大学への進学にともない良子は一人暮らしを始めた。新しい生活が始まっても友人を作らなかった。教養課程のクラスメイトたちと雑談くらいは交わしても、誘いの手は適当な言い訳で遠ざけた。サークルに入らず、アルバイトもしなかった。休日は一人で散歩し、横浜の名所を巡り、公園で読書にふけるなどして過ごした。
 孤独な生活は良子に充足感をもたらした。人と距離を措くことがこれほど楽だとは知らなかった。ゴールデンウィークの終わりが近づく頃には漠然とした焦燥感が湧いてきた。なにかを為すべきだが、なにをすべきかわからない。
 辰木家の悲劇を知ったのは大学が間もなく夏季休暇を迎えようとする頃だった。家彦から父、辰木瑞生の交通事故死を電話で伝えられた。
 都内にある専門学校に家彦は進学していた。事故の過失に対し高額の賠償金を求められている、坂峯富士夫が経済的援助を申し出てくれたもののゲームクリエイターを目指すことには反対されている。電話越しに愚痴めいた口調で家彦は語り続けた。
 梅雨らしい長雨の日、六畳間のアパートに横たわった良子は高校時代を思い返していた。文化祭に向けて郷土史クラブの研究発表をすべく準備を進めていた。必要な文献を借りるため坂峯家を訪れた。書斎の片隅に何冊もの文集が畳の上に積まれていた。
 富士夫は郷土史の愛好会に所属していた。歴史ファンから大学教授まで種々雑多な顔ぶれがそろい、定期的に文集を発行していた。学術誌なんてたいそうなものじゃない、同人誌だよと富士夫は笑ったものだった。
 物珍しさから適当に一冊を手にとった。目次を開くや否や「秩山神社」の文字に目が吸いこまれた。他ならぬ三浦家が神主として祀る神社だ。寄稿者は富士夫で、龍神と巫女にまつわる伝承について綴られていた。
 江戸時代初期に秩山神社の神主が綴った文章が発見された。湖の氾濫を鎮めるべく巫女が龍神に身を捧げたことは記述されていたが、生まれ変わりについての記述はなかった。
 省略されただけかもしれないと断りつつ、昔話や童話の内容が改変された事例を富士夫は紹介する。世俗の移ろいに寄り添いながら大衆の倫理観は緩やかに変容していく。巫女が生け贄にされて終わりという救いのなさは受け容れられなくなったのではないか。生まれ変わることで幸せな人生を送ったという後日談が付け足されたのだろうと結論していた。
 小口に染みの浮かんだページから顔を上げる。埃で汚れた窓ガラスからの陽射しがまばゆい。時間を無駄にした、早く目的のものを探さないと。そう思いながらも手の上にある本を閉じることができなかった。
 何冊もある文集から気まぐれに手にした一冊にあの文章があった。天井を睨み、エアコンの排気音に耳を傾けながら、良子は自分が為すべきことに想いを巡らせた。

 辰木瑞夫の葬儀に参列した。こんなときでも親たちにはためらいがあったのか、素尚や夕貴に事情を明かすことはなかった。丹奈の焦燥ぶりはひどく、若い家彦のため三浦夫妻が助力するさまを誰も不審には思わなかった。
 八月、良子は再び帰省した。実家へ向かう前に三羅寺を参拝した。富士夫と顔を合わせることは決意していたが、いざ会ってなにを口にすべきか心は固まっていなかった。
 参拝を終え、石段を下りようとした。急勾配の遥か下に男の姿があった。足元を確かめながら慎重に一段ずつ上がってくる。つばの広いサファリ帽で顔が隠れており、気づくのが遅れた。坂峯富士夫だった。
 挨拶をしようと思いながら良子は石段を下りた。富士夫は足元ばかりみつめ、なかなか顔を上げようとしない。石段の先、集落へ続く坂道に人の姿は無い。強い陽射しに炙られながら緩慢な動作で足を進める老いた男の姿は、乾いた土の上を這う蟻のようだった。
 石段を下りるリズムを良子は徐々に速めていった。富士夫に肩をぶつけたときも、それほど強く押したつもりはなかった。「あっ」と一声あげると老人はバランスを崩し、石段を転げ落ちていった。立ち止まることなく良子はその横を通り過ぎた。
 坂峯家に足を運んだ。富士夫の息子夫婦に出迎えられると思っていたら、玄関に姿を見せたのは素尚だった。夫の死に精神的なショックを受けた丹奈が入院し、富士夫のもとへ一時的に預けられているという。
 おじいちゃんは近所を散歩している、探してこようか。素尚に提案されると良子はとっさに「本を借りたかっただけだから」と答えた。二人で書斎に入り、本棚に目を走らせ『紫ヶ森むかしばなし』を手にとった。郷土史クラブの活動のため図書室で借りて読んだ覚えがあった。
 帰ろうとした良子が玄関の引き戸に手をのばすと、戸は勝手に開いた。見知らぬ中年男性が立っていた。後になって近所に住む者だとわかった。男性の肩にすがりつき、富士夫がぜいぜいと息を荒げていた。
 医者嫌いの富士夫は救急車を呼ぶことを拒んだ。多少の擦り傷はあるものの大きな怪我はないようだった。ときおり腰の痛みに悲鳴をあげたが、なんとか二階へ運んだ。ドサクサに紛れて、物置代わりにしていると思しき部屋に入り、窓のクレセント錠を開けた。
 ようやく良子は三浦家へ帰った。夕貴は友達の家に泊まっていて姿がなかった。母が腕によりをかけた料理をふるまい、父に大学生活のことを根掘り葉掘り訊かれた。愛想よく応じながら、心の半分はずっと別のことに囚われていた。恐らく富士夫は数日間ほど静養することになるだろう。運が良ければ物置の窓が解錠されていることに誰も気づかない。こっそり忍びこむことができる。
 自分はなにを為すべきか。良子の顔を目にしても、肩をぶつけられたことすら富士夫は口にせず、ただ痛みに呻くばかりだった。自分は間違ったことをしていない。すべてに意味があるはず。富士夫の書斎から借りた本にさえも。
 翌日、昼前に良子は家をでた。遊覧船から眺める湖面はまばゆく陽光を照り返している。今日も暑くなりそうだ。ふと小柄地蔵の祠が思い浮かんだ。昨夜は遅くまで『紫ヶ森むかしばなし』を読み返していた。小柄に呪われた庄屋は死の間際、家に火を放った。
 愛岐山への登山口にあるトイレで野球帽を被り、ジャージとTシャツに着替えた。印象さえごまかせれば良い。万一誰かに目撃されたときの保険だ。坂峯家の庭に入り、物置の窓を乗り越えて侵入した。靴跡を残せば証拠になる。脱いでビニール袋に入れた。
 古い木造の階段はよくきしんだ。四つん這いになり、手足をゆっくり動かして音が鳴らなそうなところを探った。二階の床へ顔だけ覗かせると、書斎の襖が指の隙間ほど細く開いていた。枕の上の後頭部を目にすると、四つん這いのまま後ろずさりで一階へ戻った。
 テレビドラマや映画で放火犯がなぜ灯油やガソリンを使うのかわかった。仏壇で着火ライターをみつけたまでは良かったが、思ったより火が燃え広がるのが遅い。煙できな臭くなり、炎が天井へ達した。これなら良いだろうと部屋をでた。
 スマートフォンで時刻を確認し、良子は眉をひそめた。遊覧船の時刻が迫っている。今日は夕貴と一緒に唐馬美術館のガラス工芸展を鑑賞する約束をしていた。遊覧船に遅れると火災のあった時間帯に自分はこの付近にとどまることになる。なぜ恩師の家に様子を確かめに行かなかったのかと問われかねない。
 物置には戻らず、玄関を選んだ。慎重に様子を伺ったが、奥まったところにある坂峯家を注視する眼は無い。登山口のトイレに戻り、ワンピースに着替えた。スポーツバッグを提げて祠の前を通り過ぎたところで、坂道を駆けあがってくる若い男に気づいた。
 アロハシャツをボタン全開で羽織っている。胸ポケットからぶらさがるサングラスが今にも落ちそうだ。伸ばし始めたばかりの髪はおかっぱ頭の女の子のようで、瞼の下に隈を浮かべて今にも飢えか疲労で倒れそうに感じる。
 腕を伸ばせば届きそうな距離まで近づくと、おたがい足をとめた。額は汗でびっしょりなのに、家彦は冷水を浴びたように顔を強張らせている。
 良子にはわからなかった。どうして自分はなにも言えないのか。帰省のついでに旧跡を巡っているところなの。用意していた言い訳を笑顔で披露するだけだ。「なにか起きたの?」と首を傾げるだけでも構わない。黙り続けていればいるほど不自然になる。
 わかっていた。三浦良子という存在は、辰木家彦の前ではただの人間だった。
「待ってくれ!」
 声をかけられたのが駆けだす直前だったのか直後だったのかわからない。ひたすら良子は走った。女の足ではすぐに追いつかれる。背後からの脅威に全身の感覚を研ぎ澄ませたが、足音が迫ってくることも肩をつかまれることもなかった。
 遊覧船で湖を渡った。乗り場ですれ違った顔に見覚えがあった。高校時代にクラスメイトだった日庭千笑美だ。衝動的にスマートフォンを手にとった。
 ちょうどこの時間、夕貴が友人の家をでて湖に沿って歩いているはずだ。昨夕、メッセージアプリでやりとりをした。良子があげたお古のワンピースを夕貴は着ているという。千笑美が見間違えてくれればアリバイになるかもしれない。
 馬鹿ばかしい考えだと気づいたのはメッセージを送った後だった。警察が捜査すれば人違いだと明らかになるだろう。こんなことに頭がまわらないほど自分は動揺しているのか。
 いったん家に帰り、自転車に乗って唐馬美術館へ向かった。アールヌーヴォーからアールデコへの変遷をたどる美しい品々を妹と眺めた。頭の中では自分の為すべきことを目まぐるしく組み立てては壊していた。
 時は確実に刻まれていく。自転車を押しながら良子は夕貴と肩を並べて家路を歩いていた。体調が悪いのかと夕貴に訊かれるたび良子は首を左右にふった。会話の切れ間、何気なくスマートフォンを手にとった。坂峯家に侵入する前、音で気づかれないようサイレントモードにした。思わず息を呑んだ。大量の通知はすべて家彦からだった。
 辰木さんのところに寄ってくる。そう告げると夕貴は「家彦さんと喧嘩でもしたの」と顔を曇らせた。そんなことならどんなに良かっただろう。気力をふりしぼって「なんでもないから」と返し、夕貴と別れた。
 辰木家のリビングに通された。ソファに座ると、家彦は事情を語った。父の交通事故について目撃者が名乗りでた。ドライブレコーダーの映像から相手側の過失が確認され、もはや富士夫に進路をとやかく言われる筋合いはなくなった。直接顔を合わせて報告してやろうと坂峯家を訪れた。富士夫が火傷を負い、意識を失って救急車で病院に運ばれた。
 天井を見上げる家彦に「素尚くん、上?」と良子は訊いた。家彦が頷き、そして沈黙が下りた。掃き出し窓へ目を向けた家彦が「ボートに乗らないか」と誘った。
 陽が傾きつつあった。防水シートを取り去ると、プラスチック樹脂製の古びた手漕ぎボートが浮かんでいた。おっかなびっくり舟底へ足を下ろすさまに大丈夫かと訊くと「バカにするな」と家彦は声を荒げた。
 ゆっくりとオールを前後させながら、家彦は父に釣りを教わった幼い頃の思い出を語った。雲のない空から色が抜け落ち、湖面は雪原のように輝いていた。オールの手をとめ、家彦は水面をみつめながら話し続けた。富士夫さんを救出しようとした。書斎の窓からジャージにTシャツ姿の若い女を見かけた。こんなところにいるはずがないと首をひねりながら小柄地蔵へ駆けつけると、さっきと別人のように服装が替わった良子がいた。
(ころそう)
 暗い声が響いた。頭の中のつぶやきのはずなのに、自分の声とは思えなかった。寝入りばなに死神から耳元で死を宣告されたかのように胸を締めつけられた。
「俺のためなのか」
 もはや家彦は湖面を向いていなかった。怯えの欠片もなく、狼のような目を良子に向けていた。おまえのやったことは間違っている。さっきは言わなかったが、腰の具合が回復して富士夫さんは外にでていた。二階で寝ていたのはモトだった。おまえは富士夫さんではなく、モトを殺しかけたんだよ。
 良子は知っていた。階段から書斎まで若干の距離があろうと、襖の細い隙間から覗いただけだろうと、枕の上にあるのが子供の頭だということくらい理解していた。孫を喪って悲嘆に暮れる富士夫の姿が思い浮かび、自分はなにも間違っていないと確信した。
 気づいたときには飛びこんでいた。水音がしたこと、ボートの底を見上げたことを覚えている。間違ってなどいるものか。私が間違ったことなどするものか。私が間違っているなら、きっとなにもかもみんな初めから間違っていたんだ。叫びはすべてあぶくとなって、金色の水面へ駆けあがっていく。そしてなにひとつ声にはならない。