水音に目が覚めた。良子が瞼を開くと、星ひとつ無い漆黒の夜空があった。身を起こそうとし、肩に痛みが走った。
頭だけを起こし、周囲を見渡す。黒い水面に囲まれている。ここはボートの上らしい。夜明け間近なのか東の空の底、山の端だけがわずかに白んでいる。
オールを手にした者が舳先に座っていた。光が乏しく、ほとんど影絵のようだ。フードを被っており、せいぜい男だろうということしかわからない。
男は足元にスマートフォンを置いている。ライトを点けており、小さな光のまわりを霧が漂っている。水面が窺えるのはほんの数メートル先まで、そこから向こうは闇に溶けている。霧に視界が閉ざされているのだろう。
男がオールから手を離した。身をのりだし、良子のほうへ迫ってくる。片手でフードを後ろへめくった。現れたのは家彦の顔だった。
声をあげようとした。だが良子は呻き声をあげるのが精一杯だった。肩に強い痛みがあり、息を吸うだけでうずく。家彦は間近に顔を寄せ、しばらく良子をみつめていた。
「よかった」
声が震えていた。暗くて表情を判別できない。やがて家彦はフードを被りなおし、初めに座っていた場所に戻った。オールを手にせず、ただ無言で良子をみつめている。
(私、どうして)
息を整える。手足をわずかに動かそうとするだけで痛みが走った。じんじんと肩が熱い。目眩を覚え、強く瞼を閉じる。
(しんだのに)
闇の底へ飛びおりたときの光景が瞼の裏に浮かんだ。そう、自分は死を選んだ。無重力感が全身に蘇り、肌寒さを覚えた。記憶が蘇ってくる。すべての工作を終え、メッセージを送った。家彦から通話があり、聞こえてきたのは人ならざる者の声だった。
そして自分は走りだした。柵を越え、死に向かって身を躍らせた。どうしてあんなことをしたのだろう。あのときは、こうするしかないと思った。ためらいが生じるより先に行動しなければならなかった。混乱していた。足元に火がついたように無我夢中だった。
こんな自分でも夕貴への愛情があったのか。妹を追って自分も死のうとした。ちがう。そんなことはない。あのわけのわからない者と会話するまで、自死を選ぶつもりなど無かった。自分は生まれ変わりの巫女ではないと思い知らされたからか。それとも人ならざる声をありありと耳にして、遂に自分は狂気に陥ったと確信したからか。
(ううん、ちがう)
やりなおしたかった。
そんなことは許されないとわかっていたのに。なにもかも遅すぎると知っていたのに。
完璧に思えた十四歳の夏は破滅の始まりだった。あの瞬間から終わりに向かって、長い黄昏のときを過ごしてきた。
頬に違和感があった。一筋の涙が頬を滑っていく。笑いたくなった。おまえは生まれ変わりの巫女ではない。死を迎えても二度とこの世に生を受けることはない。ただ塵に還るだけだ。身の程を知れ。
(うるさい)
たとえ虚無に落ちようとも、きっと私はそこから這いあがってみせる。
この地に再び災いをもたらすことになろうとも、構うものか。
(きっと……)
意識が揺らぐのを感じた。眠りに落ちかけた瞬間、不安が芽生えた。疑問が積乱雲のように膨らんでいく。
(どうして)
山の形だけでわかる。ここは紫ヶ森湖の西岸だろう。だとすれば、自分は清馬滝から地下水脈を流されてきたことになる。どうして未だに生きているのか。
そんなことがありえるのか。息ができないのに。意識を失い、抵抗することもできないまま岩に何度も強打されただろうに。おかしい、こんなこと現実には起こりえない。
「これから、どうなるのかな」
痛みをこらえ、不安を押し殺し、ようやく良子が口にできたのはそんな言葉だった。
「なにもないさ」
家彦は動かない。影絵のような男は良子から顔を逸らし、遠くをみつめていた。
「この先にはなにも無い。俺たちはいなくなって、ただそれだけだ」
翳りを帯びた声だった。良子は身構えた。痛みで聴覚がおかしくなっているのか、それともあの声なのか。どちらとも判別できない。
不安と焦りは徐々に和らいでいった。この先にはなにも無い。心の中で家彦の言葉をくりかえす。そうだ、きっとそうだ。
見渡す限りの黒い水面、満々と湛えられた水。霧に閉ざされた暗い空、その向こうに広がる宇宙。ぬばたまの闇の底に私たちは消えていく。きっとこの先には虚無しかない。
「それなら良かった」良子のつぶやきが耳に入ったのか、家彦がふりむいた。
空を仰いで良子は言葉を続けた。だって、すべてはそこから生まれてくるの。