紫ヶ森しがもり駅の改札をでたとき姫白夕貴ひめしろ ゆきは生きていた。待合室を探そうとして、ポスターが目に入った。夕暮れ時だろう、黄金色に輝く湖面が美しい。
 湖を目にしたい。衝動的にそう思った。スマートフォンを確かめると、迎えの時刻まで間があった。急げば往復できそうだ。
 ガラス扉越しに外へ目をやる。駅前ロータリーは陽射しに灼かれ白く乾ききっていた。虫すら死に絶えたかのように静かだ。夕貴はたじろいだが、キャスケット帽のつばを下げると足を踏みだした。
 ようこそ、しがもりこ。ネオンで文字が綴られたアーチを潜る。昭和から平成の変わり目に誰かが片づけ忘れたような看板がそこかしこにあった。ウイスキーまんじゅう、ダムカレー、花火大会のポスター。目に押し寄せる数々の断片に懐かしさが込みあげる。
(何年ぶりだっけ)
 今年、夕貴は大学生になった。両親に連れられて最後にこの土地を訪れたのは中学生のとき、新型コロナウイルス感染症の流行で世の中が騒然とする前の年だった。
 長距離の移動は望ましくないものとされ、観光業は大打撃を受けた。このあたりも苦難の道を歩んだろう。ワクチンが開発され、二類相当から五類感染症へ移行した。新規感染者や死者数の報道もなくなり、日常生活は緩やかにパンデミック以前へ戻りつつある。
 錆びだらけの歩道橋を上がる。瓦屋根の連なりの先、光るものがあった。
(見えた)
 緑がかった明るい灰色の湖面が瞳に映った。発見時には白濁していた夕貴の眼は、今はまだ黒く澄んでいる。足をとめ、声もなく眺めた。これで満足して駅に戻ろうという冷静な判断は、まだ足りないとメガホンに叫ぶ心の中の自分に負けた。
 リズミカルに足を動かし、歩道橋を下りる。道路標識が目に入り、頭の中に地図が思い浮かんだ。いま渡ったのが国道だから、位置関係に間違いはない。
 紫ヶ森湖は神奈川県の西部、丹沢山地にある。夕貴が住んでいる横浜市から、電車なら一時間余りで着く。湖のまわりはおおむね八キロメートル、東西に長い楕円形の右下隅にマンガの吹き出しのようなとんがりがあり、その先端に駅が位置している。
 生活道路を横断する。集落から観光地へ雰囲気が一変した。土産物屋にゲームセンター、かき氷やスナックを売る店、遊覧船の案内場が並んでいる。
(湖面が広がっていた)
 金属製の柵の向こう、湖面が広がっていた。陽光を反射して白銀に輝いている。深い緑に覆われた秩山ちぢやまがかすかにさかさまに映っていた。
(夏の陽射しにまばゆく輝いている。新緑に覆われた秩山が……)
 あれ、新緑って正確にはどんな意味だっけ。夕貴はスマートフォンに手をのばしかけて、やめた。頭の中で文章を練るより、今は目の前の光景をしっかり受けとめよう。
 クジラの姿をした遊覧船が遠くにある。家族連れが乗る足漕ぎボート、釣り竿を構えた人々を乗せたボート、誰もが思いおもいの時間を過ごしている。芝生の広場や遊歩道にちらほらと人々の姿がある。手と手を恋人つなぎしたカップルが幸せそうに歩いている。
(ラブ・アンド・ピースって感じ)
 おかしさが泡のように胸に込みあげ、夕貴は笑顔になった。こんなに明るく穏やかで素敵な土地を舞台に、私は人殺しの物語を書こうとしている。
 ぐっと背伸びをすると、夕貴は遠くを望んだ。西のほうは水平線に隠れている。四日後の早朝に夕貴の遺体が発見されることになる湖岸は見えなかった。