車庫に自転車を返した。二階へ戻ると廊下で兜斗とバッタリ会った。とりたてて新しいことはなにもわからなかった。そう言って夕貴が頭を下げると「ありがとな」と声をかけられた。
(これで良かったのかも)
 そんな想いがふと夕貴の胸に浮かんだ。家彦への疑念を深めたところで「良子は従兄に殺された」という残酷な結論しか得られない。良子は自らの意思で失踪したと信じたかった。どこか遠い街で、どんな形でも良いから幸せに生きていてほしかった。
 玄関まで見送られる途中で気づいた。本を返さないといけない。二階へ階段を駆けあがる。学習机を使うため床に置いていたスポーツバッグを手にとった。
「戻しておかないと、お母さんに怒られる」
 独り言をこぼしつつバッグを椅子の上に置く。ジッパーを開くと、黒いジャージが目についた。手が止まる。なにか別の忘れ物があるような。
 階下から兜斗の声がした。慌てて夕貴は『紫ヶ森むかしばなし』をバッグの中へ押しこんだ。階段を下りる。玄関口に立つ兜斗に「ちょっと」と声をかけた。
「いなくなった日って、お姉ちゃんはどんな服装だったの」
「さあ、忘れた。夕貴ちゃんは?」
 そうだった。唐馬美術館で会った。植物柄のワンピースにポシェットを提げていた。
 なにが気になったのか、わかった。あの日、良子はここから小柄地蔵まで、そして美術館まで歩いた。夏の真っ盛り、汗を掻くことになるのはわかっていたはず。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない」
 そう、なんでもないことだ。夕貴は心の中で自分に言い聞かせた。山歩きはジャージで良くても、町中や美術館にはそぐわない。当たり前のことだ。
 車で送ろうと兜斗は言ってくれたが、夕貴は断った。ゆっくり湖を眺めながら歩きたい気分だった。「また遊びに来い」そう告げる兜斗に、夕貴はじゃあねと小さく手をふった。

 集落を抜けると、コンクリートに覆われた湖岸があった。黄金色に湖面が輝いている。クジラ丸のシルエットに夕貴は気づいた。もう間もなく乗り場へ接岸する。船尾のほうに、夕焼けに照らされた少年の顔があった。
(あれって)
 千笑美の証言を馬鹿にできないなと思った。船まで百メートルはありそうなのに、それでも知っている顔はピンとくるものらしい。
 帰る方向と逆だったが、夕貴は迷わなかった。道路沿いに歩いていくと乗り場に着いた。午前中に会ったときと同じ、チノパンにワイシャツ姿の少年が降りてきた。
「また会ったね」
 辰木素尚は怪訝な顔をした。夕暮れの光を浴びて、昼間とは違う顔に見えているのかもしれない。数瞬の迷いの後に「ああ、夕貴さん」と微笑んだ。
「ひょっとして、お兄さんを見送ってきたの?」
「はい、ご飯を食べてきました」
 夕貴は頷いた。このあたりに食事処の類はないから、紫ヶ森駅付近にでかけたのだろう。
「そういえば、兄がすみませんでした」
 頭を下げる素尚に、夕貴は「いや、しょうがないよ」と顔の前で手をふった。
「こっちこそ今日はありがとう。おかげで、よくわかったよ」
「どういたしまして。もしかして、まだ訊きたいことが?」
「そういうわけじゃないの。たまたま素尚くんをみかけたから……」
 まわりにほとんど人がいなかった。この時間帯は、しがもり園から帰る客ばかりなのだろう。クジラ丸から降りてきたのも素尚一人だった。「あのさ、素尚くん」夕貴は笑顔を作った。意識して唇の端に力を入れ、なんでもないことのように言葉を放つ。
「なんで火をつけたの?」
 かすかな風があった。一日中、微塵も動こうとしなかった大気がわずかに身を震わせ、少年の前髪を揺らした。
「疑問に思ったのは鍵のこと」
「……玄関の鍵」
「そう!」胸の前で、夕貴はパンッと両手を打ち鳴らした。
「よく寝てる小学生の子を家に置いてでかけるんだもの、玄関に鍵くらいかけるよね。だったら、家彦さんはどうやって家に入ったの?」
 なにか素尚が言いかけた。それを押しとどめるように夕貴は言葉を浴びせた。
「本当は普通に、素尚くんが迎え入れたんじゃないの? 火事になったのはその直前かな。小学生の男の子だし、面白半分にライターで火遊びでもしちゃったとか。思いがけず火が大きくなって、一人ではどうしようもなくなった。そこへ家彦さんがたまたま訪れた。もう火が大きくて消防車を呼ぶしかなかった。口裏を合わせろって家彦さんに言われたんでしょう。ボロがでないよう、素尚くんはずっと眠っていたことにした」
 早口になりそうなのを夕貴はこらえた。焦ってはいけない。自信たっぷりに言わなきゃいけない。そう、まるで紙の上の名探偵みたいに。
「なんてことを思ったんだけど、どう?」
 こらえきれなかった。素尚の顔から表情がみるみるうちに消えていった。口を半開きにし、心なしか青冷めているように見える。「ごめんごめん! 冗談だって!」慌てて夕貴は拝むように手の平を合わせた。
「言われてみると、たしかにそうです」視線をさまよわせながら素尚は言った。
「不思議ですね……ううん、鍵はどうしたのか、思いだせないな」
「富士夫さんから合い鍵を渡されてたのかな」
 それは夕貴ではなく、万慈の考えだった。三浦家でのネット会議で夕貴はふと鍵の矛盾に気づいた。万慈はあっさり「合い鍵でももらってたんじゃないか」と一蹴した。孫とはいえ、同居しているわけでもない相手にそんなことをするかとは思ったけれど、まったくありえないとも言えず、それ以上は夕貴も話題を続けなかった。
「ごめんね、驚かせちゃって。ちょっと思いついちゃったものだから」
 まだ不安なのか、目を細めている素尚の顔がどこか可愛らしくて、夕貴はドキリとした。詫びの言葉を重ね、頭を下げる。「じゃあね」素尚に背中を向け、歩きだす。
「また訊きたいことがあれば、いつでも来てください」
 夕貴はふりかえらなかった。もう、それは必要のない言葉だった。遠い山の端が朱に染まっている。いつの間にか陽が沈んだらしい。
(終わっちゃったな)
 背後から風が吹いた。誰かに声をかけられた気がして、夕貴はふりむいた。
 少年の姿があった。まだ乗り場に立ち尽くしている。眼鏡を外し、眉間に指先をあてている。まさか泣いているのか。いや、夕暮れの景色にまばゆさを覚えただけかもしれない。
(――あれ)
 金色の光を散りばめた湖面、少年の怯えた顔。なんでもないはずの光景が心の中のフィルムに灼きついていく。
(なに?)
 夕貴は目を逸らした。早くこの場を離れなければならない。込みあげてきた衝動に突き動かされ足を速めた。夕闇が迫りつつあった。

 素尚は眼鏡を外した。クジラ丸で湖面を眺めていたせいか、目に疲れを覚えた。今日も暑い一日だった。早く家に帰って涼みたい。そんなことを思いながらも足は動かなかった。
 眉間に指先を押しあてる。瞼の裏側が夕陽のように赤い光を放っている。ほんの小一時間ほど前、ファミリーレストランで家彦と食事をしていた。従姉の姫白夕貴が家を訪れたこと、家彦を放火犯と疑っていたことを口にすると、兄は他人事のような笑みを浮かべた。
「兄さんは、どう考えてるの」
「なにをだ?」
「良子さんがいなくなったこと」
 スプーンにドリアの一口を乗せたまま、家彦はしばらく天井を眺めていた。記憶を探っているのか、言葉を整理しているのか、それとも。
「どこかでどうにかして暮らしてるってのが、いちばんしっくりくるな」
「そうなの?」
「あいつは良い子ちゃんだったからな。優等生すぎたのがプッツンして、人付き合いを避けるようになったってのがありそうな話だ」
 違和感を覚えた。真面目に答えているようでいて、どこか真剣さに欠けている。
「でも大学に入って、新しい生活が始まったばかりだったのにそんなことするかな」
「だからこそ、さ。人間関係がリセットされて、改めて自分は何者なんだとか、なんの取り柄があるんだろうとか悩む時期だ」
「兄さんの言うとおりだとしても、家族に連絡くらいはするんじゃない?」
「そこまでいくと水掛け論だな。精神的に思い詰めていれば連絡しないこともあるだろ」
「まあ、そうだけど」
「客観的には行きずりの犯行と考えるのが妥当だろうな。自ら望んで行方をくらましたなら金を下ろすとか準備が必要だろ? 俺の知る限り、そういう痕跡はなかったらしい。あるいはそうだな、どっかの新興宗教とか詐欺目的のおかしな団体に拐かされたとか」
 あまりそういうことは想像したくないから口にしないだけさ。そう言って、苦いものでも口に入れたような顔で兄はドリアを咀嚼した。
「ごめん」
「いいさ。高校生なんだから、モトもそういう疑問を持って当然だ」
 家彦はいつも素尚のことを「モト」と呼ぶ。
「兄さんも少しは調べたんだね」
「少しはな」
 それ以上は会話を拒むように、家彦は下を向いてミートドリアを食べ続けた。陽気なポップソングが流れている。愛を謳う言葉が耳障りだった。
 素尚は我に返った。クジラ丸が岸を離れていく。眼鏡をかけなおし、手すりから離れた。
(いつも、こうだ)
 兄との会話は、遊園地のティーカップの乗り物のようだ。真ん中のハンドルを家彦が勢いよくまわす。回転が激しすぎて、頭が混乱してくる。「どうだ、楽しいだろう」兄が満面の笑顔で言う。そう、たしかに楽しい。楽しいはずだ。
 心が躍るような気持ちと不安がごちゃごちゃになっていく。おたがい気遣うふりをしながら、本当に大切なことはさらけだせない。
 坂峯家の火事について夕貴に話したことはすべて本当だった。だからこそ、いきなり糾弾されたことには驚いた。冗談だと謝られたが、未だに胸のざわざわした感じが収まりきらない。隠し事をしていることを見抜かれそうで、どうしても不安を拭いきれない。
 玄関の鍵はどうしたのか、また後で兄に電話で訊いてみよう。いまは運転中だろうから、夜かな。暮れていく湖面に視線を向けながら素尚は歩いていく。観光客たちは美しい光景と思うのだろう。美しいことは確かだ。誰だって目が惹かれてしまう。けれど素尚は、どうしても嫌なことを思いだしてしまう。土気色した女の顔が瞼の裏に浮かんでしまう。
 坂峯家の火事について素尚は一言も嘘を吐かなかった。ただ、火事の後の出来事には触れなかった。素尚はあの日、兄に連れられて辰木家に帰った。心理的なショックで疲れたのか眠気を覚え、二階の自室で横になっていた。家彦と会話する誰かの声が階下から響いてくるのを夢うつつに聞いていた。
 だから、あれは夢なのだろう。裏庭の桟橋にいる家彦を目にしたのは。ずぶ濡れの良子をボートから抱えあげていた。あれはきっと夢の中の出来事だったのだろう。

 空が藍色に染まりつつあった。夕貴は湖畔に沿って続く生活道路を歩いていた。センターラインさえ描かれていない細い道だ。右手のほうは木々が生い茂っている。忘れ去られたようなコンクリート製の建物がぽつんと建っていたりする。左手は腰の高さまで雑草が繁茂し、その向こうに薄墨色の湖面が広がっている。
(なんだったんだろ)
 遊覧船の乗り場でたたずむ素尚の顔。あの胸のざわめきはなんだったのか。
(こわい)
 なにかに怯えたのは確かなのに、なにを恐れたのかわからない。色彩の乏しい光景を眺めているうちに顔が浮かんできた。アーモンドの形をした瞳に怒り眉。良子の顔だ。
 まだ夕貴が小学生の頃、三浦家に泊まった夜のことだった。良子の部屋で遅くまでおしゃべりをしていた。なんの話題だったか忘れたが、不意に良子が言った。
 ――湖の水が怖くなることがあるの。
 意味がわからなかった。洪水が怖いの? 気持ち悪い生き物が嫌なの? 質問を重ねるたび良子は首をふって「ちがうの、たくさん水があることが怖いの」と言い続けた。
 湖に視線を向ける。遠い対岸に街の明かりが灯りつつある。まだ数が少ない。とん、と胸の真ん中を指で突かれた気がした。さあ、思いだせ。見えない誰かにささやかれる。
 たしか中学生のときだ。母方の祖父母の家に泊まっていた。夜中に目が覚めて、どうにも寝つけなくなった。少し体を動かしたほうが良い。そう思って外にでた。
 この道を歩いたわけではない。もっと祖父母の家に近いところだ。細い道、電信柱、湖、草むら、夜空。ただそれだけ。外灯の間隔が離れていて、不安を覚えるほど暗かった。
 どれほど歩いただろう。湖に映る月を眺めているうちに、月がどこまでも自分を追いかけてくるように錯覚した。それがきっかけになって小さな話を思いついた。
 その頃の夕貴は短い話ばかり書いていた。原稿用紙で数枚くらいの、他愛もないオチがつく掌編ばかりだった。誰かに見せる勇気はなかった。小説投稿サイトの存在は知っていても二の足を踏んだ。親に譲ってもらった古いノートパソコンに書き溜めるだけだった。
 夜道を歩きながら夢中で考え続けた。どんな光景から物語の幕が開き、登場人物たちがどんなことを体験し、最後の一文はどのように結ばれるのか。暗さへの不安なんて忘れてしまった。大丈夫、これで書けると確信して、また湖に目をやった。
 不思議な気持ちになった。生まれてから自分はこれまで月を何度目にしてきただろう。数十回、数百回、どれほどか知らないけど少ない数ではない。それなのに自分は初めて物語を思いついた。この小さな世界はどこから来たのだろう。
 月なんて、誰だって目にしている。きっとこの瞬間も地球上では無数の人々が夜空を目にしているだろう。それなのに私だけが今、物語を思いついた。
 そのとき夕貴は理解した。どうして自分は小説を書くのか。物語は頭の中になんて無い。誰かに耳元でささやかれる。そのか細い声に一度でも気づいたら、逃れることはできない。生涯ずっと創作という呪いに支配される。小さな世界の神になることと引き換えに。
(そっか)
 なにも無いこと。良子はそれを恐れたのかもしれない。広大な湖に満々と湛えられた無。物語はそこからやってくる。真空のような虚無から、あらゆる悪いものが湧いてくる。
(なに考えてんだ、私)
 夕貴は苦笑いを浮かべた。だいぶ疲れているらしい。自転車を漕ぎまわって体が疲れ、万慈と議論して頭が疲れた。深夜の散歩はどうなったんだっけ。まさかパジャマのまま外にでたはずがないけど、どんな服に着替えたのか思いだせない。
 連想が飛び火した。藍色のワンピース姿で姿見に映る自分がいた。良子のお古で、ガラス工芸展にもそれを着て行った。可愛らしいと祖母に何度も褒められた。良子ちゃんにそっくりだねと言われ、苦い気持ちになった。
 たしかに少しは顔が似ているかもしれない。でも、それだけのことだ。今の夕貴は頼まれてもワンピースなど着ない。この旅行中もショートパンツにTシャツといった、まるでスケーターみたいな恰好ばかりしている。
 五年前の光景が切れぎれに胸を過ぎる。祖父母の家をでるとき、自撮りして良子に送った。真っ青な空の下を晴れがましい気持ちで美術館まで歩いた。車で送ってやろうという父の誘いを断った。熱気の中を三十分近く歩いた。早く自分の姿を良子に見せたかった。たとえ汗だくになろうと、自分の力だけで会いに行くことに意味があった。
 姉妹のようだと言われて嬉しくないわけがなかった。ただ憧れは憧れでしかなかった。完璧な良子が姿を消し、不完全な夕貴が生きている。なにかが間違っていた。小説を書いているのも同じことかもしれない。見えないものを視たい。聞こえないものを聴きたい。それは裏返せば、今ここにいる自分に満足できないからだ。
 どこかで選択を誤ってしまった。望まない道に迷いこんでしまった。世の中すべてが間違っているような違和感。自分は一生、この思いを抱えながら生きていくのかもしれない。
(もしかして)
 夕貴は足をとめた。クジラ丸で日庭千笑美が天狗岩を指さした光景が瞼の裏に浮かぶ。
「私を?」
 五年前の夏の光景が、遊覧船からの眺めと重なった。