高校入学を間近に控えた三月下旬、良子は両親に誘われ辰木家を訪れた。新しく町に越してきた一家に挨拶するのだろう。その思い込みが砕かれたのは、応接室で両家の親たちが固い顔つきで向かいあってから間もなくのことだった。
 良子は実の娘ではないこと、辰木夫妻が双子の片割れを預けるに至った事情。目の前の椅子に座る男子が血のつながった弟だと紹介されても、良子にはなんの実感もなかった。
 家彦とは高校で同じクラスになった。良子は家彦を無視し、家彦も同じようにふるまった。ガタイが良く不機嫌そうな表情ばかりの家彦に誰もが距離を措いた。休み時間には本を読むか居眠りをし、昼休みには教室から姿を消した。
 両家の母親は理由をつけてはおたがいの家を訪れた。たびたび良子はお裾分けを届けに行かされるなどした。もう一人の弟、素尚と頭を下げあうくらいにはなった。夕貴と同じく小学生の素尚は事情を知らされておらず、騙すようで会話を交わすことはためらった。
 同じ中学出身の女子たちはやがて良子の変化に気づいた。クラスのお目付け役と揶揄された言動は消え、控えめになった。大人になったねとからかわれると良子は「みんなのほうが大人になって、手間がかからなくなったから」と冗談めかして言った。
 良子は部活に郷土史クラブを選んだ。実父の父である坂峯富士夫が顧問だと母に教えられていた。教頭を務める富士夫が部室へ顔を見せることは月に数回ほどしかなく、他の生徒たちの前で祖父と孫としての会話を交わすことはなかった。
 郷土史に関心があったのも事実だった。学識に裏打ちされた富士夫の話は興味深く、史跡や寺社を巡ることも愉しかった。部員は各学年で多くとも三人しかおらず、幽霊部員もいた。顔馴染みばかりの打ち解けた雰囲気は心地良いものだった。

 高校二年生のときだった。夏休み明けから一週間が過ぎても家彦はクラスに姿を見せなかった。部屋にひきこもっているらしいの、ちょっと話をしてきて。そう母に頼まれた。
 制服姿のまま良子は辰木家を訪れた。神妙そうに頭を下げる実母の丹奈に「なにもできないかもしれないですけど」と笑顔で良子は告げた。ノックをすると、指先ほど開けた扉の隙間から目が覗いた。無精髭を生やし、髪には寝癖がついたままだ。追い返してくれと願ったが、あっさり家彦は良子だけを部屋に招き入れた。
 迷惑かけて悪いな。丹奈の足音が階下へ遠のくと、そう言って家彦は溜め息をこぼした。「おまえの体裁もあるだろう、適当に暇つぶししたら帰ってくれ」室内は物が多いものの整頓されており、トレーナー姿とはいえ明るい部屋の中では常識人に見えた。
 良子が水を向けると、家彦は易々と事情を語った。ゲーム制作に没頭するあまり母親から心配された。単身赴任先から帰ってきた父と膝詰めで進路について話しあい、猛反対された。「親父は、俺がゲーム動画の配信者かプロゲーマーになりたいものだと勘違いしているらしい」双子の弟のうんざりした顔に良子は馬鹿らしさを覚え、話を切りあげた。
 さまざまなメーカーのゲーム筐体にゲームソフト、デスクトップパソコン、プログラミングのための技術書やボードゲームが並んでいた。推理小説の背を眺めていると「貸すぞ」と声をかけられた。お勧めを訊くと「おまえはどういうのが好きなんだ」と問われ、しばらくおたがいの好きな作家や作品を語りあった。
 それから二日後、家彦は登校した。いつものように二人は教室で挨拶ひとつしなかった。家彦が話しかけてきたのは放課後、部室へ向かうべく廊下を歩いていたときだった。「どうやったんだ」生まれて初めてマジックショーを鑑賞した子供のような顔をしている。
 ありのままを良子は話した。一昨日、帰りがけに丹奈から様子を訊かれた。「ゲームクリエイターになるため、がんばってるんですね」技術書に付箋がたくさん貼られていた、情報処理技術者の資格をとるつもりらしい、制作中のゲームを試させてもらって愉しかった、学校の勉強も自学自習で進めているらしいと伝えた。
 技術書の付箋を除けば口からでまかせばかりだった。だが、丹奈は信じたのだろう。夫に伝え、父は息子を見直したらしい。「おまえ、猫を被ってるんだな」得意げな顔の家彦に思わずムッとした。
「人間関係なんてゲームみたいなものじゃない」
 そうだな、と家彦は笑った。それからも少なくとも学校では良子と家彦の関係は変わらなかった。ときおり本やゲームなどの貸し借りにおたがいの家を訪れるようになった。

 高校三年生になった年の暮れのことだった。昼下がり、受験勉強の手を休めて良子は、空っぽになったマグカップを手に一階へ下りた。台所でケトルを火にかけ、でがらしのお茶を温める時間つぶしに隣の居間を覗いた。
 仕事納めした父がコタツに埋もれ、かすかにいびきを立てている。夕貴がテレビを眺めていた。漫才をしているらしいが、良子には覚えのないコンビだ。ときどき吹きだしているので夕貴には面白いのだろう。五歳年下の妹は中学にあがったばかりだった。
「お姉ちゃんてさ、家彦さんとつきあってるの?」
 コマーシャルに切り替わったとたん、夕貴が言った。良子は吹きだした。おたがいの苦手科目を克服すべく、ときおり家彦と勉強会をしている。勘違いするのも無理はない。
 ないない、と手をふって否定すると夕貴は残念そうな顔をした。「家彦さんがうちを継いでくれるのかと思ったのに」ケトルがピーッと鳴るのが聞こえた。
「夕貴が素尚くんをお婿さんにして、継いでもらえばいいじゃない」
 台所に戻ってコンロの火をとめた。背後に気配を覚えた。ふりかえると、湯呑みを手にした父がいた。ケトルを傾けると驚くほどの湯気が立った。
 気にしなくていいんだぞ、と父が言った。「なにが」と問い返そうとして、不穏さに喉が詰まった。なみなみとお茶で満たし、ケトルの傾きを戻しても、湯呑みから顔を上げることができない。父の言葉は一方的に続いた。この家に残るか、よその土地で暮らすか、好きなように選べばいい。母さんともこのことは何度も話した。おまえの意思がいちばん大事だ。行きたい大学を目指し、やりたい仕事に就けばいい。
「いまどき神社なんてな」
 良子は曖昧に頷き、自室へ戻った。手には空っぽのマグカップがあった。反射的にそれを床へ叩きつけようとし、そして机の上へ静かに置いた。
 コートを着た。辰木家を訪れた。玄関ブザーを鳴らし、家彦の部屋に押しかけた。陽が暮れ、来訪から四時間以上が過ぎる頃にはようやく家彦も異常事態を察した。
「夕貴ちゃんと喧嘩でもしたのか」
 ベッドであおむけになって文庫本を読んでいた良子は「まあ、だいたいそうね」と返事をした。口にしてみると、不思議とそんなふうに思えてきた。
 家彦は熱心に言葉を並べた。妹とか弟とか、雑でいいんだよ。一緒にはいてやるが、自分のことは自分でしろ。それくらいの距離感で良いんだ。深刻に考えすぎるな。
「じゃあ、あんたも雑に扱って良いってことね」
「おまえはいつも俺には雑だろ」
 文章から目を逸らす。机の前で椅子に座る家彦は、ふてくされた顔をしていた。
 良子は悟った。ここでなら自分は挟まらなくて良い。人と人との間に挟まって物事が円滑に進むよう気を遣わなくても構わない。なぜなら、こいつはどうでもいい奴だから。血のつながったこの弟と一緒にいる間だけはゲームの勝ち負けを忘れられる。
 階下から声がした。「お姉ちゃん、来てませんか」夕貴の声にはありありとした不安がこもっていた。時計を確かめると夕食には遅い時刻だった。心配されて当然だ。
 家彦に別れを告げ、階下へ向かった。夕貴と並んで家路に着いた。「家彦くんに誘われてゲームしていたら夢中になっちゃって」でまかせを妹はたやすく信じた。
 夜道を歩く。夕貴の後ろ姿をみつめながら長く細い坂道に足を運ぶ。用水路の闇の底から水音が這いあがってくる。ひびわれたアスファルトを外灯が白々と照らす。次の外灯までは遠く、妹の後ろ姿は少しずつ翳ってゆく。
 あの「事故」をきっかけに新たなガードレールが設けられた。子供の事故しか想定していないのだろう。夕貴の腰の高さより低かった。
 夕貴の背中でダウンジャケットのフードが歩くリズムに合わせて揺れている。フードをつかんで、ひっぱってみようか。水路までの距離がありすぎる。自転車のように勢いもない。頭を両手でつかんでアスファルトに叩きつけるくらいのことはしないとダメだろう。
「なに笑ってるの」
 ふりかえった夕貴が笑顔になった。そうか、私はそんな顔をしているのか。「なんでもないよ」良子も笑みを返した。
 大学進学にともない紫ヶ森を離れるまでの三ヶ月間、良子が夕貴に暴力的な妄想を遊ばせた回数は片手では足りなかった。それを行動に移さなかったのはただ、あの十四歳の夏と同じ声を耳にしなかったからだった。