唐木戸万慈からきど まんじは寝そべっていた。二つ折りにした座布団を枕に、畳の上に長々と横たわっていた。下はハーフパンツ、上はランニングシャツ一枚の気楽な格好だ。
 蒸し暑い。窓を開け放して、網戸越しに夜気を迎え入れているはずだが室温は下がらない。もう嫌だとばかりに扇風機が首を振りながら、それでも健気に風を送り続けている。
「ちょっと、聴いてるー?」
 高いところから声が降ってきた。かすれたような、やや平板な声だ。
 聴いてるぞ。不承ぶしょうに返事して、万慈は身を起こした。座布団を尻の下に置き、あぐらをかいて背筋を伸ばす。全身が怠い。気を抜くとゼリーのように崩れそうだ。
 コタツテーブルの上にタブレットパソコンがある。映像は切っているのでsnowwhitePという相手のアカウント名だけが表示されている。
「本当ですかあ? 女子の激重感情、ちゃんと理解できたの?」
 万慈が姫白夕貴と知りあったのはほんの四ヶ月前だが、ネットの向こうにある顔をまざまざと思い浮かべることができた。間違いなく上から目線の顔をしている。口元に手をあてて「うぷぷ」とか笑いだしかねない。
「まあ、男の俺には理解できんのかもしれんが」
「うぷぷ~」
「……良子さんのほうも悪気があったわけじゃないだろう」
 落ち着け。精神修養、精神修養。
 心のうちで念仏のように唱えながら万慈は湯呑みを手にとった。麦茶に浮かんでいた氷はすっかり融け、水っぽい味がした。
「友情は、対等でないと成立しないってもんでもないだろ。良子さんなりに千笑美さんに感謝したり学ぶこともあったからこそ、仲が続いたんだろうさ」
「ほう」
「なにがほうだ」
「ホントいつでも万慈先輩、もっともらしいこと言うんですね」
「おう、もっともらしいことなら任せておけ」
 万慈が初めて姫白夕貴と会話を交わしたのはスフィンクスの新人歓迎会だった。自己紹介の場でおたがい推理小説ファンだと知った。謎解き愛好団体を謳うスフィンクスは、扱う対象が幅広いだけに必ずしも同好の士がみつかるとは限らない。気づけば顔を合わせるたび会話を交わす仲となっていた。
「そろそろ本題に戻ろう」
「本題……なんだっけ……」
「しっかりしろ、もう残り一日だろうが」
「そうなんですよね、残り一日なんだよねー」
 声が遠のいて、硬い音と「痛っ」という声がした。壁に頭でもぶつけたのだろう。「俺の考え、言っても良いか?」どうぞ。遠いままの声が返ってきた。
「なにより、この調査の目的を忘れるなよ。素人探偵が真相を突きとめられなくてもしょうがない。割り切って、良子さんが消えたのは火事と関係があるとみなしてしまおう」
「そりゃそうだけど、アリバイがね」
 さっきまで万慈と夕貴は、千笑美の証言について検討していた。結論としては信じるしかなかった。クジラ丸に乗っている千笑美をみかけたと良子はメッセージで伝えてきた。千笑美の顔を見分けられるほど遊覧船が西側に接近するのは天狗岩の辺りしかない。となれば、良子はそこにいたと考えるしかない。
 千笑美によれば、遊覧船の運航スケジュールは五年前も同じだったという。クジラ丸は午後一時五十分に雨洞町側の乗り場を出発した。
 しばらくして千笑美は良子をみかけた。地図アプリで確認すると、小柄地蔵から天狗岩まで六キロほどある。人の歩く速度は個人差はあれど時速四キロほど。逆算すればおおむね十二時半前後に良子は小柄地蔵を出発したことになる。
 家彦の言葉を信じるなら、坂峯家の火事が通報されたのは午後一時頃。その三十分も前に火の気があったとは思えない。
「名探偵・姫白夕貴の冒険は今日で放送終了です。ご視聴ありがとうございました」
「あのな、さすがに俺も警察が確かめた事実を疑おうとは思わん。発想を切り替えろ。アリバイくらいあったって構わないだろうが」
「どゆこと?」
「これがミステリだったら、放火したのは間違いなく各務原家彦だ」
「なんで?」
「怪しい登場人物が他にいないんだから、しょうがないだろ。火事がありました。同じ日に良子さんが姿を消しました。とくれば、ありそうな話はひとつしかない」
「家彦さんが火をつけた。それをお姉ちゃんが目撃して……口を封じられた?」
「それくらいのノリで良いんだよ。ただの探偵ごっこなんだ。ガンガン行けって」
 あ、法のハードルは越えるなよ。慌てて万慈は言い添えた。この後輩ならやりかねない。
「でも、アリバイが」
「火をつけているところを目撃するのは無理だろうさ。だがな、小柄地蔵のあたりから火事があった家を覗けるんだろう? だったら目撃したのは、火をつける前ってことだ」
「前?」
「時限式発火装置を使えばいい」
 ああ、と力の抜けた声がした。
「一定の時間が過ぎると自動的に火を放つ仕掛けだな。ローソクとかキッチンタイマーとか、素人だって簡単なものを組み合わせれば作れるさ」
 喉の渇きを覚えた。万慈は湯呑みを傾けると、麦茶を飲み干した。
「けっきょく私、どうすればいいんですか?」
「各務原さんにアタックしてこいよ。ついでに火事の詳細を聞けると良いな」
「簡単に言ってくれるなあ」
「俺のほう、明日からは身体が空くから。火事について図書館で新聞記事でも探すか」
「よろしくお願いしま……ふ」
 あくびが込みあげたのだろう、夕貴の声がぼやけた。
「お開きにするか」
 そうですね、おやすみ。夕貴の声に思わず「おやすみ」と返そうとして、万慈はとまどった。言葉が近すぎるように感じた。代わりの表現を探すうちに通話が切れた。
 崩れるように万慈は横になった。座布団を尻から頭へ移す気力さえ湧かない。
 一昨日、博多に帰省した。実家は浄土真宗の寺で、お盆に向けて雑用は腐るほどあった。今日は丸一日、墓場の草むしりをさせられた。炎天下の重労働で全身が悲鳴をあげている。図書館へ足を運ぶのもおっくうだが、がんばっている後輩を思うとしかたがない。
 網戸の向こう、暗がりから虫の鳴く声がする。布団を敷くべく万慈は身を起こした。