素尚は一人きりだった。家彦が万慈を手洗いへ案内すべく、二人そろってリビングをでていった。ローテーブルの上にある行動表に綴られた文章を読み返す。
 ――アリバイ工作を頼んだ。
 夕貴の遺体が発見された朝のことだった。このリビングで兄と話をした。
 ――知り合いに、夕貴さんのふりをしてもらったんだ。
 いったい誰がそんなことをしてくれたのか。何度訊いても家彦は答えなかった。おまえは知らないほうが安全だ。そう言われると素尚には返す言葉がなかった。
 兄の口調や態度は真剣そのもので、嘘をついているようには感じなかった。とはいえ、あまりに突拍子がない。家彦が紫ヶ森で暮らしていたのは高校時代の三年間だけだ。殺人という大罪の隠蔽を手伝ってくれるほど親しい人物なんて本当にいるのだろうか。
(でも、いたんだ)
 こうして万慈の話を聞いてみると、もう疑いようが無い。
(誰だろう?)
 万慈は空白の時間を気にしていた。夕貴はもっと早く雲外荘へ帰ることができたはずなのに、八時半頃までなにをしていたのか。その答えは「家彦にアリバイ工作を頼まれた誰かが準備に要した時間」だろう。
 家彦は誰かに協力を頼んだ。ことは殺人事件なのだから、頼まれたほうだって決意を固めるのに時間がかかっただろう。監視カメラに映った姿は服装まで夕貴と同じだった。その人物は夕貴の遺体から服を剥ぎとって変装したことになる。つまり、素尚が遺体を隠した場所と雲外荘との間を行き来する時間も必要だった。
(きっと頭の良い人だろうな)
 それにひきかえ、自分ときたら。素尚の犯行は無様としか言いようがないものだった。ベンチの上にだらりと横たわる身体を前にどれだけのあいだ途方に暮れていただろう。
 脳裏に浮かんだのは工事現場だった。資材を置くためのプレハブ小屋があったはずだ。他に選択肢は無かった。まだまだ盛んに陽射しが照っている。ここは公園だ。誰がいつ通りかかってもおかしくない。早く死体を隠さなければならない。
 奴隷になった気分だった。意識のない人間を炎天下に担いで運ぶことがこれほど大変だとは思わなかった。せいぜい距離にして百メートルほどだったろう。誰かにみつかったその瞬間に人生が終わる百メートルだった。
 当然、鍵がかかっていた。扉の上半分に波板ガラスが嵌まっていた。大きめの石を拾い、躊躇なくガラスを割った。手を差しこんでドアノブのつまみを捻った。
 がらんとした部屋だった。以前みかけたときはヘルメットや工事現場によくある立て看板などがあったのに今はなにも無い。奥のほうに棚があり、いくつかの資材とブルーシートがあった。夕貴の身体を運び入れ、ブルーシートで包もうとして、ぎくりとした。
 たしか夕貴には同行者がいるはずだ。なんの連絡もなく姿が消えれば騒ぎになる。指紋を残さないようハンカチで覆った手で、肩掛け鞄からスマートフォンをとりだした。試しに夕貴の指を押し当てるとロックを解除できた。後で気になってネットを調べてみたが、死者の指でロックを解除できるかどうかは認証の方式や死体の状況次第らしい。
 メッセージアプリを起動し、やりとりから同行者らしき人物を探した。ちょうど深川美月という人物からメッセージが来ていた。体調不良のため先に戻る旨を返信した。これで時間稼ぎになるだろう。
 スマートフォンの電源を落とし、鞄に戻す。夕貴の遺体を肩掛け鞄ごとブルーシートで包んで棚に押しやった。ハンカチで汗を拭い、息苦しさを覚えながら素尚は家彦に電話した。姫白夕貴を殺したこと、プレハブ小屋に隠したことを説明した。
 長い沈黙の末に家彦は告げた。おまえは家に帰れ、後は俺が全部やるからと。素尚は兄の言葉に従った。なにかを考える余裕など無かった。辰木家に帰り、自室で過ごした。一度はベッドに横たわったが、五分と経たずにまた起きた。スマートフォンを何度も手にとったが、兄になにを伝えるべきか、なにを訊きたいのかわからなかった。
(けっきょく僕は)
 運動公園で夕貴と話した内容については後で家彦に伝えた。しかし「兄さんが良子さんを殺したの?」という問いを投げかけることはできなかった。
(なにも変わってない)
 かすかな音がした。いつの間にか家彦がいた。行動表を手にとり、みつめている。
「兄さん」
 手にした紙から顔を上げ、家彦がどうしたとばかりに小首を傾げる。
「気になったんだけど、あの夜、兜斗さんが来たのって」
 待て、とばかりに家彦が顔の前に手をかざした。扉の向こうから足音が近づいてくる。
「じゃあ、続けましょうか」
 リビングに入ってきた男が坊主頭をつるりと撫でた。上機嫌で、鼻歌でも口ずさみそうだ。のっしのっしと歩いてくると、三人掛けのソファの真ん中にどさりと腰を下ろした。膝を開いて座る姿が、借金の取り立てにきたヤクザを思わせる。
「ぶっちゃけますよ」家彦がソファに腰を下ろすと、待ちかねたように万慈は口を開いた。
「アンタが姫白さんを殺した――俺はそう疑っています」
 笑みを浮かべた万慈は「面白い冗談でしょう」と続けて言いそうな気がした。
「そうか」
 家彦は静かだった。怒りを覚えているようではない。だが、万慈を睨みつけている。傲慢の色は無い。泰然自若としている。
 けばけばしい柄シャツ、胸ポケットにはサングラスを差している。いつものランニングシャツ一枚でうろつく姿よりはマシだ。かといって旅先で道に迷ったり写真を撮ってもらいたいとき声をかけたくなる相手ではない。筋トレとジョギングを欠かさないそうで体格は良く、背丈のおかげもあって威圧感がある。
 なにかしら反応があると万慈は期待していたのだろう。沈黙したままの家彦にとまどっている。やがて標的を替えた。くるりと顔がふりかえり、素尚のほうを向いた。
「実を言うと、素尚くんが姫白さんと公園でなにを話したのか察しはついてるんだ。クラウド上に姫白さんのメモが残っていてね」
 それから万慈が語ったことは、運動公園で夕貴が説明したのと同じ推理だった。日庭千笑美が遊覧船から目にした姿は、良子ではなく夕貴だった。遊覧船と自転車を乗り継いだと考えれば、坂峯家の火事が起きたとき良子はまだ小柄地蔵の付近にいたことになる。だとすれば、良子が姿を消した事情には家彦が関わっている可能性が高い。
 あらかじめ兄と打ち合わせていたとおり、素尚は正直に語った。家彦が坂峯家を訪れたのは父の無実が明らかになったと報せるためであり、火をつける動機がない。玄関に鍵がかかっていなかった理由は知らない。
「こりゃ暗いほうのグレーですね」不謹慎な笑みをこらえる顔つきで万慈が言った。
「動機はさておくにしても、俺には正直、各務原さんが坂峯家の合い鍵を用意して侵入、それを目撃した良子さんの口を封じたとしか思えません」
「そうだな」家彦が頷いた。肘掛けの片方に肘をつき、だらしなく身体を斜めにする。
「それで? 俺が良子を殺して湖に沈めたとして、どうなるんだ」
 こんな感じの兄を目にするのはひさしぶりだ。まだ家彦がこの家にいた頃、喧嘩するとこうなった。他人事のように素っ気ない態度。腹の底で「おまえなんかのためになんで俺が労を割かなきゃならないんだ」と憤っているのがわかる。
「そいじゃ各務原さん、事件当日の行動をお話しいただけますか」
 万慈が訊いた。へりくだった口調はわざと怒らせようとしているのか。
「先に言っておく」ふっと家彦が顔の緊張を和らげた。
「各務原と呼ばれるのはどうもくすぐったくてな」
「じゃあ、家彦さんですかね」
「それで良い。で、アリバイだったな。俺は普段、目白にあるマンションで暮らしている。あの日は近くの店で知人と食事をしていた。六時半頃にレストランをでて、この家に到着したのは八時半頃だったな」
「二時間ほどかかったことになりますね。ちょっと長いんじゃありませんか?」
 万慈がスマートフォンをとりだし、なにか操作した。
「高速道路を使えば、ざっくり一時間くらいで着きますが」
「渋滞だったからな。詳しくは知らないが事故があったらしい。一時間というのは車の時間だけだろ? 食事をした店からマンションまで戻る必要があったし、途中のインターチェンジで一服したな」
「ここで俺が刑事なら、一緒に食事をした方の連絡先を伺うところですが」
「別に教えてもいいが、それはつまり、アリバイの裏をとりたいという話だろ」
 家彦は押し黙り、うつむいた。やがて顔をあげた。
「万慈くん……そういや、万慈というのは下の名前か? 名字は?」
 ふてぶてしい顔をしていた若者の様子が変わった。口を閉じ、神妙な顔をする。
「どうした」
「いや、なんでも。えっとですね、唐木戸です。唐変木のとうに、裏木戸のきど」
「からきどまんじ。ハンドルネームではなく?」
「本名でして」
「名探偵みたいな名前だな」
「そう言われると思ったんで、ためらったんですよ」
 素尚は表情に困った。さっきまで火花が散っていたのに、なんだか空気が緩んでいる。
「まあ、いいか。万慈くん、どうせ俺が犯人だと示せるほどの物的証拠なんて無いんだろ? そんなものあれば、とっくに警察へ伝えているよな。知りたいのは『姫白夕貴を殺害したのは辰木家彦である』という仮説を完全に否定できるか、それだけだ」
 数瞬のためらいの後で、万慈はこっくりと頷いた。
「だったら、まだるっこしいことはやめよう。警察がその気になれば調べられることまで、いちいち詮索するのはやめにしないか。俺としては別に、今この瞬間にここからでていけと言ってもいいんだ。そうなったら万慈くんは警察に駆けこんで、良子について調べたことをぶちまけるんだろう。だがな、俺は本当に夕貴さんを殺していない。痛くもない腹を警察に探られるのは不愉快だが、それだけのことだ。俺はただ、友人を喪って動揺している君に同情しているだけだ」
 肘掛けに腕を置き、足を組む。顔を斜めにして家彦は告げた。
「この遊びに付き合ってやるよ」
 ゲーム好きなんでね。そう小声で付け加える。
(ひょっとして兄さん)
 ふっと心の中に靄がかかるのを素尚は感じた。
(楽しんでる?)
 弟の犯した罪を暴かれぬよう立ち回ることに悦びを見出しているのか。作り物ではない、本物の闘いがここにあると。
「さっき言ったとおり、うちに刑事が来て、俺たち二人ともいろいろと訊かれた。インターチェンジでは自販機でコーヒーを買ったくらいでレシートなんかは無いんだが、ああいうところなら防犯カメラがあるだろ? あと、なんだ、車を見張るシステム」
「Nシステム」万慈が答えた。
「そんな名前だったな。警察は当然それも確認しただろうよ。これだけあれば充分だろう? 俺が刑事に嘘を吐いたなら、いまごろ重要参考人としてお招きされているさ。俺が紫ヶ森湖に到着できたのはどんなに早くとも八時半だった。これは動かしようが無い」
 信仰を説きに訪れた宗教家をみつめるような目をしていた万慈が、やがて小さく頷いた。ボールペンを手にすると行動表に「二〇時半頃 家彦が紫ヶ森湖に到着」と書き入れた。
「重要なのはここからですね。八時半以降の行動を証言してくれる方はいますか」
「それなんだが、ひょっとして兜斗くんから聞いてないのか」
「なんのことです?」
「あの晩、兜斗くんがうちに来た」
 達磨のように万慈は目を見開いた。
「兜斗さんにはお目にかかったんですが、ウーン、伺ってないですね」
「おまえ、本当に俺のことしか疑ってないんだな。まあ、いい。兜斗くんを案内したとき、たしかあそこの時計で――」
 家彦がふりかえって、天井近くにある壁掛け時計を指さした。
「八時五十分前だったな。長話になって、兜斗くんが帰ったのは九時半頃だった」
「お二人、そんなに仲が良いんですか。酒を酌み交わしながら政治談議でも?」
「昭和世代かよ。まあ、話の中身はたいしたことがないから気にしないでくれ」
 素尚はがっかりした。どうやら訪問理由についてはスルーされるようだ。
 あの夜、帰ってきた家彦を出迎えた。疲れているから話は後にさせてくれと言われ、素尚は二階の自室に戻った。しばらくして玄関ブザーの音に気づき、一階に下りた。兜斗を家彦が出迎えており「いいから」と目配せされたので部屋に戻った。
 二人がどんな話をしたのか素尚は知らない。さっきの休憩のとき、兜斗の訪問理由を訊こうとしたが、タイミング悪く万慈が戻ってきてしまった。なにかお裾分けに来てくれたのかと思ったけれど、兜斗が去った後そういうものは残されていなかった。
 家彦と兜斗は、顔を合わせれば挨拶くらいはするだろう。かといって親しく世間話を交わすほどではない。あんな遅い時間に兜斗が訪ねてきたのは初めてのことだった。あの夜は「珍しいなあ」くらいにしか思わなかった。人を殺してしまったショックでそれどころではなかった。今頃になって、あれはなんだったのかと思うようになった。
(兜斗さんも、協力者?)
 まさかとは思う。夕貴の替え玉になってくれた人物だっていたのに、さらに共犯者がいるなんて。けれど結果的に兄のアリバイを証明してくれるのも確かだ。
「途中で席を立ったりは?」
「兜斗くんはずっとここにいたが、俺のほうはトイレに立ったり、あと台所へスプーンを戻しに行ったりしたな。小腹が減って、冷凍のラザニアを食べていたところへ来たんだよ。まあ、せいぜい数分だ」
「確認しても良いですかね」ソファから立ち上がった万慈がスマートフォンを掲げた。
「もちろん」家彦は鷹揚に頷いた。
「――お待たせしました」
 数分後、仏頂面をした万慈がリビングに入ってきた。まっすぐローテーブルへ向かうと身を屈め、ボールペンを手にして「二〇時五〇分前 兜斗が三浦家を訪問」「二一時半頃 兜斗が三浦家を去る」と行動表に書き入れた。
「納得したようだな」
 万慈が腰を下ろすや否や、家彦が口を開いた。「そうですねえ」羽虫でも飛んできたとばかりに、しばらく万慈はなにもない宙に視線を泳がせていた。
「話を整理しますか。生きている姫白さんの姿が最後に目撃されたのは八時四十五分頃、そして死亡推定時刻は九時までですから、この十五分間のうちに清馬滝で犯行が起きたと考えられるわけです」
「その時間帯に俺には兜斗くんといたアリバイがある。そこから得られる結論は?」
「もちろん家彦さんが犯人ですよ」
 なにか聞き間違えただろうか、と素尚は思った。家彦は満足げな笑みを浮かべている。
「前提が間違ってる」冷静な口ぶりで万慈は言葉を続けた。
「宿の防犯カメラに映ったり、深川さんたちが目撃した後ろ姿は姫白さんじゃない、別の誰かだったんですよ」
「替え玉ってことか。仮にそうだとして、俺はいつ夕貴さんを殺したんだ?」
 兄の穏やかな口ぶりが素尚には信じられなかった。替え玉を疑われるのは致命的なことのはずなのに、どうして平然としていられるのだろう。
「家彦さんが紫ヶ森に到着して間もなく……いや、大胆に考えましょう。姫白さんのほうから都内へ移動したってのはどうです?」
 家彦が目を瞠った。ほう、と声を漏らす。
「さっき説明したとおり、運動公園で素尚くんと会った後の姫白さんの行動には空白があります。その時間が都内への移動だったとしたら? 列車を利用して七時頃に家彦さんと会い、そして殺された。家彦さんは車に死体を乗せて紫ヶ森まで運んだわけです」
「で、清馬滝に死体を投げこんで、何食わぬ顔で帰ってきたわけか」
「いやいや、ちょいとお待ちを」
 手の甲を額にあて、万慈は顔をうつむけるとしばらく沈思黙考していた。
「そもそも肩掛け鞄がみつかったのは不自然じゃありませんか?」
 やがて顔を上げた万慈が口にしたのは、そんな疑問だった。
「滝に投げこんだのは死体が浮かばないことを期待したからでしょう。だったら鞄も一緒に滝へ投げ捨てないと隠滅にならない。なにか作為がある。本当は死体を投げこんだりなんかしなかったんですよ。おや、そういえばあそこにボートがありますね?」
 掃き出し窓のほうを万慈は大袈裟な身振りで指さした。見え透いた嘘に思わず素尚は苦笑した。窓の遥か向こう、桟橋には確かにボートがある。けれど防水シートを被せられていて見えない。恐らく万慈はボートがあることを夕貴から教えられたのだろう。
「姫白さんの遺体は家彦さんがこの家から夜のうちにボートで運んだ。肩掛け鞄は替え玉が清馬滝に運んだわけです」
「わかった、わかった。まあ、無粋を承知でツッコむとしよう。遺体が地下水脈を流れてきたのか、それともボートで運ばれたのか、科学捜査でわかるんじゃないのか」
「もちろん、わかるでしょうね」万慈は即答した。
「警察にはわかっているでしょう。ですが、俺にはわかりません。俺が把握しているのは姫白さんのご家族に知らされた、かなり詳細を省いた検屍結果だけですからね。犯人しか知りえない情報ですから、どちらが真実なのか警察は明かさないでしょう。裏返せば、この検討会の場ではどっちも等しくありえるってことですよ」
「なるほど。それじゃ次だ。そもそも替え玉なんて、そんな都合よくいくか?」
「まあ聞いてください。しょせん防犯カメラの映像、くわえて夜に後ろ姿を遠くから見かけただけです。姫白さんの服装は簡単なもので、似た服を探すのは難しくない」
「だとしても、それなりに似た奴でないと無理だろ」
「いるじゃないですか。それも家彦さんが協力を頼みやすい、絶好の相手が」
 くるりと万慈がふりかえった。「つまり、君だ」
 なにが起きたのか素尚は理解できなかった。舞台袖で俳優たちの演技を見守っていたら、突然背中を押されてステージの上にまろびでたような。
「ちょっと眼鏡を外してみてくれない? 姫白さんに似ているように思うんだけどなあ」
「いい加減にしろ」怒気を孕んだ声で家彦が割って入った。
「百万歩譲って顔が似ていたとしても、男と女とでは身体つきが違うだろ」
「姫白さんはスレンダーでしたし、あいにく俺は映像を確かめられなかったんで、体型を判別できるほどハッキリ映っていたかわからないんですよねえ」
 ニヤニヤと万慈は薄笑いを浮かべている。この人はどこまで本気なのだろう。
「弟にはアリバイがある」しばらく考えこんでいた家彦が口を開いた。
「兜斗くんが訪問したとき、弟は二階にいた。外にでようとしたら必ずここを通る」
 リビングの奥、二階へ続く階段へ家彦は目をやった。
 あの夜の光景が素尚の胸に蘇った。たしかに、あの階段の途中から手すり越しにリビングを見下ろした。兜斗に挨拶しようかと思ったが、兄に目で促されて部屋に戻った。
 万慈が腕組みをして「ウーン」と唸る。
「そりゃ、あの階段を通ったなら兜斗さんの目に入るでしょうが、窓から庭の木にでも飛び移って下りれば済むことじゃないですか」
「それが不可能なんです」膝の上で握り拳に力を入れながら素尚は言った。
「二階の廊下、玄関の側は明り採りのための細い窓しかありません。湖のほうに窓が向いている部屋はありますが、そこからだと庭に下りるわけですから、そこから見えます」
 掃き出し窓を指さしながら素尚は説明した。「ちょいとお待ちを」そう言って万慈は再びスマートフォンを手にとった。兜斗にメッセージを送るのだろう。
「まだ返事待ちですが、とりあえず素尚くんのアリバイはわかりました」
 顔を上げた万慈は、苦悩するように眉をひそめながら言った。
「次はなんだ。まだ他にも協力者がいたってのか」
「常識的に考えて、共犯者が二人もいるってのはさすがに無理があるでしょう」
 一瞬、素尚は息ができなくなった。そうだ、それが当然の考えだ。そう都合よく共犯者を確保できるわけがない。いや、それ以前の問題だ。
 そもそも家彦は、死亡推定時刻の幅がどれくらいになるか予想しようがなかった。こんな素人探偵が我が家に乗りこんできて推理合戦をふっかけられるなんて思いもしなかっただろう。兜斗の来訪は僥倖に過ぎなかった。あの夜の兄の行動に、誰かを騙そうなどという作為があるはずもない。
「それなら、兜斗くんがいなくなってから殺したというのはどうだ」
「うーん、そういえば、俺が電話したときはドライブでもされていたんですか?」
 兄から聞いた話を思い返す。夕貴が行方不明となり、そのことをサークル仲間から知った万慈はSNSを介して家彦に助けを求めたという。
「ああ、適当に湖の周りをな」
「はるばる都内から二時間もかけて運転してきた後で?」
 言い訳すら口にせず、家彦はつまらなさそうに肩を竦めただけだった。素尚も気になったが、この場で問い質すわけにはいかない。恐らく兄はプレハブ小屋から死体を回収してきたのだろう。清馬滝へ投げこんだのか、それともさっきの万慈の推理どおり、いったん家に運んでからボートで遺棄したのか。
「話を戻すと、さすがに死亡推定時刻を無視するのはどうも。死亡推定時刻は午後九時まで、兜斗さんが帰ったのは九時半、ちょっと無理筋ですねえ」
「じゃあ、これで話は終わりか?」
 うっすら家彦は微笑んでいた。すべては予定どおり。そんなことを言いたげな顔だ。
「ええ、家彦さんが姫白さんを殺したというのは無理がある。いや、無理があるなんて言い方じゃダメですね。認めますよ、不可能だったと」
「そうか」
「素尚くんなら可能ですけどね」
 束の間、沈黙が続いた。不気味な沈黙だった。せいぜい五、六秒のことだったろう。兄は微笑んでいた。けれどそれは能面のようで、別の表情を隠している。目に妖しい光をたたえ、坊主頭の青年に殺意のごとき波動を送っている。
 そろそろ休憩にしますか。呪縛を解こうとするかのように万慈が告げた。