唐木戸万慈の日常に崩壊の兆しが訪れたのは日曜の夜のことだった。スマートフォンのメッセージアプリに連絡があった。謎解き愛好サークル「スフィンクス」の会員である深川美月ふかがわ みつきからだった。通知はスフィンクスの会員間での連絡のため設けたトークルームに届いていた。「姫白さんがどこに行ったか知りませんか」という短い文章だった。
 夕貴は美月ともう一人の会員、愛季小衣まなき さえの三人で紫ヶ森湖へ旅行にでかけているはずだった。正確には夕貴だけ先に三日前から訪れ、三浦良子が行方不明になった事件を調査していた。たいした新事実を突きとめられないまま調査は終わり、今日になって美月たちと合流したはずだ。美月のほうから夕貴の行き先を訊かれる心当たりが万慈にはなかった。
 メッセージのやりとりを続けたところ、次のような事情が明らかになった。夕方まで三人は一緒に観光を愉しんでいた。夕食はレストランを予約しており、その時間つぶしに紫ヶ森本陣跡を見学するはずだった。しかし夕貴が「ごめん、人に会う約束ができちゃった」と急に言いだし、別行動をとることになった。
 美月と小衣が本陣跡を見学し、閉館の時刻を迎えたが夕貴が戻ってこない。どうしたのかとメッセージを送るとやがて返信があった。体調が良くないため、一人で先に宿へ戻るという。しかたなく二人だけでレストランでの夕食を済ませ、宿泊先の雲外荘うんがいそうに戻った。
 このとき二人は夕貴の後ろ姿を目にした。雲外荘の前には道路がある。美月たちがやってきたのとは反対方向へ向かっていた。散歩かコンビニへ買い出しにでも行くのだろうと思い、二人は部屋で夕貴の帰りを待つことにした。ところが夕貴が帰ってこない。スマートフォンで通話を試みても電波が届かないというアナウンスばかりだった。
 万慈が時刻を確かめると午後十時近くだった。美月たちが雲外荘に戻ったのは八時四十五分前後、夕貴の後ろ姿を目にしてから一時間以上が過ぎていた。
 俺も夕貴の行方には心当たりがない。そう万慈がメッセージアプリに書きこむと「ありがとう、わかりました」と美月から返信があった。宿の人に相談してみるという文章を最後にメッセージの着信が途絶えた。
 しばらく万慈は考えこんでいた。ここ数日、三浦良子が消えた事件について夕貴と意見を交換し、紫ヶ森湖近隣に住む人々のことを知った。とはいえ連絡先は夕貴しか知らない。
 考えこんだ末にノートパソコンを起動した。ブラウザを立ちあげ、ネットを検索する。電話番号がわかれば良子の弟、三浦兜斗に協力してもらえると思ったが、秩山神社のサイトはみつからなかった。
 辰木家彦なら、どうだろう。検索してみるとゲームクリエイターとしての名前である「各務原家彦」でSNSのアカウントがみつかった。しかし許可なしに個人宛てのメッセージは送れない仕組みらしい。
 やれるだけのことはやるか。万慈はSNSのアカウントを作成した。プライベートなメッセージは無理でも、第三者にも公開される形で文章を送ることはできる。夕貴の個人名は伏せて、緊急事態であること、連絡が欲しい旨を伝えた。
 イタズラや悪質な詐欺の類だろうと無視されたら万事休すだ。幸い、五分と経たずに通知が来た。万慈の電話番号をメッセージで送ると、やがてスマートフォンが鳴った。
「夜遅くにすみません、万慈です」
「行方不明かもしれないって、ひょっとして姫白夕貴さんのことか?」
 はい、と腹に力を込めて万慈は返事をした。ここで信用されなかったら、すべておじゃんだ。電話の向こうに車の走行音がした。
「いま大丈夫なんですか? 運転中みたいですが」
「路肩に駐めているから気にしなくていい。どういうことだ」
 万慈は事情を説明し、雲外荘に連絡をとってほしいと頼んだ。
「わかった。俺もちょっと辺りを探してみるか」
 お願いします、と反射的に返そうとして万慈は違和感を覚えた。「ひょっとして各務原さん、紫ヶ森湖にいるんですか」たしか昨日、急用ができて都内に帰ったはずだ。
「ああ、さっき戻ってきたばかりだ」
「お忙しいところ、すみません」
「気にしないでくれ」
 夕貴の祖父母にも連絡してほしいと最後に頼み、万慈は通話を終えた。続けて万慈はメッセージアプリを通じて美月に、夕貴の従兄である家彦に連絡したことを伝えた。
 美月とのやりとりを終え、しばらく万慈はスマートフォンを手にしたまま呆けたように天井を見上げていた。やがて日付が変わる時刻になり、観念して万慈は布団を敷いた。
 まったく眠れなかった。スマートフォンが震えて、飛び起きた。美月からの連絡だった。夕貴は依然として宿に戻らず、周囲を探しても姿がない。雲外荘に家彦から連絡があり、辰木家や三浦家の周辺を捜索したがみつからなかったという。いつしか万慈は、スマートフォンを握ったまま浅い眠りに落ちていった。

 夕貴の死を知ったのは翌朝のことだった。両親や兄たちと座卓を囲み、朝食をとっていた。「しがもりこ」という言葉が耳をかすめ、万慈は箸をとめるとテレビに目を向けた。
 時間がゆっくりと流れていく。いつもの朝、いつもの習慣で点けっ放しにされたニュース番組。自分とはなにも関係しない話題が報道されるだけのはずだった。
 報道ヘリからの空撮なのだろう、朝陽を浴びて湖面が白々と輝いていた。画面の下のほうにテロップが表示されていた。発見された遺体の名前がそこにあった。
 箸を置いた。ご飯、味噌汁、目玉焼き。食べかけの朝食を前に、万慈は家族に事情を打ち明けた。「今日のうちに、横浜に戻ろうと思う」と口で言いながら、戻ってなにをするのか内心では首を傾げていた。仲が良かった子かと母に問われ、万慈は口ごもった。サークル仲間だと言えば済む。頭ではわかっていたが、舌が痺れたように言葉がでなかった。
 朝食を食べ終え、帰り支度を整えた。洗濯物を持っていくと母に、礼服はあるかと尋ねられた。万慈は首をふり、父の礼服を借りることにした。
 兄の車で最寄り駅まで送ってもらった。在来線で博多駅へ移動し、新幹線に乗り換えた。帰省ラッシュで駅は混雑していた。反対方向だったら席をとれなかっただろう。
 本を読もうとしては車窓を眺めることをくりかえした。早送り映像のように過ぎていく景色を眺めるうちに万慈はいつしか眠気を覚えていた。
 姫白夕貴の秘密を万慈が知ったのは三ヶ月前、ゴールデンウィーク明けのことだった。学生食堂で、見覚えのある後ろ姿をみつけた。八人は座れそうなテーブルの端に一人で座り、右側にオムライスが、左側にタブレットパソコンがあった。
 食堂は混雑していた。びっくりさせてやろうという悪戯心が万慈に無かったとは言えない。気配を殺して夕貴の隣に座った。
 ――なんで殺すかな。
 ぎょっとした。ぶつぶつと夕貴は物騒な独り言をつぶやいている。キーボードを叩いたかと思うと頭を傾げ、拳でテーブルをこつこつと叩く。完全に自分の世界に入っている。
 万慈が黙々とカレーうどんを啜り続けていると、隣からタブレットパソコンを閉じる音がした。驚愕に目を見開いたサークル仲間の顔があった。かすかに頬が紅潮している。
 ――小説、書いてるんだな。
 努めてなにげない調子で万慈は声をかけた。「すでに書いたものがあるなら読ませてくれ」と頼むと、夕貴は崖っぷちに追い詰められたアルパカのような顔をしつつも、小説投稿サイトのアカウントを教えてくれた。
 投稿されていたのは短編小説ばかりで、読むのは容易だった。万慈は高評価をつけ、絶賛とまではいかないが長所を指摘し褒め讃える感想を書いた。
 数日が過ぎた。スフィンクスの部室で、たまたま二人っきりになった。へこへこと頭を下げる夕貴に、万慈は存分に短所を挙げ連ねた。どの作家に影響を受けたのか丸わかりなんだよ。そう指摘すると夕貴は頬をひきつらせた。簡潔明瞭な文章や、読み手の感情をかきたてる構成に感心したことはけっきょく口にできなかった。
 梅雨明けが間近に迫った日のことだった。二人並んでそれぞれ傘を差し、雨の中をサークル棟へ歩いていた。「いま、長編を考えてて」と夕貴は半ば独り言のようにつぶやき「協力してくれませんか?」と続けた。中核のアイデアはある。だけど、どうやって作品に仕立てればいいのかわからない。進め方についてアドバイスが欲しいという。
 かまわんが、なんで俺なんだ。他に誰かいないのか。万慈はそう問い返した。
 ――だって万慈先輩、なんかえらそうだし。
 真顔で言い切った夕貴に、協力することを万慈はきっぱり断った。ぎゃあぎゃあと言い募ってくる夕貴にうるせえぞと返し、傘でおたがい丁々発止の斬り合いを演じて水飛沫でずぶ濡れになり、肩で息をしながら万慈は渋々承知した。
 ――先輩を黙らせるくらいのもの、書かなきゃダメかなって。
 隣にいる、雨に濡れた女の背中から湯気が立ち昇っている気がした。煮えたぎる熱が雨を蒸気に変えている。
「うるせえよ」
 ぽつりと口からでた独り言に、万慈は驚いた。眠りに落ちかかっていたらしい。
 車内アナウンスが間もなく新横浜駅だと告げた。言葉にならない想いが少しずつ塊になっていくのを万慈は感じた。スマートフォンで路線案内のアプリを起動し、日帰りできることを確かめた。新横浜駅で降りると、横浜とは反対方面へ向かう列車に乗った。

 紫ヶ森駅に到着したときには午後四時半を過ぎていた。あらかじめ万慈は美月に連絡を入れていた。礼服の入った紙袋をコインロッカーに入れ、雲外荘を訪れるべくバス乗り場で待っていると、美月から連絡があった。遺体の確認のため病院へ向かうことになったという。警察からの許可があれば今日のうちに帰りたいので、会う時間を作れないかもしれない。文章だけでも、美月の焦燥ぶりが目に見える気がした。
 家彦に頭を下げるという考えが頭を過ぎった。とっくにネットでは感謝の意を伝えたし、直接顔を合わせに行くのは向こうにしてみれば不気味かもしれない。一人娘に死なれた姫白家はもちろん、親族の辰木家も大変な状況だろう。さすがにタイミングが悪すぎる。
(遺体発見現場に行くか)
 手を合わせてくるだけでも、ここへ来た意義があるだろう。美月に訊いてみると、遺体が発見されたのは湖の西岸、秩山公園の近くだと教えてくれた。
 遊覧船で湖を渡った。秩山神社や辰木家はここから近いはずだが、いまはあきらめるしかない。バス停があったが、時刻表を確かめると次のバスまで一時間近くあった。しかたがない、歩こう。湖岸に沿って南へ向かえば良い。地図アプリで確認すると、秩山公園まで一キロほど、長くとも三十分も歩けば着くだろう。
 十分と経たずに後悔した。木陰を歩くうちはしのぎやすかったが、そうそう運が続きもしなかった。道が湖岸に沿っているとは限らず、大回りを余儀なくされる個所もあった。ここらは別荘地らしい。林の中にぽつりぽつりと洒落た家が建っている。住人たちしか使わない袋小路になった私道があり、うっかり迷いこんで時間を無駄にした。
「ここか」
 思わず声がでた。道路脇の下方、木々の向こうに湖面があった。白んだ空を映し、ほのかな金色に輝いている。朝のテレビニュースで目にしたのは、たしかこの辺りだ。
 秩山公園の方角を案内する看板があった。紫ヶ森湖は湖岸がコンクリートで覆われていることが多いが、この辺りは自然な岸辺だ。ただ、道路から数メートルほどなのにそこへ下りる階段の類がどこにも無い。
 立ち話をしている女性たちがいた。すぐ近くに古びた民家があるから、そこの住人なのかもしれない。お婆さんと中年女性、そしてベビーカー。母娘三代だろうか。
「すみません、教えてもらっていいですかね」
 ためらったが、ありのままを明かしたほうが教えてもらえるだろう。万慈はそう判断し、亡くなった女子大生と同じ大学に通う知人だと告げた。「お気の毒にねえ」パーマをかけた女性は気まずそうな顔をした。ベビーカーに座る幼子が不満そうな顔をしている。
「このあたりで遺体が発見されたわけですか」
「ええ、この道に沿って、もう少し先にちょっとだけ河原みたいなところがあるから」
「ありがとうございます」万慈は頭を下げた。
 若いのに命を粗末にするもんじゃないね。しわがれた声でお婆さんが言った。
 万慈は目を瞠った。「おかあさん、ちがうでしょ」たしなめるように中年女性がお婆さんの肩をぽんぽんと叩く。
「ごめんなさいね、おばあちゃん勘違いしてるの。清馬滝きよまたきから遺留品? なにか、持ち物がみつかったなんてニュースが流れたから、昔あったこととごっちゃになってるの」
「きよまたき……あそこは、ここから離れてませんか」
 かすかに聞き覚えがあった。夕貴の調査につきあう過程で、万慈は紫ヶ森湖周辺の観光名所を興味本位で調べた。清馬滝は湖の南西、唐馬山にあったはずだ。以前は自殺スポットとして知られていたという説明が印象に残っていた。
「昔の話よ。清馬滝で恋人同士が心中して、ここらに男の人だけ浮かんだの」
「川を流れてですか」
「そうじゃなくて、地下水が流れているらしくてね。でも滝に飛びこんだ人がここらに浮かんだなんてのはその一回きり。たいがいはね、あの滝に飛びこんだらみつからない、浮かんでこないって云われてるの」
 本当かどうかは知らないけどね。苦笑いを浮かべて女性は言った。
「いつ頃あった話ですか」
 突拍子もない話に面食らった万慈は、ようやくそれだけ口にした。中年女性はお婆さんとひそひそと言葉を交わし「戦争が終わって、すぐの頃だと思うよ」と言った。
 女性たちに礼を述べ、万慈はその場を後にした。以前読んだ、紫ヶ森湖の自然や歴史について綴られた文章が頭に浮かんだ。縄文時代に秩山が噴火し、火山の溶岩によって田澄川が堰き止められた。そうして形成されたのが紫ヶ森湖だという。
 たしか火山活動は地下水脈の形成に影響するはずだ。火山の噴火によって地層に亀裂が生じたり、溶岩が冷え固まった岩石は多孔質で水を通しやすかったりするためだという。
 そんなことを考えながら歩くと、中年女性の言葉どおり河原があった。石ころだらけで、ところどころ雑草がこんもりと茂っている。道路から湖岸へ下りるためのコンクリート製の短い階段があった。だが、立ち入りを禁じる黄色いテープで封がされている。
 万慈は周囲を見渡した。まわりに警官の姿はおろか、誰の目もない。迷ったが、やめておくことにした。近いほど良いというものではない。これはただの儀式みたいなものだ。
 それよりもやりたいことがあった。スマートフォンをとりだし、適当な単語でネットを検索した。いくつかニュースサイトの記事に目を通しながら、万慈は眉を曇らせた。
 思い返してみれば朝のニュース番組は「遺体発見」を報じており、夕貴の死因について触れていなかった。お婆さんの口から自殺を示唆する言葉がでたことに動揺し、ネットを確認せずにはいられなくなった。だが、ニュースサイトには「事故」「自殺」どちらの文字もなかった。あったのは「首に絞められたような痕」という文字列だった。
 万慈はずっと、夕貴の死は水の事故だと思いこんでいた。一人だけ先に宿へ帰り、しばらく部屋で静養していた。体調が回復し、付近を散策した。足元が暗くなり、体調不良がぶり返したのも手伝って足を滑らせ、湖に落ちた――漠然とそんな想像をしていた。
 スマートフォンをしまい、万慈は暮れてゆく湖面をみつめた。水の色が少しずつ血の色に近づいていく。
 長く息を吐く。万慈は洗顔するように顔を両手で揉むと、来た道を戻り始めた。すれ違う者はろくにない。来たときのように道に迷うことはなかったが、暗くなるのが早い。急ぎ足で黙々と歩き続けた。
 乗り場に到着したが、遊覧船の運航は終わっていた。途方に暮れているとバスが来て、慌てて万慈は駆け寄った。バスに揺られるうちに、駅周辺のホテルを探そうかという考えが頭を過ぎった。しかし都合よく宿がみつかったとして、なにをすれば良いのか。
 駅に戻った。コインロッカーから礼服の入った紙袋を回収し、列車に乗った。空いていた席に腰を下ろすと同時に気づいた。遺体発見現場近くで手を合わせるのを忘れた。
「なにしに行ったんだ」
 苦笑いした。向かい側に座る、登山帽をかぶった初老の男性が不審そうな顔をした。それに構わず万慈は頭をがりがりと掻き、気合を入れるように両手で頬を何度も叩き、そして「クソッ」と毒づくと黙りこんだ。
 文章や構成に感心したことの他に、夕貴に伝えそびれたことがあった。高校生のとき、万慈も小説を書いていた。
 不可能犯罪を描いた短編小説を読んだ。ひょっとしたらトリックはこうではないか。珍しく真相を見抜けたと万慈は興奮したが、探偵役が語った真相はまったくの別物だった。だったらこれをネタに俺が小説を書けば良い。学園ミステリに仕立てられそうに思った。
 原稿を仕上げるのに三ヶ月かかった。コンビニエンスストアで印刷する姿を知り合いにみつからないよう隣の駅まで足を運んだ。一次選考を通過し、そして二次選考で落選した。
 今にして思えば、これは奇跡のようなものだった。四百字詰めの原稿用紙で五十枚近くもの文章を書いたのは生まれて初めてだった。それどころか小説の文章というものを書いたことさえ初めてだった。下読みした者たちは稚拙な文章に辟易しただろう。なにかしら光るものがあるとみなされたからこその一次選考通過だったはずだ。
 だが、万慈は意欲を失った。睡眠時間を削り、休日にひたすら文字を綴り、それを三ヶ月も続けて得られた成果がなにも無いことに耐えられなかった。
 その後も何度か万慈は小説のアイデアを思いついた。ストーリーを練り、心を掻き立てられる場面を試しに書くこともあった。だが、そこまでだった。この手が産み落とすであろう作品が無数の凡作たちに仲間入りし消えていくことはわかりきっていた。
 時間はあった。技術もあった。才能さえあった。万慈に欠けていたのは創作という狂気に身を委ねる覚悟と情熱、そして愚かさだった。
 電車の座席で万慈は背中を丸め、じっと動かずにいた。生意気な後輩の顔が浮かんでは消えていった。欠点をあげつらわれ、頬をひきつらせていた。それでも万慈の言葉を一言も聞き漏らすまいと睨んでいた。濡れた背中から闘気を立ち昇らせていた。底無しの穴へ真っ直ぐに突き進む愚者の姿がそこにあった。
(俺は、)
 泣くことさえできない。万慈の胸に満ちていたのは悲哀ではなく、怒りだった。
(いまさらどうしろってんだ)
 アパートに帰りついたのは八時前だった。連絡を入れるのを忘れていたことに気づき、慌てて実家に電話した。汗みどろの身体が気持ち悪い。食事よりも風呂を優先しよう。
 シャワーを浴びるだけで簡単に済ませた。電気ポットで湯を沸かし、茶の準備をする。テレビの電源を入れ、チャンネルを替えたがニュース番組はなかった。帰省荷物を片づけ、卓袱台の前に腰を下ろす。近所のコンビニエンスストアで買った惣菜が電子レンジで温まるのを待つ間に、ノートパソコンの電源を入れた。
 電子レンジのチンという音がした。疲れているわりに食欲がなく、春雨の入ったサムゲタンスープだけの夕食だった。急須からマグカップにほうじ茶を注ぎ、割り箸を割る。
 指紋認証でログインし、ファイラーを起動した。見覚えのないファイルがあった。マウスでダブルクリックする。エディタが起動し、テキストが表示された。
 割り箸で春雨をすくっては口元へ運ぶ。単調な動作をくりかえしながら万慈は読み進めていった。知らずしらずカップを卓上に置いていた。スープが冷めていくのも忘れ、スクロールし、ひたすらに文章を読んだ。
 姫白夕貴を殺したのは辰木素尚かもしれない。万慈がそう思ったのは、日付が変わる頃のことだった。