テレビアニメ『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』第二期の第六話では、ラノア魔法大学に入学した主人公のルーデウスがシーローン王国の第三王子ザノバに懇願され人形作りの師匠となる。ザノバは怪力ゆえに人形作りがうまくいかず、ルーデウスは奴隷に人形を代わりに作らせることにする。
 奴隷市場で出会った幼い少女は絶望しきった目をしていた。やりたくもないことを無理強いされるくらいなら、いっそ死を与えるべきだとルーデウスは考える。だが後にジュリエットという名を与えられる少女は「死にたくない」と吐露する。生きたいではなく、死にたくない。いまはそれでいいとルーデウスはジュリエットを殺すことをやめる。
 恐らく『無職転生』を視聴していなければ、とまどいを覚えただろう。ここには現代的な道徳観にそぐわない二つの禁忌が描かれている。ひとつは大局的な問題、非人道的な人身売買がされ、その制度を主人公も疑問に思わないこと。もうひとつは等身大の問題、死を許容する判断だ。たとえば自殺を試みようとする者をみかけたなら、生きてさえいればきっと良いことがある、希望を捨てるなと諭すのは当然のことだろう。
 少し事情を説明すると次のようになる。かつて現代日本で三十代の無職で引きこもりだった男が異世界へ転生し、成長したのがルーデウスだった。赤ん坊の頃から異世界で暮らしてきたルーデウスにしてみれば奴隷制度は当たり前のものであり、違和感や嫌悪感を覚えなくとも当然だろう。
 男は学生時代にイジメを受け、二十年近く引きこもり生活を続けた。そんな男にしてみれば、生きてさえいれば良いことがあるなどという言葉は綺麗ごとにしか聞こえないだろう。むしろ私が心を動かされたのは、ここまで過酷な運命を乗り越えて懸命に生きることを学んできたルーデウスが、未だに生への希望を確信できないでいるという闇の重さのほうだった。
 当然ながら『無職転生』が描いているのは異世界だ。政治的正しさへの配慮をかなぐり捨てた夢物語を描いている。しかしここで描かれる絶望が現代社会と無縁とは思えない。中世時代よりは文化や文明も倫理面でも高度な発達を遂げたはずの社会で、誰もが人間らしい生活を謳歌できていると断言できるだろうか。

 昔の文章を全文検索で調べてみると、私が『まおゆう魔王勇者』を読んだのは二〇一〇年前後のことらしい*1。マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』とどちらが先だったかは忘れてしまったが、ほぼ同じ頃に違いない*2。十年以上前、これらが世の中に受け容れられたことに――受容する層の重なりは薄かったにせよ――私は共時性を感じていた。
 一九八九年十一月、ベルリンの壁が解放される。同じ年の十二月には米ソ首脳がマルタ会談にて冷戦の終結を宣言する。共産主義陣営は決定的な敗北を認め、アメリカ合衆国が主導する資本主義と民主主義こそ正しかった、などと結論できるほどその後の歴史は簡単なものにはならなかった。
 一九九〇年には湾岸戦争が勃発、二〇〇一年にはテロリストにハイジャックされた旅客機がワールドトレードセンターに突入するなどの9・11事件が起こる。二〇〇八年には投資銀行リーマンブラザーズの経営破綻し、いわゆる「リーマン・ショック」と呼ばれる世界的大不況の引き金となる。中国共産党による事実上の一党独裁体制にある中国は経済成長を遂げ、二〇一〇年には日本を抜いてGDPが世界第二位となる。
 地域紛争や民族紛争、テロの激化。グローバリズムが引き起こすさまざま問題、世界的な経済不況と格差の拡大。果たして本当に資本主義や民主主義だけが唯一の優れた世界システムなのか。この問いは冷戦の終結から三十年以上が過ぎた現在も答えがでていない。
 あいにく標本数はたった一人だが、二〇一〇年前後の私は世の中が新たな世界システムの模索に向けて動き始めたように感じていた。功利主義から自由至上主義まで、アリストテレスから現代まで数々の思想をくらべて論じるサンデルの本がベストセラーとなったのはそんな世相があったからではないか*3。『まおゆう』では魔王が中世ヨーロッパ風の世界に科学技術や人権意識をもたらす。だが、それは手段であって目的ではない(引用は一スレ目五三から)。

魔王「私は、まだ見たことがない物が見たいんだ」
[中略]
魔王「『あの丘の向こうに何があるんだろう?』って
 思ったことはないかい? 『この船の向かう先には
 何があるんだろう?』ってワクワクした覚えは?」

 正直なところ私は異世界転生ものの物語にそれほど数多く触れてきたとは言えない。あまりにも多種多様で日々進化を続けているジャンルを十把一絡にするのは無理があるだろう。ただぼんやり共通していると私が感じるのは、人間らしい生き方とはなにか、どんな生き方を望むのかという問いだ。もちろんその答えは一様ではない。
 ゼロ年代にはセカイ系と呼ばれる物語が数多く生まれた。世界を滅亡から救うか、あるいはそのためにヒロインが犠牲となることを許さないか。しばしば主人公は大きな選択を迫られた。それは極端な功利主義と極端な自由至上主義との衝突、独裁的かもしれないが一定の生活が保証される社会と自由だがその代償も大きい社会との衝突を象徴していた。
 もしセカイ系の主人公が『無職転生』のような奴隷制の現実を目の当たりにしたら、不条理な社会を変えるべく闘いに身を投じたかもしれない。異世界転生ものではどうなるだろう。もちろん主人公がチート能力を発動し、無双してジュリエットを自由の身にするかもしれない。ただ、それはあくまで一例だ。『無職転生』のように当然の現実として描くもの、もっと社会的に許されない形の、しかし人間性に正直な答えを描く作品もあるだろう。
 乱暴に言えばセカイ系は社会の不条理を、異世界転生ものは多様性を描く。それは同じコインの表と裏でもある。政治的に正しいとされる答え以外が表面上は許されない、とても自由でこの上なく不自由な社会と異世界転生ものは合わせ鏡の関係にある。

 この十年ほどの世の中をふりかえるとき、思い浮かぶのは人々の分断が進んだことだろう。二〇一六年に相模原市の障碍者施設で入所者十九人を殺害した人物は障碍者への差別的な発言を隠そうとしなかった。二〇一九年に池袋で乗用車を暴走させ過失運転致死傷の罪に問われた人物は「上級国民」と呼ばれた。二〇二一年八月には走行中の小田急線車内で男が刃物をふりまわし、同じ年のハロウィーンには映画『ジョーカー』の主人公を模倣した服装に扮した男が京王線の車内で乗客に切りつけるなど、見ず知らずの相手に襲われる事件が二〇二一年には実に十五件も発生したという*4
 二〇一一年の東日本大震災では直接的あるいは間接的に被害を受けた者が多かった東日本とそうでない西日本との温度差があった。私がスポーツに関心がないせいかもしれないが、二〇二一年に開催された東京オリンピックで印象に残っているのは開会式のときの東京各所の夜の光景だ*5。新型コロナウイルス感染症の影響で開催は一年延期され、開会式の会場は無観客だった。第五波を迎え都内の飲食店には営業時間の短縮が要請された。光り輝く会場と暗い街の光景との対比はたしかに忘れられないオリンピックとなった。
 この十年は人々の暮らしにネットや情報端末が生活に欠かせないものとして浸透した時期だった。携帯電話とスマートフォンの所有率では、スマートフォンの比率が二〇一五年には五割を突破、二〇二一年には九割を越えた*6。たとえ生活保護を受給していても就職活動や住居の確保のためにはスマートフォンが必要になった。
 歩調を合わせるようにしてネットの政治化が進行していく。二〇一〇年から翌年にかけて「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が起き、そこでは携帯情報端末やSNSが大きな役割を果たした。日本でも二〇一〇年の非実在青少年規制の問題などネット上での言論と政治運動との連動が盛んになっている。
 二〇一六年、イギリスのEU離脱を巡る国民投票や、後にドナルド・トランプがアメリカ大統領に就任することとなる選挙を巡って「ポスト・トゥルース」という言葉が知られるようになった。マスメディアを通じたプロバガンダからインターネットでの情報戦へ、客観的真実よりも情動の動員が重視される風潮は二〇二二年二月から現在まで続くロシアのウクライナ侵攻でも変わっていない。
 くわえてネットは差別撤廃を求める運動にも欠かせないものとなった。二〇一七年十月、ニューヨークタイムズ紙に映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインが犯した性暴力を告発する記事が掲載される。これをきっかけに女性へのセクシャルハラスメントに抗する#MeToo運動が活発になる。
 世界経済フォーラムは二〇二三年版の「ジェンダーギャップ報告書」にて日本の男女平等の達成度合いを過去最低の一四六ヶ国中一二五位と発表した。二〇二三年にはジャニーズ事務所創業者のジャニー喜多川による未成年男子への猥褻行為が取り沙汰された。いや、取り沙汰されてこなかったことが取り沙汰されたとでも言うべきか。
 私が第一章で「短文投稿型SNS」という言葉を使ったことに「ははあ」と思った人もいるかもしれない。二〇二二年十月にイーロン・マスクがツイッター社を買収、翌年の七月にはサービス名をエックスへ変更した。馴染み深かった青い鳥のアイコンはXの字に代わり*7、ツイート、リツイートといった言葉はポスト、リポストと改められた。ジョージ・オーウェル『一九八四年』にたとえるのは大げさかもしれないが、たった一人の思惑によって私たちの現実が書き換えられてしまったことは確かだ。
 二〇二二年七月、元首相の安倍晋三が奈良県での選挙演説中に狙撃され命を落とした。この事件をきっかけに世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治団体との癒着を巡る疑惑が連日のように報道された。恐ろしいカルト宗教団体に日本は搾取されているのかもしれない。そんなマンガめいた可能性が広く共有され、今は何事もなかったかのように見えなくなっている。
 見たくないものから目を逸らし、なかったことにし、自分の望む真実を創り上げ、本当の自分はこうだと大声で訴えなければならず、そしてその声は無視され、容赦なく忘却し忘却され、さまざまな思惑に翻弄される。私たちはただ社会を見るだけではなく、見えないものを想像しなければならない現実を生きている。

 第二章では相沢沙呼『medium』を、第三章では北山猛邦『月灯館殺人事件』を紹介した。『medium』は詐欺師トリックによって客観的事実の背景にたくらみを潜ませた。『月灯館~』はホワイダニットを介して大きな目論見を抱く人物に人々が一方的に翻弄される現実を描いた。
 構成的な現実という概念自体は普遍的なものであり、その気になって探せば古典的な作品からもみつけだせるだろう。ここでは近年の作品から特に私が気づいたものを紹介する*8
 知念実希人『硝子の塔の殺人』の二段構えの真相は『月灯館~』の天神と夢川の二重計画によく似ている。クローズドサークルの趣向や本格ミステリに固有の内輪なノリからして、いかにもメタな発想だ。しかしそれだけなら、あらかじめ準備されていたシナリオの存在が指摘されるだけで終わっていただろう。さまざまな人物の思惑が交錯するとき、そこには虚構と現実という階梯が意味を失った、構成された現実が浮き彫りになる。
 阿津川辰海『録音された誘拐』が『medium』と同様に詐欺師トリックを用いていることは明らかだろう。人並み外れた聴力がある登場人物から、あえてそれを奪うことで名探偵とはなにかという問いを、観念的にではなく血肉を有した人間存在を通して描いている。
 夕木春央『方舟』における麻衣のたくらみは『medium』の詐欺師トリックと『月灯館~』の人でなしじみたホワイダニット双方の特徴を兼ね備えている。トロッコ問題には唯一の正しい答えがあるわけではない。名探偵がみなで客観的状況を共有して最善の答えを提示する功利主義者にしかなれないのなら、自由至上主義者の犯人とわかりあうことは決して無いだろう。
 白井智之『名探偵のいけにえ』での大塒のホワイダニットについて思いだしたのは『「社会正義」はいつも正しい』を読んだときだった*9。ポストモダニズムはアイデンティティ・ポリティクスの理論形成に利用され、科学的事実を曲解や無視、軽視するようになったと訴える本だ。理性と論理を信奉する名探偵なら当然このような風潮には異を唱えるだろう。しかし一方、探偵役とはアイデンティティを擁護する存在でもあるのではないか。有罪間違いなしと口汚く罵られる人物に、なんら無実を証明する手掛かりが無くとも寄り添い、力になろうとした英雄の物語をあなたは知らないだろうか。本格ミステリはそのような両極端の性質を併せ持っている。
 五条紀夫『クローズドサスペンスヘブン』は死後の世界を扱った特殊設定ミステリだ。この作品は性別誤認トリックが使われている。いや、使われていないと言うべきだろう。過去の事件を報じる新聞記事も含めて性別についてなにか語り落としがあったわけではない。天国屋敷に集った死者たちは自分が本来望んでいた姿となる。女性の心を持っていた男性が、まぎれもない女性の姿で顕現する。この世界にはどんなルールがあるのか誰かの頭の中が描写されず、そのせいで勝手な思い違いが生じる。言い換えれば、特殊設定を利用して叙述トリックが詐欺師トリックへ変形されている。ここにもアイデンティティと本格ミステリとの奇妙な接点がある。
 紙城境介『シャーロック+アカデミー Logic.1 犯罪王の孫、名探偵を論破する』は主人公が推理を披露した後、黒幕が姿を現しどんでん返しを食らわせる。ただしどんでん返しによって真相がなにか書き換わったわけではない。主人公が見抜いたとおり、すべては茶番劇だった。その茶番劇だったという事実そのものが覆ったわけではない。ただ主人公が解明に至るまでの物語が黒幕の敷いた道筋どおりだったというだけだ。これは『硝子の塔の殺人』の裏返しではないか。『硝子の塔~』は虚構と現実が衝突し現実だけが残った。『シャーロック~』は虚構と現実が衝突して虚構だけが残った。虚構と現実との衝突による階梯の崩壊は共通しているが、方向が正反対だ。

 島田荘司との対談を収めた『本格ミステリー館』のあとがきとして綾辻行人は一九九二年にこう記している(二九七頁)*10。島田が幻想と現実を対置関係としているのに対し、綾辻は幻想を現実に包含される概念だと考える。一人ひとりが固有の私的幻想を生きており、現実はその集合に過ぎない。

「幻想」とは決して「現実」から懸け離れた高みに存在するものではない、と僕は捉えます。「現実」と名付けられたこの世界そのものがそもそもひとつの「幻想」(「公的幻想」と云ってみてもいいでしょう)なのですから。さらに進めれば、僕が本格ミステリーに求める「結末の意外性」とは、こういった「現実」と「幻想」との関係が、この世界の「幻想」としての構造が、鮮やかに劇的に暴き出される瞬間にこそ生まれるものなのではないか……。

 綾辻の幻想観は叙述トリックを思い浮かべるとわかりやすいだろう。客観的には男性である登場人物を読者は性別誤認トリックによって女性だと思いこんだまま読み進める。真相が明かされたとき、読者は自分が偏見に目を曇らせていたこと、現実だと信じていたものは私的幻想に過ぎなかったことを知る。
 このような幻想観は当時の社会状況とも呼応していたのではないか。円堂都司昭は「シングル・ルームとテーマパーク」にて綾辻行人の作品を自閉する若者たちの姿と重ねてみせた*11。一九七〇年代には大多数の者が自身を中流階級だと認識する「一億総中流」という言葉があった。誰もが『週刊少年ジャンプ』を読み、ゴールデンタイムの番組を視聴していた。ライフスタイルの多様化や価値観の相対化が進行し、一人ひとりが異なる現実を生きているという意識が生じた。
 ゼロ年代にはカジュアルオタクの層が生じ、インターネットや情報端末の普及が新たな形のコミュニケーションを生みだした。宇野常寛は二〇〇八年に刊行した『ゼロ年代の想像力』にて、9・11事件や小泉純一郎首相によるネオリベラリズム的な構造改革、格差社会意識の浸透といった世相を背景に、もはや引きこもっていては生き残ることができないと社会の既存のルールを自ら変えていこうとする姿勢を「決断主義」と呼んだ*12。こうして自閉する若者たちという像は遠い過去のイメージとなった。かつて綾辻が感じていたような私的幻想の感覚は過去のものとなり、現代は多くの人たちが相互理解を深め、承認欲求にふりまわされ、無理解を痛感しながら生きている。
 拙著『探偵が推理を殺す』の結論では国内の本格ミステリがおおむねゼロ年代後半から一〇年代にかけて、社会の多元化に歩調を合わせるように不可知論的状況への対応が起きていたこと、整合性に重きを置く推理を通して実存に焦点を当てるようになったことを論じた*13。学園ミステリなどカジュアルミステリの流行があったせいかもしれないが、実力不足の若者が経験を積み、探偵として成長していく姿が描かれることが多かった印象がある。
 だが、状況は変わりつつある。人は真実にたどり着けるのかという問いよりも、人は人を騙すという現実のほうがより読者の心に訴えかける時代を迎えている。叙述トリックがそうだったように、詐欺師トリックも謎とその解明には直接寄与しない補助的なトリックのはずだ。だが叙述トリックが本格ミステリを変えたように、詐欺師トリックも今後なにか大きな変化を生みだすのかもしれない。
 今村昌弘『魔眼の匣の殺人』、相沢沙呼『medium』、米澤穂信『黒牢城』、方丈貴恵『名探偵に甘美なる死を』、北山猛邦『月灯館殺人事件』、阿津川辰海『録音された誘拐』、白井智之『名探偵のいけにえ』といった作品では、探偵役はただ真実を知るためではなく、生きるために推理する。生き残るため探偵はときに手を汚し、犯人もまた拒絶を突きつける。
 人々の分断はもちろん望ましいことではない。だが、ネットは不可視だった現実をただ可視化してくれているだけかもしれない。その闇は私たちが目を向ける前からそこにあった。北山猛邦『月灯館殺人事件』の夢川、白井智之『名探偵のいけにえ』の大塒、夕木春央『方舟』の麻衣。現実的に考えればこの者たちは悪逆非道の輩だとそしりを受けてもしかたない。それは恐ろしいものには違いない。だが、目を逸らして無かったふりはできない。今度こそ真剣に生きることができる本当に正しい世界システムを実現するために、あらゆる人々の多様性が尊重される新しい時代を迎えるには決して避けることのできない通過点だ。暗闇を覗くしかない。たとえそのために本格ミステリという器の形が大きく歪もうとも。
 新型コロナウイルス感染症の感染状況が見えなくなったように、大きな仕組みなしに現実は見ることができない。想像を巡らせ、見えないものに勇気を抱いて目を凝らし、新しい大きな仕組みを創りあげなければならない。