三浦良子が破滅したのは十四歳のときだった。夏の夕暮れ、自転車を押しながら坂道を登っていた。瓦屋根の家や庭木の隙間から真横に黄金色の光が差しこむ。山裾にへばりつくように広がる雨洞町は抗する力もなく夕闇に蝕まれようとしていた。
 ハンドルから逆さに提げたヘルメットが揺れている。中学二年生の良子は吹奏楽部の練習の帰りだった。明日から部活はお盆休みになる。この坂を登り詰め、自宅へ帰ればようやく休みらしい休みを迎えられると思うと、いつもより自転車が重く感じられた。
 バイバーイ。そんな声がかすかに聞こえた。遠い道の先、門柱から少年が姿を見せた。自転車にまたがっている。立ち漕ぎで、力強くペダルを踏んでいる。
 十歳くらいだろうか。黒いショートパンツにだぼだぼのTシャツ。たしか隣町の子だ。妹と同じ学年だったか。そんなことを良子が思ううちに、ぐんぐん少年の自転車は近づいてきた。ペダルはもう止めているが、重力に引かれて物凄い速度だ。
 少年は笑顔だった。夕陽を浴びた前髪が金色に輝く。どちらかが避けなければならない。良子はハンドルを傾けた。練習で疲れているのか、傾けすぎて自転車が倒れそうになり、立ち止まった。少年の乗る自転車のチェーンとギアが奏でる音が真横を過ぎる。
 蹴った。すでに前輪は通り過ぎていた。良子がくりだした足は後輪の、荷台を支える金属フレームにぶつかった。少年の自転車はふらつき、あらぬ方向へ進んだ。
 道路の隣は用水路だった。大人でも身を隠せるほどの幅と深さがある。大雨でも降らない限り水は指先の深さほどしかない。転落を防ぐべくコンクリートブロックで蓋をされたりガードレールが設けられているが、少年の自転車が向かった先にそれは無かった。
 背後で轟音が響いた。良子は歩き始めた。坂道を登り詰め、鳥居の前を通り過ぎ、自転車を車庫に片づけた。玄関の引き戸に手をかけたまま待ったが、なにも聞こえなかった。
 台所で妹の夕貴がマンガを読んでいた。「面白い?」と声をかけた。もうすぐ夕飯だというのにソーダアイスを齧る良子を母が咎めた。制服からラフな格好に着替えて顔を洗った。タオルで顔を拭いていると、救急車のサイレンが近づいてきた。

 当時九歳だった良子に、龍神に身を捧げた巫女の物語を寝しなに語ったのは祖母だった。親戚の法事に両親がそろってでかけ、祖母の部屋で寝ることになった。なにかお話ししてとねだったのは夕貴だったが、先に一人だけ眠ってしまった。
 タオルケットに包まれ、妹の寝息を耳にしながら祖母の話を聞いた。巫女の名前は「おりょう」だった。「良子のりょうは、そこからなの?」さあ、どうだろうね。祖母は微笑み、コホンと軽い咳をした。祖母が帰らぬ人となるまで一ヶ月もかからなかった。
 やがて良子は一人きり、小さな冒険をくりかえすようになった。学校からの帰りに遠回りをする。気になる脇道へ衝動的に飛びこんでみる。住民が夜逃げしたという噂のある廃屋で一人過ごしてみる。山道を散策し、どこから眺める湖がいちばん美しいかくらべる。
 どんなに恐ろしげな場所でも、良子は独りきりだった。誰かと一緒では駄目だった。何十年も、何百年も前にここにいたかもしれない人々のことを思った。この空の青さに昔の人も歩みをとめたのかもしれない。巨岩の恐ろしさに身を竦めたのかもしれない。やがてそれは漠然とした既視感に変じていった。沢の音に耳を澄ませながら、春先の強い風に頬を撫でられながら、こんなことが前にもあったと感じた。具体的な記憶はなにひとつ伴わなかったが、古代の記憶のかけらのように思えてならなかった。
 密やかな時間は良子の生活のごく一部に過ぎなかった。共働きの両親のため家事を手伝い、夕貴には優しい姉としてふるまった。毎年のようにクラス委員長を命じられ、吹奏楽部では副部長として後輩たちに慕われた。
 三浦家と紫ヶ森の人々にとって幸いだったことに、良子は罰すべき相手と巡りあわなかった。誰を断罪すべきか明確な基準さえ無かった。幼かった頃の夕貴が神社の本殿に土足のまま上がり擬宝珠によじのぼるのを目にしたときですら、優しく諭しただけだった。
 自転車が迫ってきたとき良子の脳裏に蘇った光景があった。少年はかつて神社の鳥居に立ち小便をしていた。そのとき良子は咎めなかった。男の子のすることだと苦笑しながら目を逸らし、ただ澱のようなものを、穢れへの嫌悪を胸の底に覚えた。
 黄昏時とはいえ集落の生活道路だ。まともな神経の者なら近隣住民の眼を恐れただろう。救命された後で少年自身に指弾された可能性もある。良子はなにも不安を覚えなかった。あの黄金色した夏の夕暮れ、声ならぬ声を聞いた。
 雑談の折に夕貴から少年のその後について何度か教えられた。長らく学校を休んでいること、会話がままならなくなったこと、母親に車椅子を押される姿をクラスメイトが目にしたこと。少年の名前を会話のたび耳にしたはずだが、やがて忘れた。