《解説》

CRITICA第10号

 評論「怪物の愛」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第10号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 構成は以下の通りです。

  • 第一章 識ることと愛すること
  • 第二章 語られないパースペクティヴ
  • 第三章 そういうふうにできている

 現代の本格ミステリ作品において、心理を描くことが謎解きとどのように結びつくのか長沢樹『夏服パースペクティヴ』の読解を中心に探ります。
 第一章ではミステリ作品に特徴的な心理描写である、推理を通じて仮定する心理に着目します。まずはモンティ・ホール問題を紹介し、そこから人間を行動原理のブラックボックスとみなす考え方を解説します。それを踏まえて、推理を通じて仮定する心理にはどのような性質があるのか、偽の手掛かり問題を確率論の立場から捉え直すことで整理します。
 第二章では、長沢樹『夏服パースペクティヴ』において、事件関係者たちの心理の在り様と、探偵役の謎解きに対する姿勢がどのように関係しているのか詳読します。
 第三章では、推理を通じて仮定する心理について再考し、現代本格における心理と謎解きとの関係を概観します。その上で『夏服パースペクティヴ』における探偵役の特徴について検討し、本格ミステリと文学との関係について考察します。
 以下「怪物の愛」の第一章と第三章を公開します。第一章にロアルド・ダール「南から来た男」の、第三章に東野圭吾『容疑者Xの献身』と青崎有吾『水族館の殺人』の結末を暗示する文章を含むため、ご注意ください。一部、長沢樹『夏服パースペクティヴ』の作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

第一章 識ることと愛すること

 学生らに占拠された東京大学の安田講堂が、一九六九年一月十八日から翌日にかけて警視庁により封鎖解除された*1。八千五百人の機動隊が動員され、十九日に安田講堂落城の瞬間を中継した「NHKニュース」は二五・六パーセントの高視聴率を記録した。
 五つの放送局が東大を中継し、突入する機動隊や、放水によって滝のように水が流れるさまにカメラを向けた。机や椅子、窓ガラスが壊され「安田講堂は、まるで廃墟のようです!」と放送記者の一人は伝えた。
 ただNETテレビ(後のテレビ朝日)の特別番組「安田講堂から中継」は、他の局とは絵作りが異なっていた。全体を見渡すだけでなくローアングル撮影のカメラを準備し、学生たちが壁に残した落書きを見てまわった。放送記者の椿貞良は、この中継を事件として扱うのではなく、学生たちの内面に迫ろうとしていたことを証言している。

 椿記者は、その像を少なくとも結びかけていた報道者であった。彼はなにひとつとして事実を歪曲して伝えてはいない。それは机や椅子や窓ガラスについて語った放送記者とまったく同じことだ。だが、この両者の表現が本質的な差を生じたということは、とりも直さず椿記者が、学生運動の本質である人間の復権という命題を自己自身のものとして捉えつつあったからである。さらに放送記者として何よりも重要なのは、まったく客観的に事実を語りつつ真実に迫り得たことであり、ここにいわゆる「客観主義」や「不偏不党」「公正中立」という原則によって、実際は、体制の論理に包括され、その代弁を演じているにすぎない報道者の幻想を突き崩す足がかりをつけたという一点である。そして偶然にもNETのテレビカメラのみが、連行される学生たちの素顔を正面から捉えることができた。何と心憎い偶然だったことだろう。

 機動隊が何名導入され、何人の学生が立てこもっているか。客観的な事実を伝えさえすれば公正中立な報道となるのか。安田講堂を破壊された廃墟とみなすのか、それとも「自分の食器は自分で洗え」といった貼り紙に学生たちの生活を垣間見るか。自身の心をどう準備しているかによって、見えるものに違いが生じてくる。

 見るとは、出来事や事物を見ることではなく、己れとの関わりにおいて主体的に捉えることによってのみ成立するものではないか。

 対象への深い理解や疑義なしに真の意味で見ることなど能わないとすれば、世の中についてろうとすることと、人が人を愛することは似ているのかもしれない。
 本稿はこれから、識ることと愛することについて考察する。これらは深く結びついているが、ふたつを同時に意味する日本語を私は知らない。だから、繰り返しになるがこう述べておこう。本稿はこれから、識ることと愛することについて考えてゆく。

 本格ミステリは人の心を描くことを重んじるのか、それとも蔑ろにするのか。それを平明に説明することは難しい。
 エンターテイメントとしてのミステリは、ひょっとすると心の扱いが雑だと思われているかもしれない。毎週のように新刊が書店の平台に並び、テレビでは殺人を扱ったドラマが放送される。厳粛な扱いをされるべき人の死が飽かず消費されている。どれだけ神妙な顔で動機を告白されても、次に読む小説にブックカバーをかけている間に忘れてしまうだろう。
 もちろん、犯罪行為や隠された秘密への背徳的な興味だけを指して、ミステリを低俗な読み物とするのは時代錯誤が過ぎるだろう。それでは、問いの形を少し変えてみよう。人間心理を表現する上で、一般的な文学と比してミステリにしか有りえない描き方はあるだろうか。あるいはミステリ作品を騙りや論理操作の技巧から鑑賞するとき、文学性という観点を完全に排すことは可能だろうか。
 小松史生子は『探偵小説のペルソナ』の序章にて、江戸川乱歩が掲げた探偵小説の定義を再検討している*2。人口に膾炙した定義「主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く経路の面白さ」だけではなく「登場人物の存在感および魅力」(六頁)「探偵と犯罪者の心理的コミュニケーション」(八頁)にも乱歩は着目していたという。
 これを小松は、探偵小説にはペルソナ造型の考慮が必須だと読み替える。「ペルソナ」はラテン語で仮面を意味し、言い換えるなら人格や人物造形となるだろう。演劇や祭典において、仮面を着けた人物は、その精神共同体に期待される役割を果たす。多くのミステリは謎の提示とその解体というプロットが固定されており、犯人や探偵役といった特定の役割を担う人物がどうしても必要になる。
 読者共同体の欲望に応えるべく、犯人役は奇怪なトリックを考案し、探偵役は推理を繰り広げる。ありきたりな犯罪や、解かれることのない謎はミステリになりようがない。読者の欲望に応えられないものは描かれず、翻せば自然主義文学が理想とするような、ありのままの現実を写す人物は描かれない。
 ペルソナは、キャラクターとも異なる概念だ*3。キャラクタービジネスを思い浮かべてもらえばわかりやすいが、キャラクターは物語から自立している。最低限の図像や固有名さえあれば成立する存在だ。ペルソナは物語の進行において所与の役割を果たす。謎を解いた実績のない人物に探偵役の名を冠すことはない。
 ミステリに登場するのはありのままの人間でも、物語から自立しうるキャラクターでもない。「犯人がなぜそうした作為を思いつくのか、その作為をこの犯人ならばなるほどさも思いつくだろうと読者を納得させるだけの説得力、また犯人の性格や置かれた立場に基づく欺瞞の方法の個性」(九頁)といった読者の期待に応えるペルソナでなければならない。だからこそ、個性的かつ魅力的な人物造形が探偵小説には不可欠となる。
 乱歩テクストを小松はこのように読み解いた上で、松本清張の乱歩批判、笠井潔のいわゆる大量死理論、法月綸太郎のクイーン論を、探偵小説におけるペルソナ造型への志向性という観点から捉え直してみせる。
 ミステリは大枠のプロットが固定され、特定の役割を担う人物が登場する。読者の暗黙的な期待に応えるには、事件の性質にふさわしいペルソナで顔を覆わなければならない。横領がバレる前に上司を殺害したいサラリーマンなら、自身を安全圏に置くためアリバイ工作をするだろう。奥深い宗教的意義が込められた見立て殺人を敢行した者は、俗世を超越した人物であってほしい。
 すると、次のように意見する人もいるかもしれない。事件と人物造形との調和は文学的に不可欠であり、エンターテイメント作品としても重視すべき観点だ。しかし、本格ミステリとしては望ましくない。なぜなら、そのような調和の高まりは真相と伏線との関係を密にし、人物像から誰が犯人なのか、読者の推理を容易にしてしまう。文学的興趣と本格としての巧拙は独立したものとして捉えるべきだ。
 この意見は正しいだろうか。素朴な例を挙げよう。多くの犯人当て小説は、挑戦者たちに犯人の動機まで考察せよとは求めない。綾辻行人と有栖川有栖が原作を担当したテレビドラマシリーズ〈安楽椅子探偵〉では、動機は犯人特定の根拠にならないと言い渡される。それでいて解決編では、事件に関係する人物の心理を手掛かりから推量し、それが犯人を特定する根拠となることがあった。
 ミステリファンなら、これを矛盾とは感じないだろう。たとえば犯行現場や死体に施された奇妙な装飾から、嫌疑から逃れるための合理的理由を見出す、という推理はエラリー・クイーン『チャイナ橙の謎』(一九三四年)など数多くの作品で描かれてきた。だが、ジャンル外の読者にその機微を判断することは難しい。意図不明の装飾と同様、経歴や人間関係も作中で提示される情報なのに、なぜそこから犯人を推測してはならないのか。
 この捻れを解消するため、ミステリ作品における人間心理の描き方を整理してみよう。

心理A 物語展開と同時に描く心理
心理B 謎解きが明らかにする心理
心理C 推理を通じて仮定する心理

 心理Aは、読者がページをめくるたび眼前で描出される心理だ。直接的に「彼は悲しかった」と心理描写されることもあれば、しぐさや行動、隠喩によって間接的に表現されることもあるだろう。被害者の無念を想い調査する探偵役の心理、理不尽な事件に巻きこまれた悲劇を嘆じる関係者たちの心理、倒叙形式であれば手を血に染めるまでの犯罪者の心理も描かれるだろう。
 読書行為とほぼリアルタイムで心理Aが展開されていくのに対し、心理Bは謎解きの段階で初めて明かされる。乱歩が探偵小説に必須の要件として着目していた、事件と人物造形との調和が描かれる。先程と一言一句同じ「彼は悲しかった」という一文があっても、そこには心理Aとは異なる質の心理がある。謎が解かれる前に記述されていた断片的事実と響きあい、読者は伏線として記述されていた文章に込められていた、真の意図を知る。
 心理Aはひとつひとつの文章が示す事実によって描かれるのに対し、心理Bは謎解き前後の整合性という構造によって描かれる。心理Cも構造的だが、心理Bとは方向が真逆だ。探偵役が事件現場の手掛かりを観察し、事件関係者たちが仮説を戦わせ、犯人の心理を推量する。
 心理Bと心理Cには決定的な違いがある。心理Bは確定した事実だが、心理Cは可能性でしかない。言い換えれば、ミステリというジャンルの性質上、心理Cを直接的に描くことはない。名探偵が犯人の思惑を推理しているとき、ワトソン役はその心を覗くことはできない。読者は、名探偵が着目した手掛かりや、さりげないセリフの端々から推理の内容を推し量る。名探偵の心を通じて犯人の心を覗く、二重の読心術を必要とする。強いて挙げるなら、叙述トリックを用いた作品なら犯人の心理が直接的に記述されることがある。だが、それは読者がトリックを看破し、作者には望まれない読み方をしたときだけだ。
 最終的には心理Bと心理Cは一致しなければならない。事件の調査段階では、さまざまな心理Cが検討されるだろう。それが謎解きにより、心理Bへと収束する。フェアプレイを遵守した作品なら、挑戦者が問題編で推理した心理Cは、解決編で明かされる心理Bと一致するだろう。心理Cの可能性をひとつに絞りこめない、あるいは心理Bと合致しないなら、それはミステリ作品として優れているとは言い難い。
 このように整理すると、先程の捻れを解消できる。一般的な読者は、心理Aから動機を当て推量しようとする。だが、それは煙幕に過ぎない。犯人当て小説の挑戦者たちに課せられているのは、表面的な記述の背後にある心理Cを見抜くことだ。
 心理Bを重んじることは人物像から犯人特定を容易にするため、本格ミステリとして望ましくないという批判には、次のように答えることができるだろう。もし心理Aから犯人を推察できてしまうなら、確かにそれは望ましくない。だが本格ミステリが要求するのは、心理Cを巧妙に隠しつつ、やがてそれが心理Bへ収束するよう図ることではないか。そのような本格ミステリに固有のハイコンテキストな性質は、心理Bを重んじることで損なわれはしないし、むしろ強化される。
 ひとつ、補足しておきたい。これらの心理はミステリ以外の一般文芸にも描かれているだろう。父親から勘当された若者が、あの頑固者めと恨んだなら、それは心理Cだろう。事実に基づき他者の内面を推測していることには変わりないのだから。後に母親が涙ながらに若き日の父の苦労を語り、若者が親心を察したなら、それは心理Bとなる。しかし、これでは心理C(頑固者)は心理B(親心)へと収束しておらず、ミステリとしては評価できない。
 人間心理についてミステリに固有の描き方はあるだろうか、という疑問への答えはすでにでているだろう。ミステリは謎の提示とその解体というプロットが多くの作品で共通しており、そこから心理を構造的に描く手法が生じてくる。
 ではそこから、本格ミステリは人の心を描くことを重んじるとまで結論できるだろうか。たとえば、こんな意見はどうだろう。確かにミステリ作品にしかない心理の描き方はあるかもしれない。だが、ミステリとは内面よりも行動を重視するものだ。密室で殺人事件が起きる。扉の前に落ちていたピンセットから、犯人の仕掛けたトリックを見破る。このとき重要なのは、犯人がトリックを仕掛けたという行為そのものだ。完全な密室に見せかければ嫌疑を逃れうると企んだ邪悪な心理は、文学的添え物でしかない。
 ある作品を文学としてはともかく、本格ミステリとして評価するときには、手掛かりから犯人の為した行為さえ論理的に結論できれば良く、その行為に付随する心理は二義的なことに過ぎない。あなたは、この意見に賛同できるだろうか。このことについては、また後で触れよう。
 本稿は心理C、推理を通じて仮定する心理に着目する。長沢樹『夏服パースペクティヴ』の読解を中心に、現代本格における人間心理の扱いについて原理的な考察をしたい*4。第一章ではモンティ・ホール問題をベースに、偽の手掛かり問題について検討する。人間を行動原理のブラックボックスとみなす考え方を踏まえて、第二章では『夏服パースペクティヴ』における推理や探偵役の人間像について読み解く。第三章では、人間心理の扱いを通して本格ミステリの現在について展望したい。

 マリリン・フォス・セイヴァントはニュース雑誌『パレード』(一九九〇年九月九日発行)の連載コラム記事「マリリンにおまかせ」にて、テレビの長寿ゲーム番組『取り引きしよう』をとりあげた*5。ある状況下での確率について述べた文章は、数学者を含む多くの読者から批判を浴びた。
 その番組では、出演者は三つのドアからひとつを選ぶ。正しいドアを開けると賞品の車があるが、ハズレならヤギがいる。これだけなら車を当てる確率は三分の一に過ぎないが、もう一工夫がある。
 仮にドア1からドア3までがあり、出演者はドア1を選んだとしよう。司会者のモンティ・ホールは、おもむろにドア2を開いてみせる。そこにはヤギがいた。モンティは出演者に、よければドア3のほうを選び直しても構いませんよと提案する。
 初志貫徹でドア1のままにするか、それとも助言に従いドア3へ変えたほうが良いのか。コラム記事にてマリリンは、選択を変えれば車を当てる確率が二倍になると指摘した。批判者の多くは、どちらのドアを選ぼうと確率は変わらないと主張した。
 司会者の名前からモンティ・ホール問題と呼ばれるこの問題には、重要な前提がある。モンティは正解のドアがどれか知っており、出演者が選ばなかった二つのうち、必ず不正解のほうのドアを開ける。このことは事前に出演者へ知らされている。
 さて、どう考えるべきだろう。司会者が開けたドア2がハズレなのは明らかだ。場合分けすると、ドア1が正解の場合か、あるいはドア3が正解の場合しかない。それなら選択を変えようが変えまいが、確率は五分五分ではないか。
 実は、そうではない。初めに出演者がドア1を選んだとき、それが正解となる確率は三分の一だった。ドア1を選んでいる限り、確率の値はそのままだ。ドア3を選べば、正解する確率は三分の二になる。つまり、ドアを選び直せば車をもらえる確率は二倍になる。
 直感的にわかりやすい説明として、ドアの数を増やしたケースがある。数字が描かれた百のドアがあり、挑戦者はナンバー七十七を選んだとする。司会者がナンバー百から順番にドアを次々と開け、ハズレであることを示していく。挑戦者が選んだナンバー七十七は当然として、なぜかナンバー三十二も飛ばされる。ナンバー三十二と、最初に選んだナンバー七十七。二つだけ残ったドアのうち、どちらが正解の可能性が高いと感じるだろう。
 四大陸を飛びまわり、生涯に一千本以上の論文を発表した伝説的な数学者、ポール・エルデシュも確率は五分五分と考えた。この問題を教えたアンドリュー・ヴァージョニは、エルデシュが誤った理由として「自然科学者たちは確率が事象に属するという考え方をする傾向がある」(二五七頁)ためではないかと述べている。
 確率が事象に属するとはどういうことか。たとえばコイントスをすれば、イカサマでもないかぎり表と裏がでる確率はそれぞれ二分の一だ。言い換えれば、半々で表あるいは裏になるという確率的ふるまいは、コインの物理的性質と一体化している。
 二つの扉が残され、どちらか一方が正解。この状況だけを眺めてみると、なるほどコイントスと同じで確率は五分五分のように感じられる。すると、司会者が選び直す機会を与えることが思考を迷わせるのだろうか。試しに、人為が介入しない形に問題を変えてみよう。
 三枚のカードが裏向きに置かれている。表には一枚だけ車のイラストが、残り二枚にはヤギが描かれている。車のカードを選べば正解だ。挑戦者が三枚のうちから一枚を選ぶ。このとき、挑戦者が選んだカードが正解である確率はどうなるだろう。
 もちろん、それは三分の一だ。それでは残り二枚のうち、どちらかがヤギである確率はどうだろう。挑戦者が選んだカードが正解でもハズレでも、ヤギのカードは二枚あるので、残った二枚のうち一方は必ずヤギになる。
 では、挑戦者が選ばなかったカード二枚のうち、一方が車のカードである確率はどうなるか。選んだカードが正解である確率は三分の一、したがって残り二枚のどちらかが正解の確率は三分の二だ。二枚のうち一方は必ずヤギのカードだから、もう一枚のほうが正解となる確率は三分の二となる。
 これをオリジナルのモンティ・ホール問題に置き換えてみてほしい。「出演者がドア1のまま選択を変えなかった場合に正解する確率」イコール「最初に挑戦者が選んだカードが正解となる確率」だ。そして「出演者がドア3に選択を変えた場合に正解する確率」イコール「挑戦者が選ばなかったカード二枚のうち一方が正解となる確率」となる。
 モンティ・ホール問題は人為の介入により確率の値が変わってなどいないことに注意してほしい。司会者はただ、出演者が選ばなかったドアからハズレをひとつ明らかにしただけだ。モンティが介入をしようがしまいが「出演者が選ばなかったドアのうち一方が正解である確率」は初めから三分の二だ。
 今度は違う方向からアプローチしてみよう。百のドアがあるケースを思いだしてほしい。司会者はハズレのドアを出演者に教えることで、正解のドアを当てる確率を高めてくれる、いわば「善玉」の役割を果たしていた。
 この前提を変えたなら、どうなるだろう。挑戦者が初めの選択でハズレのドアを選んだときはなにもしないが、正解を選んだときはハズレのドアを示し選択を変えてみないかと提案してくる。そんな「悪玉」の司会者なら、選択は変えないほうがいいだろう。提案をされた時点で出演者の選んだドアが正解である確率は百パーセントなのだから、選択をそのままにしていれば確実に車を手に入れることができる。
 司会者が提案をしてきたとき、物理的な状況は司会者の行動原理が善玉でも悪玉でも同じであり、見分けがつかないことに注意してほしい。初めに述べたように、モンティ・ホール問題は司会者が善玉であることを出演者はあらかじめ知らされていることが重要な前提となる。もし出演者がそれを知らされておらず、司会者が善玉と悪玉どちらにもなりうるとすれば、最善の判断は確定しない。厳密な言い方をするなら、問題の前提条件として司会者が善玉あるいは悪玉どちらなのか出現率が明示されるなら、ドアの選択をそのままにした場合と変えた場合それぞれについて正解する確率を計算できる。出現率が提示されないなら確率を計算することはできず、最善の判断もわからない。
 おや、人為の介入は確率に影響しないのではなかっただろうか。それでは司会者が悪玉の場合に、カードの問題はどうなるのか考えてみよう。この場合「出演者がドア3に選択を変えた場合に正解する確率」は「挑戦者が選ばなかったカード二枚のうち一方が正解となる確率」ではない。「挑戦者が正解のカードを選んでいたとき残り二枚のどちらかが正解となる確率」すなわちゼロだ。
 つまり、確率の値は変わっていない。変わったのは問いの対象だ。物理的状況は同じでも、司会者の行動原理によって問題の性質が大きく変わってしまう。多くの人がモンティ・ホール問題の答えを誤ってしまう理由は、司会者の行動原理が確率に与える影響を正しく把握せず、目の前に残された二つのドアという物理的状況だけから判断を急いでしまうことにあるのではないか。
 いわば、コインがごく当たり前のコインか、それともイカサマコインなのか吟味せずにコイントスをするようなものだ。モンティ・ホール問題ではコインとイカサマコインの違いが、司会者の頭の中にある行動原理という形で隠蔽されている。いや、司会者が善玉であることは事前に説明されているが、その意義をうっかり軽視し、残された二つのドアだけに意識を狭めて「確率が事象に属するという考え方」に惹かれてしまう。
 表現の仕方を変えてみよう。モンティ・ホール問題で司会者が果たす役割を、プログラムに従って動作するロボットにでも置き換えてみてほしい。このロボットはドアを開けたり、出演者にお決まりの質問をするだけで、人間のような心などありはしない。だが、そのプログラム次第で、司会者と同じく善玉にも悪玉にもなれる。
 言うなれば司会者も本質的にはコインやサイコロと変わらない。コインの物理的性質が、半々で表あるいは裏をだすという確率的ふるまいをするように、司会者も確率的ふるまいをする装置に過ぎない。プログラミング次第で動作を変えるロボットのように、その行動原理が脳というブラックボックスの内側に隠されているだけだ。
 混同を避けるため、ここで「心理的傾向」という言葉を用意しておこう。心理的傾向とは、対象となる人物のふるまいから伺える心理と定義する。もしくは、行動原理を確定する上で最低限に仮定した心理、行動目的としたほうがわかりやすいかもしれない。
 それは必ずしも心理とは一致しない。便宜的に司会者の行動原理を善玉、悪玉と呼んだが、それは出演者に利するかどうかに基づき、わかりやすい名称を与えただけだ。司会者が出演者に親しみや敵意があるかどうかとは関係しない。ロボットにさえ心理的傾向がある。哲学的ゾンビには意識や感情が無いかもしれないが、整合性のある行動をする存在には必ず心理的傾向がある。
 理系の立場から身も蓋もない表現をすれば、心理とは脳を構成する一千億を超すニューロンの活動状態のことであり、標準的な厚みの書物には到底収まらない情報量を有している。それに対して心理的傾向とは、人間の行動原理を記述したプログラムの設計方針であり、若干複雑かもしれないが容易かつ明確に記述できる。
 直接的な記述がされた心理Aや心理Bは文字通り心理だが、心理C、推理を通じて仮定する心理は心理的傾向に過ぎない。それは残された手掛かりから推察される犯人のふるまいを説明するために必要な最小限の仮定に過ぎない。
 ここまで、なにか奇妙で複雑なことを述べてきたように感じたかもしれないが、そうではない。あなたの目の前に、野球帽をかぶり満面の笑みを浮かべた大男が現れたとしよう。なぜか片手に金属バットをぶら下げている。大男はあなたを草野球の対戦相手と間違えているのかもしれないし、あるいは危険ドラッグにでも手をだして、他人の頭がストライクゾーンに飛びこんできたボールに見えているのかもしれない。
 あなたに他人の心を覗くテレパシー能力がなければ、最適な手段は異なってくる。どなたかとお間違えではないですかと声をかけるべきかもしれないし、脱兎のごとく逃げだすほうが良いかもしれない。選択を変えるよう提案されただけではモンティが善玉なのか悪玉なのか見分けがつかないように、限られた観察、限られたやりとりだけでは心理的傾向をひとつに確定することはできない。なぜなら、それは他者の内面というブラックボックスに隠されているのだから。

 一九九三年から二〇〇一年にかけて、エラリー・クイーン『ギリシア棺の謎』(一九三二年)を中心に飯城勇三、笠井潔、法月綸太郎らによる、いわゆるギリシア棺論争が繰り広げられた。法月綸太郎は「初期クイーン論」にて、探偵役の推理を誤導すべく偽の手掛かりを作りだす犯人の存在を仮定すると、メタレベルの無限階梯化が生じるため作者の恣意性が介入することを避けられないと主張した*6

『ギリシア棺の謎』の作品構造が、タルスキーのメタ言語のそれと同工異曲のものであることは明らかであって、「論理主義」的な謎解きゲーム空間の構築から必然的に派生したものだといってよい。クイーンの文脈においては、証拠の真偽性の判断が階梯化の契機になっている。しかし、『ギリシア棺の謎』のようなメタ犯人――ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を作り出す犯人、と定義しておく――の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくするものである。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性をも否定できなくなる。これは「作中作」のテクニックと同様、いくらでも拡張しうるが、その結果は単調な同じ手続きのくりかえしにすぎず、ある限度を超えれば、煩わしいだけのものになる。こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系のなかで判断することはできない。ということは、この時点で再び「作者」の恣意性が出現し、しかもそれを避ける方法はないのである。

 この指摘を額面通り受けとって良いだろうか。メタレベルの無限階梯化は、ひとつの手掛かりから無限の解釈を可能にしてしまう。だから、偽の手掛かりを作りだす犯人の存在を仮定してしまうとフェアネスを担保できなくなる、という理解で正しいだろうか。
 現実問題として、さすがに「無限」は修辞的表現に過ぎないだろう。たとえば、登場人物たちが悉く疑いの目を向けられるが、すべての犯行は自然現象のいたずらに過ぎなかったと明らかになる作品があったとしよう。それを評して、時代精神や神が究極の操り犯だった、メタレベルの無限階梯化を実現したなどと形容することはあるかもしれない。だが、それはあくまで比喩に過ぎない。
 次に、偽の犯人を仕立てるという解釈だけを特権視する必然性はあるだろうか。たとえば密室殺人が発生し、施錠された扉の内側にピンセットが落ちていたとしよう。これは密室トリックを仕掛けた犯人が意図せず残したものかもしれないし、そうではなく密室の外部にいた人物を犯人だと思いこませようとした偽の手掛かりかもしれない。可能な解釈は、それだけだろうか。
 そもそもピンセットは誰かの落し物に過ぎないかもしれない。犯人をかばおうとする別の人物が残した偽の手掛かりかもしれない。ミステリマニアであれば、打ち出の小槌を振るがごとく奇抜な解釈を捻りだしてみせるだろう。探偵役の推理を誤導すること以外にも、無限とまではいかなくとも数多くの解釈を捻りだすことができる。
 法月の文章は、形式主義の限界を初期クイーン作品に重ねようとする文脈上にあることに注目してほしい。チェス盤上の駒のごとく、人間を定められたルールに沿って行動する存在とみなす。偽の手掛かり問題は、人間をそのような記号的存在とみなしても、決定不能性を避けられないことに焦点がある。形式主義を貫こうとする態度がむしろ究極の操り犯という観念的な存在を召喚してしまうことを示すため着目したのが偽の手掛かりだった。
 形式主義に代わって、確率論の立場から偽の手掛かり問題を眺めてみよう。扉の前にピンセットが落ちていた。ここから確実に言えることはなんだろうか。ミステリに不慣れな読者でも「犯人を決定するには手掛かりが不足している」と思うだろう。この時点ではさまざまな解釈が成り立ち、誰が犯人なのかは確率的にしか表現できない。
 これは、司会者が善玉なのか悪玉なのか知らされていないパターンのモンティ・ホール問題だ。事件の関係者たちのなかで一人だけが(とは限らないが)邪悪な行動原理を隠している。モンティが悪玉かどうかは、ハズレを選んだときに選択を変えるよう提案してこないことで判断できる。逆に、提案をしてくるときにはモンティが善玉なのか悪玉なのか見分けることはできない。犯人をみつけるには、心理的傾向をひとつに絞りこむ決定的な手掛かりをみつけなければならない。
 それでは形式主義との比較と、確率論の立場から論じることに、なにか差異はあるだろうか。ピンセットひとつから数多くの解釈ができる。手掛かりが増えていけば、すべての手掛かりと整合する解釈は限られてくるだろう。だが、それをたったひとつに絞りこめると断言できるだろうか。
 それは、次の問いへの答え次第だ。ふるまいから心理的傾向は必ず把握できるのか。すべての人が、他者の行動理由をふるまいだけから理解することは可能なのか。この問いへの答えがノーだというなら、確率論の立場からも本格ミステリはフェアネスを担保できないと結論せざるを得ない。
 注意してほしいが、これは文学の問題ではない。人は人と心を通わせあえるか、などという話はしていない。作者と読者の知的遊戯を成立させるために必要な一条件として、心理ではなく心理的傾向を他者が推察することはできるか問うている。
 冒頭に掲げた問いについて答える準備がようやく整ったようだ。ある作品を本格ミステリとして評価するとき、犯人の為した行為を結論するためにはその行為に付随する心理Cを、心理的傾向を描くことを重視しなければならない。だが、心理的傾向と心理とは似て非なるものだ。提示された複数の手掛かりから論理的思考を経て、心理的傾向をひとつに絞りこめるよう配慮されていたなら、謎解きが明らかにする心理Bをくどくどしく叙述する必然性はない。読者は自力で伏線に気づき、その真の意味を悟るだろう。心理Aは欺瞞で構わないし、心理Bはシンプルな答え合わせで構わない。
 結論しよう。本格ミステリは人の心を描くことを蔑ろにして構わない。

 ロアルド・ダール「南から来た男」を読み終えたとき、これは市井の人々が、ままならぬ人生を御そうとするときの、対照的な二つの姿をスケッチした作品ではないかと思った*7。正直に告白すると、それに気づいたのは読み終えた直後ではなく、十年以上が過ぎてからだった。
 プールの端を、初老の男がピョコンピョコンと飛び跳ねるようにしてやってくる。老人は小柄で、歯並がちょっと汚れており、南米のどこかのアクセントで話す。若いアメリカ人が、彼の葉巻にライターで火をつけようとする。老人は、小さな秘密を舌なめずりしながら愉しむようにして、青年に賭を提案する。
 そのライターで十回続けて火をつけることができたなら、キャディラックをあげよう。もしアンタが負けたときには、左手の小指をもらおう。指をもらうって、どうするんです。青年の問いに老人は「ワタシがチョン切る」と答える。
 青年は、賭に乗る。ホテルの正面、老人は車寄せに駐めたキャディラックを指し示す。部屋に移り、メイドに頼んで釘とハンマーと肉切り庖丁を準備させる。こんなことを何回もやってきたように、慣れた手つきで釘をテーブルへ打ちこみ、青年の左手を紐で固定する。
 老人は、いわば狂人だったのかもしれない。確率を支配できると信じる狂人。恐怖を演出し青年を震えあがらせ、自身の勝率を高める。いや、ひょっとすると賭に負けても老人は平気なのかもしれない。運命が決定される刹那を目にすること、それ自体が目的なのかもしれない。青年はライターを点火する。カウントが続けられる。そこへ、怪物がやってくる。老人とは異なる手段で、運命を支配するすべを手に入れた怪物が。
 確率を支配するひとつの手段は、状況を創りあげることだ。誰が賭けに勝とうが負けようが、胴元の懐は暖まる。閉ざされたゲームシステムという名の牢獄で、一喜一憂する者たちを高みから見物すればいい。功利主義を貫く者にとって、あらゆる他者は真っ白な箱のように等価で、平等に無価値だ。割れた窓、破壊された机や椅子にカメラを向け「まるで廃墟のようです!」と叫ぶ。カメラが映しだすのは客観的現実ではなく、誰かの意思に支配された二次元の仮想空間に過ぎないと誰が気づくだろう。
 だが、それは果たして必勝法だろうか。心理的傾向を探ること。カメラの死角に学生たちの姿を探すこと。見えるものをみつめることで視界の外にいる人物をみつめ返すこと。たとえ世界が不条理でも、あるがままを受け容れ、一片すら余さず喰らい尽くす。繰り返し執着し、なぜ私を愛してくれないのだと悲痛な叫びをあげる。確率を乗り越えるもうひとつの手段は、牢獄の壁ごと呑みこむことかもしれない。
 狂人と怪物。視線から逃れようとする者と、視線に追いすがろうとする者たちの悲喜劇として『夏服パースペクティヴ』を読み解いてみよう。

...ここから作品論に入ります...

第三章 そういうふうにできている

 愛を信じた人々と、愛を信じなかった人々の双方から疎まれた心理学者がいる*8。ハリー・ハーロウは、親子や恋人同士の間に結ばれる精神的な深いつながり(愛着)の研究で知られる。アカゲザルの動物実験が残酷すぎるとして、動物の権利運動団体から非難を浴びた。
 研究の歴史的背景を知る者は、皮肉を感じずにいられないだろう。感染症が乳児死亡率を高めることが知られるようになり、二〇世紀初頭には赤ちゃんを無菌状態で保護することが病気予防のための理想とされた。人間行動を研究する当時の心理学者たちも、それを後押しした。
 行動主義心理学の創始者、ジョン・B・ワトソンは、親が子供を抱きしめ、愛撫することはその子を軟弱にし、依存心の強い人間にすると警告した。行動主義では、意識や感情といった内面(内観)は観測不可能なものとして重きを置かない。刺激にどんな反応が生じるか行動を測定することで、心理学を客観的で経験主義的な科学にした。ワトソンは子供を愛情ではなく、適切な条件づけをすべきと訴えた。
 一九五〇年代になっても傾向は変わらなかった。赤ちゃんは母親を愛さず、ただ授乳を求めるだけとされていた。ハーロウはそれを否定するため、二体の代理母を用いた実験を行った。一方は円筒形の身体にミルク入りの哺乳瓶を備えていたが、針金で作られていた。もう一方は小麦色したタオル地の布を巻かれていた。結果は明々白々だった。子ザルは針金の母には見向きもせず、布の母に吸い寄せられた。
 接触による安らぎの必要性を証明したハーロウはこれを皮切りに、アカゲザルの正常な発達に不可欠な条件を探っていく。赤ちゃんの愛を信じなかった行動主義者たちに反論するため実験をしたが、それは後にアカゲザルにも愛があると信じる動物の権利運動団体から批判されることになった。
 ハーロウは正反対の試みもしている。二番目の妻ペギーが死に至る病に冒され、抑うつ状態を経験したハーロウはある装置を設計した。専門用語としては「V字型装置」と名づけられたが、ハーロウはその装置を「絶望の淵」と呼んだ。ピラミッドをひっくり返したような形で、開口部は網で覆われている。装置に入れられたサルは、当然逃げようとして斜面をよじ登る。一瞬だけ外が見えるが、壁が滑りやすいためやがてV字の底へ落ちていく。三、四日で例外なくすべてのサルが異常をきたした。装置に入れられる前は社交的だったサルが、装置を経験した後に元の環境へ戻されても再び絆を結ぶことはできなくなっていた。V字型装置について、いったいなぜ、なんのためにこんなものを使うのかという問いにハーロウは「なぜなら、抑うつ状態にあるときは、こんな感じがするからさ」と述べたという。
 アカゲザルから得られた教訓が、そのまま人間に当てはまるとは限らない。それでも私がこの実験から連想したのは、ジーニと呼ばれた少女のことだった*9。一九七〇年十一月、ロサンゼルスタイムズ紙を「十三歳少女、生まれたときから監禁生活/両親を勾留」という大見出しが飾った。父親は娘を知恵遅れと思いこみ、世間から守ろうとした。幼児用の便座椅子にくくりつけられ、ジーニは手と指、足と爪先以外は動かすことができなかった。家にはテレビもラジオもなく、聴覚的刺激は皆無だった。母親が娘を連れて社会福祉事務所を訪れたとき、十三歳のジーニは発育の悪さから六、七歳に見えた。大小便を垂れ流し、固形の食物を噛むことも、うまく飲みこむことすらできなかった。
 ジーニは言語獲得のしくみを解明する生きた材料として注目された。ノーム・チョムスキーは、人は言語を白紙の状態から学んでいくのではなく、深層の規則を生まれながら身につけていると主張した。脳に内在する普遍的な文法が、環境からの刺激を受けることで、英語や日本語といった特定の言語を獲得するに至る。それでは、特定の年齢まで外的な刺激を与えられなかった子供はどうなるのか。
 監禁状態から救出されたときは二十語以下だった語彙は次第に増え、毎年一歳ずつ知能年齢が上がっていった。だが、統語規則の理解には限界があった。否定文を作ることができず、WHクエスチョンを耳にして理解はできても、自分でそれを口にすることはできなかった。日常の決まり文句さえ身につかなかった。「ハロー」と呼びかけられても「ハロー」と返せず「ありがとう」の意味を理解できなかった。
 その一方で、社会的な交流への意欲は強かった。言葉で表現できない不自由さを補うべく、絵を描いたり、物まねをしたり、さまざまな手段で相手に理解させようとした。非言語的なコミュニケーションに長けており、言葉を使わなくとも欲求や要望や感情を通りがかりの他人にさえ伝えることができた。表現力の弱さや社交スキルの低さは知能と関係せず、そして意志を伝え気持ちを通じあわせたいという衝動の強さとも関係しなかった。

 研究生活がジーニによって形成され、また壊されたこうした人々と会い、はっきり知らされたことは、ジーニとともにすごした時間が彼らの仕事の枠の外に位置づけられ、初恋やわが子の誕生といった、その評価とかかわりなく人生の中心となり定義づけとなるような出来事に数えられていたことだった。ジーニが小さな部屋から彼らの前へあらわれたとき、彼らは科学者らしく、質問をすれば答えをあたえてくれるであろう何者かがあらわれたと考えた。科学者らしく、それらの質問は中立の立場で、外側から、感情を危険にさらすことなく問うことができると考えた。そしてその安全な高みから、アイリーン、クラーク、ジーニという別の人類の、悲しくすさまじい身の上を探ることに乗りだした。しかし観察される者とする者との身の上はいつのまにか混然となり、安全な高みはいつのまにかなくなっていた。結局のところ科学者たちはジーニを小さな部屋から解放してはいなかった。それどころかジーニに小さな部屋へつれこまれ、つれこまれたままとり残されていた。そしてジーニは、辛辣な予言者のように彼らの人生を通り過ぎていった。研究室の間仕切りに鋲止めされた肖像画と、段ボールにあふれる資料と、そして問われることさえなければ、それほど彼らを悩ますこともなかったにちがいない孤独と捕われの身にまつわる疑問だけを残して。

 脳波の測定などから、ジーニは言語を右半球で処理していることが判明した。本来なら言語中枢がある左脳での処理がされないことが、統語規則の理解の限界に結びついていたのかもしれない。これは、人間の脳は外部からの影響によって物理的に形成されることを意味している。脳の組織化そのものは遺伝子によって規定されていても、耳からの刺激がなければ正常に発達せず機能が死んでしまう。
 ずいぶん長い前置きになったが、私はここで「愛は素晴らしい」とポップソングのありふれたフレーズのようなことを謳いたかったわけではない(お望みならワンコーラスくらいは構わないが)。他者とのつながりは、人間にとって生物学レベルで欠かせないことを説明したかった。心の健全な発達どころか、見ること、聞くこと、話すことは、ときに私たちを器質的に造りあげさえする。ハリー・ハーロウが遺した言葉を借りるなら「生き方を学ぶ前に愛し方を学ばなければならない」ということだ。

 第一章では心理C、推理を通じて仮定する心理について述べた。これを、もう少し掘り下げてみよう。事件の関係者たちについて、そのふるまいから心理的傾向を洞察するには、ふたつのアプローチが必要となる。
 ひとつは外延的アプローチ、できる限り多くの手掛かりを集めることだ。ひとつの手掛かりからは、さまざまな解釈ができてしまう。いくつもの手掛かりを集めれば、それらすべてに整合する心理的傾向の候補は絞られていく。
 だが、もしも犯人が探偵役の知る常識や道徳観とはかけ離れた内面を持っていたとしたらどうだろう。いくら手掛かりを集めても、その背景にある法則自体が慮外のものなら、洞察のしようがない。
 そこで必要となるのが内包的アプローチ、相手の心のうちを想像することだ。同じ土俵の相手なら、それは容易だろう。施錠された部屋は何人の侵入も許さないという幻想が共有された文化風土で、トリックを弄せば不可能性を演出できるという心理的傾向を察するのは比較的たやすい。だが、異なる社会状況が背景にある者を理解するとなると簡単にはいかない。馴染のない文化や専門的な科学知識の理解さえ必要になるだろう。探偵役は事件の調査を通じて社会や共同体の人間関係を、その領域における固有のルールを把握する。心理―ふるまい―共同体の相互作用を理解して、ようやく人は他者を思いやることができる。
 外延的であれ内包的であれ、これらのアプローチは本来なら探偵役と事件の関係者たちが認識を重ねるためのものだ。心理Cは心理Bへと収束しなければならない。探偵役は第三者的な立場から、調査を通じて関係者たちの来歴や社会的つながりを知り、人間関係の網の目に加わる。名探偵の鮮やかな推理に観念した犯人は、人の道を外れるに至った心理を切々と語る。個人と共同体、あるいは共同体同士の間に生じた溝はこうして埋められる。
 しかし近年、これらのアプローチが失調していると感じた作品がいくつかある。東野圭吾『容疑者Xの献身』(二〇〇五年)の評価を巡る論争、いわゆるX論争では犯人の人間像が争点のひとつとなった。元夫を殺してしまった花岡靖子と娘の美里のため、アパートの隣人で高校教師の石神哲哉が隠蔽工作を働く。
 見返りを求めずに他者を助けようとする石神の行為を、帯にある惹句「命がけの純愛が生んだ犯罪」と受けとることを複数の者が批判した。たとえば二階堂黎人は「『容疑者Xの献身』は本格か否か」にて「女性に対する石神の一方的な思いは、ストーカーもしくは変態的な気持ちの悪いものであって、けっして純愛などではない」(一七頁)と主張した*10
 なぜ石神が花岡母娘を助けたのか、その動機については終盤で心理描写がされている。誠実な人物が窮乏に陥った隣人のため反社会的行動に走ることはありえるだろう。そのような事件が報道されたとき「ストーカーもしくは変態的な気持ちの悪い」心理から為されたと想像することもおかしくはない。しかし、その人物の直接的な内面に触れても誠実さを認めるべきではないとはどういうことだろう。
 この違和感は青崎有吾『水族館の殺人』(二〇一三年)に、より洗練された形で描かれている。水族館のサメ水槽へ飼育員が落とされる。高校生の裏染天馬は揺るぎない論理によって十一人の容疑者から犯人を特定し、そして論理が教えてくれる以上のことには耳を傾けようとしない。外延的アプローチによって心理的傾向が収束すれば良い、犯人の心理など不要という態度が表明される。
 内包的アプローチのほうはどうか。こちらについては米澤穂信『リカーシブル』(二〇一三年)、十市社『ゴースト≠ノイズ(リダクション)』(二〇一四年)、北山猛邦『オルゴーリェンヌ』(二〇一四年)といった作品が挙げられるだろう。これらの作品では探偵役や視点人物がどのような共同体に所属しているか、社会とどのような関係にあるかが謎解きの在り方と深く結びついている。本格ミステリの結構として真相は提示されるが、読者はある種の精神的断絶を覚えることになる*11
 こういった断絶は『夏服パースペクティヴ』からも感じられる。だが同時に、この断絶が細い通路となるかのような倒錯もあるのではないか。動機を語ろうとしない桐野に、真由はそれを責めることなくただ「これから話すことは状況から導き出した想像でしかないけど、間違っていたら言ってくれる?」(四三九頁)と告げ推理を説明する。これは『水族館の殺人』における裏染天馬と同じ態度に見える。だが桐野は真由の推理が正しいことを認め「わたしは逃げも隠れもしません。裁きも受けます」(四四六頁)と語る。
 第二章では真由のパースペクティヴが語られないことを説明した。虐げられる人々への感情移入の激しさは事件解決への原動力となるが、同時に渉たちとの間に越えられない溝を引く。やや文学的過ぎる解釈かもしれないが、六章の終わりで渉が真由に「現実に打ちのめされたとか?」(二七八頁)と告げられる場面が、二人の間にある断絶を象徴しているのだろう。
 この断絶が解消されることはありえるだろうか。危険を賭して大迫真綾と最期の会話を交わそうとする真由に渉は寄り添う。大迫の顔が水没したとき、呆然とする真由を押しのけて渉は多くの証拠が記録されているカメラを引きあげる。事件後、塞ぎこむことの多くなった秋帆のために渉は恋人のようなふるまいをし、次のように述懐する。

 心の傷はそう簡単には消えないだろう。ただ、真壁梓が設定したセミドキュメントという世界観が、ほんのわずかだが、押し寄せる現実の防波堤になってくれたことは確かだ。

 まるでライトノベルの学園ラブコメじみたラストは、恐らく意図的なものだろう。渉はカメラを引きあげることで、真由の行為をセミドキュメンタリーにしようとしたのかもしれない。真由を観察者ではなく観察対象とすること、世界を呑みこもうとする怪物を呑みこみ、映像の世界へ閉じこめること。渉はそうしたセミドキュメンタリーの手法で断絶を回避した。
 平たく言えば、こういうことだ。あなたが小説の主人公に恋をしたとしよう。ページが擦り切れるほどにその小説を読み返しても、なぜ自分がそれほどまでに主人公に魅了されるのかわからず、やがてあきらめるかもしれない。あるいは、そのうちシリーズ第二作が刊行されて、それを読めばわかるかもしれないと期待することもあるだろう。あきらめた瞬間にそれは断絶となるし、希望を抱き続ければ断絶をとりあえずは回避できる。
 渉も同じだ。大迫を救えなかった真由を、悲劇を味わった名探偵の物語として次回作に期待すること。「僕と樋口の物語は、まだ始まったばかりだということ」(四五九頁)を心に記銘し、渉たちは生き続ける。真壁が『夏服とフリッカー』を製作するために創りあげた状況は、自分にだけ都合の良いものでしかなかったかもしれない。だが、思惑が入り乱れるゲーム的な状況に戯れることで、人は心理をたとえ些細な断片であっても可視化し、共有し、交感する。心理的傾向を丹念にひとつへ収束させていく作業を積み重ねない限り、他者の心に直接触れるすべなどあるはずもない。
 このように渉の意識を変えたのは、間違いなく真由だろう。ブレーキワイヤが抜かれた自転車で秋帆が怪我をしたときには、真由は刑事的な証拠とするためカメラを真壁に向ける。美鈴が殺害されても冷徹に足跡を記録する。なによりbloody‐Mayとしての作品が、真由にとって映像製作が趣味以上のなにかであることを渉に伝えただろう。
 桐野が裁きを受ける決意を口にしたのはなぜだったのか。過去の経緯を知らない以上、真由は桐野に過度な同情をできるはずもない。ただ真由は自分が知りえたことを述べ、そこから足し算も引き算もしなかった。それは、誠実な態度だった。実存と実在を真由は正確に重ねていた。その姿に桐野は心を動かされたのではないか。
 断絶を埋めることはできない。だが、限りなく断絶を狭めていくこと、回避し続けることはできる。そこで断絶をあたかもなかったかのように振る舞えば、人は己の夢想に溺れていくだろう。見ることと見られることを意識しながら、実存と実在を絶えず重ね、更新し拡張し続けること。謎に挑み続けること。それが渉や桐野の心を動かした、真由の生き方だった。

 笠井潔は二〇〇六年六月、花園大学での巽昌章、法月綸太郎との鼎談で、次のように述べた*12。道尾秀介『向日葵の咲かない夏』の謎解きの在り方について問われ、笠井は島田荘司の提唱する「本格ミステリー」が脳科学を客観性の地盤としていることを説明し、それに対して京極夏彦『姑獲鳥の夏』を例に挙げ、第三の波では世界の安定的な基盤が崩れはじめており『向日葵の咲かない夏』はその延長線上にあると答える。

笠井 [略]密室殺人でも何でもいいんですが、不可解な謎は誰にでも通用するやり方で解かれなければいけない。前提として、あなたとわたしの見ている世界が同じであると信じられていなければいけない。ところが世界は、それぞれの人によって全く別に見えている、もっと言えばこの世界は見えているように在るのかどうかも判らないということになれば、はたして探偵小説は成り立ちうるのか。[略]

 巽昌章はこの発言に対し、そのような世界設定の問題は本格ミステリに古くから内在していた。それが第三の波にて顕在化し、初期では操りという形で特権化されたと返している。

 [略]先ほどからの世界設定の問題、それは本当に今、最近になっていきなり生じたものなのかという疑問がちょっとあるんですね。もちろん、顕在化してきたのは最近ですけれど、もともと謎を解く小説の中にそういう不条理感は常につきまとっていたのではないかと。それが第三の波の比較的初期、第一世代では、操りというかたちで特権化されていたのではないか。[略]

 本格ミステリは事件の解明に論理だけではなく、論理の飛躍を必要とする。それは本稿で整理した言葉を用いれば、心理的傾向を特定するには外延的アプローチだけでは想像できない、内包的アプローチを必要とするからだ。第三の波ではそれが認識論的な断絶として顕在化していった。
 前述の通り、このような断絶は『夏服パースペクティヴ』にも当然ある。だが、その断絶は克服されてもいる。ただしその手段は「あなたとわたしの見ている世界が同じであると信じ」ることではなかった。あなたとわたしとが共に参加する世界を創りあげることだった。
 真由は現実をみつめ、拡張現実を構築する。それは理科室の非常口の扉に仕掛けられた、映像ならではの錯視トリックを見抜けなかったことから明らかなように、決して盤石なものではない。相手のたくらみが巧妙なら騙されもする。その代り真由は、あらゆる可能性を執拗に疑うだろう。アンフェアと呼ばれようと思いつく限りの手段を用いて情報をかき集め、やがてトリックに気づくだろう。あきらめを知らない子供のように、何度でも際限なく謎へと食らいつく。
 円堂都司昭が、真由の魅力は「とても目立つ存在なのに、なかなか本当の姿が、本心がわからない」ことだと指摘していたことを思いだしてほしい。確かに真由という人物はつかみがたいところがある。執拗に謎を解き明かそうとする、そのひたむきさが謎めいている。
 だが、私はこう思いたい。真由の魅力はむしろ、誰もが真由のことを知っていることにあると。私たちはかつて、誰もが真由のようだった。アカゲザルの赤ちゃんのように、言葉を奪われたジーニのように、人は生まれつき他者とのつながりを求める。私たちはそういうふうにできている。
 真由のパースペクティヴが明かされないこと、その具体的な事情が明かされないことで、読者はむしろ真由を象徴的な存在として、他者とのつながりを求める普遍的な欲求を体現する者として受け容れることができる。初めのほうで述べたことを、いまここに繰り返そう。識ることと愛することは、深く結びついている。

 第一五回本格ミステリ大賞の候補作を決定する予選会にて、米澤穂信『満願』(二〇一四年)は「小説としての完成度は高いが本格ミステリとは評価しづらい」(四三六頁)として検討対象から外れたという*13
 この決定に異議を唱えたいわけではない。恐らく会議の場では多くの発言があり、活動報告という形に整理するうえで細かなニュアンスは落とされただろう。予選会のあった二〇一五年二月には、とっくに『満願』が第一五一回直木賞候補作に選ばれたり、第二七回山本周五郎賞を受賞していた影響もあっただろう。
 ただ、小説としての完成度と本格ミステリとしての評価を、それぞれ独立した物差しで測れるかどうかについては考えこまざるを得ない。私はそれができないとは思いたくない。しかし、こうして『夏服パースペクティヴ』という作品について考えてきたいま、それはずいぶん難しいことのように思える。
 樋口真由という人物の魅力は、痛ましいほどの姿勢で事件に関わろうとする具体的な経緯が描かれず、それがかえって人間精神の普遍性に到達しているからだ、と私は述べた。これは、小説としての完成度のひとつに数えられるだろうか。真由の姿勢が謎解きと深く関わっている以上、これを純粋な小説技術とみなすことはできないだろう。では、本格ミステリとしての評価点のひとつに、人間を魅力的に描くことを加えてよいのだろうか。仮にそうだとすると、それは小説として人間を魅力的に描くことと決定的になにが違うのか。
 叙述トリックの基本的な技術は、言い落しとダブルミーニングだ。この技術を用いれば、女性の登場人物を男性にみせかけることができるし、チョコレートケーキをショートケーキと勘違いさせることもできる。だが、性別誤認トリックと、ケーキの誤認トリックでは真相が明かされたとき読者に与える印象はまるで違うだろう。
 本格ミステリとは言い落としやダブルミーニングのような基本技術とその応用に過ぎない、その技術の巧拙や進化を評価すればよい、という見方も有りえるだろう。ただ、技術にはなにが可能なのか、本格ミステリにはなにが可能なのかという問いについて考えるなら、人と人とのつながりや、人々をとりまく社会や文化、世の中の移ろいにも目を向けざるを得ない。
 それは論理遊戯にかまけていずに文学的価値にも目をむけろ、ということではない。本格ミステリをあまりにも観念的に理想化し、評価基準を硬直させてしまうことが、むしろ本格から広がりを奪い、可能性の芽を摘み取ってしまうのではないかという危惧だ。私は、本格ミステリには怪物の愛をも描きうる力があると信じている。たとえそれをみつめることが、どれだけつらいことであっても。
 聞こえるだろうか、怪物の声が。あれは私がとうに忘れ去った物心つく頃の、孤独に耐えかねて忍び泣いていたときの声だろうか。痛ましい現実をみつめることはできなくとも、夢のなかでなら人はそれに耳を傾けることができるのかもしれない。