ペンキの色褪せたベンチに夕貴は腰を下ろした。陽射しに長時間さらされた座面が熱く、浅くしか座れない。間もなく約束の相手が来ることを思えば我慢するしかない。
 料金所でもらったパンフレットを広げる。十年ほど前、秩山の西側にしがもり園という複合施設がオープンした。観覧車や絶叫系のアトラクションを備えた遊園地が、後にキャンプ場や温泉が併設された。
 遊覧船は紫ヶ森駅に到着した観光客をしがもり園がある対岸へ運ぶ。乗り場は駅の近くと、しがもり園に近い雨洞町うどうまちにある。雨洞町は秩山神社や辰木家がある町で、いま夕貴がいるのはこちらだ。十五分かけて横断し、乗降のため十五分ほど停泊してから折り返す。湖の豊かな自然や歴史的経緯、伝承について案内がされるという。
「姫白さんですか?」
 降ってきた声に夕貴は顔を上げた。若い女性が立っている。日傘を差し、大きなつばのバケットハットを被っている。紫外線を気にする人なのだろう。
「こんにちは、日庭千笑美ひば ちえみさんですよね」
 ゆっくりと頷かれた。千の笑みなんて名前からして豪快な人を思い浮かべていたけれど、ふっくらした丸顔の大人しそうな人だ。
「いきなりすみません。えっと、とりあえず乗っちゃいましょうか」
「そうですね、乗っちゃいましょう」
 千笑美が浮き桟橋を先導した。ゆったりしたブラウスが風になびき、ベージュ色のスカートが揺れる。仕事帰りと聞いていたけれど、休日に街歩きをしても違和感のない格好だ。
 クジラの姿をした船に乗りこむ。側面に「クジラ丸」と書かれていた。「定員八二名」と掲示されているけれど、本当にクラス二つ分もの人数が乗れるんだろうか。
 かすかに揺れを感じる。船尾のほうに親子連れが座っていた。そろそろ夕暮れだから、しがもり園から帰るところなのだろう。船首は二階建てになっている。鉄製の短い階段を上がった。テントのような布張りの屋根だ。真ん中に椅子があった。椅子というより細長い箱だ。救命胴衣が入っている旨が記されている。
「あの日も、ここだったなあ」
 並んで腰を下ろすなり、独り言のような口調で千笑美が言った。
「ここから姿を?」
「うん、もちろん出航してからだけど」
 陽光にきらめく湖面の向こう、唐馬山からまさんの方角を千笑美はみつめている。
 長いようで短い午後だった。偶然にも再会した従兄、辰木家彦は次のように説明した。五年前のあの日、紫ヶ森湖の岸に沿った道路を歩く良子を目撃した者がいた。その時刻と場所から逆算すると、火事の発生より前に小柄地蔵を離れたはずだという。
 証言者は誰なのか、家彦は具体的な名前を知らなかった。五年前、火事について警察と何度か話をした。そのやりとりの中で知ったという。
 夕貴は兜斗に電話した。「あったな」淡白な返答に夕貴は怒涛の如く質問を浴びせた。坂峯家の火事のことは食卓で母親の口から話題にでたが、それが良子の消失と同じ日だったとは知らなかったという。
 電話を切り、夕貴は迷った。警察も信じたなら確実な証言だろう。火事のことは思いがけない偶然に過ぎなかったと認め、他のことを調査すべきか。
 ぽっかり心に穴が空いた。爆笑していたバラエティー番組がCMに切り替わって興醒めしたような。外は暑い。カフェにでも入って作戦を立て直そう。
 駅前のほうへ自転車を走らせた。土産物店の壁に張られたポスターが目に入った。二階にレストランがあり、ダムカレーが名物だという。高く盛ったご飯を、ダム壁に見立てたヒレカツ三枚で覆っている。ルーはチーズ入りでコクがありそう。
 いやいや、観光に来たんじゃないんだから。半笑いしながら夕貴は頭を左右にふった。
(こんな体育会系男子が喜びそうな量、絶対無理だって)
 タイミングよくお腹が鳴った。
 十五分後、夕貴がカレーを頬張っているとスマートフォンに兜斗からメッセージが届いた。父親に訊いたところ、証言者は良子の高校時代のクラスメイトだったという。「湯葉みたいな名字だったな」と眉をしかめ、それ以上の確かな言葉はでてこなかった。
 自転車を走らせ、湖を半周して三浦家へ。昨日調べたとき卒業アルバムはみつけていた。良子と同じクラスに「日庭千笑美」という名前があり「ゆば!」と叫んだ。
 個人情報保護への配慮から、アルバムには卒業生の住所も連絡先も書かれていなかった。兜斗によれば緊急連絡網の類はあったという。それはネット上にあり、良子のスマートフォンがないためアクセスできない。兜斗の高校時代の友人で、良子と同じ年齢の兄姉がいそうな人物に片っ端から連絡させた。ここで負けると明日にはしがもり園で観覧車にでも乗って「なにやってんだろ、私」と頭を抱えていそうな気がした。
「潮を吹きますので、ご注意ください」
 船内アナウンスで我に返った。「潮?」「あれのことです」千笑美が船首を指さす。
 クジラを模した頭部のてっぺんから噴水のように水が放たれている。思わず千笑美と顔を見合わせ、二人同時に笑顔になった。
 浮き桟橋を中年男性たちが歩いてきた。一人が乗りこんで操舵室に入り、もう一人がもやい綱を解く。ゆっくりと桟橋から船体が離れていく。アナウンスが出航を告げた。
「今日はお時間いただいて、ありがとうございます」
 まっすぐ背を伸ばし、夕貴は頭の中に用意していた言葉を述べた。きちんと言えたぞと心の中でガッツポーズをする。
「お仕事大変ですね」
 電話で約束をとりつけたとき、紫ヶ森駅の近くにあるパン屋でアルバイト中だと聞いた。「いえ、気にしないで」千笑美は顔の前で手をふった。
「日庭さんはおね……良子ちゃん、さん、とは……」
 ぐだぐだになってしまった。
「まあ、お友達かなあ」昔日を思い返しているのか、千笑美は遠い水面をみつめている。
「お昼を一緒に食べたり、クラスもずっと一緒だったし。勉強教わったりもしたなあ」
「やっぱりミステリの話をしたり?」
「あそこ」
「は?」
 ゆったりカーブを描きながら船は左へ曲がろうとしている。千笑美が腕を伸ばし、まっすぐ指さす。唐馬山の中腹に大きな白い岩があった。
 船内アナウンスが天狗岩について解説している。天狗たちの修行場と伝えられる巨石の集まりだ。天狗同士で相撲をとる姿が幼い子供にだけ見えたという。
「あのあたりに良子さんが?」
「うん、いたの」
 天狗岩のほぼ真下に白いガードレールが覗いている。けっこう遠い。百メートルはあるだろうか。知り合いなら見分けられなくもなさそうだけど、かなり微妙だ。
「で、なにがミステリーなの?」
 千笑美から声をかけられ、慌てて夕貴は「はい」と応じた。
「ええと、推理小説です。私、良子さんに教わってミステリを読むようになって。よく感想を言いあったりして。日庭さんも同じだったのかな、て」
 答えは返ってこなかった。宙をみつめていた千笑美は、やがて口を開いた。
「小説が好きだったんだ」
「はい?」
「ごめんね、なんていうか……私って、三浦さんと釣り合ってなかったと思う」
 膝にのせたトートバッグを千笑美が抱え直す。唇が震えているように見えるのは船の揺れのせいだろうか。
「知らなかった。三浦さんとはいつも好きなお笑いコンビのこととか、ネットで知った変な話題とか、そんなことばかり話してた。ミステリドラマのこと話してくれたことあったな。なに言ったかな……そんな難しいの私わかんないって言っちゃったんだろうな……」
 強く抱き寄せたせいだろう、トートバックの持ち手が萎れるように倒れていく。
「教室ではよく話したけど、おたがいの家に遊びに行ったりはしたことないの。受験が近づいたら会わなくなっちゃった。勉強に集中したいから、どうしても入りたい大学があるからって。それ言われちゃうと私、もうね」
 ゆっくり千笑美は頭を左右にふった。いえ、あの、その。返しようがなく、夕貴は言葉を濁らせた。話題を変えたほうが良いだろう。
「失礼かもしれないですけど、他の人と見間違えたってことはないですか」
「それはないと思うけど」
「いえ、でも」
「だって確率的にありえないと思うなあ」
 確率? 夕貴は齟齬を感じた。なにか行き違いがある。
 ごめんなさい、その話がまだでした。そう言って千笑美は胸の前で手を叩いた。
「あのね、メッセージが来たの」
 説明を整理すると、次のとおりだった。五年前、千笑美は都内にある短大へ進学し、一人暮らしをしていた。夏休みに帰省し、親に頼まれて駅前へ買い物にでかけた。クジラ丸に乗り、出航したところでスマートフォンにメッセージが届いた。
 ひさしぶり。いま湖沿いの道を歩いているの。そっちから見えるかな。そんな内容のメッセージだったという。千笑美は周囲を見渡し、懐かしい友人の姿をみつけた。「見えてるよ」そう返信したが、気づかなかったのか良子はそのまま歩き続けたという。
「あのとき、もっとたくさんメッセージを送っていたら」
 ふりむいてもらえたのかなあ。独り言のように千笑美はつぶやいた。