夏休みにもかかわらず素尚が登校したのは一本の電話のせいだった。入学を希望する中学生やその保護者たちに向けた学校説明会が明日の午後からある。図書室の案内役を引き受けてほしいと担任教師に頼まれた。
 素尚は図書委員ではない。担任が国語教師で、図書室の管理を任されている。図書委員の誰かに案内役を頼むはずが、うっかり忘れていた。めぼしい者に声をかけたが全員に断られた。切々と事情を訴える若い教師が哀れに思えてきて、素尚は承諾した。
 兄に電話することを忘れていたと気づいたのは昼下がり、図書室のカウンターでだった。案内を乞う者が途切れるのを見計らってスマートフォンを手にした。
 おおむね予想どおりの答えを得た。姫白夕貴に伝えるべきだろう。メッセージアプリで「火事のこと、もう少し兄と話をしました」と送った。電話で話せないかと続けてメッセージを送る前に、夕貴から返信があった。
 メッセージのやりとりは、素早く文字を打って迷わず短文を送りつける者が流れを制す。あっという間に素尚は近くの公園で夕貴と会うことにされてしまった。
 午後五時半、素尚は担任教師からお役御免を言い渡された。まだ陽射しは強く、自転車置き場に来ただけで汗を掻いた。自転車を走らせ、五分足らずで公園に到着した。入り口脇に自転車を駐め、ショルダーバッグを肩にかけて歩きだした。
 紫ヶ森運動公園は広い。田澄川に沿って野球のグラウンドやテニスコート、陸上競技場などが広がっている。芝生の広場や子供向けの遊具もある。素尚は中学生のとき陸上部員だった。大会参加のたびにここを訪れた。身体を動かすことは嫌いではない。高校では帰宅部だが、朝のランニングと簡単な筋トレは欠かさず続けている。
 夏休みが始まる前、素尚は何度かこの公園で散歩したり、本を読んで過ごした。あの頃は工事現場から杭打機の音が響いていたが、今日は休みなのか静かだ。驚くほど人がいない。この暑さでは当然か。
 夕貴と会う場所をここにしたのはしかたなくだった。学校の周辺は驚くほどなにもない。公園の向こう側には紫ヶ森本陣跡という、江戸時代に参勤交代の大名が宿泊に利用した建造物がある。それを除けば後は畑と果樹園が広がるばかりだ。
 大きな東屋があった。家族連れ同士で集まってバーベキューができそうな広さだ。まわりを木々が囲み、陽射しを和らげてくれている。背もたれのないベンチ四つを正方形に並べた、その角にキャスケット帽を被った女性の背中があった。
「お待たせしました」
 素尚が声をかけても、夕貴は顔を上げなかった。革製の肩掛け鞄を膝にのせ、それを机代わりにタブレットパソコンを置き、背中を丸めて一心不乱にキーを叩き続けている。
「えっと、夕貴さん?」
 相手が女性だけに、肩を叩くのもはばかられる。少し待つことにした。
 ショルダーバッグをベンチに置き、素尚は腰を下ろした。夕貴は四角形に並んだベンチの角っこに、斜めに座っていた。隣に腰を下ろすとディスプレイが自然と目に入った。「家彦」「良子」といった単語があり、視線を逸らせなくなった。
 盗み見なんてしてはいけない。そう思っても、飛ばしとばしに目が文字を拾ってしまう。湖でボートに乗った二人が会話している、そんな場面のようだった。
 瞼を閉じた女の顔が脳裏を過ぎった。素尚は理解していた。あれは現実だった。何度も遠ざけようとした記憶だった。真っ黒な穴に投げ捨てたはずの濡れた顔は、湖を目にするたび戻ってきた。おまえは人殺しを見逃したんだぞ。そんな言葉とともに。
「うわっ」物凄い勢いで夕貴がタブレットパソコンを閉じた。
「素尚くん、いたんだ」
 すみません、いました。そんな軽い言葉を返したかった。けれど、今の素尚には無理だった。息をすることさえ難しい。「それって」乾いた声が喉で詰まった。
「アー、気にしないで」
 パソコンに視線を落とし、夕貴はぎこちない笑みを浮かべた。
「これはなんていうか、ただの小説で……とにかくなんでもないの」
 そんなはずはない。ただの小説のはずがない。あの日、兄が良子とボートに乗ったことを知っているのは素尚ただ一人。そんな場面を描けるわけがない。
 竜巻のように言葉が口の中で渦を巻いても、疑問をぶつけることはできなかった。夕貴がタブレットパソコンを肩掛け鞄へ仕舞うのを為す術もなくみつめた。
「それでどうだったの?」
 ここへ来た本来の目的を思いだすのに素尚は時間を要した。
「あの日、兄が紫ヶ森に来たのは、祖父と話をするためでした」
 素尚は胸に手をあてた。鼓動が速いのは気のせいだろうか。
「父の事故について証言してくれる人が現れたんです。ドライブレコーダーの映像で、直進車が異常なスピードだったとわかって。これなら過失割合が見直されるはずだって。経済的な問題が解決したから、兄は専門学校を辞めないと宣言するため祖父と会おうとしたわけです」
「アー、そうなんだ」
 顎を掻きながら夕貴は「現実はそんなもんだよね」とつぶやいた。
「つまり家彦さんは、坂峯さんの家に火をつける動機なんて無かったんだ。良かったね」
「ええ、安心しました」
 そのとおりだ、兄には動機がない。兄の言葉を鵜呑みにすれば、火を放つ理由がない。父の無実を知らされたのが本当に火事の前だったなら。火事の前に知ったと主張しているのは家彦だけだ。でも、この場でそんなことに触れる必要はない。
 そうではなかったとしたら。
 時限式発火装置を仕掛けて坂峯家から離れた。弁護士から連絡があったのはその後だとしたら。慌てて坂峯家に駆けつけ、後ろめたさから富士夫を救助してもおかしくない。
「せっかくトリックが解けたと思ったのになあ」
 夕貴は背伸びをした。瞼を閉じ、うーんと軽い唸りをあげる。
「トリック、ですか?」
「お姉ちゃんが小柄地蔵のあたりを出発したの、やっぱり火事が起きた時間帯だったの」
「いや、それは日庭さんの証言で、」
「お姉ちゃんはクジラ丸に乗っていたの」
 頭の中が混乱した。遊覧船に乗ったのは日庭千笑美ではなかったか。湖の南側を徒歩で半周していたはずの良子が、いつ遊覧船に乗ったのか。
 絵を描いたほうがわかりやすいか。そう言って夕貴は鞄から手帳をとりだした。手帳に付属のシャープペンシルで楕円や棒人間を描いていく。
 開いたページの左側に「雲外荘」と書かれているのは宿泊先の名前だろうか。予約したときの走り書きらしく部屋番号や「食事なし、自炊可」といったことが走り書きされている。そういえば昨日、大学のサークル仲間と一緒に宿へ泊まると話していた。
「日庭さんは雨洞町で遊覧船に乗って」
 楕円はやはり紫ヶ森湖のつもりだったらしい。北西の雨洞町にある乗り場から、南東の紫ヶ森駅の近くにある乗り場へ、ゆったりした曲線を引いている。クジラ丸の航路は直線ではなく、天狗岩を案内するため南側へ膨らんでいる。
「駅前に行くつもりだった。ほら、船が南西の岸にだいぶ近づくでしょう? このあたりで日庭さんはお姉ちゃんを目撃した。でもね、実はそれ、お姉ちゃんじゃなかったの」
 私の祖父母の家がここらにあってね。そう言って夕貴は、南岸の一点に簡単な形の家を描いた。
「お姉ちゃんと唐馬美術館で会う約束をしていて、岸沿いに歩いていたの。日庭さんに電話して確認したけど、遊覧船からみかけたのは藍色のワンピース姿だったんだって。それ、お姉ちゃんじゃなくて私の格好。あの日はお姉ちゃんのおさがりの服を着ていたし、わりと私って顔も似てるみたい。だから遠めにお姉ちゃんと見間違えてもしかたないわけ」
「それはわかりましたが、メッセージのことはどうなります?」
 湖沿いの道を歩いている。そっちから見えるか。そんな内容のメッセージがスマートフォンに届いたからこそ、日庭千笑美は人影を良子だと信じた。
「お姉ちゃんは湖の南を歩いていたんじゃなくて、日庭さんと入れ違いで遊覧船に乗ったんじゃないかなって」
「入れ違い……ああ、わかってきました」
 駅から雨洞町へ向かう遊覧船に良子が乗っていた。雨洞町の乗り場で降りた良子は、これから駅前に向かうべく乗船しようとする千笑美を偶然みかけたのではないか。
「良子さんは悪戯したわけですか。日庭さんが見間違えたら面白い、くらいの」
「家をでるとき私、お姉ちゃんに『いまから行くよ』みたいなメッセージを自撮りと一緒に送った覚えがあるの。タイミング良くみかけるかもしれないと思ったんでしょうね。当たり前だけど、確実にみかけるとは限らない。うまくいったら面白いくらいの気持ちだったんじゃないかな」
「待ってください、それだと美術館には間に合わないんじゃ?」
「自転車を使えばいいじゃない」
 三浦家には良子の自転車がある。大学進学のとき実家に置いていったものだ。紫ヶ森湖を訪れた夕貴が、兜斗から貸してもらったのもこの自転車だ。
 千笑美が乗った遊覧船が雨洞町の乗り場を出発したのは午後一時五十分だった。乗降のための時間もあるから、良子が乗り場に到着したのは一時三十五分頃だろう。三浦家から唐馬美術館まではおよそ四キロ、ゆったり漕いでも自転車なら時速二〇キロはでるから十分ほどしかかからない。二時の約束に充分間に合う。
「ほら、辻褄が合うでしょ? そもそも歩くのって大変じゃない、暑いんだから」
 遊覧船と自転車を乗り継ぐのはまるでアリバイ工作のようで複雑に感じる。しかし小柄地蔵のあたりから公園まで、ほぼ湖を半周という長い距離を炎天下に歩いたと考えるほうがよほど不自然だ。午前中、家から小柄地蔵への移動にも遊覧船を使ったのだろう。
「こう考えると」手帳を閉じ、夕貴が言葉を続ける。
「お姉ちゃんが小柄地蔵を離れたのはもっと早い時刻になるの。駅近くの乗り場を一時二十五分に出発する便に乗れば良いわけ。家彦さんが火事を通報したのは午後一時頃」
 ほらね? 悪戯が成功して喜ぶ子供のように夕貴が微笑む。素尚はなにも応じられなかった。頭の中で事実を整理するだけで精一杯だ。
 服装に関する証言からして、千笑美がみかけたのは良子ではなく夕貴で間違いない。良子が本当に遊覧船や自転車を使った証拠は無い。けれど炎天下に歩いて湖を半周するより、遊覧船や自転車を利用したと考えるほうが極めて自然だ。もちろんタイミングにもよるだろう。早めに駅近くの乗り場へ移動し、たまたま火事に気づかなかったのかもしれない。
 しかし事実として良子は書き置きひとつ残さず姿を消した。警察や検事なら、これをどう判断するだろう。これでもまだ聴衆の前で火事とは無関係だと言い張る度胸のある弁護士はいるだろうか。そしてその弁舌に頷く裁判官は。
「で、鍵は?」
 夕貴の問いかけに、ぎこちなく素尚は顔を傾けた。頬を汗が滑る。
「ほら、家彦さんが来たとき玄関が施錠されてなかったのはなぜかっていう」
「お祖父ちゃんが忘れたか……僕がいるんだから要らないと思ったんだろうって……言ってました」
 煩わしい。そんなくだらないことより、もっと大切なことを考えたい。
「まあ、そんなもんだよね」
 瞼を細めて夕貴は苦笑した。手帳を鞄に戻し、代わりにタブレットパソコンをとりだす。
「これで話は終わりだよね?」
「……はい」
「素尚くん、ゴメン! いま小説がすっごく良いところだから、続き書いていい?」
 両手を合わせて夕貴は素尚を拝んだ。これで会話を終わりにしよう。従姉がそんな趣旨のことを述べていると、素尚はぼんやり理解した。ゆっくり頷き、ベンチから立ちあがる。
(兄さんが、僕を)
 記憶が蘇る。肩を揺さぶられて眠りから覚め、急き立てられながら階段を下り、火に恐怖したときの光景が脳裏を流れていく。
(殺すはずがない)
 そう、殺すわけがない。血の繋がった弟がいるのに火を放つわけがない。
 では弟がいるとは知らなかったならば。専門学校への進学にともない家彦は都内で一人暮らしを始めたばかりだった。父の事故死や母の入院は当然知らされていたとしても、素尚が坂峯家に預けられたことまで知らされていただろうか。
 良子はなにを目にしたのか。家彦が坂峯家を訪れる姿か。遊覧船の出航を待つ間に消防車のサイレンを耳にし、SNSを確かめたのかもしれない。美術館で夕貴と過ごしながら、家彦と火事との関係を疑って悶々とした。事情を問いただすべく辰木家を訪れ、二人はボートに乗って――。
(暑い)
 もう素尚は立ち去ったと思っているのか、夕貴は夢中でキーボードを叩き続けている。
(あの日も暑かったな)
 なにを考えているんだ。まだ証明する手段はある。父の無実を知らされたタイミングを確認すれば良い。家彦がそれを知ったのが火事の前なら、動機がない。
(そうだっけ?)
 逆ではないか。兄は、問題が解決したからこそ火を放ったのではないか。
 経済的問題が解決したからといって、富士夫が家彦の進路に口出しした事実は変わらない。父が無実だと知った。好きな未来を選べる、自由だと悟った。その高揚感に後押しされ、家彦は放火という嫌がらせに走ったのではないか。
(そうだよな)
 肩が揺れる。頬が震える。おかしさが腹の底から込みあげてくる。
(そういう人だよな)
 ちがう、そんなわけがない。そんな非常識なことをする人じゃない。
(そうだっけ?)
 わからない。兄のことがわからない。年が離れているから、たまにしか顔を合わせないからというのも当然ある。でも、それだけじゃない。素尚は兄を恐れている。
 まだ高校生の素尚に辰木家の経済事情はわからない。だが、恐らく兄の援助を受けているだろう。虚弱な母は働いたことがない。ぜいたくをしているとは思わないが、父の遺産はそこまで莫大なものではないだろう。いつだったか、大学の学費は心配するなと兄に言われた。頼もしさを感じると同時に、自分の静かな生活は家彦の機嫌ひとつで崩れ去るものだという想いもつきまとった。
 そして、あの忌まわしい記憶。夏の夕暮れ、ずぶ濡れの女をボートから抱えあげる姿を目にしたときから、素尚は家彦に心を開くことができないでいる。あのとき、なにが起きていたのか。
 真実を知ることを恐れ、辰木家彦という人間を遠ざけ、ただただ安寧な生活がいつまでも続けばいいと、そればかり願ってきた。いま、その報いを受けている。
(だから、)
 やるしかないんだ。
(これは僕のせいなんだ)
 ベンチが形作る四角形の内側に入る。夕貴に背後から忍び寄り、首にかかっている肩掛け鞄のストラップをつかんだ。肩越しにストラップを素早く交差させても、夕貴は抵抗するどころかキーボードを叩き続けていた。
 力いっぱい左右に腕を引く。夕貴がようやく首に手を伸ばした。タブレットパソコンが転がり落ちる。素尚はベンチに飛び乗った。高い位置から吊るせば締まりやすいと思った。
 夕貴の手が素尚の腕をつかんだ。爪が食いこむ。足をばたつかせる。ほとんど夕貴は声をあげなかった。叫びたくとも叫べないのか。徐々に頬が変色していく。
 木洩れ日がまぶしい。まだか、まだ死なないのかと素尚は念じ続けた。どれだけ待てども地獄のような責め苦は終わりが訪れなかった。