良子たちの父、三浦丑夫は秩山神社の神主だ。といっても副業扱いで、兜斗と同じ会社にエンジニアとして勤務している。父子そろって盆休みに入っていた。妻の文子はスーパーマーケットのアルバイトで不在とのことだった。
居間で座卓を囲み、豆菓子を摘まみながら近況を語りあった。良子ちゃんの部屋を見せてほしい。そう切りだすと「なにか貸し借りでも?」と首を傾げられた。
「そういうわけでもないんですけど」
良子は曖昧に言葉を濁した。なにか動かしたら、元の位置に戻しておいてくれ。母さんに怒られるから。丑夫はそれだけを頼んだ。もみあげの白髪は五年前はなかったはずだ。
階段を上がる。ぎしぎしと踏み板が鳴った。「別に頼まんでも」ぽつりと兜斗が言った。
「筋は通さないとね」努めて明るい口調で夕貴は返した。
素人探偵に挑むことをあまり吹聴したくなかった。変な期待をさせるのは申し訳ない。警察さえ見落とした新事実を、ただの大学生がつかめるわけがないのだから。
兜斗が襖を開く。溢れてきた熱気に夕貴は慌てて腰を屈め、首振り扇風機のスイッチを入れた。薄暗い部屋の奥、昭和レトロな柄のワードローブがあった。ひょっとすると昭和レトロではなく、昭和に買ったものかもしれない。
――死ぬのが怖くなかったのかも。
声が聞こえた気がした。遠く過ぎ去った昔の、ぬばたまの闇の底から。
――生まれ変われるとわかっていたなら。
この部屋に良子はいた。三浦家に夕貴は何度も泊めてもらい、布団を並べて一緒に眠った。常夜灯の明かりしかない部屋で、小声で会話を交わした。ある晩、良子は話してくれた。秩山神社に伝わる、生まれ変わりの巫女にまつわる昔話を。
長く雨が続き、湖を囲む村落は幾度となく洪水に見舞われた。幼い命までも水に奪われ、田畑や家屋が泥に沈んだ。これは湖にいる龍神の祟りに違いない。そう噂する者たちが生け贄を求めた。年若い巫女が湖に身を沈めると雨はやんだという。
巫女には幼い頃から親しくしていた若者がいた。湖に巫女が沈んだのと同じ日に、若者は自ら命を絶った。二人は生まれ変わり、夫婦となったという。
そもそも神に仕える身である巫女が、現世で若者と結ばれることはない。来世での契りを約束して二人は死を選んだのではないか。昔話に隠された真相を良子は名探偵のように語り、夕貴は心が躍った。生まれ変わりを題材に二人で推理小説が書けないかと夕貴は熱っぽく提案した。大昔に生きていたなら、村に隠された秘密を知っているかも。龍神の力を意のままにできるんじゃないか。他愛もないアイデアをいつまでも交わし合った。
がらりと音がした。兜斗が障子を開け放つ音だった。真夏の陽光が射しこむ。見渡すと、ずいぶん片づいた部屋だった。
(そりゃそっか)
夕貴は勘違いに気づいた。白鐘大学は横浜市内にある。自宅から通う夕貴と異なり、良子はこの家をでてアパートで一人暮らしをしていた。姿を消したのは帰省中の出来事だから、この部屋は片づいていて当然だ。
「この部屋、お姉ちゃんがいなくなったときのまま?」
「母さんの言いつけでな」
兜斗は「それ」と学習机のほうを指した。椅子の上に、蒲鉾の形をした小ぶりなスポーツバッグが置かれている。
「ジャージとか入ってる。俺は言ったが、洗ってない」
夕貴はバッグをみつめた。五年の歳月の重みがそこにあるように感じた。
「そういえば、スマフォは?」
兜斗は首を左右にふった。良子が所持したまま姿を消し、一度もつながったことが無いという。ノートパソコンは横浜のアパートに残されていた。警察が調べたが、日記のような個人的事情を窺えるものは無かったらしい。
「えっと」こういうとき、ミステリードラマなんかで定番の質問といえば。
「家族以外でこの部屋に入った人は?」
「夕貴ちゃん」
「そういう冗談はいいから」
不機嫌そうな顔のままで言うの、やめてほしい。真面目な表情を保つのに苦労する。「いない……だろ」自信なさげに兜斗は語尾を濁らせた。
夕貴が新たな質問を思いつく前に「じゃあな」の一言を残し、兜斗は去っていった。
ここから始めよう。夕貴はスポーツバッグを手にとり、学習机の上に乗せた。
(いつまでも終わらない夜だと思ったのに)
バッグのジッパーを開きながら、夕貴は溜め息を吐いた。
台所から戻ってきた兜斗に棒アイスを手渡された。家の中だと丑夫に漏れ聞こえるかもしれず、外で話すことにした。玄関をでて境内に向かった。
ソーダ味のアイスを齧りながら、ゆっくり歩く。空が白っぽくくすんでいる。夕暮れが間近だ。鳥居を潜ろうとして、参拝していないことに気づいた。後でお賽銭を奮発しよう。
石畳から逸れた少し先に見晴らしの良いところがあった。湖の全景とまではいかないが、だいぶ見渡すことができる。「これ、わかる?」夕貴は一冊の本を手渡した。
ハードカバーで、かなり古びている。兜斗が本の表紙をあらためた。龍と巫女が切り絵調で描かれ「紫ヶ森むかしばなし」と墨書きされている。
「スポーツバッグの中にあったの」
本を返してもらい、夕貴はページを開いた。見開きに絵地図が描かれている。真ん中に大きく紫ヶ森湖があり、神社や寺、祠、巨石といったものが囲んでいる。
紫ヶ森湖近辺の村落で語り継がれてきた民話が掲載された本だ。あとがきの末尾にある日付は昭和六十年、著者は紫ヶ森民話同好会と記されている。小学校で学ぶ漢字しか使われてないらしく、すべてルビがふられていた。
「ほら、目印がある」
いくつか夕貴は人差し指で示した。ピンク色の蛍光ペンで突いたと思しき点が絵地図のあちらこちらにある。しゃくりと音を立てて兜斗がアイスを齧った。
「お姉ちゃん、郷土の名所巡りでもするつもりだったのかな」
スポーツバッグには本以外に野球帽やTシャツ、ジャージの黒いズボンがあった。この絵地図には山の中にある場所も描かれているから、山歩きを想定した格好なのだろう。
「高校のとき、郷土史クラブだったな」
ぽつりと兜斗が漏らした言葉に「そうそう」と夕貴は頷いた。
電話で協力を頼んだとき兜斗に確かめたが、やはり良子と最後に会ったのは夕貴だった。美術館で、良子は白地に青い植物柄のワンピースを着て、肩からポシェットを提げていた。部屋を探しても、それらのワンピースやポシェットはみつからなかった。美術館の前で夕貴と別れた後、良子は着の身着のままの格好で姿を消したことになる。
その前はどうか。あの日はガラス工芸展を鑑賞すべく、午後二時に待ち合わせした。
「いなくなった日って」
午前中はお姉ちゃん、どこに行ってたの。そう問いかけようとした夕貴を遮るように、兜斗が「ここだ」と一点を指さした。紫ヶ森駅の近くに「小柄地蔵」と記されている。
「なんでわかるの?」
「証言があった」
湖の南西を歩いている良子を遊覧船からみかけた人がいる、と兜斗は説明した。
「小柄地蔵を訪れて、それから美術館まで湖を半周したってことね」
ようやく理解できた。散らばる蛍光ペンの点はほとんど湖の北側にある。南にもあるが湖から離れている。美術館へ移動するのに南西を歩くことになるのは小柄地蔵だけだ。
「お手柄だな」
「そうなの?」
「こんなのは初めて知った」
警察さえ見落とした新情報をみつけてしまったということか。照れ隠しに夕貴は頭を掻こうとして、溶けかけたアイスのかけらが棒から落ちた。
「あちゃー。えっと、あの日って朝はお姉ちゃんにおかしなところ無かったんだよね」
「まあな」俺が鈍くて気づかなかったかもしれんが。小声で兜斗は言い添えた。
だったらもう、簡単な引き算だ。美術館で一緒に過ごしたとき、良子は明らかに様子がおかしかった。小柄地蔵でなにかあったに違いない。
「あと」兜斗が口を開いた。「一人いた」
なんの話かわからず、夕貴はきょとんとした。
「姉貴の部屋に入った奴」
そういえば、部屋を調べ始める前にそんな質問をしたんだった。
「家彦さんだ」
辰木家彦は、夕貴の従兄だ。
そもそも夕貴が三浦家の姉弟と知り合ったのは従兄弟たちを通じてだった。里帰りの間は叔母の嫁ぎ先である辰木家をよく訪れ、従兄弟や良子たちが遊び仲間になってくれた。
ここから歩いて五分もかからない、湖沿いに辰木家がある。叔母の辰木丹奈と、良子たちの母親、文子が幼い頃からの親友という縁から、両家は昔から交流が深いらしい。
それだけではなかった。家彦はちょっとした有名人でもある。恐らくスフィンクスの会員の大半が家彦の名前に聞き覚えがあるだろう。
「家彦さんが、どうして?」
さあな。兜斗はゆっくり首を左右にふった。