しゃっくりみたいな音がした。夕貴は思わずエアコンを見上げた。スイッチを点けてから三十分近く経つはずだけど涼しくならない。故障していたらどうしよう。
「難しそうだな」万慈の声がした。学習机の上、タブレットパソコンからだ。
「むずかしそうだよねえ」
屈みこんだ夕貴は扇風機に手を伸ばし、風量を「強」にした。
良子の部屋に来ていた。素尚から五年前の火事について話を聞き、早めに万慈と共有することにした。自転車を押して坂を登り、三浦家を訪れた。
万慈がみつけた新聞記事から判明したことも合わせると、次のようになる。五年前、坂峯富士夫宅で火事だと午後一時頃に通報があった。消防車五台によって三十分ほどかけて消火された。火元は一階の仏間で、線香の火の不始末が原因と判断された。
この当時、富士夫は一人暮らしをしていた。ただし事件の日は一人ではなく、素尚が預けられていた。父親の瑞生が交通事故で急死、母親の丹奈は精神的なショックを受け、入院生活を送っていた。春から専門学校に進学した家彦は都内にいた。家に小学生を一人きりにするわけにはいかず、素尚は祖父のもとへ預けられた。
素尚によれば富士夫は「書斎にこもりっきりで、あまり話した覚えがないんですよね」とのことだった。教頭の職を辞したのを機に、在野の郷土史家として綴ってきた文章をまとめ、出版する腹づもりだったらしい。パソコンに向かっている時間が長かったという。
火事が起きた日、十二時過ぎに富士夫は喫茶店にでかけた。家から歩いて十分ほどのところにある個人経営の店で、顔馴染みたちと小一時間ばかり雑談を交わすのが常だった。
素尚は二階の書斎で昼寝をしていた。恐らく富士夫は、孫を起こすのはしのびないとでも思って一人で外出したのだろう。「おい、起きろ!」急に肩を揺さぶられ、飛び起きた。都内にいるはずの兄の姿に驚くと同時に、煙で部屋がきな臭いことに気づいた。
家彦に急かされながら階段を下りた。書斎の真下、仏間の襖の隙間から煙がもうもうと噴きでていた。恐怖に身が凍りそうになるのを堪え、背を低くして廊下を駆け抜けた。
玄関から外にでて、家彦が一一九番に通報した。「近所にも知らせてくる」と素尚に言い残し、その場を離れた。しばらくして富士夫が帰ってきた。孫の姿が目に入らないかのように呆然とした目つきで家の中へ入ってしまった。
どうすべきかわからず、素尚は玄関でまごついていた。戻ってきた家彦に声をかけられ、事情を説明した。「わかった」とだけ告げ、兄は土足のまま家の中へ入っていった。
――長いようで、本当は数分だったと思いますけど。
素尚は口ごもった。そのときの光景が目に浮かんだのかもしれない。口にハンカチを巻き、富士夫を背負った家彦が玄関からでてきた。後に病院で富士夫から聞いた話によると、執筆中の原稿が失われるのが惜しかったという。書斎まではたどり着いたものの、煙を吸って意識を失った。熱せられた煙を浴びたことで火傷を負い、入院した。
当時の富士夫が一人暮らしだったのは、長男夫婦と折り合いが悪かったためらしい。後に長男夫婦は坂峯家へ戻り、退院した富士夫と同居するようになった。精神的ショックのせいか富士夫は人が変わったように暗く、寡黙になったという。
「怪しいと言えば怪しいよね」
扇風機のおかげだろうか。ようやく思考力が戻ってきた気がして夕貴は口を開いた。
「姿がなかったことか?」
万慈の声に、夕貴は頷きながら「そうそう」と応じた。富士夫を救出した後、しばらく家彦は姿を消したという。富士夫の様子を看ていてほしいと頼まれ、素尚は狼狽したそうだ。「救急車を誘導しに行ったのかもしれません」と言いつつも、少年は腑に落ちない顔をしていた。
「ピタゴラ装置を片づけてたのかなって」
時限式発火装置。遅れて夕貴はその言葉を思いだした。
「でもな、家彦はいちばん先に火事をみつけて、家に入ったわけだろ。だったら、そのとき装置を回収すればいい」
出火原因は線香の火の不始末とされた。しかし富士夫は納得しなかったという。亡き妻のため手を合わせることは欠かさなかったものの、それは朝のことだった。昼になってから火事になったのはおかしいと主張していた。
「発火装置が外にあったとか。ほら、虫メガネみたいなレンズで光を集めてさ」
「小柄地蔵のあたりから、仏間は見下ろす角度にあるのか」
「ごめん、距離がありすぎて無理だね」
昨日、目にした光景を夕貴は思い描く。祠から坂峯家まで三十メートルはあっただろう。あれだけ離れた先に太陽の力で火をつけられるとは思えない。
「火のついた矢を射ったとか無理かな」
「窓は閉めていたんだろ?」
「そうでございました」
富士夫は防犯への意識は強く、普段から窓や扉を施錠していたという。
「根本的な問題を先に考えるべきだな。なんで家彦が第一発見者なんだ?」
そこだよね、と夕貴は半笑いしながら天井を見上げた。背もたれがぎっと音を立てた。瞼を細め、これまでの論理展開を思い返す。
三浦良子が消えた理由を知りたい。姿を消した日、良子は火事が起きた坂峯家の近くにいた。これが偶然だとは思い難い。ところが日庭千笑美が遊覧船から良子の姿を目撃していた。そこから逆算すると、火事が起きるより前に坂峯家の辺りを離れていたはず。
そこで時限式発火装置というアイデアがでてきた。家彦こそ放火犯で、そんな装置を仕掛けているのを良子は目撃したのではないか。
「時限式発火装置なんて仕掛ける目的はアリバイ工作だよな。火がついたばかりの時刻にはまったく別の場所にいました、だから自分には放火なんてできません。警察にそう証言して嫌疑の目から逃れるために仕掛けるもんだ。第一発見者になったんじゃ意味がない」
「こんなのはどう? 火をつけてやろうと坂峯さんちに乗りこんだけど、迷いがあった。仏間でうろうろしていて、そこをお姉ちゃんがみかけた」
「富士夫さんがいつ帰ってくるかわからんのに、三十分近くもうろうろというのはなあ。仏間にいたのを目撃されただけなら、口封じするほどの動機とも思えん」
万慈が溜め息混じりの声をこぼした。
「そういや、そもそも各務原さんはどうして坂峯家を訪れたんだ?」
「素尚くんは知らないって。進路のことで話しあうためってのがありそうな話かな」
「フム……喫茶店にでかけるのはいつものことなのか? つまり、富士夫さんが確実に留守の時間帯を狙って火をつけたのかどうかで話が変わってくると思ってな」
「いつものことだけど、その日はいつもより遅かったみたい。石段から転げ落ちて腰の調子が悪かったから、ずっと横になってたんだって」
「石段って、三羅寺のか?」
小柄地蔵のすぐ近くにある寺だ。お年寄りには厳しそうな長い石段がある。
「ごめん、その説明が漏れてましたね」
火事の前日、富士夫は散歩にでかけた。素尚が留守番をしていると、良子が訪れた。富士夫の不在を告げると、良子は自ら書斎で『紫ヶ森むかしばなし』をみつけた。良子が辞去しかけたとき、富士夫が近所の者に肩を貸されて帰ってきた。石段の足元で唸っていたという。腰の痛みを訴える富士夫を書斎へ連れていくのを良子も手伝った。
「なるほど、小学生だった素尚くんがなんで本の貸し借りのことなんか知ってるんだと思ったが、そういう事情だったわけか。でも、腰の痛みを訴えてる奴をどうして苦労して二階まで連れていったんだ。一階でいいだろ?」
「エアコンが壊れちゃって、その頃は書斎で寝てたんだって」
「ああ、富士夫さんが臥せっていた布団で素尚くんは昼寝していたのか」
そこまで確認したわけではないと夕貴はことわったが、悪くない考えに思えた。恐らく二人は一緒に書斎で寝起きしていたのだろう。腰の痛みのせいで富士夫は朝寝をし、寄り添っていた素尚がいつの間にか眠りに落ちた。そんな光景を想像すると微笑ましい。
「話を戻すと、いつもなら富士夫さんが喫茶店から帰り、書斎で執筆している時間帯を狙ったわけだ。火元は真下の仏間だから、殺すつもりだったのかもしれんな」
「ひょっとして家彦さん、素尚くんが預けられていたこと知らなかったとか? 発火装置を仕掛けて、それから素尚くんがいると知って、慌てて助けに行った」
「それなら第一発見者になるな。よし、その仮説を検証すべくアタックを――」
万慈の言葉は短い音に遮られた。肩掛け鞄に夕貴は腕を伸ばし、スマートフォンをとりだした。
「がっくし」学習机に夕貴は突っ伏した。
「どうした」
のろのろと夕貴は身を起こすと、メッセージアプリに素尚から届いた内容を説明した。急用が生じたため、家彦はこれからすぐ東京へ戻るというメッセージだった。