八月が下旬を迎えても暑気は日本を去ろうとしなかった。それとは裏腹に、紫ヶ森湖の事件への世間の関心は冷めつつあった。辰木家を別の刑事たちが訪れることもあったが、質問はほぼ同じ内容のくりかえしだった。刑事たちの顔には焦りと諦念がにじんでいた。
さすがにこれだけ時間が過ぎていれば大丈夫だろう。姫白夕貴の遺体発見から二週間が過ぎ、紫ヶ森運動公園を訪れた素尚はあんぐりと口を開けた。あのプレハブ小屋が消えていた。工事が進んだことで小屋は不要になり、撤去されたらしい。
朝のニュースに耳を澄まし、さまざまなキーワードでSNSやネット掲示板を検索した。素尚の知る限り、新しい事実が判明したという報せはなかった。これだけ時間が過ぎても名乗りをあげないということは、目撃者はいなかったのだろう。
新学期を迎えた。クラスメイトから素尚は「あの事件、おまえの家の近くだろ」と話しかけられた。夕貴との関係までは知らないようだ。従姉だと説明する気にもなれず適当にはぐらかした。自分が動揺していないことに気づいたのはしばらく後のことだった。
九月に入って初めての金曜日の夜、宿題を片づけていると兄から電話がかかってきた。
「万慈から謝恩会の誘いがあった」
胸騒ぎがした。辰木家のリビングで検討会をしてから三週間近くが過ぎている。あのときはあんなふうに言えばよかったと後悔が胸を過ぎることもあったが、最近は落ち着いていた。万慈の名前ひとつで暗い気持ちが湧いてきた。
「しゃおんって、感謝を伝える会ってこと?」
「あの名探偵さまが、事件の調査にご協力いただいた方々に感謝あそばされたいそうだ」
スマートフォンの向こう側で、兄が唇を尖らせているのが目に浮かぶようだった。
「検討会の続きをやりたいってこと?」
ぷっと兄が噴きだした。
「そうそう、そのくらい警戒して正解だな。万慈にそのつもりはないそうだ。食事をして、歓談して、余興にゲームを愉しむ。そんなことを考えているらしい」
「罠だと思うけど」
「だろうな。あいつは絶対、なにか仕掛けてくる」
語尾が笑いで震えている。素尚は意外に思った。兄はそれほど万慈に嫌悪感を抱いてないらしい。敵には違いないが、それなりに認めているということか。
「俺だけの参加でも良いかと訊いたら、主賓のお二人にはぜひそろってと言われたよ。他にも招待客が四人いるそうだ。サクラを仕込んでくるのかもな」
「そこまであくどいことするかな」
言葉を発してから、素尚は驚いた。自分も万慈にそれほど悪印象は無いらしい。
「検討会ではゲームなんて言葉を使ったが」考えこんだのか、家彦の言葉がとぎれた。
「あれは建て前だ。あの坊主頭をごまかすための詭弁だ。俺たちがやったのは犯罪行為の隠蔽で、これからもずっと死ぬまで続く。それは忘れないでくれ」
わかってるよ。口にした返事は思ったより弱々しくなった。
「手詰まりになって、あいつは焦ってる。卑怯な手段を使ってもおかしくないさ」
「じゃあ、やめとく?」
「俺としては参加したい。ここで牙を折ってやれば、さすがにあきらめるだろ」
兄さんらしい考え方だ。素尚は小さく頷いた。
「二人で参加すると返事しておいて、急病になったと当日説明するなんて手もあるが」
「参加するよ」
少し間を置いて「そうか」と兄は返事した。
「そういえば、余興のゲームってなんなの」
「万慈のお手製だそうだ」
「オリジナルのゲームを作ったってこと?」
「スフィンクスで流行っているゲームとも言ってたな。海外のゲームを翻訳してアイテムを自作したとか、そういうことかもしれないな」
万慈は謎解き愛好サークルとやらに参加している。事件の調査とは無関係にゲームに力を入れてもおかしくない。案外、楽しい時間になるのかもしれないと素尚は思った。