子供の頃は普通に思えたことが、大人になると受け止め方が変わる。
「豪邸じゃん」
陽射しを手で遮り、指の隙間から夕貴は建物を見上げた。
たいして大きな家ではない。二階建て一棟、地方ではざらにある大きさだ。ただ、素材が違う。漆喰の塗り壁は経年の汚れが風格を醸しだしている。屋根にはテラコッタ瓦、庭にはソテツ、まるで地中海を望む白亜の別荘だ。紫ヶ森湖はいつから地中海になった。
ある意味、その印象は間違っていない。このあたりから西は別荘地だ。家彦たちの父、辰木瑞生は建設会社「蒼天組」の重役だった。会社の名を汚さぬ覚悟で建てたのだろう。
(私、なんにも知らなかったんだな)
玄関へ続く赤レンガが敷かれた小道を夕貴はとぼとぼと歩いた。
昨夜、唐木戸万慈とネット会議をした。家彦こそ放火犯だ、アタックしてこいと命じられた。万慈は理学部の四年生で、スフィンクスを通じて知り合った。坊主頭で、実家は寺だという。尊大な口調が鼻につくけど不思議と憎めない。
(大丈夫かな、アポなしで)
坂峯家の門前で会話したときは怖気づいてしまい、家彦に連絡先の交換を言いだせなかった。もちろん兜斗に頼めば辰木家の固定電話の番号くらいわかっただろう。しかし万慈と捜査会議をしたのは深夜で、おまけに今朝は寝坊した。
気を抜くと溜め息がこぼれそうになる。うまくいくとは思っていなかったけれど、予想以上にうまくいってない。初日は良子が小柄地蔵を訪れていた新事実をみつけ、大手柄に思えた。偶然にも家彦と顔を合わせ、トントン拍子に調査が進んでいるように感じた。
五年前、良子が捜索されていると報道で知った千笑美は、重要なことかもしれないと警察に情報提供したそうだ。時間の関係からして良子が姿を消したことと火事とは無関係。恐らく警察はそう判断したのだろう。要するに夕貴は丸二日もかけて、警察が五年も前に了解していたことを後追いしただけだった。
(今日も空回りかな……)
溜め息を呑みこみ、夕貴は意を決して音符マークのボタンを押した。玄関ブザーの音がして、やがて「はい」と低い声が返った。男性の声だが家彦ではない。
「あの、辰木家彦さんはご在宅でしょうか」
「兄はでかけています」やや緊張した、抑揚のない声がした。
いないのか。午後にまた来るしかないか。じゃあ午前はどうする。さまざまな考えが夕貴の頭の中で渦を巻いた。「どちらさまでしょうか」不審げに問う声がした。
「あの、姫白夕貴です。私のこと覚えてる?」
「もしかして昨日の、」
なにか言いかけた声が途切れた。かすかな金属音がして、玄関扉が細く開いた。
つぶらな瞳に下がり眉。顔とくらべて眼鏡のフレームが大きく、幼さが強調されている。あの少年だった。昨日、坂峯家の庭で、池のほとりにたたずんでいた少年だった。
掃き出し窓から夕貴は外を眺めた。庭木に囲まれ、芝生が広がっている。枝の狭間から湖面が覗いていた。角度的に見えづらいが、短いコンクリート製の桟橋があるようだ。
かすかな気配がした。ふりかえると、お盆を手にした少年が入ってくるところだった。
「ボートがあるの?」桟橋のすぐ近くに防水シートらしきものが見えた。
「父が釣りに使ってました」ローテーブルにお盆を置いた少年が答える。
どうぞ座ってください。そう声をかけられ、そそくさと夕貴はソファセットのほうへ移動した。応接室があるらしいが、さっき少年に「冷房が効いているほうが良いですよね」と訊かれて頷き、このリビングに案内された。
広く、天井が高い。奥のほうに階段があり、二階の高さまで吹き抜けだとわかる。木目調のシーリングファンが二つ、ゆったりした速度で回転している。
ペルシャ柄の絨毯に革張りのソファが置かれている。三人掛けのソファの左右に一人掛けのソファが一脚ずつある。少年は一人掛けのソファの向きを直し、腰を下ろした。あまり離れたところに座るのも妙だ。夕貴は三人掛けのソファの真ん中を選んだ。
「いま高校生なんだよね」
池のほとりにたたずむ、学校の夏服らしき姿を思いだしながら夕貴は訊いた。
「はい、秩山東高校です。夕貴さんは大学生ですよね」
夕貴は頷き、白鐘大学の教育学部に所属していること、夏休みを利用して三浦良子が行方知れずとなった事件について調べていることを説明した。
話しながら少年の姿を観察する。チノパンに半袖のワイシャツ、スリッパの下は裸足だろう。痩せている上に女の子のような顔だけど、腕は意外にたくましい。
なるほど、たしかに面影がある。夕貴が最後に会ったとき、辰木素尚はまだ小学生だった。高校生に成長した姿を遠くから目にするだけでは誰なのか気づくことができなかった。
正直、幼い頃の素尚の印象は薄い。いつも大人しくて、口下手で、自分からなにか主張することがない。まわりが年上ばかりだったから、しかたないのかもしれない。
「というわけで、お兄さんに昔のことを聞きたくて」
「昨日、お祖父ちゃんの法事が終わった後、高校のときの友人の家にでかけました。電話の声、二日酔いみたいでしたね。はっきり何時に戻るとは聞いてません」
「家彦さんって普段は都内に住んでるんだよね。こっちにはいつまで?」
「明日の朝には戻るそうです」
夕方に出直すしかないか、と夕貴は判断した。従兄とはいえ、個人の電話番号を訊くのはためらいがある。家彦さんに連絡を頼むと「構いませんよ」と素尚は快諾した。メッセージアプリの連絡先を交換する。目の前にいるのがあの小さかった素尚だという実感が湧かない。言葉遣いも大人びているし、頭の良さそうな子だ。
「どうして良子さんのこと調べてるんですか」
スマートフォンをポケットに戻すと、素尚はローテーブルからグラスを手にとった。
「まあ、いろいろあって」夕貴もグラスに手を伸ばす。口元に寄せると麦茶の香りがした。
「仲良しだったし、急にいなくなってショックだったし」
「僕が不思議に思ったのは、どうして五年も過ぎてからなのかなって」
「ああ、それは簡単。コロナが落ち着いたから。あと、私が大学生になって一人でも自由に行動できるようになったから、かな」
素尚は「なるほど」と言いながら頷きをくりかえした。「言われてみれば当然ですね」
「お姉ちゃんのこと、素尚くんはなにか覚えてる?」
頭をゆっくりと回し、素尚はしばらく記憶を探っているようだった。
「もちろん覚えてはいるんですけど。正直、それほど会話したことすら無かったような」
もてあそんでいたグラスを素尚はテーブルに戻した。
「夕貴さんは兄に、どんなこと質問するつもりだったんですか? まあ、五年前の僕は小学生でしたけど、答えられることなら答えますよ」
しばらく夕貴は考えこんだ。これはチャンスかもしれない。
本当に家彦が良子を口封じしたなら、おいそれと口を割るわけがない。身近なところで家彦を観察していた人物のほうが、思いがけない証言をしてくれるかもしれない。
「これ、お姉ちゃんの部屋でみつけたんだけど」
夕貴は肩掛け鞄から『紫ヶ森むかしばなし』を取りだした。
「良子さんが借りていった本ですか」
何気ない調子で素尚が口にした言葉に、夕貴はとまどった。
「お祖父ちゃんの本じゃないんですか?」
首を傾げながら素尚は説明した。素尚の父方の祖父、坂峯富士夫は小学校で長らく教頭を務めていたが、アマチュアの郷土史家でもあった。良子は高校で郷土史クラブに所属し、富士夫はそこの顧問でもあった。良子は『紫ヶ森むかしばなし』を借りるべく坂峯家を訪れたという。
「それって、いつ?」
「良子さんが行方不明になる前の日です」
帰省した良子は実家に顔を見せる前に、駅の近くにある坂峯家に寄って本を借りた。その翌日、小柄地蔵の祠を訪れたわけだ。
頭の中が忙しくなってくるのを夕貴は感じた。祠は坂峯家のすぐ近くだ。二日連続とはいえ恩師の家に寄ってもおかしくない。そのとき、なにか目撃したのかもしれない。
「火事のとき、家彦さんはどうしてたの?」
口にしたとたん、夕貴は後悔した。思いがけず良子と坂峯富士夫との接点が明らかになって興奮しすぎた。こんなストレートな言い方、高校生だって勘づいて当然だ。
「兄のこと疑ってるんですね」
素尚が顔をうつむける。表情に翳りが浮かんだ。
「あの頃は小学生でしたから気づきませんでしたけど、僕の家がどう噂されているか、今はそれなりに理解してるつもりです。兄が放火して、それを目撃した良子さんの口を封じた。そんな可能性を疑っているんじゃないですか」
「ごめん」夕貴は頭を下げた。
「正直、疑ってる」
背筋を正し、少年の目を見据えると夕貴はきっぱりと告げた。
昨夕、クジラ丸で千笑美と会った後、兜斗に電話した。協力してくれたことに礼を述べるついでに辰木家の家庭事情を教えてもらった。夕貴が知っている話もあれば、記憶が曖昧になっていたり、まだ子供だったせいで教えられていなかったこともあった。
辰木家が雨洞町に転居してきたのは九年前のことだった。家にいるのは家彦と素尚、母親である丹奈の三人のみ。父親の辰木瑞生は通勤の便を考慮して都内に残った。週末になると瑞生のフォルクスワーゲンがよく駐まっていたという。
丹奈は良子たちの母である文子と同い年で、雨洞町で共に生まれ育った親友だった。田澄川の護岸工事のため紫ヶ森湖に長期滞在していた瑞生と出会い、結ばれた。仕事の都合から辰木家は地方都市を転々とした。家彦たちの手間がかからなくなり、瑞生は重役の椅子に座り、老後は生まれ故郷で穏やかな生活をしたいという想いを抱くようになった。
転居にともない瑞生はこの家を建てた。まるでそれが人生の絶頂期だったとばかりに辰木家へ暗雲が押し寄せる。
蒼天組は建設会社としては中規模で、国や地方自治体が発注するダム建設など大型事業の下請けだった。億単位の不正会計が発覚し、全国ニュースで報道される騒ぎとなった。五十代間近になって副社長に就任したばかりだった瑞生は後始末に奔走した。
睡眠時間を削って連日の激務に耐えたのが仇となったのか、瑞生は交通事故で死亡する。深夜に交差点を右折しようとして、直進してきた対向車と衝突。過失は瑞生のほうにあるとされ、高額な慰謝料を要求された。一家の大黒柱が倒れ、家のローンも残っている。当時の家彦はメディア系の専門学校に入学し、都内で一人暮らしを始めたばかりだった。
「噂で聞いただけなんだけど」前置きをして夕貴は言葉を続けた。
「坂峯富士夫さんが、家彦さんに学費の援助を申しでた。ただしゲーム関係の職に就くことは反対したと聞いてるの」
孫である家彦に富士夫が融通するのは当然の話だろう。ただ、小学校の教頭を務めてきた富士夫には、家彦の進路希望がよほど危なっかしいものに見えていたらしい。
「まあ、それは事実です」首を縦にふってから素尚は「でも、」と言葉を続けた。
「だからと言って家に火をつけたりなんて普通しますか? 進路を反対された嫌がらせでそこまでするなんて、さすがに常軌を逸しているでしょう」
「まあ、遺産を狙ったとか?」
サスペンスドラマの登場人物みたいなこと言ってるな、と夕貴は思った。
「教頭先生だったからといって人がうらやむほどの貯金はなかったと思いますよ。祖父は、祖母には先立たれたものの子供が三人いて、分割したら目減りしたんじゃないでしょうか。そもそも火事のとき、兄は燃えている家に飛びこんで祖父を救助したんです」
そういうところは噂になってないんですね。憮然とした顔で素尚が言った。
夕貴は黙りこむしかなかった。「カッとなって火をつけたけど、後悔したから救出したのかも」そんな反論が頭に浮かんだが、口にできなかった。
なんだか怖い。万慈との意見交換なら、いくらでも気楽なことを言えたのに。放火は下手すればまわりの家に燃え広がり、無差別に命や財産を奪い、地域に甚大な被害をもたらす恐ろしい犯罪だ。その重さをなにも想像していなかった。
「実を言うとね」沈黙の末に夕貴は口を開いた。
「火事の詳しいこと、全然知らないの。教えてくれる?」
このお姉さん、図々しいな。素尚の顔にそんな言葉が綴られているように感じた。