ブザーが鳴った。素尚は顔を上げると玄関のほうを向き、そして首を捻らせた。掃き出し窓から外を眺めていた家彦がふりかえり、無言のまま頷いた。
リビングをでると素尚は廊下を急いだ。波板ガラスの向こう、来訪者の姿が透けている。歪んだ姿でも坊主頭だとわかった。
「こんちは」
玄関扉を開けると、ナップザックを片方の肩に担いだ男が立っていた。ショートパンツにTシャツ、真っ白な半袖シャツをボタン全開にしている。兄から事前に聞いた話ほど悪い人には見えない。若手のお笑い芸人みたいな印象だ。
「万慈さんですね、兄から話は伺っています」
「初めまして。君が素尚くんか、よろしく」
右手を差しだされ、反射的に素尚は握手を交わした。ぶんぶんと上下に痛いほどふられる。なんだか調子が狂ってしまう。
リビングへ案内した。兄の姿が無いと思ったが、キッチンのほうの扉から入ってきた。麦茶を満たしたグラスを三つ抱えている。
「今日はありがとうございます」
深々と万慈が頭を下げた。「いやあ、暑いあつい」そう言いながら、三人掛けのソファの真ん中にどっかと腰を下ろす。扇で顔を仰ぎ、もう片方の手でハンドタオルを広げて坊主頭をぐりぐりと拭く。礼儀正しいのか無礼なのか、よくわからない人だな。あっけにとられる思いで素尚はその様子を眺めていた。
「モト、座ったらどうだ」
家彦は一人掛けのソファに座っていた。ローテーブルを挟んで向かい側にあるソファに素尚は腰を下ろした。ここならほぼ正面に兄の姿があるから安心だ。
「さっそくだが」家彦が口を開いた。
「ちょっと待った」
ローテーブルからグラスを手にとり、万慈はがぶがぶと三分の二ほど飲み干した。
「いやあ、暑い! さすがお盆の最終日、駅は大混雑で人いきれムンムンでしたよ」
だったら家で寝てれば良かったのにな。据わった目をした家彦がぼそりと言った。
姫白夕貴の遺体発見から一週間近くが過ぎている。事件について警察から新しい情報の発表はなく、住民は不安を覚えているといった類のことしか最近は報道されていない。
「今日は重ねがさね、お時間いただきありがとうございます」
大入り満員ありがとうございます、と頭を下げる落語家を素尚は連想した。
「訊きたいのは、弟が夕貴さんとどんな話をしたか、だったか?」
「それもあるんですがね」扇子をぱしんと万慈は手の平に打ちつけた。
「できれば検討会をお願いしたいんですよ。事件の関係者が三人もいるんですし」
「関係者……まあ、関係者だな」あきらめるように家彦が浅い溜め息を吐いた。
「調査の進展がおもわしくないのか」
「ええ。まあ、初めっから想像ついてましたがね。俺が遺族だったら大義名分が立ちますが、ただのサークル仲間じゃ下衆の勘ぐりと非難されたって文句は言えない。たった一人で見知らぬ土地な上にこの酷暑、歩いてるだけで汗びっしょりのへっとへとですよ」
ナップザックから万慈はノートパソコンをとりだし、ローテーブルに置いた。
「てなわけで、必死こいて俺が調べてきたことをここで披露します。補足いただけることがあれば教えてほしいんですよ」
素尚は驚いた。兄の予想どおりに話が進もうとしている。
――あの男の狙いは、たぶん俺だ。
数日前、電話越しに耳にした言葉を思いだす。姫白夕貴は三浦良子の消失について調べていた。姿を消した事情に辰木家彦が深く関わっていると疑っていた。万慈が疑うのは当然、家彦だ。まさか真の殺人者が素尚だとは知る由もない。
家彦を犯人とする推理を組み立てるには材料が必要だ。犯行が起きた時間帯に家彦はなにをしていたのか調べなければならない。だからこそ万慈は葬儀場で露骨なまでに挑発的な態度をとり、話し合いの場を無理に設けた。公園での会話だけでなく、事件全体について語りあうための口実を練ってくるだろう――というのが家彦の予想だった。
「わかった、始めてくれ」
ノートパソコンを操作していた万慈が顔を上げると「では、」と言った。
「湖岸の遺体が近隣住民によって発見されたのは八月十二日の午前六時頃。いろんなところで報じられているとおり首には絞められた痕があり、他殺とみなされています」
距離が気になったのか、万慈はパソコンを持ちあげると膝に移した。
「姫白さんのご両親に警察から検屍結果について説明がありました。絞殺に使われたのは姫白さんの肩掛け鞄のようですね。肩に掛けるストラップのところで締めたってわけです。首に残った痕と金具の大きさが一致したんだとか。死亡推定時刻は十七時から二十一時」
「四時間か、ずいぶん広いな」家彦が首を捻る。
「地下水脈を運ばれたってのが関係するんじゃないですかね。人間は死ぬと体温が下がっていきます。体温の下がり具合で死亡からどれだけ時間が過ぎたかわかる。つまり地下水脈の水温とか、どのくらいの時間浸かっていたのかわからないと計算できない。そんなデータはないもんだから判断に困ったんじゃないかと。角膜の混濁とか死後硬直の解け具合とか、やり方はいろいろあるんですが、けっこう温度に左右されるものが多い。食べた物の消化具合なら影響は小さそうですが、これは個人差が大きいそうですね。そんなわけで慎重な、広めの判断になったと」
まあ、素人の憶測ですがね。そう言いながら万慈は頭を一掻きした。
「遺体発見現場から直線距離で一・五キロほど離れた唐馬山の山中、清馬滝を眺めるための広場にある東屋で夕貴の肩掛け鞄がみつかりました。遺体が発見された朝の八時頃、近所の人が散歩中にみつけたそうです」
画面をスクロールしているのか、パソコンの操作のため万慈はいったん言葉を切った。
「清馬滝に飛びこんだ人の遺体が発見されないことは過去に何度か本当に起きているようですね。昭和二十五年に若い男女が出奔、書き置きには清馬滝に身を投げると記されていた。ところが女性のほうは遺体がみつからず、男性のほうだけ湖から発見された。あいにく俺が郷土資料館でみつけた本には発見した場所までは書かれてなかったんですが」
「夕貴さんがみつかったあたりらしいな」
家彦の言葉に、ディスプレイから顔を上げた万慈が目を見開く。
「ここらじゃ有名な話さ。滝壺に落ちたら運次第でどうなるかわからない。浮かんでくるかもしれないし、地下水脈に潜りこんでそのままか、ごく稀に湖まで流される」
「補足ありがとうございます。で、今の話を踏まえるとこんなイメージが浮かんできます。犯人は姫白さんと清馬滝の東屋で会話を交わした。口論になり、カッとなった犯人は姫白さんを絞殺、犯行を隠蔽すべく滝壺へ投げこんだ。運良く死体が浮かんでこないことに賭けたんでしょうが、天網恢恢疎にして漏らさず。遺体は湖まで流れていったわけです」
万慈はノートパソコンをローテーブルに戻した。代わりにナップザックを手にとる。
「じゃあ、犯人はいつ姫白さんと会ったのか? 足取りを追ってみるとこんな感じです。この『過ぎ』だの『頃』だのはむちゃくちゃアバウトだと思ってください」
ナップザックから万慈はクリアファイルをとりだした。そこからA4サイズの紙を抜きとり、ローテーブルに置く。家彦と素尚がそろって頭を寄せた。
行動表
八月十一日(日)
一七時頃 死亡推定時刻はここから
一七時半過ぎ 夕貴が美月たちと別れる
一八:一二 夕貴から体調不良で宿に戻る旨のメッセージが届く
二〇:二七 雲外荘の防犯カメラに、帰ってきた夕貴の姿が映る
二〇:四二 雲外荘の防犯カメラに、でかける夕貴の姿が映る
二〇時四五分頃 美月と小衣が宿の前で夕貴の姿をみかける
二一時頃 死亡推定時刻はここまで
八月十二日(月)
六時頃 夕貴の遺体が発見される
素尚は行動表の「美月と小衣」という文字列を指さした。
「同じサークルの人でしたっけ」
「そのとおり。深川美月と愛季小衣はスフィンクスの会員です」
さえと読むのか。家彦が小声で言った。
「夕貴を含む三人はみんな新入生で、サークル活動を通じて仲良くなった。夏休みは一緒に旅行をしようという話になったわけです。雲外荘という宿は食事がでないんで、夕食はレストランを予約していた。バスで湖を半周して、時間つぶしに紫ヶ森本陣跡を鑑賞しようとした。ところが人と会うことになったと姫白さんが言いだし、別行動になった」
意味ありげな顔で、万慈が素尚のほうへ視線を送った。
素尚は迷った。ここは自分から切りだすのが自然な流れだろうか。兄からは「訊かれたことだけ答えるようにしろ」と言われているけれど。
「そもそも」家彦が口を開いた。「夕貴さんと弟が会ったことはどうやって知ったんだ」
万慈の顔にまごつくような表情が過ぎった。
(手の内を明かさせようとしてるのか)
遅れて素尚は理解した。ここから先、素尚はどうしても嘘をつかなければならない。万慈が調べた事実と矛盾があれば即座に突かれるだろう。だから万慈がなにをつかんでいるのか先に吐かせておきたい。
「この間も言いましたが、俺は姫白さんと情報共有をしていました。素尚くんを通じて、坂峯家の火事について疑問点を各務原さんに訊くこともネット会議で話してました。で、地図を確かめると本陣跡の近くに高校がある。ここって素尚くんが通ってるところだよな。とすれば……つうわけですんません、鎌をかけました」
万慈がぺろりと舌をだす。「だろうと思ったよ」脱力した声で家彦が言った。
「昼過ぎに夕貴さんと会う約束をしました」
素尚はスマートフォンをとりだし、メッセージアプリを起動した。万慈に向けて掲げる。万慈もスマートフォンを手にして、素尚にことわってからディスプレイを撮影した。
「そういや、素尚くんが姫白さんと会ったことは警察に?」
撮影を終えると、万慈は家彦のほうを向いて質問した。
「ああ、向こうから来た」
刑事たちが辰木家を訪れたのは遺体発見当日、昼下がりのことだった。殺人事件ともなれば被害者のスマートフォンを調べて当然だ。刑事たちは明言しなかったが、メッセージアプリの履歴から夕貴が素尚と会う約束をしたことを把握したのだろう。
男性と女性がペアで、質問してきたのは若い女性刑事のほうばかりだった。高校生の素尚を威圧しないためだったのだろう。女性刑事の質問は慎重だった。思いがけず親族を喪った少年に気を遣っているのを感じた。素尚がなぜ長袖を着ているのか不審に思われることはなく、夕貴の爪痕を見咎められることもなかった。
「そもそも素尚くん、夏休みになんで学校に?」
「入学希望者向けの学校説明会があって、その手伝いで。図書室で説明係みたいなことを。僕は図書委員じゃないんですけど、担任が国語の先生で頼まれちゃって」
焦るな。素尚は自分に言い聞かせた。訊かれていないことまで答える必要はないんだ。
「それから姫白さんが学校に来たわけですね」
「いえ、卒業生でもない人を入れるわけにも」
「そりゃそうだ。じゃあ、どこで?」
「近くの公園、紫ヶ森運動公園で」
「暑くなかった?」
「暑かったですね。学校のまわりってカフェとか無いので、しかたなく」
「なるほど。何時から何時頃まで話を?」
「説明会が終わったのが五時半です。夕貴さんと会ったのはそのちょっと後ですね。いつまで話していたか、時間を気にしてなかったので正確なところは覚えてません。感覚的には二十分くらいだと思いますけど」
嘘だ。ここからが嘘の始まりだ。緊張する素尚とは裏腹に、万慈のほうは淡々とキーボードを叩いている。素尚の証言をメモしているのだろう。
「六時過ぎには別れた感じ?」
「まあ、恐らく」事前に兄と決めておいたことを口にする。
「じゃあ六時過ぎ、ハテナくらいにしときますか。まあ、体調不良で宿に戻るっていう姫白さんのメッセージが届いたのが六時十二分ですから、それで平仄は合うんですよね」
万慈がナップザックから布製のペンケースをとりだした。行動表にボールペンで「一八時過ぎ? 夕貴が素尚と別れる」と書き入れる。
「気になるのがこの後の姫白さんの行動です。六時過ぎってことは、バスを使えば遅くても七時には雲外荘へ帰れたはず。ところが実際に姿を見せたのは八時半頃でした。行動に空白があるわけですが、なにがあったのか俺にはまったくわかっていません。素尚くん、なにかそれらしいことは話にでなかった?」
投げかけられた問いに、素尚は首を左右にふった。
「どこかの店で夕食をとったんですかね。次に行きましょう。防犯カメラの映像を俺は見てないというか見せてもらえるわけもないんですが、深川さんたちは見ています。映ったのは本当に姫白さんなのか、警察に確認を求められたんで」
これはただの興味本位だが。そう前置きして家彦が訊いた。
「具体的にどんな映像だったんだ」
「お二人は雲外荘がどんな宿か、ご存知で?」
兄弟はそろって首をふった。
「雲外荘は団体客向けの本館と、少人数向けの別館があって、この日は別館しか使われていませんでした。客室はたった二つの小さいところなんですよ。残り一つもあの日は空き室、姫白さんたちの貸し切り状態でした。本館のほうに宿を経営している人の家があって、だだっ広い庭を有効活用するため山荘を建てた感じですね。料金が安くて、ベッドや風呂はあっても食事はでません」
だからこそレストランを予約したわけですが、と万慈は言い添えた。
「そういう小さいところなんですが、近くにある他の宿に泥棒が入ったんだとか。それをきっかけに玄関と裏口にカメラを設置した。玄関から入ってきた姫白さんが部屋のほうへ姿を消し、十五分後に再び玄関をでていくのが映っていたわけです」
記憶を改めるためか、しばらく万慈はディスプレイをみつめてから口を開いた。
「深川さんたちによれば、映っていたのは姫白さんで間違いないと。防犯カメラですから俯瞰気味だし白黒で画質も悪いものの、玄関をでていくときには正面から姫白さんの顔を捉えています。Tシャツの文字やイラスト、帽子や肩掛け鞄も同じだったそうですよ」
「くわえて、深川さんたちは夕貴さんの姿を目にしているわけか」
兄の言葉につられて素尚は行動表に目を走らせた。「二〇時四五分頃 美月と小衣が宿の前で夕貴の姿をみかける」のことだろう。
「後ろ姿だけですけどね。レストランで夕食を終えて、二人はバスに乗って帰ってきた。雲外荘の前は道路が走っていて、深川さんたちが来たのとは反対方向へ姫白さんが去っていった。道路がカーブしてるんで、すぐに姿が見えなくなったそうです。愛季さんのほうが声をかけたが、気づかなかったのか姫白さんはふりかえらなかった」
「方角的にどうなんだ? つまり、清馬滝と」
「合っています。二人の前から消えた後、まっすぐ清馬滝に向かったと考えてもおかしくはない。雲外荘の周囲は数えるほどしか民家がなくて、散歩するにしても外灯さえまばらな山の中という感じの場所なんですよ。初めは楽観的だった深川さんたちも心配になってきて、姫白さんに電話したけどつながらず、騒動になったと」
なるほど、と素尚は心の中だけで頷いた。兄から事前に教えられてはいた。巧く偽のアリバイを作ることに成功したらしい。
「とまあ、ここまでが事件のあらましです。ちょっと休憩を入れましょうか」
万慈が伺うような目つきをすると、家彦が無言で頷いた。