小さな祠だった。銅葺きの屋根は夕貴の目の高さまでしかない。格子戸の奥、暗がりにお地蔵様の姿がある。子供の貯金箱みたいな大きさの賽銭箱に五十円玉を投じた。手を合わせ、頭を垂れる。蝉の鳴き声が急に大きくなった気がした。
 空を見上げる。空を突き刺すように杉の木が伸びていた。お年寄りには厳しそうな長く急な石段の先に山門があった。扁額の字が小さくて読めない。たしか三羅寺みらでらといったか。
 目を転じると、愛岐山あいぎやまへの登山口を示す標識があった。コンクリート製の建物はトイレらしい。こんな暑い日に誰も登山などしないのか、人の気配が無い。
(あつ……)
 額に汗を感じ、夕貴はウエストバッグからハンカチをとりだした。
 昨夕、兜斗から自転車を借りた。かつて良子が通学用に使っていたものだ。はるばる湖を半周して、母方の実家を訪れた。五年ぶりに会う祖父母は元気そうで、大学生活のことを根掘り葉掘り訊かれた。
 三日間は実家に泊めてもらい、サークル仲間たちが来たら宿泊施設へ移るつもりでいた。夕貴の両親は今年、里帰りをしない。今は二人で南フランスを旅行しているはずだ。だいぶ辺鄙なところで、しばらくは電話さえつながらないという。
(さて)
 これからどうしよう。ここへ足を運んだのは雰囲気だけでもつかもうと思ったからだ。聞き込みなんてしても五年も前のことなんて誰も覚えてないだろう。
 正攻法は、人に会うべきだ。誰か紫ヶ森で良子と親しかった人物と話をしたい。けれど良子の部屋を調べても、連絡帳や日記の類はみつからなかった。
 紫ヶ森に来る前から準備はしていた。スフィンクスのOGで良子と親しかった人物と会った。思い出話が弾んだものの、姿を消した理由となるとさっぱりだった。わずか四ヶ月ほどしか付き合いがなかったのだから当然といえば当然だ。
(家彦さん、か)
 わかってはいた。辰木家彦は良子と親しかった。会って話をすべき筆頭候補だ。
(ウーン、ちょっとなあ)
 どうも家彦に会うのは気が進まない。頼めば断られないとは思うけれど。
 たしか良子と同い年だ。家彦もミステリ好きで、書棚にはその手の小説やマンガ、ゲームソフトが並んでいた。よく良子と熱心にミステリ談義をしていた。家彦が良子の部屋に入ったのは、きっと貸し借りしていたものでもあったのだろう。
 夕貴は中学生のとき、二人は恋仲なのかもと疑った。ただ、それは恋というものに憧れていた自分の錯覚だったのかもしれない。気づく限り二人の間に甘さはなかった。さばさばした言葉を遠慮なくぶつけあう、気兼ねの要らない仲だった。
 祠のすぐ隣に古びた案内板があった。鉄製で、誰かイタズラして傷をつけたところから錆が広がっている。昨夜読んだ『紫ヶ森むかしばなし』と同じ内容が記されていた。
 江戸時代、骨董を趣味とする庄屋がいた。妖刀と噂される小柄を手に入れたと自慢していたが、日に日に言動がおかしくなっていった。遂に家人たちを斬りつけ、自ら家に火を放って自害した。焼け跡から小柄がみつかった。火中にあったはずの刃はまるで焼き入れたばかりのように白々とした光を放っていた。恐ろしがって誰も手を触れようとしない。折良く通りがかった旅の僧に相談し、焼け跡に祠を建てることになった。祠に納められたはずの小柄は誰かが盗んだのか、今は失われているという。
 かすかな音がした。
 ふりかえる。日本家屋があった。屋根瓦の下、障子が開け放たれた窓がある。二階の部屋だ。地面に高低差があるので、夕貴がいる高さに二階がある。
 薄暗い室内に人影があった。髪が長い。黒いスーツ姿、若い男だ。夕貴がそこまで認識するうちに、男は気圧されたように一歩後ずさり、向かって左手へ姿を消した。
 金属製の柵があった。夕貴は足を進め、柵に手をかけた。空っぽになった部屋をみつめる。あそこまで三十メートルはあるだろうか。照明器具からぶら下がる紐が揺れている。後ずさった男の後頭部が触れたのだろう。
 さっき耳にした音を思い返す。呻き声のようだった。あの男が驚いて発したのか。
(なにに?)
 左右を見渡す。大きな家だ。二階建ての棟が二つあり、廊下でつながれている。目の前の棟のほうが壁の汚れが少なく、新しく感じる。後から増築したのか。
 爪先立ちして柵越しに見下ろす。池があった。まわりを庭石や松の木が囲んでいる。池のほとりに誰か佇んでいた。黒いスラックスに白い半袖のカッターシャツは学生服だろう。高校生だろうか。裸足にサンダルを履き、池を覗いている。
 少年が顔を上げた。黒縁の眼鏡をかけ、まっすぐ下ろした前髪を眉の上で切り揃えている。夏の陽射しに影が濃いせいか、怯えているように見えた。

 確信は無かった。ただ、予感があった。息を切らして走っているときのような、なにも考えられず頭の中が真っ白になっていく心地。向かうべき先は足が了解している。
 夕貴はアスファルトの坂道を下った。このあたりは坂道の行き詰まり、集落の最奥だ。家々の間隔が離れていて人の気配がない。石塀が途切れ、開け放たれた門扉があった。雨風にさらされ変色した木製の表札に「坂峯さかみね」と記されていた。
「さかみね」
 聞き覚えがある。夕貴が記憶を探っていると、気配がした。庭のほうから姿を現したのは間違いなく二階にいたあの男だった。
 ちぐはぐな恰好だった。夏の盛りに礼服を着ている。ネクタイはなく、ワイシャツは第二ボタンまで外れている。足元はサンダル履きだ。小走りに近い早さで迫ってくる。
「おまえ、」
 背筋を緊張が走った。男は背が高く、威圧感がある。逃げだそうかと本気で考えた。
「おひさしぶりです」キャスケット帽を手にとり、夕貴は軽く頭を下げた。
 門の手前で男が立ち止まった。顔をしかめ、小娘を睥睨する。頭の中で生クリームでも攪拌しているかのような難しい顔をしていた。
「夕貴です。あの、家彦さんですよね」
 肩まで伸びた髪が波打っている。腹を空かせた狼のような、猜疑に満ちた眼だ。家彦は素早くまばたきをくりかえし「夕貴ちゃんか」とつぶやいた。
「お焼香に来たのか」
「え?」
 おたがいの頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいる気がした。
「小柄地蔵を見てきたんです」
 里帰りしていることを夕貴が説明すると、ようやく家彦の顔は険が緩んだ。
「ここって家彦さんのご親戚ですか?」
「父の実家なんだ。三回忌だよ、祖父のな」
 ご愁傷様です。夕貴は頭を下げた。なるほど、叔母の夫の父親の名字では忘れていてもしかたがない。
「今は東京のほうに住んでるんですよね」
「ああ、目白だ。昨日帰ってきた」
 旅行前、夕貴が家彦と会うことに怖気づいたのは二つの理由があった。
 ひとつは心理的距離。夕貴に限らず、家彦は人と慣れ合うことを好まない性格だった。辰木家の姉弟も集まり、遊ぼうかとトランプやボードゲームを用意してくれる。夕貴たちが遊びに熱中していると、家彦だけ本を読んだりパソコンに向かったりしている。親戚でもない夕貴を「お姉ちゃん」と呼び、従兄の家彦は「家彦さん」なのも、そんなことの積み重ねがあったからだ。
 もうひとつは家彦の職業だった。去年の冬、ソーシャルブックマークを眺めていた夕貴は驚愕した。「各務原家彦」という名前で、見覚えのある顔がインタビューを受けていた。
 謎解き愛好団体のスフィンクスではスマートフォンゲームも話題になる。誘われて夕貴もいくつか手頃なパズルゲームや推理ゲームを愉しんだ。家彦が昔から個人でのゲーム制作に没頭していること、メディア系の専門学校に進んだことは聞いていた。けれど、ゲームクリエイターの各務原家彦が従兄のことだとはそれまで知らなかった。
 家彦は中学時代からゲームの個人制作を続け、インタビューを受ける頃にはアプリストアでの作品数が二百を超えていたという。プレイヤーからすれば無料だが、ゲームには広告が表示される。言葉の要らないパズルゲームは世界的ヒットとなったものもあり、広告収入によって家彦は巨万の富を得た。
 専門学校を卒業後、いくつか有名なゲーム開発会社に声をかけられた。だが、すべて辞退したという。在学中に集団制作を経験したが自分には合わないと感じた。スマートフォンゲームの制作は続けつつ、ゲームシナリオライターの道を模索しているという言葉でインタビューは締めくくられていた。
「夕貴ちゃん……ちゃんづけする年齢でもないな、夕貴さんで良いか?」
「くすぐったいですけど、まあ、せっかくなのでそれで」
 世間話をする気になったのか、家彦は石塀に背中を預けた。
「さっき二階にいました?」
 夕貴の問いに、苦いものでも噛んだように家彦は顔をしかめた。
 五年前、夕貴が最後に会ったときの家彦は髪を伸ばし始めたばかりだった。インタビュー記事に顔写真があったとはいえ、薄暗い部屋から一瞬で姿を消した男と結びつけるのは無理だった。これだけ近くで顔を合わせると、さすがに見間違えようがない。
「びっくりしたよ、良子と見間違えたんだ」
 夕貴は口ごもった。胸に苦いものが広がる。どこか懐かしい感情でもあった。大学生になってまで、自分はまだこんな呪いに囚われているのか。
「なにかここであったんですか」
 古傷に触れられたように、家彦の顔を険が過ぎった。
「あの、本当は里帰りじゃないんです」
 迷いはあった。けれど口が勝手に動いていた。姿を消した理由を探ろうと決めたこと。良子の部屋でみつけた本から、小柄地蔵を訪れたはずと推理したことを明かした。
「どうせわかることだから、話しておく」
 石塀から離れ、家彦は首を捻じると後ろのほうを向いた。
「この家で火事があったんだ。祖父が火傷を負って、この家も建て替えた」
 つられて夕貴も視線を向ける。そういえば壁の汚れ具合に差があった。さっき家彦がいた部屋を含む棟は焼失し、建て替えたということか。
「ただな、火事と良子のことは関係ない」勝ち誇るような笑みを浮かべて家彦は言った。
「近くに良子が来ていたと知らされたときは俺も驚いた。でもな、火事が起きるより先に良子はここを離れてるんだ」
 門を塞ぐように立つ従兄を見上げたまま、夕貴は継ぐべき言葉を探した。