すべきことを万慈は忘れなかった。素尚の案内で二階を確かめた。リビングから目撃されずに外へでることは不可能だと認めた。
 メッセージアプリに届いた兜斗からの返事も素尚のアリバイを裏づけた。掃き出し窓にカーテンはかかっておらず、外灯のおかげで庭の様子を窺えたという。
 トイレを済ませた素尚がリビングへ戻ると、雰囲気が変わっていた。
「先に頂いてるよ」指でつまんでいるものを万慈が掲げる。
 きんつばだった。昨夜、都内から帰ってきた家彦の土産だ。
 空気が弛緩していることに素尚はとまどった。ついさっき、今度は僕が疑われるのかと恐怖を覚えた。兄だって身構えただろう。真犯人は素尚だという本丸に踏みこまれたのだから。第二ラウンドが始まる。そう思っていたのにどうしたのだろう。
「じゃあ、始めますか」麦茶を一口飲んで万慈が告げた。
「考えたんだが」家彦が口を開いた。皿の上のきんつばは半分だけ齧られている。
「いまいち良い反論が思いつかない」
 兄さん? 思わず素尚は声をあげそうになった。
「まあ、順を追って話しましょうや。動機については察しがつきますね。お兄ちゃんがなにか悪いことをしたと察していたなら、思い切ったことをしても不思議はない」
 手の中で持て余していたグラスを万慈はローテーブルに戻した。
「運動公園で姫白さんの推理に衝撃を受け、素尚くんは動揺します。家に帰ってもそのことが頭から離れない。姫白さんに電話して、清馬滝で会うことになった。口論になり、隙を見て襲いかかった。死体を滝壺へ投げ捨てて素知らぬ顔で帰宅というわけです」
「わけです、て……」
 思わず視線を正面に向けた。兄は瞼を細めてきんつばをかじっている。
(いけない)
 黙っているだけでも怪しまれる。なにか反論しないと。これは自分が起こした事件、誰のものでもない僕の罪なんだ。でも、なにを言えばいい?
「ア、アリバイはどうしたんですか」声が裏返りそうになった。
「二階から目撃されずに外にはでられないって、さっき確かめたじゃないですか!」
「そう、そのとおり」
 もぐもぐと口を動かしていた万慈が、ごくりと呑みこんでから口を開いた。
「だったら、初めから外にいればいい」
「ハ?」
「兜斗さんが来訪した時点で、君はすでに外にいたんだ。なにをしていたのかは知らない。気分が落ち着かず、早めに清馬滝に着いてしまっただけかも。そして姫白さんを殺し、この家に帰ってきた。兜斗さんが来ていると気づき、しかたなくまた外で時間をつぶした」
 頭の中が真っ白になっていく。夕貴を殺したのは六時頃のことであって九時前ではない。夜は本当に二階の自室にいた。それなのになぜ追い詰められているのか。
「いや、えっと、どうして清馬滝なんかで待ち合わせる必要があるんです」
「まさか素尚くん、車の運転ができるとは言わないだろう? ただの高校生に死体の隠蔽は難しい。清馬滝なら死体が浮かんでこないから好都合だった」
「どうして肩掛け鞄なんか凶器にしたんです? 初めから殺意があったなら、ナイフのひとつくらい用意しそうなものじゃないですか」
「用意したかもしれない。ただ清馬滝で姫白さんの鞄を目にして、これは使えると思ったんじゃないか? 刃物で刺したり鈍器で殴ったりすれば返り血を浴びるかもしれない。運悪く死体が滝から浮かんでくれば検屍され、凶器だって特定される。被害者自身のもので殺すほうが手掛かりを残さずに済む。そんな計算を働かせたわけだ」
 もはや素尚にはなにも思いつけなかった。目の前が暗くなっていくような心地がした。
「弟をいじめるのは、それくらいにしてもらえるか」
 唐突に家彦が口を開いた。万慈が亀のように首をひっこめるしぐさをした。
 手にしていたグラスを兄はゆったりとした動作でローテーブルへ戻した。身を起こし、まっすぐに素尚の目をみつめる。
「うろたえすぎだ。みっともない」
「いや、だって」
「このゲームのルール、わかってないだろ」
「ルールって……」
「俺たちは負けても良いんだよ」
「負けても、いい?」
「言い換えるなら、勝ってやらなければならない義理はないってことさ。この検討会、万慈くんの勝利条件は俺かモトに犯行は可能だったと言い切ることだ。それはわかるな?」
 素尚はおずおずと頷いた。
「俺たちの勝利条件は、推理を否定できるだけの証拠を万慈くんに突きつけてやることだ。さっき、俺が犯人だという仮説は兜斗くんの来訪によるアリバイがあって成立しなかった。そういうのが俺たちの勝利ってわけだ」
「じゃあ、僕が犯人かもしれない仮説のほうは」
「うまい証拠がない。否定できない。俺たちの負けだ」
 顔の前で家彦は拳を握り締めたかと思うと「ボーン」と言いながら開いた。
「だが、それがどうした?」
 家彦はソファに浅く腰掛け、だらしなく背もたれに背中を預けると、足を組んだ。肘掛けからだらりと腕を垂らし、ぶらぶらと揺らす。
「これは現実に起きた事件なんだ。そう都合良く反証なんかみつかるわけないだろ。辰木素尚は姫白夕貴を殺した疑いがあります。それだけの話さ。そんな疑い、この紫ヶ森湖のまわりに住んでる、ほとんど誰にだってある」
 説明ありがとうございます、と万慈が頭を下げた。続けて、素尚のほうにも頭を下げる。
「おどかして悪かったな、素尚くん。そういうわけだ。できれば素尚くんも犯人じゃないと否定できる根拠が欲しかった。そうすりゃスッキリできた。根拠が無いからって、別にどうもしない。俺がもやもやする、それだけの話さ。さっきの家彦さんの話だとゲームに勝ったことになるんですが、空しい勝利ですよ。まあ、俺なりにこの事件について全力でぶつかることはできたから、それで充分ですけどね」
 万慈はローテーブルからノートパソコンを手にとると、ディスプレイを畳んだ。筆箱にボールペンを入れ、行動表をクリアファイルに挟んでナップザックへ仕舞う。いろいろと追記して行動表は次のようになっていた。

行動表(追記後)
八月十一日(日)
 一七時頃    死亡推定時刻はここから
 一七時半過ぎ  夕貴が美月たちと別れる
 一八時過ぎ?  夕貴が素尚と別れる
 一八:一二   夕貴から体調不良で宿に戻る旨のメッセージが届く
 二〇:二七   雲外荘の防犯カメラに、帰ってきた夕貴の姿が映る
 二〇時半頃   家彦が紫ヶ森湖に到着
 二〇:四二   雲外荘の防犯カメラに、でかける夕貴の姿が映る
 二〇時四五分頃 美月と小衣が宿の前で夕貴の姿をみかける
 二〇時五〇分前 兜斗が三浦家を訪問
 二一時頃    死亡推定時刻はここまで
 二一時半頃   兜斗が三浦家を去る
八月十二日(月)
 六時頃     夕貴の遺体が発見される

 今日はどうも、お時間いただいて本当にありがとうございました。ソファから身を起こした万慈が深々と頭を下げるのを目にしても、素尚は夢見心地だった。
「夕貴さんが亡くなったのになんだが、まあ気晴らしにはなった」
 家彦も立ちあがると「俺が見送るから、グラスとか片づけてくれ」と弟に伝えた。二人は連れ立って扉の向こうに姿を消した。
(なんだろう)
 胸に手をあてる。この気持ちはなんだろう。裸足で砂利道を歩くような、落ち着かない感じ。犯人だと名指しされた恐怖や興奮がまだ鎮まらないのか。
(ちがう)
 ひょっとして自分は嫉妬したのではないか。議論を愉しむ二人の姿に、仲間外れにされたような気持ちにならなかったか。

 玄関扉脇の波板ガラス越しに、まだ強烈な陽射しが照っているのが窺えた。万慈はここへ歩いてくるまでの暑さを思いだし、顔をしかめた。
(うまくあしらわれたもんだ)
 すぐ隣で家彦の足音がしている。リビングでの会話を思い起こした。姫白夕貴の追悼のため辰木兄弟と推理ゲームをしに来た。なるほど、そう言われるとそんな気もしてくる。
(いかんな)
 客観的に物事をみつめるのは難しい。理性的に物事を捉えなければならない。こうだと一方的に決めつけず、さまざまな可能性を吟味し総体的に受けとめる。迷いを抱えることは悪いことじゃない。迷いながら問題をみつめるほうが健全だ。
 だが、どうしても辰木素尚が犯人だという考えが頭から離れない。
 ここへ来れば否定できると思った。この妄想から逃れられると思った。しかし、うまくいかなかった。もっと大胆に踏みこんでみるか。姫白さんが殺されたのは運動公園で素尚くんと会ったときじゃないですかね? そうぶつけてみるか。
 やめておけ。素尚ならまだしも、この男にそんなブラフは逆効果だ。もう少し手前で、そう、こんなのはどうだ。
「最後にひとついいですかね」
「コロンボ刑事みたいなこと言うんだな」
「ちょいと面白い推理が浮かびました。なんだと思います?」
 横目で伺う。家彦は無言のままだった。
「実は三浦良子さんが生きていて、替え玉を務めたなんてのはどうですか」
 唇の端に力を入れる。ちゃんと冗談を言っている顔に見えるだろうか。
「姫白さんは良子さんと似てるんですよね。だったら替え玉になれるじゃないですか」
「俺に協力するわけないだろ。良子にしてみれば可愛い妹みたいな子を殺されたのに」
「ウーン、そうですよね。やっぱり無理があるか」万慈は苦笑しながら頭をふった。
「そうだな」家彦が言った。
「良子が生きていてくれたら、俺はうれしかっただろうな」
 暗く弱々しい声だった。万慈は眉をひそめた。
 夕貴の葬儀のときも感じた。辰木家彦という人物は感情を隠すのが巧いほうではない。今の言葉は演技なのか、それとも思わず漏らしてしまった本音なのか。
 このガードの緩さが必ずしも短所ではないのが家彦の凄味だろう。バレバレだ、こいつは小物だなと侮っていると、いつの間にか主導権を握られている。万慈が挑発しても家彦は落ち着いていた。敵対関係のはずが互恵関係にされていた。なんて口達者な奴だろう。自分よりもっともらしいことを言える相手を万慈は初めて知った。
 家彦が玄関扉を開けた。その間に万慈はサンダルに足をひっかけた。
「気をつけて、お帰りを」
「お世話になりました」
 頭を下げた万慈が身を起こすと、家彦の笑顔があった。薄暗い玄関に陽射しが斜めに差しこみ、陰影が刻まれたゲームクリエイターの笑顔はどこか作り物のようだった。
「俺からも最後にひとつ良いか」
「なにか面白い推理が?」
「いや、ただの事実だ。事実かもしれない、くらいの話だが。夕貴さんの遺体がみつかった日、俺は清馬滝に行ってみたんだ」
「肩掛け鞄がみつかったから?」
「テレビニュースで知ってな。亡くなったのがそこなら、手を合わせに行こうと思った」
「そもそも入れたんですか」
「東屋とか、滝壺へ下りるのは禁止だった。手すり越しに滝を見下ろすのは問題なかった。滝壺のまわりを作業服の人たちが調べていた。けっこう時間がかかるものなんだな」
「遺留品がないか調べてたんでしょうね」
「だろうな。工事現場の櫓っていうのか、あんなものまで組んで熱心に調べていた」
 万慈は口ごもった。直感的に、家彦がなにを口にしようとしているのか悟った。
「滝壺へ飛びおりようとすると、でっぱりがあるんだよ。滝に覆われていない、粘土質というのかな、土肌が剥き出しのところだ。遠くてわかりづらかったが、少し色が違う、擦った痕があるように見えた」
「つまり、それは」
「落とされた死体がぶつかって、痕が残ったんだろうな。確信はないから、さっきの検討会では言わなかった。だがな、これが本当に死体の残した痕だったとしたら?」
「替え玉説は成り立たないってわけですね」
「情熱的な替え玉が、でかい石でも投げこんだってなら話は別だがな。ただ、滝に死体を投げこんだことは肩掛け鞄という物証を残すことで示しているんだから、石まで投げこむ必要はないだろう。そこまで大きな石を調達したなら、初めに石が置いてあったところに跡が残るだろうし。曖昧な話で悪いが、伝えたかったのはそれだけだ」
 家彦が慰めるように万慈の肩を軽く叩いた。
「いえ、参考になりました。本当にありがとうございました」
 玄関扉が閉まっていく。完全に扉が閉じると、万慈は「まいったな」とつぶやいた。背中を丸め、肩を落とす。だが、込みあげてくる笑みを抑えることはできなかった。

 終わった。玄関扉が閉まると同時に、家彦は安堵の溜め息を吐いた。
(良かったのか?)
 万慈に伝えたことは嘘ではなかった。家彦は清馬滝へ足を運んだ。鑑識員らしき人々が崖を調べている姿を目にした。なにかがぶつかったと思しき擦り跡が残っていた。
(本当にあれで)
 万慈は良子による替え玉説を唱えた。行方知れずになった人物が実は生きていて、事件に関わっていた。いかにもミステリマニアが妄想しそうなことだ。
 だからカードを切るしかなかった。冗談めいた口ぶりにせよ万慈は素尚犯行説を唱えた。替え玉説を否定しておかなければ、犯行時刻はもっと早かった可能性を疑いだすだろう。その方向で調査し、素人のまぐれ当たりで新しい発見をされたなら最悪への道が通じる。それだけは避けたかった。
 リビングの扉を開けようとした。触れてもいないのにドアレバーが勝手に下がった。
「兄さん」
 今日はよくがんばったな。労いの言葉をかけようとした。だが、異変を感じた。弟は大きく目を見開いている。いまにも震えだしそうに怯えた表情をしている。
「替え玉はありえないって、どういうこと?」
 玄関でのやりとりが家彦の脳裏を過ぎった。扉が閉まっていたこと、玄関からここまでの距離からして、せいぜい断片的な言葉を耳にしただけだろう。
「ちょっと吹きこんでやったのさ」
 なんでもないとばかりに素尚の肩を叩く。リビングに入る。グラスや皿が片づけられていた。間違いない、弟は最後のほうしか聞いていなかったはずだ。
「反省会でもするか」
「兄さん」
「まあ、待て。安心したせいか喉が渇いた。モトも麦茶で良いか?」
 素尚が頷くのを目にすると、家彦はキッチンに向かった。歩きながら、頭の中はめまぐるしく回転していた。弟になにを、どこまで説明すべきか。
 一方で家彦の心は過去へ跳んでいた。夕貴を殺したと弟から電話で知らされ――高速道路を走り――物言わぬ骸を見下ろし――ボートに乗っていた。
 夜明け前だった。山の稜線だけがわずかに明るい。暗い空と真っ黒な水面、闇の広がりに天地を挟まれている。
 ゆっくりとオールを繰る。水音を立てないよう慎重に、油断なく陸のほうに目を凝らしながら。スマートフォンのライトを唯一の光源にしてボートを進める。誰かに目撃されることを危惧し、パーカーのフードを被って顔を隠していた。
 なにかが視界の隅を過ぎった。オールを握る手をとめる。わずかな水の音さえ止み、静寂に包まれる。家彦は目を凝らした。ボートの周囲、ほんの数メートルほどしか視界がきかない。わずかに湖岸の形がわかる。後はただ、宇宙空間を思わせる闇が広がっている。
(いるのか)
 独りだった。ボートに家彦はただ一人きりだった。
(そこにいるのか)
 湖岸沿いに視線を走らせる。そこに浮かんでいるのではないか。命を失い、水と同じ冷たさになり、闇に蝕まれていく屍が漂っているのではないか。悪魔にも奇蹟を起こせるなら、今こそ起こしてくれ。そう願いながら家彦は暗い水面に目を凝らした。