素尚が車を降りるのと、雲外荘の玄関の戸が開くのがほぼ同時だった。
シューズを履こうとしていたのだろう。片足立ちし、シューズのかかとに指を捻じこんだ不安定な姿勢の万慈が、こちらを見るなり動きを止めた。
「忘れ物ですか」
万慈の呼びかけに、運転席から降りたばかりの家彦は無言で頭を左右にふった。
「すみません」素尚は頭を下げた。「お話しさせてもらっていいですか」
この場を設けることを決めたのは自分だ。だから、自分で言わなければ。
「どうしても、その、確かめたいことがあって」
具合を確かめるように万慈はシューズの裏で地面を何度か叩いた。
「いま、ちょっと散歩でもしてこようと思ったんですよ。宿のご主人にお勧めされた散歩道があるんで、暗くなる前に一汗掻いてこようかと。歩きながら話します?」
先導するように万慈が往来のほうへ歩いていく。素尚が、そして家彦が後を追った。
「さっき、母の見舞いに行ってきたんです」
頭の中で準備していたとおり、そこから切りだした。
「入院されてるんですか」
「万慈さん、とぼけるのはやめてください」
坊主頭の隣に並び、素尚は万慈の顔を覗きこんだ。
「看護師さんから訊きました。母に会おうとしたんですよね。どうしてですか」
「そりゃ、まあ」目を白黒させて万慈は言いよどんだ。「どうしましょ」万慈が後ろをふりかえる。「さあな」家彦は投げやりに答えた。
緩い坂道を登っていく。やがてアスファルトが途切れた。車が通れない細道となり、すっかり山道になった。「これ、散歩道か?」家彦がぼやいた。
「訂正します。ご主人はハイキングコースと言ってましたね」
万慈が愉快そうに言う。「万慈さん、あなたは」素尚は息を吸い、言葉を続けた。
「良子さんが僕らと血が繋がっていると疑ったんですね」
蝉の音が響いている。アブラゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ。複数の鳴き声が混じり、木々の間をこだまして異様な響きとなる。
「ええ」
軽い声だった。素尚が耳を澄ませていなかったら、蝉の合唱にかき消されていただろう。
山道は細く、一列になるしかなかった。素尚の前には万慈の背中がある。どんな表情をしているのかわからない。もし家彦がなにも知らなかったなら「それはどういうことだ」と問い返すくらいはしただろう。だが、背後からはなにも聞こえなかった。
「事件の夜、兜斗さんがうちに来たのも、この話題のためだったんじゃないですか」
足元に気をつけながら素尚は言葉を続けた。
「僕がどれだけ頼んでも、兄は兜斗さんとなにを話したのか教えてくれませんでした。普段はそれほど会話しない二人が、僕に秘密にしたがる話題を他に思いつきません。母は、兄を生んだとき腎臓の病気で長期入院したんです。父は仕事柄、家を空けることが多い人でした。双子を生んだのなら、一人を三浦家へ養子にだすというのはありそうな話です」
良子が姿を消したとき、素尚はまだ小学生だった。血の繋がりを明かすには幼すぎると親たちがためらっても当然だ。良子が行方知れずとなり、明かす機会を失ったのだろう。
「なるほどね」万慈がうんうんと頷きをくりかえす。
「実を言うと、初めて気づいたのは姫白さんなんですよ。事件が起きる前日の夕方、素尚くんは遊覧船を降りたところで姫白さんと偶然会ったんですよね。姫白さんは素尚くんの顔から自然と良子さんのことを思い返したそうです。なぜ急にそんな連想をしたのか? 眼鏡を外したからです。湖面がまぶしかったせいか素尚くんは眼鏡を外した。その顔が良子さんに似ていると、後になって気づいたわけです」
検討会のときの記憶が蘇った。素尚なら替え玉を務められるのではと、万慈は眼鏡を外させようとした。冗談にみせかけて、素尚の顔が良子に似ているか確かめようとしたのか。
「そもそも過去の事件では、遊覧船に乗っていた千笑美さんが姫白さんを良子さんと見間違えました。赤の他人のはずの二人が似ているのは、血縁があるからとすれば納得ですよ。家彦さんと良子さんは二卵性、つまり普通の兄弟姉妹と同じですから、それほど似ていなくても不思議ではない――いかがですかね、家彦さん」
ハア、という溜め息が背後から聞こえた。
「いいだろう、認めよう。たいして不名誉なことでもないしな。この紫ヶ森に越してきたとき、俺も良子も親たちから事情を知らされた。だからといって、いまさら姉と弟という雰囲気になるはずもなかった。事件とは無関係だから黙っていただけだ」
「まあ、普通に考えればそうでしょうね。素尚くんはいかがです?」
口を開きかけて素尚は絶句した。良子は血の繋がった姉だった。そんな事実が判明したところで事件と関係するのか。ここから先へ考えを進めて、なにか得るものはあるのか。むしろ命取りになる予感しかしない。
ここへ来た目的はもう済んだ。良子の秘密を自分は薄々察していたように思う。万慈が母に接触しようとしていたと病院で知り、ようやく向きあう覚悟ができた。兄に直接訊けば良いものを、万慈をダシにしたのが情けない。とにかく目的は果たすことができた。
(本当に?)
この胸のざわめきはなんだろう。
(まだ僕は、なにかが)
山道は明らかに整備が足りなかった。草に埋もれ、どこが道なのかわかりづらい。杉の木に囲まれ、見晴らしは良かった。遠く右手のほう、木立の間から湖面を望むことができる。白く輝く水面と、逆光を浴びて黒い影となった木々との対比が鮮やかだ。
素尚は後れをとっていた。先を行く万慈が急勾配のてっぺんまで上がり、ふりかえった。
「ゲームをしますか」静かな微笑みをたたえて万慈は告げた。
「ここにいる俺たちは、ただの民間人です。警察みたいな組織力も科学捜査の力もなにも無い。ただ好き放題に可能性をあげつらって推理を愉しむ、不逞の輩です。なにを話したところでこの場限り、現実を変えることなんてできやしません。いわば俺たちは推理小説の登場人物みたいなもんですよ」
三つの棺か。背後から兄の声がしたが、素尚には意味がわからなかった。
「倒錯してないか? ミステリの登場人物こそ真実を突き止めようとするものだろう」
「ごもっとも。さて、俺としてはやはり疑念を捨てきれずにいます。家彦さんか、あるいは素尚くんもグルになって姫白さんを殺したんじゃないか。そういう妄想から抜けだせずにいます。家彦さんが犯人だという仮説は検討会であえなく否定されました。事件の夜は兜斗さんが訪れ、姫白さんが殺されたはずの時間帯に完璧なアリバイがあるからです」
ですが、と万慈は一拍置いて言葉を続けた。
「良子さんが家彦さんと双子の姉弟だったとなると、このアリバイが崩れます」
「どうやって?」
「素尚くん、どうです。なにか考えは?」
心拍が速いように感じるのは、山道を歩いているせいだろうか。素尚はようやく万慈のすぐ手前まで追いついた。息をひとつ吸う。ああ、そうだ。本当はわかっていた。自分はそのことに気づいていた。今こそ、そのときだ。
「夕貴さんが家に忍びこんだ。そうお考えなんですね」
万慈が素尚から顔を背けた。山道を下り始める。
素尚は言葉を紡いだ。決して後ろをふりかえることなく。
「良子さんには出生の秘密があると疑った夕貴さんは、強引な手段を使ってでも確かめようとした。きっと母から話を訊こうとしたんでしょう。兜斗さんが僕の家を訪れたときにこっそり侵入して、母の入院先を調べようとした」
「とくれば、兜斗さんの訪問は偶然ではないですよね。姫白さんに説得されて辰木家を訪ね、家彦さんの目を盗んでどこか窓の鍵でも内側から開けた。そうやって姫白さんの侵入を助けたんでしょう」
「家の中を物色していた夕貴さんは、席を中座した兄にみつかって……殺された……」
そんなバカなことがあるはずはない。たしかに万慈の視点に立てば、その仮説はありえる。けれど素尚は知っている。死人が歩くはずがない。
本当に死人だったなら。
「まあ、推理としては面白い」
背中を軽く叩かれた。ふりむくと、家彦の顔があった。笑うでもなく、怒るでもない。ニュートラルな表情の兄がいた。
「無理がありすぎるがな」
「おやおや、どこらへんに?」
「決まってるだろ。親戚とはいえ、やってることが泥棒と同じだ。兜斗くんまで抱きこんで、なにを急ぐ必要があるんだ? せっかくこっちに来たんだから見舞いをしたいとか口実つけて、伯母さんにでも訊けば病室くらいわかっただろ」
「姫白さんのご両親は事件のとき、南フランスのどこだか田舎のほうを旅行してまして。すぐには連絡をとれなかったんですよ」
「せいぜい数日の話だろ」
「そう、せいぜい数日です。裏返せば、その数日すら待てないほどの衝撃的ななにかがあったら忍びこむ理由になるってことです」
下り坂の底へたどり着いた万慈が足をとめた。「たとえば」と言いつつ、ふりかえる。
「殺されたとかね」
足元に注意しながら素尚は下りていた。だからこそ反応できなかった。万慈がなにを言ったのか、耳はとらえていても意味を理解できずにいた。
「真の犯行時刻は夜ではなかった。六時頃、姫白さんは素尚くんと会った。そのとき素尚くんに絞め殺されたんですよ。けれど姫白さんは運が良かった。一命をとりとめた。やはり良子さんの消失には家彦さんが関わっていると確信して、真相をつかむべく辰木家への侵入を思いついたというわけです」
平らな場所にたどりついても、素尚は平衡感覚を取り戻せないでいた。
(どうして?)
すでに万慈は背を向け、歩きだしている。
(どうやって気づいたの?)
泣きだしたい。耐えられない。この中途半端な状況が我慢ならない。
この話の先にあるのは、きっと良くないなにかだ。
「どうした、名探偵」背後から兄の声がした。からかうような声だった。
「いくらなんでも妄想が過ぎるだろう。その仮説はなにが根拠になってる」
「おっしゃるとおりです。ただ、なんとなくこう考えれば辻褄が合うように感じたんですよね。家に忍びこまれただけで従妹を殺すような人はいないでしょう。でも、愛する弟がそいつを手にかけた後だったなら? 素尚くんの罪を完璧に隠蔽してあげるべく、優しいお兄ちゃんが最後の汚れ仕事を引き受ける気になってもおかしくはない」
愛する弟。万慈の言葉がそこだけ火傷の痕に触れたように熱く感じた。
(だったら、どうして)
ふりむきたい。いま、兄がどんな表情をしているのか確かめたい。
(どうして秘密に?)
殺したはずの夕貴が生きていて、本当に殺したのが家彦だったなら、なぜそれを素尚に隠すのか。弟を罪の意識で縛りつけ、真実が明るみになることを防ぐためだとしたら。
「しっかりしろ!」
ドン、と強く背中を叩かれた。転びそうになった素尚が思わずふりかえると、不機嫌そうに眉を曇らせた兄の顔があった。
「これが罠だ。あのバカは、こんなつまらない憶測で俺たちをビビらせるためにマーダーミステリーを作ったんだよ!」
ハハ、と万慈の乾いた笑い声がした。
視界が開けてくる。山道が途切れ、アスファルトの道路に代わった。
(兄さんの言うとおりだ)
殺されたはずの夕貴が生きていた。夕貴と小衣は双子の姉妹だった。マーダーミステリーには万慈と同じ推理にたどりつくためのヒントが忍んでいた。
それだけではない。裏切りという暗示が潜んでいた。しろがねさまは素尚を操って人殺しをさせ、小衣は自分一人が生き残るため夕貴に予知のことを教えなかった。
(でも、それはおかしい)
こんな罠を仕掛けるには、万慈は真実を確信していなければならない。
夕貴を殺したのは素尚だと看破していなければこんなことはできない。なんの根拠もない妄想を前提に一ヶ月も手間暇かけてマーダーミステリーを創作するなんて馬鹿げたことを正気の人間がするわけがない。
(どうやって?)
万慈はいつ、どうやって真相を悟ったのか。
「どうです、もう少しお話ししていきませんか」
歩きながら万慈が首だけふりかえった。肩越しに雲外荘の石塀が見えた。