北山猛邦『月灯館殺人事件』には〝星海社、令和の新本格ミステリカーニバル〟と題する折込みチラシが挟まっていた。裏表紙は〝あの北山猛邦が真正面から「館」に挑む正統派新本格ミステリ!〟との一文から始まり、そして〝これぞミステリの進化の系統樹の最前線にしてネオ・クラシック!〟という文章で締め括られている。門外漢がこれを読めば、古臭いのか新鮮なのかわからなくなりそうだ。
 謎の人物に孤島へ招待された十人の男女が一人、また一人と屠られていく。アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』(一九三九年)の高名なプロットは『月灯館~』でも登場人物が言及している。新本格ムーブメントの嚆矢とされる綾辻行人『十角館の殺人』(一九八七年)もまた、この名作に倣っている。初期の新本格は英米黄金期と呼ばれる一九二〇年代から三〇年代にかけての傑作群を現代に蘇らせようとするルネサンス運動の意味合いがあった。
 そんな教科書的背景さえ知っていれば前述の煽り文の意味を窺い知るには充分だろう。だが、この作品について理解を深めるには一本の補助線を引く必要がある。作者がたどった道筋をなぞり同時代の状況を見渡さなければならない。

 北山猛邦は第二四回メフィスト賞を受賞した『『クロック城』殺人事件』が二〇〇二年に刊行されデビューした。太陽黒点による磁気嵐の影響で世界が終焉を迎えつつある世界を描き、謎とその解明の物語としてはあまりに装飾過剰として批判されると同時に、アニメやマンガといったサブカルチャーに親しんできた新しい世代の表現として期待されもした。
 二〇〇五年十月に行われた座談会にて北山は次の発言をしている*1。『月灯館~』が刊行される十七年前の発言だが、あたかも『月灯館~』について語っているかのようだ。

北山 僕がやりたいのは単純なことで、忘れさられようとしているものを拾い上げて見映えがいいような形で、ようするに古典的な探偵小説と言われる時代のやり方とか構造で、僕なりのやり方でしかないですけれども、新しいことをしようと思います。僕が心配するようなことではないと思うんですが、全体から見たら、やはり本格は危機的なところにあるんじゃないかなと。誰かが忘れてしまったものを留めなければいけない。

 では北山の言う〝忘れさられようとしているもの〟とはなにか。デビュー作に連なる城シリーズなど初期の作品は物理トリックへのこだわり、そして終末的な雰囲気が漂う中で登場人物たちが破滅的な結末を迎える展開が共通している。
 北山は「トリック悲観主義」で、斬新なトリックを用いることを夢見ながらも冷たい目で見ることしかできない、なぜなら〝あらゆるトリックは既に消耗済みのものであり、自分の思いつくものは他の誰にでも思いつく〟(三七頁)。からだと綴っている*2。ここにも『月灯館~』の萌芽が感じられるだろう。
 そして〝この自己に内在するトリック悲観主義への抵抗、これが北山の書いているミステリです。本格ミステリで描かれるような密室や物理トリックは、現実には到底あり得ないと否定し、冷静に理解しておきながら、新しい一人のミステリ書きとしてそれらを描くにはどうしたらいいのか〟(三七頁)と続けている。
 私なりの言葉で整理すれば、次のようになる。北山は忘れさられようとしているもの、すなわち斬新なトリックを用いた作品をものしようとしている。だが、現実的に考えればそのようなトリックが用いられることはありえない。自然主義文学的な世界にそのようなトリックは調和しない。だからこそマンガやアニメにしか描かれないような作り物めいた世界が必要になる。
 やがて北山の創作姿勢は変化を迎える。初期の、特にデビュー作に連なる城シリーズでは破滅的な結末が描かれることが多かった。それが『少年検閲官』(二〇〇七年)あたりから希望が示される展開が増えてきた。便宜上、これを第二期としておこう。
 わかりやすい例を挙げるなら〈猫柳十一弦〉シリーズだろう。探偵が専門職として制度化された並行世界を舞台に、探偵の猫柳は惨劇を未然に防ごうと奔走する。人が殺されてしまった後で謎を解いても手遅れではないか、悲劇から人を救ってこそ真の名探偵ではないか。いわば名探偵哲学を問い直す存在として猫柳は描かれている。
 第一期ではトリック悲観主義を乗り越えることが課題だった。素晴らしい物理トリックのために創造された世界で、登場人物たちはただ悲劇を待ち受けるだけの駒に過ぎなかった。第二期では名探偵哲学が問い直された。探偵たちが過酷な運命に抗い、謎を解くべく成長していく姿が描かれた。このような道のりがあったことを踏まえて『月灯館~』を読み解いていこう。

 ミステリ作家としてデビューしたものの二作目を書くことができない狐木雨論こぎ うろんは、編集者から月灯館への滞在を勧められる。「本格ミステリの神」と謳われる作家、天神人てんじん ひとしが若手のミステリ作家育成のため館を貸しているのだという。作家たちや天神の息子、ノアとの生活に慣れていく狐木だったが、やはり新作は冒頭の一行すら書けないでいた。
 破局は突如訪れる。冬至の夕食会にて、天神たち七人の作家を七つの大罪を犯した者たちとして処刑するという何者かの声が流れる。翌朝、天神が首無し屍体と化して発見される。それを皮切りに、作家たちは次々と密室状況下で殺されていく。
 雪に閉ざされ通信も断絶した月灯館に警察を呼ぶことはできない。狐木はノアに名探偵をやってみるよう勧め、ノアは狐木にワトソン役を頼む。第二期の作風を知っている読者ならば二人が探偵コンビとして成長していく姿が描かれるのだろうと期待したかもしれない。だが、物語は破滅に向かって突き進んでいく。
 虐殺の嵐の末にノアはたった一人、図書室の地下に隠された書庫へ逃げこむ。そこには天神人からノアに宛てた手紙が残されていた。五十一年前の冬至の日、三人の探偵小説家たちをガス事故にみせかけて殺めた。三人の創作ノートやメモから未発表のアイディアを奪ったことが綴られていた。冬至を決行日に選んだのは、著作権の保護期間が切れるのを一年でも一日でも早めることを目論んだためだった。
 こうして天神は作家としてデビューした。やがて病魔に身体を蝕まれた天神は息子であるノアに跡を継がせようと計画する。月灯館に集った作家たちを殺害し、彼らの著作や数々の本格ミステリ作品を未来への箱舟としてノアに託そうとする。
 手紙の内容は明らかに月灯館での現実と乖離していた。七番目に死ぬはずだった天神は最初の密室で殺された。何者かが天神の計画を乗っ取ったに違いない。だが、その人物はなぜ犯行現場をわざわざ密室にしたのか?
 犯行に用いられた密室トリックはすべて過去に発表された本格ミステリ作品で用いられたトリックの流用だった。ノアはそれらの作品を読むことでトリックを知り、そこから犯人は滞在していた作家の一人、夢川蘭ゆめかわ らんだと推理する。
 夢川はノアを襲い、天神が用意していた爆薬を利用して月灯館を大雪崩で押し流す。ただ一人の生存者として救助され、病室で夢川は犯行をふりかえる。なぜ、犯行現場を密室にしたのか。それは密室トリックの実現可能性を調べるためだった。自信を持って小説に密室殺人を描き、本格ミステリの神と謳われた天神人さえ凌駕する本当の神になろうと夢川はたくらむ。

 説明するまでもなく『月灯館~』に『medium』のような詐欺師トリックは使われていない。しかし『medium』とは異なる形で構成された現実を描いている。
 初めに天神人の犯行計画のほうから考えよう。月灯館での殺戮劇はノアが小説家としてデビューするための布石だった。たった一人生き延びた実体験をノアは小説にして出版社へ持ちこむだけで良かった。言い換えれば、ノアにとって月灯館での体験は一種の仮想現実だった。本格ミステリの遺伝子を後世に伝えるための方舟で、天神が用意した筋書きに沿って上演される劇に過ぎなかった。
 一方で夢川の為したことは仮想現実とは呼び難い。密室トリックを用いたのは夢川自身のためだった。いずれミステリ作家として筆にするであろう作品のため、それを将来手にするであろう読者のためだった。ノアにしてみれば、それは構成された現実だった。健康を害すジャンクフードのCMソングに踊らされるように、意図を見抜き難い大きな仕組みに翻弄される体験だった。
 例外はあるにせよ、ミステリ作品に登場するトリックの多くは犯人が誰なのか隠蔽することを目的としている。窓も扉も内側から施錠された部屋で人が死んでいれば警察には自殺と判断してもらえるかもしれない。そうでなくともどのように不可能事を為し遂げたのか説明抜きに誰が殺したのか名指しすることはできないだろう。
 犯人は「探偵役対犯人」という構造を意識してトリックを仕掛け、探偵もまたトリックから犯人の隠された意図を見抜こうとする。まるでディスコミュニケーションがコミュニケーションであるかのような倒錯した関係がある。
 しかし『月灯館~』は事情が異なる。夢川には「探偵役対犯人」という構図など意識にない。密室トリックは未来の読者たちのために用いたものだった。ミステリ作家たちは被害者役として本格ミステリに必要な駒に過ぎず、ノアは葱を背負ってきた鴨でしかなかった。ここには本質的な無理解が、空恐ろしいほどの分断がある。

 前述のとおり『月灯館~』は初めのうちノアと狐木が探偵コンビとして成長していくような、第二期らしい希望へと向かう展開を読者に予感させるが、それは裏切られる。
 この作品では信仰心にも似た本格ミステリへの感情と、現実への幻滅がくりかえし吐露される。招待されたミステリ作家たちは盗作、粗製乱造、古典作品の軽視といった問題を抱えていた。新作を書けない狐木は次のように自分に言い訳をする(一三六頁)。

 本格ミステリなんて同じことの繰り返しだ。
 何処かで見たような設定。何処かで見たような登場人物。何処かで見たようなトリック。何一つ、新しい価値なんて見出せない。
 書く価値がないから、書けないのだ。

 第二期が「真の名探偵とはどんな存在であるべきか」と名探偵哲学を問い直したように、本格ミステリへの羨望と怨嗟が入り混じる描写からは「真の本格ミステリとはなにか」と問うているようにも思われる。
 ならば、なぜ物語は破滅へ突き進むのか。駒のような登場人物たちが悲劇を傍観するだけの第一期へ逆戻りしてしまったということだろうか。
 そうではない。もしそうなら密室トリックをこのような扱いにはしなかっただろう。天神は密室トリックを過去の作品から流用し、ノアは自力での解決をあきらめ、ただ書庫にこもって作品を読むことで仕掛けを理解する。北山が「トリック悲観主義」で嘆いたように、ここにはトリックへの諦念しかない。
 この作品でもっとも人間らしく描かれているのは犯人である夢川だと述べても、それほど多くの異論はないだろう。執筆を放棄した狐木とは対照的に、盗作騒動で炎上し、世間的にはもう死んだとみなされた夢川は、悪逆非道のかぎりを尽くしてでも生き延びようとする。ワトソン役という夢物語の登場人物になろうとした狐木を嘲笑うかのように、救出された後は狐木の名を騙る。
 作者は「真の本格ミステリとはなにか」という問いに「もちろん本格ミステリは素晴らしいものだ」という答えを返したわけではなかった。無数の人々の狂おしいまでの情念を餌に連綿と続いてきた醜い化け物のような姿を、そしてそれを知りながらも終わりなき葬列に加わろうとする業深き人間の姿を描いた。
 もちろん『月灯館~』はリアリズムに徹した作品ではない。いきなり斧を投げてくるなど人物描写は戯画され、本格ミステリへの愛憎めいた感情は常人には理解しがたい。しかし、ここには現実を真正面からみつめようとする姿勢がある。私たちの目の前にあるのはただの現実ではなく、はるか昔からの名も無き人々の感情や理想や妄念や狂気が気の遠くなるほど深く積み重ねられた、構成された現実だ。