テーブルには手掛かりカードや基本情報の書かれた紙が散らばっていた。万慈によれば、夜に一人で反省会をして、片づけはその後にするつもりだったという。
ゲームのときと同じ椅子に素尚は腰を下ろした。家彦も同じように向かい側へ座る。陽射しに衰えを感じた。掃き出し窓を背に座る兄の顔は逆光に陰っている。
(なにか言わなきゃ)
素尚はテーブルの上に視線をさまよわせた。
(でも、なにを?)
夕貴を殺したのは兄なのか。それが真実だとして自分はどうしたいのか。風邪をひいたときのように、おっくうさが込みあげて頭がうまくまわらない。
「おまたせしました」
グラスを三つ、お盆にのせた万慈が奥の扉から姿を現した。おっかなびっくりテーブルへ近づいてくるのは、緊張を和らげようと演技しているのか。テーブルにお盆を置くと、万慈はゲーム中に美月が――神が座っていた椅子に腰を下ろした。
「坂峯富士夫さんの家の火事の件なんですがね」
氷の浮かんだ麦茶のグラスを家彦と素尚の前に置いていく。「いまさらその話か」と家彦が呆れたように言うと「後から話がつながりますんで」と万慈は微笑んだ。
「小柄地蔵の祠で姫白さんは視線を感じてふりかえりました。坂峯さんの家の二階に家彦さんがいて、部屋をでていくところでした。ずいぶん驚いていたように見えたそうです」
「間違ってないさ。良子と見間違えて慌てたんだ」
「ありがとうございます。ですがね、それはちょっとおかしくないですか」
「なにがだ」
「祠から坂峯家の二階まで目測で三十メートルほど、顔は判別しづらい距離でしょう」
「どうもこうも……人間の認識能力は優れているとしか言いようがないな。離れていたからこそ印象だけで良子だと勘違いした、それだけのことだ」
「姫白さんは祠のほうを向いていて、後ろから家彦さんの驚く声を聞きました。つまり、家彦さんが目にしたのは後ろ姿です。くわえて、この日の姫白さんの服装はショートパンツにTシャツ。スポーティーで動きやすい恰好でした。良子さんのほうはフェミニンとかガーリーと呼ばれる服装を好んだようです」
不機嫌そうに家彦は眉を曇らせた。構いはしないとばかりに万慈は言葉を続ける。
「こう考えたらどうです? あの火事の日、家彦さんは二階の窓から、スポーティーな格好の良子さんをみかけたとしたら」
万慈はグラスを悠然とした動作で口元に運んだ。目だけが家彦の顔を見据えている。
「着替えた、ということですか」思わず素尚は口を挟んだ。
「でも、なんのために?」
万慈が素尚のほうへ視線を移し、小さく頷いた。
「良子さんの部屋にはスポーツバッグがあって、野球帽にTシャツ、ジャージのズボンが入ってました。あの日、スポーツバッグを持っていったという証言は残念ながらありません。ただスポーツバッグには『紫ヶ森むかしばなし』が入っていました」
「それってたしか、火事の前日に良子さんが借りていった本ですよね」
「そうです。お寺だの旧跡だのの絵地図が載っていて、小柄地蔵を含むいろんなところにピンク色の蛍光ペンで目印が点いていました。考えてみれば変ですよね、なんだって人さまから借りた本に蛍光ペンで目印なんてつけるんです? まるで……返す必要がなくなるとわかっていたみたいですよねえ」
素尚は緊張を覚えた。万慈の推理がどこへ向かっているのか、ようやく見えてきた。
「目印をつけたのは良子だと証明されてない」吐き捨てるように家彦が言った。
「富士夫さんがつけたのかもしれない」
万慈は家彦のほうへ顔を向けることなく言葉を続けた。
「ジャージ姿は変装のため、うっかり目撃されて服装から足取りをつかまれないようにするためでしょう。良子さんは火事の前日、坂峯さんの家を訪れた。代わりに応対した素尚くんから『紫ヶ森むかしばなし』を借りた。素尚くんの目を盗んで、どこかトイレとか物置の窓の鍵を内側から外したんじゃないですかね。翌日、そこから侵入したんでしょう」
素尚はハッとなった。万慈の推理を信じれば、玄関の施錠のことも説明がつく。
富士夫は玄関を施錠したはずなのに、家彦は家に入ることができた。なにか事情が、たとえば時間不足で遊覧船の時刻に間に合わなくなると焦って、良子は玄関から外へでたのではないか。そうして解錠された玄関を家彦が通ったのだとしたら。
「あいにく、動機については俺もうまく説明できません」
万慈はグラスを人差し指と親指で挟んで揺らした。氷が涼やかな音を立てる。
「双子の弟である家彦さんの夢を妨害しようとした坂峯さんに反感を抱いてもおかしくない。とはいえ、家に火をつけるのはさすがにどうでしょうね。まあ、失踪した理由にはなるんですが。放火という大罪を犯したことを後悔し、どこか遠い土地で息を潜めているというわけです。お金持ちの家彦さんがお姉さんに経済的支援をしてるんじゃないですか」
「で?」家彦が小首を傾げた。「その妄想たくましい推理はどこにつながるんだ」
「兜斗さんをどうやって黙らせたのか説明がつくんですよ」
グラスを万慈はテーブルへ戻した。水滴がグラスをつたって落ちる。
「さっき散歩中に話した……仮に『夕貴生存説』と名づけておきますか。夕貴生存説では、姫白さんに頼まれた兜斗さんが辰木家に侵入するも、家彦さんにみつかって殺されてしまった。だったら兜斗さんはどうしてそのことを隠してるんです? 状況からして家彦さんか、せいぜい素尚くんが犯人としか考えられないじゃないですか」
「ツッコミどころが多すぎて、そこまで頭がまわらなかったな」
「どうにかして家彦さんは兜斗さんの口を封じないといけない。そこで坂峯家の火事ですよ。あれは良子さんが犯人だった。おまえが警察に駆けこむなら、こっちだってそのことを明かすと脅した。未遂とはいえ計画的な放火殺人となれば無期懲役だってありえる。良子さんの生活を支えているなら家彦さんはたとえばメッセージアプリでやりとりくらいはしているでしょう。そういうものを兜斗さんに見せれば信用される。良子さんを説得して家に帰らせることにも協力してやるなどと甘い言葉をかければ、兜斗さんがぐらつくことは期待できますよね」
不意に家彦はグラスを手にとった。ぐっと傾け、ほとんど一息で麦茶を飲み干す。
「いいかげんにしろ」グラスをテーブルに置く音が響いた。
「おまえの推理は無理を別の無理で繕ってるだけだ。夕貴さんが家に忍びこんだと考えれば、たしかに俺にも犯行が可能だろう。だが、まともな奴がいきなり不法侵入などするわけがない。だからモトが夕貴さんを殺しただの、実は夕貴さんは生きていただの、面白くはあるがなんの根拠もない妄想で埋める。いまの話も同じだ。兜斗くんが黙っている理由をでっちあげるために良子が放火したと決めつける」
マーダーミステリーと同じだ。そんな考えが素尚の胸を過ぎった。スケープゴートを選び、そいつが怪しいという結論ありきで推理をでっちあげる。些細なことを無理にでも根拠らしくみせかけ、際限なく妄想を膨らませる。最後の投票で自分が犯人だと指弾されることさえ防げれば、真実なんてどうでも良い。
「いやあ、すみませんね」肩を揺らして万慈が笑う。
「実を言うとですね、もっとあくどいことも考えました。家彦さん、良子さんが行方知れずになった後で部屋に入ってるんですよね? だったらスポーツバッグは偽の手がかりかもしれない。スポーツバッグにジャージや本を詰めこんだのは家彦さんかもしれない。つまり、火事はやっぱり家彦さんが犯人で、それを目撃した良子さんを口封じした。祠の前にいた姫白さんを見間違えたのは、本当に見間違えただけ。そんな仮説も成り立つわけです。いやあ、人間の認識能力は偉大ですねえ」
「もう、いいだろ」抑えた声で家彦が言った。
「この間の検討会には意義があった。おまえは俺たちから事件について情報を引き出したかった。俺たちは俺たちで、痛くもない腹を探られないよう身の証しを立てることができた。おまえがこじらせすぎてSNSに根も葉もない誹謗中傷でも書いて、それに踊らされた馬鹿な奴らが押しかけてくるなんてこと、いまどき珍しくないからな。今はもう刑事コロンボや古畑任三郎の時代じゃない。探偵さん面白い推理ですね、小説家にでもなれば良いと皮肉を飛ばすだけじゃ誰も納得しない。これでも俺は一応、有名人だからな。面白半分に疑われるだけで実害がある――真実なんて、誰もどうでもいいんだよ」
誰も俺のことを理解してくれない。そんな表情で家彦は溜め息をこぼした。
「話しあうのが大切だと思ったから、ああいう機会を設けたんだ。あのときはおたがいにメリットがあった。だが、今はそうじゃない。いまさら俺たちに事件について新たに話せるようなことはない。おまえは、俺が犯人だという根拠のない妄想に執着しているだけだ。現実に人が死んでいる事件でマーダーミステリーをするほど俺は酔狂じゃない。こんなつまらないゲームに意味はない。終わりにしよう」
そうですねえ。どこか眠たげな声でつぶやいたきり、万慈は動かなくなった。
仏像のように瞼を細めた万慈の顔をみつめるうちに、素尚の胸に違和感が込みあげてきた。自分は今、なぜここにいるのか。どうしてこんな会話をしているのか。
すべては兄の手の平の上だったのではないか。謝恩会の後、車中での会話を思いだす。なぜ転生の巫女を殺さなかったのか訊かれ、素尚は理由を答えた。あのとき家彦は判断したのかもしれない。この弟なら大丈夫だと。他者の心を思いやれる真っ当な判断力があると。夕貴生存説を万慈に説かれても慎重に受けとめることができる。
母の見舞いを提案し、それをきっかけに素尚は看護師に質問した。万慈が母に接近しようとしていたことを知り、胸騒ぎを覚えた素尚は兄に頼んで、ここへ来た。自分自身で判断していたつもりで、ずっと兄に操られていたのではないか。
(だから、)
兄を信じて良いのか、悪いのか。
(どっち?)
落ち着け。本当に家彦が素尚を操ろうとした証拠はない。母を見舞うのは自然なことだ。これもただの妄想だ。自分は万慈と同じことをしている。
「わかりました、腹をくくりましょう」パンッと膝を打ち、万慈が椅子から立ちあがった。
「家彦さんのおっしゃるとおりです。マーダーミステリーは夕貴生存説を素尚くんに思いつかせるための罠でした……と言い切りたいところですがね」
万慈は机のほうに歩いていった。ゲームマスターを務めるため座っていた席だ。
「難しいな、あのゲームを作っている間は無我夢中でしたからね。マジで信じていたときもあれば、ふと我に返って俺はなにを馬鹿なことしてるんだと呆れたり」
なにか探しているのか、机の上に散らばった紙などをあっちこっちどけている。
「素尚くんが疑心暗鬼になって、お兄さんと喧嘩別れして事態が動いてくれないか、あわよくば自首してくれないかなんて期待してました。だから玄関を開けてアルファロメオを目にしたときはびっくり仰天ですよ。妄想が現実になったのかと心底驚きました」
ようやくお目当てのものをみつけたらしい。戻ってきた万慈が手にしていたのはノートパソコンだった。ディスプレイを家彦と素尚に向ける。
「読んでください。ざっくりとで構いません」
お代わりを持ってきますね。空のグラスをのせたお盆を手に万慈は奥の扉へ向かった。
ディスプレイが発光している。ワープロソフトの画面に文章が並んでいる。素尚は天井を見上げ、部屋が薄暗いことに気づいた。夕暮れが近づいている。
「いいか?」
スクロールしようとする兄に「ちょっと待って」と答え、素尚は読み始めた。
粗い文章だった。句読点が連続していたり、誤植や行頭の全角スペースが漏れている箇所もあった。どうやら小説らしい。人物の服装や風景などの描写はほとんどなく、部分的に会話のやりとりが書かれている。後で書き足す、見直すといったメモの類も多い。
それは三浦良子を主人公とした物語だった。生い立ちから家彦との出会い、坂峯家の火事、都内での逃亡生活、そして素尚が夕貴を殺したと報せを受けたことが綴られていた。
(なに、これ?)
素尚のためアリバイ工作をした良子が清馬滝に身を投げる場面で文章は終わっていた。
「どうです? あ、もう読み終わりそうですね」
時間が巻き戻ったかのように、お盆を手にした万慈が立っていた。
「書いたのは姫白さんですよ。クラウド上に保存してあったものです。ひょっとすると姫白さんのタブレットパソコンに最新版があるかもしれませんが、警察に押収されているもんで。細部がいろいろ現実と違うでしょう? 人の名前とか固有名詞は共通していても、これはフィクションです。たぶん姫白さんはこれをそのまま小説にするつもりじゃなかったでしょうね。謎解き場面で動機を訊かれた犯人が滔々と語る人生の道のりみたいな、事件の背景になにがあったのか出発点となる物語なんでしょう。もちろん人の名前や地名なんかは後で架空のものに置き換えるつもりだったんでしょうね」
さっきと同じ椅子に腰を下ろし、グラスを家彦と素尚の前に置く。
「どうです、家彦さん。感想は?」
万慈の問いに、家彦は答えなかった。まばたきすらせずディスプレイを凝視している。
「初めから順を追って話しましょう。別に悪気があって黙っていたわけではないんですが、姫白さんが良子さんの行方について調べていたのは下心があったからなんです」
「した……ごころ……?」虚ろな目つきで家彦は言った。
「取材旅行だったんですよ」
焦らすのが楽しくてたまらないとばかりに万慈は微笑んでいる。
「良子さんの行方を探すという体験をして、小説のネタにしたかった。それだけじゃありません。そもそも姫白さんが書こうとしていたミステリの、いちばん中心的なアイデアをくれたのが良子さんだったんです。良子さんが行方知れずのまま、構想だの執筆だのを進めるのはアイデアを盗用するようで気が引けたわけです。それがどんなアイデアだったか、これを読んだならおわかりですね」
万慈はパソコンを手にとった。
「転生ですよ」
ディスプレイを閉じる。光源がひとつ失われ、部屋が一段と暗くなる。
「死んだら別の誰かに生まれ変わる。そんな能力のある人物がもし現実にいたらという設定をベースにした、昨今流行りの特殊設定ミステリを書こうとしていたんです。どうせまたこの世に生まれ変われるなら、贖罪のために命を捧げようってね。ホワイダニットとして無理があるところを特殊設定で補うわけですよ」
ディスプレイの明かりに照らされていた万慈の顔が、今は灰色に翳っている。
「さあ、俺の気持ちを想像してください。紫ヶ森湖で姫白さんの遺体がみつかりました。はるばる九州から俺は戻り、紫ヶ森湖まで来ました。他殺だったと知って、胸を痛めながらアパートに帰りました。コンビニで買った晩飯を食いながら、この文章を読みました」
まるで万座の聴衆を相手にするかのように言葉を紡いでいく。
「初めは混乱しましたよ。姫白さんは予知能力者になったのか、自分が殺されることを知っていたのかってね。そんなわけがない。この文章は現実の事件と重なるところもありますが、まあただの偶然でしょう。調査三日目の夜、姫白さんは良子さんのアリバイを崩し、家彦さんとの血縁関係に気づきました。アリバイが崩れたなら、ただの目撃者どころか犯人にだってなれる――いかにもミステリらしい発想じゃないですか? 犯人は良子さんじゃないか、家彦さんのために火をつけたんじゃないかと推理を進めたわけです。いえ、妄想を膨らませたといったほうが正確ですね。本気でそれを真相だと思ったわけではなく、一人の創作者として物語を紡いだわけです。その後で起きた、現実の事件との類似はただの偶然でしかない。そう片づけるしかないし、片づけたかったんですが」
うつむいたままだった家彦が顔を上げ「おまえは」となにか言いかけ、すぐに「馬鹿な」と視線をさまよわせた。
「そんな馬鹿だったんですよ、俺は」瞼を細めて万慈は言った。
「俺はただ、推理を否定したかっただけなんです」
沈黙が下りた。素尚はきっと当惑の表情をありありと浮かべていたのだろう。そんな様子に気づいたのか、幼児に絵本を読み聞かせるような優しい声で万慈は言った。
「この一ヶ月余り、俺はただ自分の推理は間違っていると証明したいがために、素人探偵になったりゲームクリエイターになったりしていたってことですよ」
わからない。万慈がなにを言っているのか、素尚には理解できなかった。「まあ、わかりづらいですよね」兄弟の顔を交互にみつめてから、坊主頭の男は言葉を続けた。
「火事のことについて素尚くんに質問を頼んだことは姫白さんから聞いてました。だから俺は、遺体がみつかる前日に姫白さんは素尚くんと会ったかもしれない、殺人はそのときかもと疑いました。犯人は死体を消すために清馬滝を利用したはずだってのに、肩掛け鞄が残っていたのはチグハグだなとも思ったんですよ。ああだこうだ考えていたところへ、姫白さんの文章を目にした。唖然としましたよ。理屈がどうこうじゃない、これが真相としか思えない。たしかに良子さんが共犯者だと考えれば腑に落ちる。もう取り憑かれたみたいにそのことばかりで頭がいっぱいになりましたよ。なんというか、そう、楽しみにしていた新刊を読もうとした直前に盛大なネタバレを食らった気分でしたね」
あるいはマーダーミステリーのシナリオを読んでみたら、他ならぬ自分こそ犯人役で、いきなり真相を知らされた気分ですかね。ニコニコと無邪気な笑みを浮かべながら万慈はそう付け加えた。
「落ち着いてくると、こんな馬鹿げた話が真相のわけねえだろと思いました。それでもですね、困ったことに『もしかしたら』って気分が拭えない。よし、俺が調べるしかないと覚悟を決めたわけです。炎天下をしこたま歩き回って、お二人と検討会して、いろいろ事件の詳細が明らかになりました。ところが……この推理、いや、この馬鹿げた妄想を吹き飛ばしてくれる証拠はみつからなかった。もう、心の底からがっかりですよ」
ようやく理解した。素尚が公園で夕貴を殺したことを万慈はどうやって確信したのか、その答えを素尚は悟った。
確信などしていなかった。万慈はただ、夕貴の残した文章に触発されただけだった。良子が共犯者という推理を信じることができず、ただただ否定したいがために、万慈は今日まで馬鹿げた推理ごっこに心血を注いできた。
「ええと、他に説明すべきことはありましたっけ? そうですね、現実の事件のほうで良子さんがなにをしたのか考えを説明しておきますか。まあ、おおむね姫白さんの文章どおりじゃないですかね。姫白さんを殺してしまった素尚くんは助けを求めて家彦さんに電話した。家彦さんのもとで逃亡生活をしていた良子さんはそれをたまたま耳にして、はるばる紫ヶ森湖まで足を運んできた。辰木家を訪れるよう兜斗さんに頼んだのも良子さんでしょう。家彦さんではなく、素尚くんのアリバイを作ることが目的だったんですよ。雲外荘で防犯カメラに映ったり、深川さんたちに目撃されたのは変装した良子さんです。そうやって死亡推定時刻を後ろにずらし、素尚くんには犯行不可能にみせかけた上で、清馬滝に身を投げた。自分の死体を消すためです」
「動機がない」息苦しさを覚えながら素尚は言葉を吐きだした。
「転生なんて、夕貴さんの小説の中の設定じゃないですか。僕はたいして良子さんのことを知らないし、向こうも似たものですよ。自分の命を犠牲にしてまで僕をかばうなんて」
「だから、俺だってこんな面白いだけで現実味のないトンチキな推理、信じたくはないんですよ。信じたくなくて苦労してるんです」
万慈は肩を竦めて苦笑いした。
「そうですね、身投げまでする必要はないのは確かです。どこかで良子さんは生きているのかもしれない。まあ、清馬滝の崖に残った、擦った痕の説明がつかなくなるんですが」
擦った痕? 素尚は疑問を口にしようとしたが、それより早く万慈が言葉を続けた。
「素尚くんをかばった理由については一応考えがあります。坂峯家の火事ですよ。本当は富士夫さんを殺すつもりだった。ところが昼寝していた素尚くんを、富士夫さんと見誤ったんじゃないですかね。うっかり血のつながった弟を殺しかけた良子さんは、贖罪の機会を与えられたと思ったのかもしれない」
そう言って万慈は、テーブル上のパソコンをぽんぽんと叩いた。
「さっき話したとおり、殺人者をかばうため滝に身投げするというアイデアは、そもそも良子さん自身が考えたものです。姫白さんと昔そんな会話をしたこと思いだして、なにか運命的なものを感じたんじゃないですかね。もちろん、長い逃亡生活の疲れもあったでしょう。馬鹿ばかしいしありそうもないし現実離れしていますが、だからといって可能性がゼロってわけじゃない」
「今度は頭がまわったぞ」
家彦が口を開いた。ようやく穴をみつけたとばかりに自信のある顔つきだった。
「おまえの言うことをひとまず信じるとしよう。だったら、なぜ警察にそれを教えなかった。まさか、おまえを黙らせるよう俺が脅迫したとか言いださないだろうな」
「教えましたよ」
あぶくが浮かんでくるような沈黙があった。「なに?」家彦があえぐように言った。
「当たり前じゃないですか。翌朝には最寄りの警察署に行きましたよ。いやあ、緊張しましたね。生まれて初めて本物の刑事さんと対面しました。事の顛末をありのままに語りましたよ。で、どうなったかというと……どうもならなかったんです」
ハハ、と乾いた笑いを万慈は漏らした。
「初めの数日は、きっと行きずりの犯行という仮説に重点を置いているんだろう、しかたないと自分を落ち着かせました。そのうち家彦さんと良子さんの繋がりをみつけだしてくれるだろう、その裏をとるのに時間がかかってるんだろうと。けれど、待てど暮らせど進展がない。考えてみれば、良子さんが替え玉になったことを証明するのって、けっこう大変なんですよね。二人はそっくりだから、他になにか防犯カメラの映像なり目撃者がいても区別がつかない。指紋は残さないよう良子さんが気をつけたでしょう。毛髪が雲外荘に残っているかもしれないと刑事さんにはアドバイスしたんですが、空振りだったんですかね。後はなんだ、家彦さんが良子さんの生活を支援していたとわかれば傍証にはなります。でも放火となれば良子さんは慎重に身を隠していたでしょうし、もし本当に清馬滝へ身投げしたのなら、お二人が今後会うことは二度と無いわけで。それ以前に俺だってこんな馬鹿げた推理、信じられないですからね。警察の組織力を注いで良いと認められるほど有効な説ではないってのが常識的な意見じゃないですか?」
もはや素尚には、万慈の言葉がどこか遠いところで唸っている風の音のようにしか聞こえなかった。まともな思考を組み立てる力が湧いてこない。自分は良子が発案し、夕貴が執筆した推理小説の中の登場人物に過ぎないんじゃないか。そんな考えが浮かんだ。
(わからない)
僕たちは真実を探ろうとしているのか、それとも遊んでいるだけなのか。
人生を賭けた勝負をしているのか、それとも物語を愉しんでいるだけなのか。
(あんまりだ)
わかるのは、自分が最低な気分になっていることだけだ。この力の差はなんなんだ。万慈は大学生、それほど年は離れていないはず。だけど自分があと数年でこうなれるとはとても思えない。盤上の駒みたいに弄ばれている。世の中はこんなに厳しいものなのか。自分はこうして、ずっと力の差に怯えながら生きていくのか。
「さて、いま説明したことを『良子替え玉説』とでも名づけておきますか。良子替え玉説を否定したいがために、頭を捻って思いついたのが夕貴生存説というわけです」
万慈に視線を向けられても、家彦は身動ぎさえしなかった。
「いまさらですが、俺が電話した十時過ぎ、家彦さんはなにをされてました?」
「本当にいまさらだな。ドライブしていたと検討会のときに教えただろ」
「清馬滝の近くにいませんでした? 電話の後ろに水音が聞こえた気がするんですよね」
「下手なハッタリはよせ。湖岸沿いを走ったから、近くを通りはしただろうな」
「ありがとうございます。夕貴生存説なら、家彦さんはどう考えるか。姫白さんが辰木家に忍びこんだことを隠したい。警察の目を逸らすため滝を利用したんじゃないですか? 姫白さんの遺体を運んで、滝壺へ投げ捨てたわけです。期待としては、これで死体は消えて、犯行がいつ頃あったのか曖昧になるはずだった。ただ、それだけだと姫白さんは清馬滝で犯人と争って殺されたという筋書きをみつけてもらえない。不自然なのは承知の上で肩掛け鞄を東屋に残したわけです。遺体が漂着していないか、夜明けを迎える前にボートで探しに行くくらいのことはしたかもしれませんね」
けっきょくは湖に浮かんでしまったわけですが。声を抑えて万慈はそう付け加えた。
「良子替え玉説なら、替え玉を演じるため姫白さんから脱がせた衣服を家彦さんに渡す必要があります。滝へ身投げした後じゃ手渡しできませんからね。袋にでも詰めて、隠し場所だけ伝えたんでしょう。姫白さんの遺体はボートで運んだ。運悪く良子さんの遺体が地下水脈を運ばれて湖に浮かんでいないか確認したいというのもあったでしょうね。要するになにが言いたいかというと、どちらの説でも家彦さんは滝へ足を運ぶ理由があるわけで。残念ながら、決め手にはならないんですよね」
ハアと、万慈は大袈裟に溜め息を吐いてみせた。
「というわけで、どうです? 良子替え玉説を否定する根拠はなにかありませんかね」
無言のまま家彦は静かに首を左右にふった。
「そうですか」瞼を閉じ、万慈は深く首を折ると「残念です」と言った。
万慈のありのままの姿を、素尚は初めて目にしたように感じた。そこにいるのは名探偵ではなかった。暇を持て余し、気力をぶつける相手もなく、みなぎる創作意欲を持て余した平凡な若者だった。
「そりゃそうですよね。確かな手掛かりから堅実な推論を積み重ねることなく、勝手気ままに可能性をあげつらうだけの推理じゃ、どこにもたどりつくわけがないんですよね」
「そうか?」家彦が首を傾げる。「少なくとも、おまえはたどりついただろ」
「またまたご冗談を」
「気づいてないのか。どうして良子替え玉説を受け容れられないのか、わからないのか」
万慈は茹で卵を丸ごと呑みこむような顔になり、やがて首を左右にふった。
「良子替え玉説だと、夕貴さんが脇役に過ぎないからだ。ただの不幸な、都合の良い捨て駒でしかないからだ」
いまにも途切れそうなかぼそい声で家彦は言葉を続ける。
「おまえは物語を紡いだんだよ。本当は夕貴さんが生きていて、名探偵よろしく果敢に俺に立ち向かい、そして敗れたという話を」
「いやいや、俺はそんなセンチメンタルな奴じゃありませんよ」
「それもそうだな。じゃあ、別の見方をしよう。さっき言ってたよな。湖まで来て、夕貴さんが他殺だと初めて知ったと。そのときなにを思った?」
「なにって、まあ……」
「おまえたちは良子の事件をネタに小説を書こうとしていた。煽ることもあったんじゃないか? 俺が犯人であること前提で推理しろとか、議論を吹っかけてこいとか」
「なにが言いたいんです」万慈の顔から、ふざけた調子が拭い去られたように消えた。
「後悔したんじゃないのか。紙の上の名探偵みたいにやってみろ、そう煽った結果がこれだ。おまえも夕貴さんを殺したんだよ」
死に瀕した獣をみつめるように兄は哀しい目をしている。
「その罪から目を背けたくて逃げた。馬鹿げた空想に、物語に逃げた。夕貴さんが最期まで名探偵として闘い抜いたと妄想し、俺たちを糾弾するマーダーミステリーを作らずにはいられなくなった」
「いや、俺はそんな……」
素尚は目を疑った。うろたえる万慈の顔は徐々に表情が変わっていく。光のない瞳を大きく見開き、唇の端が引かれていく。熱病に冒され、在りもしない花園に浮かれる患者のように。歓喜に満ちた表情に狂気の色があった。
(この人は)
渦があった。巨大な黒い渦が。真っ暗な空に天まで届く竜巻が、あるいは荒れ狂う嵐の海に突如出現した大渦巻のような。
巨大な虚無の中心で、たった独り万慈は恍惚とした笑みを浮かべている。
(ずっとこんな光景を)
うなじが見えるほど深く首を折り、万慈は深々と溜め息を吐いた。やがて顔を上げると、すべてを悟ったような表情で家彦をみつめた。
「どうです、いいかげん飽きたでしょう。マーダーミステリーの専門店ならとっくに時間切れ、議論なんかやめて犯人は誰なのか投票する頃合いですよ。こんな中途半端な状態が続くばかりの無益なゲーム、そろそろ終わりにしませんかね? 家彦さん、思い切ってドーンと真相を話しちゃったりなんか……しないですよね」
もう陽が落ちたのだろう。リビングはすっかり薄暗くなっていた。色が失われ、黄金色の光と影に二分されている。窓を背に座る家彦の顔は翳り、そこにいるのが本当に兄なのか疑念を覚えるほどだった。
「じゃあ、こうしますか」万慈は笑顔で素尚のほうへ向き直った。
「素尚くんに決めてもらいましょう。夕貴生存説と良子替え玉説、どちらが真相なのか」
「いや、なにを」
続けるべき言葉に困り、素尚は言葉を途切らせるしかなかった。かぼそい陽光に顔を半分だけ照らされ、半月のように輝く万慈の顔はひどく不気味だった。
「ただの行きずりの犯行の可能性は否定されてないぞ」
低い声で家彦が告げると「なにを言ってるんです」と万慈は目を瞠った。
「俺たちは推理小説の登場人物なんですよ。そんなつまらない真相のわけがない」
家彦はしばらく固まっていた。やがて「そうかもしれないな」とつぶやいた。
「さあ、どちらを選びます?」
判断を迫る万慈の口調はふざけているようであり、この上なく真剣にも感じられた。
――自由ってのは与えられる選択肢の数で決まるんじゃない。
ゲームの後、万慈が感想戦で語っていた言葉がふと耳に蘇る。
――プレイヤーがどれだけその選択に悩むかで決まるんだってね。
(どっちって)
兄が良子も夕貴も殺し、兜斗を脅して実の弟さえ操っている極悪非道の輩なのか。
血の繋がった姉が、素尚の愚行のために命さえ捧げて人知れず姿を消したのか。
(これが、自由?)
最低と最低から選ぶ。よりましな最低はどちらなのか、ひとつだけ選ぶことを許される。こんなものが本当の自由だというのか。
(言え)
言うんだ。言ってやれ。どちらも違うと、どちらも真実ではないと。
自分は姫白夕貴を殺してなどいない。こんな馬鹿げた、頭のおかしくなるような会話はもううんざりだと断言してやれ。
「僕は――」
どうしてこんな、泣きだしたい気持ちになっているんだろう。
「――あの日、」
コール音が響いた。
万慈が机まで歩いていき、スマートフォンを手にとった。「兜斗さんからです」それだけ告げて家彦や素尚に背を向け、会話を始める。
「そうですか」
万慈は言葉少なだった。兜斗のほうが一方的に話しているらしい。
「素尚くんと話がしたいそうです」
テーブルへ戻ってきた万慈が、強張った顔でスマートフォンを素尚へ突きだした。
「僕と……どうして?」
「謝恩会が終わった後、俺が兜斗さんを引き留めたの覚えてますか」
素尚は無言で頷いた。
「あれはですね、説得してたんですよ。これまでも何度か機会があるたびにくりかえし、本当のことを話してもらえないか兜斗さんに頼んでいたんです」
ああ、そうだ。素尚は理解した。夕貴生存説なら夕貴に、良子替え玉説なら良子に頼まれて兜斗は辰木家を訪問したはずだ。どちらにせよ、兜斗は真実を知っていることになる。
「マーダーミステリーのもうひとつの目的がこれでした。いや、これだって確実じゃないのは承知の上ですよ。ただ兜斗さんに事件のことをもう一度考えてもらおうと思った。それだけのことなんです。どうやら俺はラッキーだったようですね。これから警察署ですべてを明かす、その前に素尚くんと話がしたいそうです」
おずおずと素尚は手を伸ばした。無限かと思われた距離はあっさりと潰え、気づけばスマートフォンを手にしていた。
(どっちが――)
残念ですねえ、と万慈が言った。
「遊びの時間はもうおしまいです」
スマートフォンを耳に近づけていく。兜斗の声が聞こえてきた。ささやきが意味のある言葉になりかけたとき、闇の帳が下りていった。虚ろな闇が素尚を包んだ。