始まっていなかったが、狭く薄暗い空間で物音を立てないよう気をつけながらの作業は神経を遣った。ジーンズに足を通すと失禁の匂いがした。
 三十分ほど歩いて雲外荘に到着した。ウエストバッグにあった鍵で部屋に入った。歩き詰めで疲れていたが、ベッドに腰かけるだけにした。玄関には防犯カメラがあった。これで表面上、夕貴はこの時間まで生きていたことになる。素尚は自宅で丹奈と一緒のはずだ。やがて家彦も来るだろう。家族の証言は信頼に欠けるにせよ、無いよりはましだ。
 雲外荘をでた。唐馬山の登山口にあるトイレで服を着替えた。数年前からコンビニエンスストアなどでビニール袋の有料化が義務づけられ、良子はマイバッグを携帯するようになった。マイバッグに夕貴の衣服やシューズを詰め、登山コースの案内板の後ろに隠した。
 清馬滝まで歩いた。アスファルトが途切れて砂利道に代わった。外灯の数が少なく、照明カバーが黄色っぽく変色している。疲労で足取りは重かった。木々の奥から水音が響いてくる。視界が開くと、半月に照らされる滝があった。猛暑のせいか水量が少ない。岩肌を水の膜が包んでいるだけという印象だ。
 半円形に並ぶ木製の簡素な柵に歩み寄る。踵を浮かせて柵越しに覗きこむ。滝壺は闇に溶け、なにも見えない。ただ水音だけが響いてくる。手すりから離れ、良子は近くにあったビーチパラソルまで歩いた。家族連れがここで食事でもとれるようにという配慮なのだろう、折り畳み椅子やアルミ製の小さなテーブルがあった。
 椅子に腰を下ろす。テーブルにウエストバッグを放り投げるようにして置く。スマートフォンを手にとり、良子は文章を打った。清馬滝で何者かに襲われ、滝壺へ落とされたことにしよう。滝に身投げした者が地下水脈によって湖の西岸まで流されたことが昔あった。夕貴の死体を湖岸に遺棄すれば、同じことが起きたと解釈されるはず。夕貴の衣服やシューズの隠し場所を最後に記した。
 メッセージを送信しても、良子は椅子から立つことができなかった。本当にこれで良いのか。なにかやりのこしたことはないか。死亡推定時刻が曖昧になるよう遺体の発見をもっと遅らせるべきではないか。大学生が書き置きひとつ残さず行方不明となれば、明日には大掛かりな捜索がされるだろう。人の眼が増えれば死体を遺棄する機会がなくなる。
 握ったままだったスマートフォンが震えた。メッセージを送ってから一分も過ぎていない。迷ったが、良子は通話ボタンをタップした。こんな時間にこんなところへ来る変わり者はいないだろう。
 聞こえてきたのは「なにをしているんだ」という怒声でも「モトのためにすまない」という涙声でもなかった。「これからどうするんだ」虚ろな、力の抜けた声だった。
 初めのうち良子は問いの意味を理解できなかった。これからどうすべきか、さっきメッセージで送ったのに。ようやく悟った。訊かれているのは、良子はこれからどうするかだ。「まだ終電あるよね」できるだけ気楽な調子に聞こえるように言った。
「なぜモトが夕貴を殺したのか、話してやろう」
 それは家彦の声ではなかった。
「俺が殺させたんだ」
 三浦夕貴は生まれ変わりの巫女だった、と声は続いた。やがてこの土地に大きな災いをもたらすことになる。どうしてもそれを防がなければならなかった。この男の身に潜み、機会を伺い続けてきた。ようやく望みを遂げることができて安堵しているよ。
 良子は通話を切ろうとした。だが、巨大な手の平に包まれたかのように身動きできなかった。「あなたは」喉の奥から声を絞りだす。
「私にも夕貴を殺させようとしたの?」
 どうだろうな。いずれにせよ俺の務めは終わった。やがて消えるだろう。あの娘が別の誰かとして、この地に再び生まれてくる日まではな。だから、おまえがどうなろうと知ったことではない。身を借りたこの男が哀れで、要らぬ節介を焼いたまでだ。
 前触れなく通話が切れた。良子は椅子から立ちあがると全力で走った。柵を乗り越え、宙へ身を躍らせる。ふわりと無重力感に包まれたのは一瞬だった。右肩が岩肌にぶつかり、痛みでスマートフォンが手から離れた。暗闇の底で全身が水面に叩きつけられた。
 水に包まれた。上も下もわからない闇の中で息苦しさが地獄の責め苦のように長く続いた。ただひとつ助かったのは、水流が底へ底へとひきずりこんでくれることだった。身体のいたるところを岩に叩きつけられた。本能的に生きようともがき、手足があがき続けたがなにもつかめなかった。後頭部を激痛が走り、ようやく意識を失うことを許された。