素尚が兄の車に乗り、雲外荘を離れたときには五時になろうとしていた。
「もし白鐘大学に入学したら、ぜひスフィンクスに入ってね」
別れ際、美月にそう声をかけられ「そのときはお手柔らかにお願いします」と素尚は苦笑いしながら答えた。美月と小衣、そして千笑美のため、万慈は電話でモーターボートを手配した。湖を横断して駅前に渡るという。
片づけはすべて万慈が一人でやるという。今夜は雲外荘に宿泊するそうだ。
本来なら兜斗の車と同じ方向へ向かうはずだったが、そうはならなかった。帰ろうとした兜斗に万慈が「すみません、ちょっとまたご相談したいことがありまして」と呼びかけた。気になったが、家彦に「行くぞ」と言われて素尚は玄関に向かった。
車が走りだしてからしばらく、助手席の素尚はフロントガラスに広がる緑を眺めていた。日が暮れるにはまだ早いが、心なしか陽射しが和らいでいるように感じる。カーブを曲がり、木立が途切れ湖面が広がったのを目にして、思わず言葉が口を突いてでた。
「なにもなかったね」
返事はなかった。ハンドルを握る家彦はまっすぐ前をみつめている。
「万慈さん、本当にただテストプレイしたかっただけなのかな」
「そうだな」素っ気ない兄の返事は、どこか固い調子があった。
「訊きたいことがある」
素尚は反射的に「なに?」と応じた。
「あれはいつ思いついたんだ。愛季さんが裏切っていたというのは」
ああ、あれのこと。感想戦の終わりに起きたことを素尚は思い返した。
どうぞ、とばかりに万慈は手の平を表にして差しだした。説明するよう求められていると理解し、素尚は「ええっと」と言いながら頭の中を整理した。
「姫白先輩と愛季さんは似てますよね」
イラストからして顔がそっくりなこと、高校生と中学生ながら制服の夏服は似ていること。兜斗から電話を受けたとき、小衣は西岸にある巫女観音の祠にいたかもしれないことを素尚は説明した。
「たしかに風景まで含めてそっくりになるのはわかったが、それがどうしたというんだ」
家彦は本気で首を捻っているようだった。
「俺はてっきり、アリバイ工作の類を疑わせるためのブラフと思っていた」
「うん、僕もそう思ってた。でも天狗の落とし文のことを思いだして」
「姫白家が情報通だったことが、なにか関係するのか?」
「そっちじゃなくて」
「予知能力か!」
素尚はこくりと頷いた。
「十年前、三浦良子が土砂崩れで行方不明になった。後になって、その事故は予知されていた、警戒するよう姫白家から連絡があったという話が兜斗さんの告白にあったよね。本物の転生の巫女である愛季さんは、ただ生まれる前の記憶があるだけじゃなくて、未来を予知できる能力があったんだと思う」
小衣はなにも言わず、ただニヤニヤと薄笑いを浮かべている。
「事件が起きる前に愛季さんは、姫白先輩が殺される光景を予知能力で目にしたんじゃないかな。巫女観音の祠の前で、夏の制服姿の先輩が誰かに刺される姿をです。ひょっとすると、殺人の後しばらくして三浦くんが通りかかるところまで目にしたかもしれない」
兜斗のほうに目をやる。少しだけ驚いているように見えた。
「三浦くんから電話があったとき、愛季さんは自分がまずい状況にあると気づいたんだ。だって、そこには予知したのとそっくり同じ光景があったから。巫女観音の祠の前、眼鏡をかけていなくて姫白先輩とそっくりな自分。そこへ三浦くんまで呼んでしまったら、殺されるのは姫白先輩ではなく自分になってしまう。それを恐れたからこそ、とっさに愛季さんは学校にいると嘘を吐いた。そして大急ぎで遊覧船に乗って、予知した光景が自分ではなく姫白先輩のほうに当て嵌まるようにしたんだ」
「愛季さんは、予知のことを姫白さんには教えなかったということね」
体温を感じられない声で美月が言った。
「はい、そうとしか考えられないです。二人はこっそりメッセージをやりとりするくらい親密な仲だった。そもそも姫白先輩はなぜ『紫ヶ森むかしむかし』を探していたんでしょうか。日庭神社を訪れたのは神殺しの剣を手に入れるためでしょうね。転生の巫女が〈しろがね〉さまの手先に襲われるのをなんとか防ぎたかったんだと思います」
「実を言うと『紫ヶ森むかしむかし』を隠したのは私、しろがねさまなの。あれは紫ヶ森の知られてはならない真実にたくさん触れてしまっている本だから」
美月の言葉に、素尚は深く頷いた。夕貴が横浜にある大学の図書館にまで問い合わせていたのは、そういう伏線だったのか。
「姫白先輩は愛季さんを守ろうとしていた。それなのに愛季さんは」
だって、しょうがないじゃん。明るい声で小衣が言った。
「夕貴が殺されてくれれば、ボクのほうが助かるんだから」
あどけない少女のように小衣は微笑んでいる。
素尚はぞっとするものを感じた。赤と白のボーダー柄のトレーナーが一瞬、巫女の袴姿に見えた。そこには「愛季小衣」がいた。
「ちなみに万慈先輩のために補足しとくと、予知夢って、あんまり思いどおりにはならない能力なんだよね。重大な出来事だからって必ず予知できるとは限らないし、普通の夢と予知夢の区別もつかないんだってさ。自分が殺されることを必ずしも予知できないから、あらかじめなにか準備して、しろがねさまの攻撃を防ぐことはできないわけ」
飄々と説明する小衣に、素尚は安堵した。さっきのはただの錯覚だったらしい。
素尚は苦笑いを浮かべていた。さて、兄にどう説明しようか。
「ギリギリだったよ。愛季さんに『天誅』って言いかけたとき、たまたま地図が目に入って。愛季さんは祠の近くにいたんじゃないかって気づいて、ああいう推理になって」
「待て」
ぐっとシートベルトに締めつけられる。家彦がスピードを落としたらしい。
「それなら、どうしてしろがねさまを選んだ。愛季さんは姫白夕貴を裏切っていたと気づいたんだろう? そんな人でなし、殺してやろうと思わなかったのか」
兄の言葉が染み渡るまで、しばらく時間を要した。
人を殺す理由が欲しい。小衣に秘密カードを突きつける直前、そう思った。心の底から欲しがっていたものを手に入れた。それなのに。
(あれ、どうして)
どうしてだろう。愛季小衣のしたことは人として許されないことだ。だからといって、殺人者である自分に断罪の権利はあるのか。姫白夕貴を愛していた人々なら殺したかもしれない。けれど復讐のためなら殺人だって許されて当然なのか。
殺して構わないと思えるほどの罪なんて無い。けっきょく、そういうことだろうか。いや、違う。あのとき思ったのはそんな一般論じゃない。もっと素朴な理由があった。
(僕は、あのとき)
あのとき自分はなにを想ったのか。
「殺せないと思ったんだ」
素尚は口を開いた。とても言い表せないと思ったことが、不思議とたやすく言葉になる。
「僕じゃなくて『辰木素尚』には殺せないと思った。姫白夕貴は誰からも親しまれていて、陽のあたるところにいる。本当なら自分がそうなっていたはずなのにって、愛季さんはずっと思っていたんじゃないかな。辰木素尚も同じなんだ。誰からもふりむいてもらえない、見向きもされないって。あの二人なら、そういう悲しみを分かちあえたんだ」
だから、殺さない。殺せないんだ。
そう言おうとして、慌てて素尚は口を閉じた。涙声になりそうだった。
「そうか」家彦が小声で言った。
いつの間にか見慣れた景色があった。木立に囲まれ、ゆったり右へカーブするアスファルト道路の先に辰木家があった。
しかし車は家に到達しなかった。スピードが落ちていき、やがて完全に停止した。
「兄さん?」
そこは丁字路だった。脇道を利用して家彦は車の向きを百八十度変えた。
「見舞いに行こう」ハンドルを切りながら家彦が言った。
二人の間で「見舞い」という言葉がでてきたなら、指し示す相手は一人しかいない。
「え、いまから?」
「そうだ」
「どうしたの、急に」
おまえはともかく、俺はずいぶん間が空いたしな。言い訳めいたことをつぶやいたきり、家彦が言葉を続けることはなかった。
隣のベッドが空いていた。三つ並ぶベッドの、いちばん窓際だ。先週来たときは白髪混じりのお爺さんがいたように思う。
「退院されたの」
丹奈が言った。抑揚のない、平板な声だった。祝うのでもうらやむのでもなく、ただ事実を告げる。何事もなかったかのように兄との会話に戻った。
母の話は相手への心配から始まる。元気にやっているか、仕事は順調か。入院生活の合い間に感じた季節の変化をワンクッションに、看護師への評価や他の患者たちの見舞い客のことを語る。そのときの声も同じだ。不満や嘲りの色はなく、事実を淡々と口にする。
母は話したくて話しているのではないのかもしれない。見舞いに来てくれた誇らしい息子に、遠く離れて暮らし共通する話題がみつからない相手に、どうしようもなく自分でも意義のわからない話をしているのかもしれない。兄はただ、相槌を打ち続ける。
素尚は病室をでた。頭に刻みこまれた病院の案内図に沿ってトイレに行く。用事を済ませ、病室に戻る途中で休憩スペースに立ち寄る。
手塚総合病院は紫ヶ森湖から駅ひとつ隣にある。素尚がいるのは六階で、窓からベランダ越しに隣の公園を見下ろすことができる。清潔感漂う真っ白な空間から、遥か下界の色に満ちた空間を眺める。残暑厳しい中でも、家族連れや子供の姿がちらほらとある。
辰木丹奈は子供の頃から虚弱だった。微熱や立ち眩みは日常茶飯事だったという。家彦を出産後に急性腎不全となり、長い入院生活を経験した。夫が交通事故死したときには鬱病を患った。その後も腎臓とメンタル、どちらかあるいはどちらも不調になる時期が間隔を空けて訪れるようになった。夕貴の事件の前後も入院しており、いったんは退院したが先週から再び入院している。
(元気そうだったな)
窓ガラスにうっすら自分の顔が映っている。意識して素尚は笑顔を作った。
(良かった)
いつか来るだろうか。自分が罪を世間に告白し、母の前で許しを乞う日が。
兄が両親と衝突する姿を、素尚は幼い頃からくりかえし目にしてきた。ゲーム制作に没頭してひきこもりじみた生活を送るようになり、父に説教されてふてくされ、家を飛びだして一週間近く姿を見せなかったこともあった。
父が亡くなると、家彦が母と言い争うことはなくなった。なくなったというより、できなかった。威圧的な父とは逆に、母は涙を流し、弱々しい姿をさらけだすことで息子をつなぎとめようとした。一人暮らしをしているのはそんな母から逃れるためか。鬱病の悪化の一因となったことを恐らく兄は自覚しているだろう。見舞いを欠かさないのは罪悪感があるからなのかもしれない。
愚行としか思えない兄のふるまいを目にするたび、素尚は何度も誓った。ああはなるまい。父にも母にも心配をかけたくない。家彦のようになにか華々しい才能はないかもしれないが、せめて母の不安を和らげることくらいはできるはずだ。
(そんな僕が)
病室での二人の姿が瞼の裏にちらつく。少しでもこの時間を延ばしたいと話し続ける母。ひたすら相槌を打ち続ける兄。素尚が見舞いに来ても、母があんな態度をとることはない。
(バカみたいだ)
ガラス窓を白いものが過ぎった。素尚がふりかえると、看護師がナースステーションのほうへ歩いていくところだった。「帆酉さん」ネームプレートを確認するまでもなかった。母のたび重なる入院で、すっかり顔馴染みになっている相手だ。
「あら、来てたの」看護師は足をとめると、素尚に笑顔を見せた。
「すみません、訊きたいことがあって」
「お母さんのこと?」
「いえ、それが……姫白夕貴さんに関することなんです」
「え? ああ、姪御さんの」
全国ニュースにもなった殺人事件の被害者で、入院患者の親戚とくれば看護師たちの間で噂になって当然だろう。
「大変ね、まだ犯人が捕まってないんでしょう」
「ええ、まあ。こっちにマスコミの人が来たりは?」
「そういう話は聞かないなあ。大丈夫、変な人が来ても追い払ってあげるから」
「あの、」唾を呑みこんでから素尚は言葉を続けた。
「唐木戸万慈って人は来ませんでしたか。大学生で、頭を坊主刈りにした人です」
ようやく話がわかったとばかりに看護師は顔を明るくした。
「来たんですか」
「私じゃなくて、他の人が応対したんだけどね。丹奈さんの病室はどこか、しつこく訊いてくる人がいたから注意しましょうみたいな周知があったの。もちろん教えなかったからね。家彦さんのお友達かなにか?」
「ウーン、知り合いといえなくもないくらいの人かな」
ありがとうございますと素尚は頭を下げた。看護師に背を向け、病室のほうへ歩きだす。
急ぎそうになる足を、意識して勢いを緩めなければならなかった。あの夜、なにがあったのか。これからどうすべきなのか。考えるべきことがあまりにも多すぎた。