助手席のドアを開け「よっす」と声をかける。ハンドルを握る三浦兜斗は小さく頷いただけだった。エンジン音がして、慌てて夕貴はシートベルトを締めた。
隣を窺う。サンダル履きにTシャツ、だぼだぼなハーフパンツの気楽な格好だ。瞼を不機嫌そうに細めて唇をへの字にしているが、本人いわくそれがデフォルトの表情らしい。「どうした」視線に気づいた兜斗が声をあげた。
「なんでもなーい」
夕貴が最後にこの土地を訪れたとき、兜斗は高校生だった。二十歳を過ぎているのだから運転免許を取得していても不思議ではない。高校球児のように丸刈りだった頭がスポーツ刈りなのも当たり前。タイムトラベラーはこんな気持ちになるのか。
しばらく会話した。去年からの異常な暑さ、コロナ騒ぎで大変だったこと、大学生活。最低限の返事か頷きしかしない兜斗に、こういう人だったと懐かしさを覚えた。
兜斗との関係を一言で表すのは難しい。いちばん近いのは「昔馴染み」だろうか。従兄弟の家の近くにある神社の子で、里帰りのたび遊んでもらった。
山裾にへばりつくように集落があった。細い坂道を車はゆっくり上がっていく。「夕貴ちゃん」しばらく会話が途絶えていたのを兜斗が不意に破った。
「本当に調べるのか、姉貴のこと」
夕貴は車窓を眺めていた。道の脇に用水路があり、浅く水が流れている。このあたりでふざけていたら、驚くほど大きな声で兜斗に叱られたことがあった。かつて自転車ごと転落して大怪我をした小学生がいたらしい。その子は兜斗の同級生で、幼心にショックだったのだろう。口数は少なくとも、いろんなことを考えている人だ。
「できるだけのことはしてみる」
運転席のほうへ夕貴は顔を向けた。こんなんじゃ言葉が足りない。自分は大事なことを口にしようとしている。ここで気持ちをぶつけないと協力なんかしてもらえない。
「新しいことがわかるとは思ってないよ。なにかしないと気が済まないってだけ。だって、あんなに一緒にいて……お姉ちゃんのこと、そんな簡単に忘れられないよ」
憮然としたままの顔で兜斗が「ありがとな」と言った。
夕貴は胸にくすぐったさを覚えた。「まだなんにも始めてないって」つぶやくような声でそう言って車窓へ顔を逸らす。嘘はついてない。この気持ちは本物だ。
ただ、ほんの少しだけ隠していることがあるのが心苦しかった。
兜斗の姉、三浦良子が行方知れずになったのは五年前の夏だった。書き置きひとつ残さず、まるで蒸発したかのように消えたまま生死さえわからない。
毎年お盆になると夕貴は両親に連れられ、紫ヶ森湖にある母方の祖父母の家に泊まった。せいぜい数日のことにせよ、良子や兜斗と過ごすことを夕貴は楽しみにしていた。
五年前、湖の南西にある唐馬美術館でガラス工芸の企画展があった。良子と一緒に、色鮮やかな植物模様のガラス瓶や、宝石を散りばめたようなコサージュに溜め息を吐いた。見ているだけで涼しくなるねと笑いあった。
しばらくして良子の変調に気づいた。笑顔がぎこちない。なにかに心を奪われているのか話しかけても気づくのが遅れる。心配しても「大丈夫」とくりかえすばかりだった。
その夜、両親が騒がしくしていた。深刻な顔の母に「なにかあったの」と訊いても、心配するなという答えしか返ってこなかった。良子にスマートフォンで送ったメッセージはいつまでも既読にならなかった。翌日、横浜に戻った。良子が家に帰らない、連絡もつかないと知らされたのはその夜のことだった。
一度だけ警察の人たちが家を訪れた。両親に見守られながら、美術館でのことを話した。雰囲気はどうだったか、いつもと違う様子はなかったか。優しい口調なのにいつしか夕貴は涙ぐんでいた。知らずしらず自分がなにか恐ろしい罪に加担してしまった気がした。
新聞はとっていなかった。ニュース番組になると父がチャンネルを替えた。息抜きにSNSを眺めるとネットニュースの見出しがときどき目に入った。行方不明になって一週間になるが今日の捜索でも発見されない。そんな文字列に怯えてアプリを閉じた。
高校生になると夕貴は部活や勉強を理由に里帰りに付き合うことを拒んだ。それはただの言い訳だったかもしれない。何日も泊まり込みで、良子の不在を感じながら過ごすことを想像するとおっくうになった。新型コロナウイルス感染症が流行したことも都合の良い言い訳になった。
風向きが変わったのは白鐘大学に入学してからだった。夕貴は良子と同じ大学に、そして同じサークルに入った。スフィンクスというサークルはクイズやパズル、推理小説にゲームまで、謎解きが関わるものならなんでもありという謎解き愛好サークルだった。
夕貴が推理小説の魅力に目覚めたのは良子のおかげだった。薦められる小説を読み終えるたび新しい扉を開けていくような興奮を覚えた。良子が大学に入学してからは、スフィンクスの会員たちとのやりとりや、遊びにでかけたときの体験談に憧れを抱いた。
梅雨明けが迫った頃だった。スフィンクスで仲良くなった者たちと、夏休みに旅行しようという話になった。あえて謎解きイベントは無し、近場で安上がりなところを条件に候補を挙げていく。深い考えもなく夕貴は紫ヶ森湖を挙げ、受け容れられた。
その夜、ベッドに横たわった夕貴は昔のことを思い返していた。何気ない会話の断片、良子と肩を並べて歩きながらみつめた光景が脈絡なく脳裏に蘇った。
包みこむような優しさが良子にはあった。この人には従うべきと自然に感じさせる気品があった。中学では吹奏楽部の副部長として後輩たちに慕われたらしい。名前のとおりの「良い子」であることをからかわれるたび、困ったような顔をして微笑んでいた。
いつしか気づいていた。良子の最後の姿を目にしたのは恐らく夕貴だ。唐馬美術館から三浦家まではおよそ四キロ、歩いて一時間ほどだ。たった一時間のあいだになにかが起きた。あのとき、なにか言葉のかけようによっては悲劇を防げたのかもしれない。
右へ左へ枕の上を転がるうち、焦慮が込みあげてきた。なにかしないといけない。良子は憧れの人だった。家族に置き手紙すら残さず家出するような人ではなかった。
(それに)
瞼を開く。常夜灯がオレンジ色の光を放っている。
(都合が良いかも)
ぽつりと芽生えた想いが少しずつ形になっていった。サークル仲間たちより三日間だけ先に湖を訪れて、良子が消えた理由を調べてみよう。そう夕貴は決意した。