《解説》

CRITICA第9号

 評論「目覚めのための子守歌」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第9号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 構成は以下の通りです。

  • 第一章 結節点としての人間
  • 第二章 世界で最小の共同体
  • 第三章 現実逃避の質の変容

 米澤穂信『リカーシブル』に描かれた多元的な世界観を手がかりとして、国内本格ミステリシーンとゼロ年代後半からの文化状況との共振について概観します。
 第一章では、客観的現実と内面との齟齬に直面した人々が、自身の置かれた状況を多義的な、量子力学における重ね合わせ状態のように捉えることについて解説します。
 それを踏まえて第二章では、米澤穂信『リカーシブル』における人物描写や謎解きを詳読し、文脈横断的な判断力との関係を見ていきます。
 第三章では、状況を多義的に捉える想像力が、近年のSFやポスト・セカイ系、ネット文化、ソーシャル化といった広範な文化状況の潮流として現れていることを紹介します。
 以下「目覚めのための子守歌」の第一章と第三章を公開します。一部、作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

第一章 結節点としての人間

 一九二〇年代の中頃、モスクワ心理学研究所を訪れた男性が奇妙な訴えをした*1。ラトビア生まれのユダヤ人で、当時は新聞記者だった彼は、訪ねていく場所やそこで何を知るべきかデスクに毎朝指示を与えられた。ところが、それらの指令を一言も書き留めない。不注意だと思ったデスクに、部下は課せられたことをすべて正確に反復してみせた。驚いたデスクの勧めで、記憶力を調べてもらいに来たのだという。
 後にモスクワ大学教授となる心理学者のA.R.ルリヤは、シィーと呼ぶ男の驚異的な記憶力について三十年もの長きに渡り調査した。読み聴かされた数十個の語や数字の系列をシィーは誤りなく記憶し、逆順で暗唱することもできた。数週間、数カ月、それどころか十年以上も前に記憶した系列さえ思いだすことができた。
 超人的な記憶能力者は他にも存在する。だが、忘却が生じない人物は文字通り空前絶後だった。シィーには強大な記憶力を支える二つの特徴があった。ひとつは共感覚。音を聴くと水蒸気の雲や水煙といった多様な視覚像を引き起こした。数字の3は先の尖った切片で回転するというふうに、記号にさえ聴覚、触覚、味覚が伴った。
 もうひとつの特徴は直観像だ。過去に目にした事物を想起するときの視覚的記憶映像が、常人より鮮明かつ安定していた。シィーは与えられた語から共感覚により具体的事物を連想し、生まれた都市の通りや中庭にそれらの像を配置した。数列を思いだすときには頭の中を散歩し、街路に散らばる像を語に戻せばよかった。
 目の前に存在しない光景をありありと想起する能力は、思わぬ効果を生んだ。シィーは心臓の働きや体温を意志の力だけでコントロールできた。汽車を追いかける場面を想像すれば脈拍が早まり、氷を握りしめていると想像すれば左手の体温は一度五分下がった。子供の頃、もう少し眠っていたいと願ったシィーは時計が七時半を指しているのを目にしたという。母親にもうすぐ九時になるとたしなめられても、彼は依然として「七時半を指す時計」を目にし続けた。
 まるで「記憶の人、フネス」を想起させる逸話だ*2。さすがボルヘスは「しかし、彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは、さまざまな相違を忘れること、一般化すること、抽象化することである」(一六〇頁)と卓見を残している。シィーも、ひとつひとつの語に具体的な表象が思い浮かんでしまい、抽象的概念の理解が困難だったという。
 なにかが欠けていたり、逆に過剰だったりした人々の逸話は、我々自身が何者なのかを教えてくれる。日常的に経験する現実は頼りないものだ。ホワイトボードの文字が消されれば、わずか数分前のことでも書かれていたことを思いだせない。目を閉じて歩けば、すぐに転んで足をくじく。現実とは絶え間なく消えゆくもの、五感を通じて認識を外部から供給し続けなければ、たちまち枯れ果ててしまうものだ。
 あるいはこう言い換えても良いかもしれない。人間存在とは情報が行き渡る社会を構成するハブ、結節点に過ぎないのだと。どこかへつなぎかえれば、一瞬にして新しいバイト列に満たされ、その人にとっての現実など容易に書き換えられてしまう。人間は魂を有しているかのようで、本当は世の中に情報を隈なく行き渡らせるための透明なチューブに過ぎない。そんなふうに私が真顔で語りだしたなら、あなたはどう感じるだろうか。

 屍体がみつかる。嵐の海に包囲された孤島で。ピアノの旋律が鳴りやまない真夜中の音楽室で。交番から白髪頭の警察官が駆けつける。宿泊客の一人が思いがけず死後硬直と死亡推定時刻との関係について滔々と語りだす。被害者の家族が、友人が、仕事仲間たちが、一人ずつ昨夜の行動を証言していく。深夜の銃声、第二の事件。めくるめく非日常の時が過ぎていく。
 くどくどしく述べるまでもないが、ミステリはお伽噺だ。分単位の精度でアリバイ工作を計画したり、前代未聞の密室トリックが天啓のごとく閃く瞬間を待ち受ける犯罪者などいない。他方で、ミステリが文学的可能性を模索し続けたジャンルであるのも確かだ。それは社会派のようにリアリティを追及する動きだけではない。ミステリを論理的解決という知的快楽を享受するための娯楽と定義するなら、探偵役は謎を確実に解きうるだろうかなどと作者が悩むのはナンセンスだろう。後期クイーン問題とは虚構を虚構と割り切れず、たかが活字の連なりに自己を投影してしまう青臭い病だ。
 探偵役を触媒とした化学反応が、日常と非日常との狭間に曲がりくねった隘路を形成する。このようなミステリ観は、決して私の独創ではない。法月綸太郎は、都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』の解説とその補足「『黄色い部屋はいかに改装されたか?』について、もう少し」で次のように述べている*3
 戦後の国産推理小説界は六〇年代後半、拡散と浸透による地位向上と引き替えにジャンルの求心性を失った。「現状追認的な犯罪小説と復古的なトリック小説が『野合』する動きが目立ってきたことに、都筑は苛立ちを募らせ」(二六七頁)不合理な謎を論理によって解き明かしていくモダーン・デティクティブ・ストーリイ論を提唱する。
 しかし、ロジックを至上とすることには危うさがある。若き日の都筑が師事した大坪砂男の作風を踏まえて「『探偵という人間』を必要としない、『論理を推めること』に特化した『推理』小説は、ジャンル小説としてのアクチュアリティを失って、先細りしてしまう危険を秘めている」(二七七頁)ことに都筑は気づき、それがシリーズ名探偵の起用という古風な主張につながったのではないか。

 当たり前のことですが、デュパンがシリーズ名探偵になったのは「モルグ街の殺人」ではなく、二作目の「マリー・ロジェ」が書かれた時です。これは犯罪実話(メアリー・ロジャース事件)を小説化した作品で、もしデュパンが登場しなければ、新聞記事を分析・再構成したルポルタージュもどきになっていたでしょう。それでは「モルグ街の殺人」以前の状態に逆戻りです。新聞や一般読者も含めた「警察機構全部が名探偵役を果たしている」状況を、デュパンという個人に集約することがポーの狙いだったとすれば、そうしたインターフェイス機能(=MC)とシリーズ名探偵の発生が表裏一体であることが見えてきます。

 探偵役は、ひとつの信念体系の内部に安住しない。此岸と彼岸を橋渡しするシャーマンのように、読者にとって身近な日常と、愛憎が渦巻く犯罪実話の世界を繋げる役割を果たす。本稿は、社会の結節点としての人間像を通して米澤穂信『リカーシブル』を読み解く。それにより、複数の文脈を横断しながら不条理と向きあう、現代国内ミステリの特徴のひとつを浮き彫りにしたい。
 第一章では、不条理に直面した人々の心理を踏まえて、結節点としての人間像について前提となるイメージを共有する。それを踏まえた上で、第二章では『リカーシブル』における人物描写や謎解きを詳読しよう。第三章では、SFやネット文化といったジャンル外での動きを紹介し、それが本格ミステリシーンとどのように関わるのか考察を述べる。
 それではまず、不条理との遭遇から語ろう。この世界はすべてが一元的な原理に支配されているのか、それとも無数のビット列の集合に過ぎないのか。永遠に答えの無い問いに人々が答えようとするとき、その内面と言動にはどのような影響が生じるのか。

 ミネソタ州、レイクシティの町に住む主婦、マリアン・キーチはサナンダという宇宙人から数多くのメッセージを受け取った*4。自動書記によって綴られたその内容は恐るべきもので、空飛ぶ円盤の飛来や地球的規模の大災害が予言されていた。一九五四年十二月二十一日の深夜に洪水が起こる。新聞に掲載された予言にミネソタ大学の心理学者、レオン・フェスティンガーは興味を抱いた。予言が外れ、洪水が起こらなければ、カルト集団に属する人々はどうするのか。否定しようのない矛盾を突きつけられた人々は、誤った信念を捨て去るだろうか。
 フェスティンガーは何人かの観察者を募り、キーチ夫人の集まりに入会させ、データを収集した。ある医学博士は、非正統的な宗教的信念を教えたことで大学における保健サービスのスタッフの地位を失った。勉強することを止め、落第しそうな学生がいた。工場の仕事を辞め、禁酒禁煙や菜食主義の努力を周囲に嘲笑われ、息子の楽しみを奪わぬよう三週間も前にクリスマスプレゼントを贈った母親がいた。予言の日、キーチ夫人の家に集まったメンバーは十二時が来るのを待った。
 無論、真夜中が過ぎても、なにも起こりはしなかった。午前四時四十五分頃、キーチ夫人は全員を居間に召集し、大洪水は取り消されたことを伝えた。私たちの小さな集まりが大いなる光を放ったことによって、神がこの世を破壊から救ってくれた。予言の失敗に直面したメンバーの十一人中、比較的コミットの少なかった二名がキーチ夫人への信頼を完全に放棄したが、残りのメンバーはそうではなかった。
 予言が外れることで、かえって宗教的信念が強固になる。G・K・チェスタトンの作品を連想させる奇妙な逆説は、なぜ生じるのか。複数の認知要素が矛盾し、心理的に不快な状態のとき、認知を変化させ不協和を低減させようとする現象を、心理学では認知的不協和と呼んでいる。
 有害性が科学的に証明されている事実がありながら、喫煙の習慣を続けている人がいたとしよう。その人は、煙草のパッケージに記された、健康を損なう可能性がある旨の注意書きから目を逸らそうとするかもしれない。それで足りなければ、身体に悪いものは煙草に限らず世の中にいくらでもあるのだからたいしたことはない、と有害性を軽視する。あるいは逆に、喫煙はストレスを発散しリラックスさせてくれると、長所のほうを過度に重視するようになる。
 同じことが、キーチ夫人の宗教グループにも起きたと考えられる。家財を売り払ったり職を放棄したり、それまでのコミットが大きければ大きいほど、信念を否定することが困難になる。同じ信念を抱く人を増やし、共同主観を事実上の「客観的事実」に近づけるべく、布教活動が活発化する。
 常識からすれば奇妙に感じられる、行動と信念との関係をフェスティンガーの研究は優雅に説明した。ある被験者には二十ドルで、別の被験者には一ドルで嘘をついてもらった。すると、一ドルしか支払わなった被験者のほうがむしろ、嘘の内容を信じていると実験後に語る率が高まったという。報酬が安かったからこそ、その安い報酬のために嘘をついた自分を正当化したいという動機が強まった。
 朝鮮戦争では、中国で多くのアメリカ人捕虜が共産主義者に変貌した。後に明らかになった洗脳手法は、恐ろしい薬物でも拷問でもなかった。ただ一握りの米やキャンデーを報酬として反米的な文章を綴らせただけだったという。信じてもいないことを書かせられたという屈辱を合理的に解決すべく、捕虜たちは信念のほうを捻じ曲げた。行動が信念を上書きしたわけだ。

 休日の夕暮れ、あなたは公園のベンチに座っている。隣には男性が腰掛けている。知人といえば知人だが、素性はよく知らない。友人の結婚式の二次会で雑談を交わしたことがあるだけだ。数分前に偶然再会し、おたがいの住居がそれほど離れていないと知った。あの床屋の横にある路地、うまい定食屋があるんですよ。へえ、そうなんですか。さっきから、ありふれた会話を続けている。
 知人は時折、指でコインを弾いている。外国の硬貨なのか、魔方陣にも似た図形が描かれている。膝に置かれた手から、コインは垂直に上昇し、男のこめかみの高さまで跳ね上がった。さっきから視線は一度もコインのほうを向こうとしない。うまいもんですね、会話が途切れた瞬間に話しかける。ああ、これね。男はコインを広げた掌にのせ、しばらく黙考するようだった。
 沈黙が続き、あなたが堪らず唇を開きかけたとき、ぴんっと乾いた音がした。空中で回転するコイン。茜色の陽光を反射しながら上昇し、力尽き、重力に引かれ、そして手の甲へ落ちる。もう片方の手が、それをさっと覆い隠す。表か、裏か。逆光に翳る知人の顔は、表情が判然としない。不意にあなたは、この知人の名前をまだ教えてもらっていないことに気づく。
 理性的であることと、合理的であることの違いを問われて、即座に答えられる者は少ないだろう。外れた予言への反応や、安上がりの洗脳手段は、人間は理性的な存在ではなく、合理的な存在であることを教えてくれる。目前で起きていることをあるがままに捉えるのではなく、なんらかの体系にあてはめ、一貫性のある解釈をせずにはいられない。
 公園で出会った知人が、コインを投げる。何度も、何度もコインを投げる。あなたは勝ったり負けたりしているが、それはたいしたことではない。なにも賭けておらず、損はないのだから。ただひとつ、おかしなことがある。さっきから、コインは表しかでていない。次第に夕闇が濃くなっていく。これで確か、九回連続して表がでているはずだ。おかしな仕掛けがないか、さっき確めさせてもらった。表と裏で明らかに図は異なり、あなたが投げてみると表がでたり裏がでたりした。投げ方にコツがあるんですか。コインを返しながら問いかけても、男は黙ったままだった。再び跳ね上がるコイン。宙で回転し、吸い寄せられるように男の手の甲へ。コインに覆いかぶさる手が、ゆっくりと離れていく。
 あなたがもし、次にコインが裏になる確率が、表になる確率より高くなると考えたなら、それは誤っている。コインの裏がでる確率は常に二分の一。たとえ千回続けて表がでていたとしても変わらない。ゾロ目という無意味な偶然の一致に、人は意味を求めてしまう。それが「十回続けて表がでる」ことを特別視させ「九回続けて表がでて、十回目に裏がでる」確率と等しいことを忘れさせてしまう。人は理性ではなく、合理によって物事を捉える。
 次に生じる感情は、懐疑だろう。この知人はいったい誰なのか、あなたと再会したのは本当に偶然なのか。結婚式に参加した友人がプロマジシャンに頼み、あなたをからかおうと悪巧みしているのか。それとも目の前にいるのは悪辣な詐欺師で、大掛かりな犯罪計画にでも巻きこまれようとしているのか。夜の闇に包まれた公園に、天空から青白い光が射しこむ。コイン投げの男は宙に浮きあがり、光り輝く円盤へと吸いこまれていく。あなたはキーチ夫人のごとく、宇宙人にピックアップされる日を心待ちにするようになるだろうか。
 それは人さまざまだろう。あなたは恐らく、一夜明ければ昨夕の出来事はすべて夢だった、コイン投げの男など実在しなかったと、ごく当然の判断をするのではないか。二十世紀の末、オウム真理教などの新新宗教に魅了された若者は多かったが、すべての若者がそうなったわけではなかった。そこには、なんらかの個人的な資質が関係している。インドで地震と地滑りが起きた際の流言についてフェスティンガーが研究したところ、被害が比較的小さかった地域では近い将来にまた災害が起こり、今度こそ壊滅的な被害がもたらされるという流言が生じた。だが、すでに壊滅的な被害を受けた地域とその周辺では、そのような流言はみられなかった。現実の被害を目の当たりにしていない、形のない怖れだけが宙に浮き、不安を抱える人々のほうが、終末論的な予言を強く信じる傾向にあるという。
 あるいは、真逆に捉えてみよう。予言が外れたとき、キーチ家に集まった人々は、自分たちこそが洪水を阻止したと解釈した。信念体系の枠内で、否定できない現実を肯定できる現実に解釈しなおした。私たち常識人もまた同じように、ありありとした不可能を目にしても、それを日常の裂け目などとは早とちりしない。私は先程、一夜明ければすべて夢だったと思うに違いないと述べた。あなたはそれを、すんなりと受け容れはしなかっただろうか。あなたの判断はキーチ夫人たちが下した判断と、本質的になにが異なるのだろうか。

 全知全能の神は、一足す一という数式に答えられるだろうか。少なくとも、赤ちゃんは答えを知っているようだ*5。一九九二年にアメリカの研究者、カレン・ウィンは生後五ヶ月の赤ちゃんを実験協力者とした研究論文を「ネイチャー」誌に発表した。
 壇上におもちゃを一つ置く。スクリーンによって、おもちゃは隠される。第二のおもちゃが足される。スクリーンが除かれたとき、当然そこには二つのおもちゃがある。おもちゃを一つ、隠し扉を通じてこっそり取り除くと、赤ちゃんが壇上を注視する時間が長くなったという。一足す一は二になるはずが、一つしかないことに驚いたわけだ。
 恐らく、あなたは赤ちゃんほどには驚いていないだろう。生後五ヶ月とはいえ、その程度の能力ならあって当然ではないかと。だが次の実験結果は直感に反しているかもしれない。
 スクリーンの向こう側から、赤いトラックのおもちゃと緑色のボールが交互に現れる。スクリーンの右端からトラックが鼻先を見せ、それが引っ込んだかと思うと左端からボールがでてくる、そんな感じだ。大人なら、スクリーンが取り除かれると二つのおもちゃがあると期待するだろう。十ヶ月齢の赤ちゃんは確かに、おもちゃが二つでも驚かない。ところが、一つだけになっていても驚かなかったという。
 まったく色や形が異なるにも関わらず、赤ちゃんは物体のとる軌跡のほうを重視する。ミステリ読者ならば、変装の巧みな怪盗が様々な人物に成りすますことを知っているだろう。それは虚構の中だけにせよ、身近な物体が角度によって見え方が変わるのはよくあることだ。大人であれば、さすがに赤いトラックが緑色のボールへ変わることなどありえないと後天的な学習から知っている。しかし赤ちゃんは、そんな早とちりをしない。幼い目は現実をありのままに捉え、大人のように合理的判断を急ぎはしない。
 リスが二匹いる。そこへ三匹のリスがやってくる。いま、リスは何匹いるだろうか。答えは当然五匹だ。では、二匹のリスがいるところへ、三頭のクジラが泳いできたならばどうだろう。
 もちろん、そこで足し算などするはずがない。足し算は同じもの同士を対象とする。それを踏まえると、全知全能の神は一足す一という数式に答えられないかもしれない。なぜなら、原子や素粒子といった、物体の根元を為す最小レベルまで瞬時に認識する神には「同じもの」という抽象概念が無いからだ。人間がリスとクジラをかけ離れたもの、足し算の対象として一括りにはできない差異があると判断するように、神はすべてのリスを固有の存在とみなす。
 裏返せば、知覚が有限だからこそ、人は論理操作が可能になる。リスが二匹いる。三匹のリスがやってきた。リスは五匹になったと思うかもしれない。だが、妊娠しているリスがいたとしたらどうだろう。そんな可能性をいちいち疑ってしまったら、足し算などできない。そう、その通りだ。トラックのおもちゃがボールへ転じることなどないという思い込みが、黒々とした不可知領域の穴から無自覚に目を逸らす知的怠慢が、日々の何気ない生活を可能にしている。論理は弱者の武器だ。名探偵は全知の存在から甚だしくかけ離れた卑小な存在だからこそ、長々しい理屈に頼らなければならない。

 すべての人は、世界とはこのようなものであるという信念体系を抱いている。認知的不協和のエピソードは、自分で自分を律することができない心の弱さや愚かしさに溺れる、極めて一部の人だけを指すように感じるかもしれない。しかし赤ちゃんの数覚に関する実験結果が示すように、そもそも人は日常生活のあらゆる局面において、充分な検証がされていなくとも合理的判断のための体系を無自覚に適用する不合理な存在、いや、過剰に合理的な存在だ。
 なにが正しく、なにが間違っているのか。より広範な状況では不合理と合理は容易に転じる。二〇一一年、東日本大震災の影響で津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所がメルトダウンした。オカルティズムが関与する余地など毛筋も無い、科学技術の粋である発電技術にさえ深い疑念が宿った。言うまでもないが、取るに足らないミステリ評論にエネルギー政策の是非について有効な提言などできない。私はあなたに私の神を信じてもらいたいのではない。神を信じる者が実在することは否定できないこと、そしてあなたも別の名前の神を信じているかもしれないことを理解してほしい。
 不条理という言葉の辞書的な意味や、文学的修辞として使われるときの意味はさまざまだろう。ここでは、個人や共同体が強固な信念として、あるいは半ば無意識に抱いている世界像と現実との相克を指すものとしよう。
 人は五感を通じて外界を認識し、心のうちに世界とはどのようなものかモデルを構築する。だが記憶能力者シィーのように、膨大な認識の細部をそのまま脳内に保持および再生することはできない。それは抽象化され、経験によって余分な情報を削ぎ落とされる。客観的事実の集合としての世界と、心のうちにあるセカイとが一致し続けるはずもない。世界とセカイとの隔たりが無視できないほど大きくなったとき、なにが起こるのか。
 幼子や狂人のように、不都合な現実の一切を忘却し否認するわけにはいかない。自分が置かれている状況はなんなのか、正確な文脈を読み取ろうとする。驚き、とまどい、懐疑、否定。量子力学では、粒子の位置と運動量を同時には確定できず、確率的な記述しかできない状態を「重ね合わせ状態」と呼ぶ。コイン投げの男は、知人にも、マジシャンにも、詐欺師にも、宇宙人にも、非実在にさえも転じかねない重ね合わせ状態にある。そこではあなたが何者であり、男とどのような関係にあるのか、解釈によって状況は動的に変貌する。主観と客観、実存と本質、小状況と大状況は相互に影響し、彼我を断絶する境界など存在しない。あなたは社会という巨大な生き物の血管となり、血の代わりに情報を循環させる。
 認識には絶えず不可知の穴が開いている。外界から身の内に流れこむ情報を、万物理論のごとき根源的な法則から生じるビット列と捉え、あらゆる事物が言語と一対一で関連付けられると信じるならば、言語の限界は世界の限界に等しいとみなし、語りえぬことは沈黙して良しとすることができるだろう。しかし、そうではないならば。眼前の不条理から目を背けることができないならば。後期ヴィトゲンシュタインを学ばずとも、人は言語ゲームに参加せざるを得ない。あなたはそこで終わりなき解釈の無限撤退を続けるのか。それとも探偵となり、赤子のごとき眼差しで世界をみつめるのか。

...ここから作品論に入ります...

第三章 現実逃避の質の変容

 一九五四年八月一日、マリアン・キーチとその同行者たちは陸軍の航空基地、リヨンズフィールドを訪れた。外宇宙から飛来した船がそこへ着陸するというメッセージをキーチ夫人は一週間ほど前にサナンダから受けた。世紀の瞬間に立ち会おうとする円盤狂いたちがハイウェイに押し寄せ交通渋滞を引き起こさぬよう、このメッセージが広まることを夫人は望まなかったが、自動書記の内容をタイプしていた友人のオフィスを通じて知り合いたちに伝わってしまった。
 一行は、太陽の直視を避けるための偏光板を通して空を見上げていた。そこへ見知らぬ男がいつの間にか近づいていた。奇妙な目つき、ぎこちない身のこなし。婦人の一人が、気をつけなさい、あの男は気違いよと囁いた。なぜかキーチ夫人は好奇心と共感を覚え、サンドイッチとフルーツジュースを差しだした。男が丁寧にそれを断ると、彼女は代わりにスイカをあげようと車へ取りに行った。しかし車にたどり着き振り返ると、男の姿は消えていた。
 それから二時間が経過しても円盤が現れることはなく、失意のうちに一行は解散した。しかしキーチ夫人が同行者たちの一部に話しかけると、道端で何かが起きたことには同意した。翌朝、夫人の鉛筆は、あの見知らぬ男こそがサナンダだったというメッセージを綴った。
 十二月二十一日、予言の大失敗をきっかけにキーチ夫人たちはそれまでのマスコミへの冷ややかな態度を改めた。主要ニュースサービス機関とローカル新聞社に電話をし、一日のうちにラジオ放送のためのテープ録音を五回行った。クリスマスイブの夕方六時には、新聞社を通じて発せられた招待におよそ二百人の人々がキーチ家の前の通りに集まった。
 クリスマス・キャロルが歌われ、円盤にピックアップされるときをおよそ二十分にわたって待ち続けたが、それは実現しなかった。後に主要メンバーの一人がインタビューで、群衆の中に宇宙人が居たと語った。ヘルメットと白いガウンを身につけたその姿は、信者ではない者たちにはわからなかった。野次馬がパニックを起こすことを恐れ、宇宙人たちは円盤の着陸を中止させたのだという。
 人は不合理な存在だから狂うのではない。世の不条理を嘆き、なおも合理的であり続けようとするがために狂う。だが、神が与えた試練を乗り越えることで、その狂気の質は変容するのかもしれない。予言が外れたことで、キーチ夫人とその信奉者たちはむしろ秘密主義的な態度を改め、広報活動に熱心になり、来るはずのなかったクリスマスイブを共に祝いさえした。この過程には『リカーシブル』と同じ特徴が見受けられる。状況を再解釈し、自身が置かれた文脈を探り、あってほしい可能性とありえたかもしれない可能性とを混同する。それは同時に、異なる文脈に属する者たちが交錯する領域が生じるときでもある。
 それにしても、キーチ夫人たちが幻視した光景はなんと魅惑的なことだろう。炎天下のハイウェイに陽炎のごとく現れ消えた男。クリスマスイブの夕暮れ、キャロルの歌声に包まれる群衆の一人となった不可視の神。世界とセカイの狭間を、人間のようで人間ではないモノがさまよっている。

 人間のようなモノは、いたるところをさまよっているらしい。それは例えば、マディバ・タワーから夕立のように降り注ぐ少女たちの姿をしている。第一四九回直木賞候補作となった宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』*6は日本製のホビーロボット〈DX9〉を媒介とした五つの短編を収めている。
 各短編のタイトルは「[都市名]の[名詞]たち」というフォーマットで統一されている。表題作の「天使」は、社員たちが国外待避したためマディバ・タワーからの無意味な落下試験を日々続ける、DX9のプリプロダクト品を指すのだろう。戦災孤児のスティーブはその一体に意識があると気づき、救出しようとする。礼拝を終えて教会を出るや否や、赤十字の車を襲う計画について仲間と話しあうスティーブは「信仰を決めるのは、一人ひとりの内面ではないのかもしれないな。場所であり、座標なのだ」(二〇頁)と悟る。
 最後の「北東京の子供たち」の「子供」は人間を指すのだろう。十四歳のせいは、幼なじみの璃乃りのの母親が、DX9にジャックインして催眠状態で過ごす合法ドラッグに依存していると知る。団地の屋上から地面へ落下し、再び屋上へ戻るDX9の循環を、誠たちは止めようとする。
 循環を阻止した後、璃乃は「わたしたちはフレーム問題に陥らない。なぜなら、機械ほど頭がよくないから」(二五一頁)と云う。フレーム問題とは、目的達成に伴う副次的問題を人工知能にどこまで判断させるべきかという問題だ。リスが二匹いる。そこへ三匹のリスがやってきたなら、合計何匹か。リスが妊娠していたらなどと無用のことまで考えだすときりがない。状況に沿った合理的判断ができるからこそ、世界とセカイの隙間は埋まらず、人と人は理解しあえない。なるほど、どうやら人間は「機械ほど頭がよくない」らしい。
 三番目の「ジャララバードの兵士たち」では、DX9がパシュトゥン人のゲリラ勢力によって改造され、砂漠の死の天使と呼ばれる兵士となる。「兵士」は人間とDX9の両方を指すのだろう。タイトルの名詞部分が、DX9から人間へ徐々に変わっている。解釈の揺らぎ、ループと自己参照、異なる文脈の交錯。キーチ夫人のエピソードや『リカーシブル』と共通するキーワードをここにも見出すことができる。
 もちろん、違いもある。タマナヒメは再解釈に応じて物理的実体も変わるが、DX9はそうではない。人格の転写といった近未来技術がDX9を人間に近い存在とする。謎の提示と解決という垂直方向のプロットを重視するミステリ、設定の整合性という水平方向に重きを置くSF、ジャンル間の差異を反映しているようで興味深い。
 共通しているのは、理性や自由意志への疑義だろう。内面ではなく座標によって、共同体に接続するや否や空っぽのチューブに情報が満たされ、正常な思考判断を失い循環を繰り返してしまう。そんな人間観が共通している。
 視野を『ヨハネスブルグの天使たち』からジャンル全体へと広げてみよう。九〇年代は「SF冬の時代」と呼ばれ、狭義のジャンルSFからは商業的成功作が生まれにくい状況が続いていた。しかし二〇〇二年四月にはハヤカワSFシリーズJコレクションが開始、二〇〇三年五月からハヤカワ文庫JA刊行作品にキャッチコピー「次世代型作家のリアル・フィクション」が帯に使用され、若い世代の作家が積極的に起用された。
 伊藤計劃は、第七回小松左京賞最終候補となった『虐殺器官』がJコレクションから二〇〇七年に刊行されデビューした。二〇〇九年三月に早逝したが、その前年に刊行した『ハーモニー』は第四〇回星雲賞(日本長編部門)、第三〇回日本SF大賞、フィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞した。「道化師の蝶」で第一四六回芥川賞を受賞した円城塔が伊藤の遺稿を書き継いだ『屍者の帝国』が二〇一二年八月に刊行され、『S-Fマガジン』(早川書房)二〇一二年十一月号では「日本SFの夏」特集が組まれた。
 伊藤の作品は商業的にも成功し、二〇一四年三月には『虐殺器官』『ハーモニー』の劇場アニメ化が発表された。活況を呈す近年の国内SFにはどのような特質があるのか。『ポストヒューマニティーズ』の序論にて、藤田直哉は次のように説明している*7
 ポストヒューマンとは、生身の身体を捨てサイボーグ化したり、電脳空間に移住するなどして、死を喪失し不滅の存在となるなど、技術的特異点を越えた人間以上の存在を指す。英米ではポストヒューマンが、キリスト教の思想を背景とし、多幸感に満ちた存在として描かれる。それに対し日本では、意識を消失しコミュニケーションに溶けこむような主体、日本特有のキャラクター文化を背景とし、自己とキャラクターの関係が融解した存在として描かれる。伊藤計劃以後、国内SFに生じている活況は〈日本的ポストヒューマン〉の主題系を巡っているという。
 岡和田晃は「『伊藤計劃以後』と『継承』の問題」にて〈伊藤計劃以後〉の規範を、伊藤作品の表層的な特徴、すなわち世界規模の政治経済状況をリアルかつシリアスに描くことにではなく、高度資本主義によって個人の生が包摂される状況への批評的意識を抱くこと、そしてその上でいかなる倫理を保持すべきか問うことに求めた。

 先行者の仕事へ的確な参照を加えることで「世代」間の断絶を克服した書き手であること。「物語」が懐胎する暴力性について――とりわけSFが主題とする科学との関係について――自覚的な書き手であること。言語、「例外状態」、そして身体の問題について、サイバーパンク以降の成果をふまえ、的確な批評的視座を加えた書き手であること。「伊藤計劃以後」を考えるうえでは、こうした条件を、最低限の規範として挙げることができるが、それ以上に重要なのは、「伊藤計劃」という固有名が表象した《生》の様式を把捉することだ。それは高度資本主義の実質的な包摂のなかでいかなる倫理を保持するか、という問題をも意味している。[略]

 岡和田の文章や〈日本的ポストヒューマン〉は、狭義のジャンルSFの外部にも広く通じるかもしれない。九〇年代後半から主に若者向けサブカルチャー作品の一部に共通する特質が注目され〈セカイ系〉と呼ばれた*8。学校生活や恋愛といった卑近な小状況に、世界の破滅や国家同士の争いといった大状況とが直接介入し、中間項が描かれない。近年のポスト・セカイ系とでも呼ぶべき作品群は、少数の個人が世界の命運を左右する点は同じでも、無視できない違いを感じる。
 一例として、二〇一四年六月現在も『別冊少年マガジン』(講談社)で連載されている少年マンガ『進撃の巨人』を挙げよう*9。謎めいた巨人たちによって人類は捕食の対象となり、滅亡の危機に瀕していた。三重の強固な壁を築き百年以上に渡る安寧を保った人々は、いつしか壁の中で暮らすことに慣れてしまっていた。壁外で巨人の生態を探ろうとするも成果を上げることのできない調査兵団に、侮蔑の眼差しさえ向けるようになっていた。
 主人公のエレンは、人間が壁の中で怯える生活を強いられている現状を問題視し、巨人を駆逐することを誓う。エレンを幼少から見守ってきた人物、ハンネスは「おれは…あの日常にちじょうきだ…エレンにわせりゃそんなもんはまやかしの平和へいわだったのかもしれんが…」(第一一巻 第四五話 一三〇頁)と語る。エレンは常に、人類の名誉を回復するという大状況を志向し、第一二巻の第五〇話に至るまで小状況を鑑みない。
 調査兵団に入団したエレンが壁外調査に加わる。女型の巨人に襲われ、エレンは自身の力で戦うか、それとも仲間の力を借りるか選択を迫られる。苦悩するエレンに兵士長のリヴァイは「おれにはわからない/ずっとそうだ…/自分じぶんちからしんじても…信頼しんらい仲間なかま選択せんたくを/しんじても……結果けっかだれにもわからなかった…」(第六巻 第二五話 一二四頁)と告げる。エレンの幼なじみ、アルミンは情報が不足した状況で判断を迫られたとき、なにかを変えることができる人物は「大事だいじなものをてることができるひとだ/ものをもしの必要ひつようせまられたのなら/人間性にんげんせいをもることができるひとのことだ」(第七巻 第二七話 二一頁)と語る。
 詳述は避けるが、恐らく物語の根幹は巨人という存在の“再解釈”にあるのだろう。かけがえのない日常が大状況の介入によって失われるのを嘆くのではなく、積極的に大状況へコミットしていく。機能不全状態にある社会を変革するために必要となるのは、文脈横断的な判断力だ。私的な道徳判断や人間関係とは距離を置き、大局的判断を下さなければならない。
 この作品はいわば、アーキテクチャの内側からアーキテクチャを変革するために必要な倫理を問うている。その疑義に、人間のようで人間ではない存在の解明が必要となることは偶然ではない。自身が所属する社会と文化、政治状況や経済システムを自覚すること、世界とセカイとの隙間を覗きこみ、旧来の常識や固定観念に囚われない解釈をすることと有機的に結びついている。
 近年のSFやポスト・セカイ系といった物語文学において、人間のようなモノが文脈横断的な役割を果たしていることを確認した。村上裕一『ゴーストの条件』によれば、それらは物語の外側にも存在するらしい*10
 シンプルな線や名前から構成された、記号の集合に過ぎないキャラクターがなぜ人々を魅了するのか。第一部では、村上はソシュールからラッセル、クリプキ、デリダら固有名を巡る諸学の成果を整理し、キャラクターの神秘性とは訂正可能性にあると説く。例えばアイドルグループ「モーニング娘。」は「X枚売り上げねば解散」といった物語的プロデュースや、メンバーが新規加入あるいは卒業・脱退という形で新陳代謝を繰り返した。このようなダイナミズム(物語性、弁証法)とメタボリズム(新陳代謝、脱構築)を兼ね備え、所与の役割に抵抗する自律的存在としたことにより、大きな物語の衰退と共にアイドルが時代を象徴する役割を失った九〇年代以降も象徴性を保ち続けることができた。
 第二部では〈ゴースト〉の概念が提示される。具体例のひとつとして、村上は2ちゃんねるから生まれたキャラクター「やる夫」を解説する。アスキーアートで描かれたやる夫が、小説家を目指したり、歴史上の人物になりきって物語を展開する。スレによって無数の職業をやる夫は体験するが、それら物語間でやる夫の設定について整合性はそれほど求められない。実在の人物、有名なアニメ・マンガ作品のキャラクターらが無節操にコミュニケーションを繰り広げる。このような、ひとつの物語作品に拘らず文脈横断的な役割を果たす存在、データベースをキャラクター化した存在をゴーストと呼称している。
 所与の役割から脱却し、拡大し続けるキャラクターはどう生きればいいのか。第三部では東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』といった物語作品を通じて、期せずして産み落とされた存在が自らの生をいかにして肯定すべきかという文学の問題、多元的な社会を生きる現代人の問題が論じられる。

 人間は水子の生を生きている。これは本書の基本認識である。理由なく生み出され、不自然な世界で不遇な扱いを受けている。彼でもなく、彼女でもなく、どうして「私」なのか。なぜあの時あの場所だったのではなく「いま」「ここ」なのか。哲学者や神学者が長い歴史をかけて問うてきた「人はどこから来てどこへ行くのか」という問題は、形を変えて、ことによってはより深刻な形でここに現れてきているのかもしれない。[略]

 村上の問題意識と『リカーシブル』を照応させてみよう。再解釈によって実体を転じ、民間伝承から高速道路誘致計画まで様々な文脈と接続しうるタマナヒメはゴーストとみなすことができるだろう。だが、タマナヒメという固有名の解釈を訂正していく作業を通じて、越野ハルカは家族、クラスメイトや教師、互助会の人々といった共同体と利害を調整する結節点となっている。それは地域社会における自身の立ち位置を、アイデンティティの確立を猶予なく迫られ、自らの生を手探りする過程でもある。データベースをキャラクター化した存在は、むしろハルカのほうなのかもしれない。

 当然だが、これだけ多岐にわたる現象のすべてを不条理と直面した心理によって説明できるなどと主張したいわけではない。ここまで弁を尽くしてきたのは、その逆を感じ取ってもらうことにある。ミステリだけが文化状況の潮流とまったく無縁などと考えるほうが、よほど不自然だということをだ。
 以下、近年の国内ミステリで特にジャンル外との共振を感じた作品として、歌野晶午『コモリと子守り』、市井豊『聴き屋の芸術学部祭』、法月綸太郎『キングを探せ』『ノックス・マシン』、島田荘司『星籠の海』、北山猛邦『人魚姫』、三津田信三『幽女の如き怨むもの』について言及する。根幹的な真相には触れないよう留意するが、一般的なレビューと比べて作品内容に踏みこんだ記述となるため、既読であることが望ましい*11
 歌野晶午『コモリと子守り』は舞田ひとみを探偵役とするシリーズの三作目となる。高校を退学し、引きこもりじみた生活を送る馬場由宇は、自宅裏のアパートのベランダに幼子をみかける。髪の色がオレンジで、宮崎駿監督の長編アニメ映画『崖の上のポニョ』の主人公に似ている。ポニョともう一人の幼児が同時に誘拐され、犯人からは巨額の身代金が要求される。やがて事件は疑問の余地なく終息したかに見えたが、ひとみによって思わぬ裏面が明らかにされる。
 このメインとなる事件の前に、全体の約三分の一をかけて由宇とひとみが、誘拐されたポニョを探す小事件が描かれる。いわば“タマナヒメ”を幻視した読者は先入観を植えつけられ、ガラス張りの誘拐計画が目前で展開されるにも関わらず、二重誘拐事件の様相を見抜けない。一般的な道徳的判断を越えて他者の心理を推察し、不条理と向き合えるか否かが事件の謎を解く鍵となる。
 推論よりも解釈に重きを置く傾向は〈日常の謎〉作品にも見受けられる。例えば市井豊『聴き屋の芸術学部祭』は、T大学の文芸第三部「ザ・フール」に所属する柏木が遭遇した事件を描く短編四作を収める。第三話「濡れ衣トワイライト」では、人の話を聴くことを苦にしない聴き屋体質の柏木が、模型部の牧野から相談を受ける。女性部員の模型を破壊した濡れ衣を着せられたという。フーダニットならば現場に残された手がかりから容疑者を限定していけば良いように思われるが、柏木は推理談義をしている自分たちの状況を客観視することで真相に至るピースをみつける。
 法月綸太郎『キングを探せ』は、後期クイーン問題への対応から解釈の多重性を採用した作品だ。興味深いことに、同じ作者が二年後に刊行したSF短編集『ノックス・マシン』と奇妙な鏡像関係にある*12。犯人の思惑を探偵役が暴く静的な構図があるとき、その構図全体さえ犯人の思惑に過ぎない可能性が浮上する。これを再帰的に繰り返すことで、超越的なメタ犯人が生じてしまう。法月は『キングを探せ』において、犯人の思惑と探偵の推理とが動的に絡みあい、あたかも不在の存在が事件全体を支配するかのような構図を創りあげた。不在の存在が『ノックス・マシン』ではSF的修辞の力を借りて物理的実体を持つ。これはちょうど『リカーシブル』のタマナヒメと『ヨハネスブルグの天使たち』のDX9の対比を思わせる。
 島田荘司『星籠の海』は御手洗潔がまだ馬車道にいた一九九三年の出来事を描く。瀬戸内海の興居島に、一年弱の間に男性の全裸死体が六人も流れ着いた事件の調査を依頼される。死体は広島県福山市で遺棄されたと突きとめた御手洗は、警察と共に新興宗教団体〈日東第一教会〉との全面対決に突入する。シリーズ当初は警察から不審者扱いされたこともあった御手洗だが、活躍が知れ渡り本作では刑事たちを顎で使わんばかりになっている。
 この作品は、小坂井茂という男性の半生にかなりのページが割かれている。これまで「数字錠」といった作品で弱者に法を越えた温かな眼差しを向けてきた御手洗にしては、危ういほどの辛辣な仕打ちをする。これは『進撃の巨人』における、エレンと無理解な民衆の関係に似ている。大状況へ目を向けることのない小坂井は、御手洗の構築したアーキテクチャに囚われ、ゾンビのごとく思考判断を失ってしまう。
 セカイ系との関係という点では、人魚が実在する世界を描いた北山猛邦『人魚姫』も印象深い。デンマーク王家の第二王子が殺害された事件で犯人として疑われた妹の嫌疑を晴らすため、人魚セレナは心臓と引き換えに七日間だけ人間の足を手に入れる。後に童話作家となる少年時代のハンス・クリスチャン・アンデルセンと、グリム童話集の挿絵を描いた画家のルートヴィッヒ・エミール・グリムがセレナに協力し、事件の真相を突き止める。かつて伝奇ロマンが正史の隙間を覗きこみ、空想の力によって奔放な物語を紡いだのとは対照的に、ちっぽけな少年でさえ世界状況と無縁ではいられない、グローバリズム時代の伝奇ミステリとなっている。
 三津田信三『幽女の如き怨むもの』は第一部から第三部にかけて、遊郭「金瓶梅楼」の花魁・緋桜の日記、戦中「梅遊記楼」に店名を改めた遊郭の女将による語り、戦後に特殊飲食店となった「梅園楼」を取材した怪奇作家の連載記事によって連続身投げ事件の顛末が描かれる。第四部で探偵役の刀城言耶が推理を語るが、それは遊郭という深い闇を隈なく照らすようなものではない。それにも関わらず読者がこの作品を本格ミステリとして了解できるのはなぜなのか、という疑問が本稿の出発地点のひとつだった。
 二〇〇七年八月にクリプトン・フューチャー・メディアからリリースされたDTMソフトウェアに設定として付随するバーチャルアイドル「初音ミク」は、後に三次元化されライブにも出演するようになった。村上裕一は『ゴーストの条件』で、それが特殊な透過スクリーンに映写される立体映像に過ぎないことを承知の上で「このミクの現実感はいわゆる人間の歌手が発揮するそれにひけを取らない」(二七四頁)「我々はすでに存在という概念を更新する必要性に迫られている」(二七五頁)と述べた。初音ミクがゴーストとして数多の接続を繰り返し人間と等価の身体を得たように、幽女もまた受肉したのではないか。探偵役の頭脳を凌駕する究極の操り犯を仮定したなら、その人物は決して作品内に登場できないだろう。時代に翻弄された人物、操り犯とは真逆の人物を描く形で『幽女の如き怨むもの』は合理性の極北に到達したのかもしれない。

 模造クリスタルのウェブコミック『金魚王国の崩壊』は二〇〇八年七月に公開された*13。お祭りの金魚すくいで手に入れた金魚を飼い始めた少女ミカゼは、それをきっかけに魚を食べることを拒み、やがて菜食主義となる。登校を拒否して自室に引きこもり、友人のユカに金魚王国の夢想を語る。人間帝国を撃退した金魚王国は裏切りによって崩壊し、王の言葉を記した巨大な鉄柱だけが残される。そこにはすべての動物たちが平和に暮らすための決まりが網羅されているという。
 誰もが覚えのある、ささやかな不条理。命の大切さと、それを喰らわずには生きられない人間という倫理的危機に直面した少女は、世界のありようと内面との齟齬を、人間とはなにか繰り返し解釈し直すことで埋めていく。ようやく等身大の存在となれた彼女はしかし、人間関係の網目に惑い、金魚王国の崩壊を目にする。神の存在とは無関係に、人は神を信じ争いあう。それを知った者はなにを拠り所とすればいいのか。信念は人を賦活し、狂気は人を醜くする。観念は人を孤独にし、理性は人を弱者にする。だが、弱者にならなければ弱者の武器は使えない。
 さやわか『一〇年代文化論』によれば、本来ならネガティブな意味であるはずの〈残念〉という言葉が、二〇〇七年前後から若年層を中心に、親しみやすさといった肯定的なニュアンスへ変わってきたという*14。お笑い芸人の千原ジュニアは定番のお笑いのネタとして「残念な兄がおりまして……」と兄のエピソードを面白おかしく語る。ここでは、笑う対象への積極的な好意も伴っている。お笑いコンビ・オードリーの春日俊彰といった「キャラ芸人」は、非日常的なキャラを演じている間は満足に人とコミュニケーションできないほど奇妙な振る舞いをするが、ネタが終わると常識人に戻る。残念なキャラと普段の自分との落差を見せることがトレンドになっているという。
 長所と短所を不可分なものとみなし、個性を許容する。残念さをキャラとして受け容れる。ボーカロイドが人々の創作同士をつなぐ結節点となっていること、平坂読『僕は友達が少ない』の登場人物が演技によって内面を充実させようとすること、秋葉原通り魔事件と『黒子のバスケ』脅迫事件の犯行動機など、さやわかは多様な切り口で〈残念〉の思想を説明する。
 さやわかの指摘した〈残念の思想〉は、人間のようなモノを論じた『ゴーストの条件』や『ポストヒューマニティーズ』と、ソーシャル化を包括するのではないか。渡邉大輔『イメージの進行形』によれば、一九一七年から六〇年までの黄金期にハリウッド映画は「古典的ハリウッド・システム」と呼ばれる説話体系を完成させた*15。登場人物の心理やストーリーの起承転結を明確かつ連続的に描き、あたかもスクリーンが虚実の境界であるが如く、観客を物語世界へと感情移入させた。
 翻って現代では、動画共有サイト、携帯情報端末、監視カメラなど多様な映像が氾濫している。ニコニコ動画の嘘字幕シリーズと呼ばれる動画は、外国の映画やドラマの一部について正しい訳の日本語字幕の代わりに嘘の字幕をつける。これにより映像の本来の意味内容を上書きしてしまう。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『ヒトラー――最後の12日間』を素材にした場合を例に挙げると、ドイツ降伏直前にナチス幹部たちへヒトラーがわめき散らす内容が、オタク界隈のネタや世俗的なトピックへのコメントに置き換えられる。ユーザによって嘘字幕の付与の仕方は異なるが、響きの類似から他愛もない日本語に聞こえる箇所だけはお約束として同じ字幕を与えることがある。嘘字幕の無数の異本を鑑賞し、象徴的な規則=反復性に気づくことで、圧倒的な現前性=事実性が迫ってくる。ニコニコ動画では「圧倒的なリアリティと偶然性をもって現前することと、それがパターン化された規則や必然性として反復していること」(五〇頁)が矛盾しない。
 村上裕一が『ゴーストの条件』で、キャラクターの魅力は訂正可能性から生まれると指摘していたことを思いだしてほしい。嘘字幕シリーズの動画群に登場するのは、独裁者ヒトラーであり、それを演じた俳優ブルーノ・ガンツであり、そしてあらゆる知識に接続しうるゴーストでもある。ひとつの映像に目を凝らしてスクリーンの向こうに物語世界を幻視するのではなく、少しずつ類似しているが差異もある複数の断片的な映像を眺める。原本となる映像の意味内容を脱臼させ、固有の規則を反復しつつ再解釈を際限なく繰り返す。無数の物語を渡り歩くゴーストが、コミュニケーションの触媒の役割を果たしている。
 さやわかは、人々の想像力やリアリティへの感性がどのように変化したか、総合的な現代文化論として提示したのではないだろうか。本稿の表現の仕方をするなら、〈残念〉という感性とは他者を重ね合わせ状態とみなすこと、さまざまな可能性の集合とみなすことだろう。五〇パーセントの確率で生きていると同時に死んでいるシュレーディンガーの猫を想像することが難しいように、多元化する社会において複雑多岐な文脈を内包する他者を合理化することは難しい。人には長所もあれば短所もあるという当然の、ささやかな矛盾をありのまま受け容れようとするとき、人間のようなモノがさまよい始める。
 リアリティへの感性が変化すれば、現実逃避の質もまた変化する。飯田一史は『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』にて、ライトノベルに求められる四大ニーズとして「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」を挙げている*16。「楽しくポジティブな感情になるもので、友だちとの会話のネタになって(コミュニケーションを誘発するもので)、胸に刺さる(感動する)、そしてその作品でしか読めない何か固有のものがある」(三五頁)「パッと見からして重い、暗い作品より、エンターテイメント然とした雰囲気を出している」(三七頁)作品がヒットする。
 近年のミステリも、同じ傾向にあるかもしれない。東川篤哉〈謎解きはディナーのあとで〉シリーズ(第一作は二〇一〇年)や三上延〈ビブリア古書堂の事件手帖〉(第一作は二〇一一年)がベストセラーとなった。学校や喫茶店などの身近で共通理解がある場所を舞台とし、青春の痛みや恋愛の苦味といった物語の感動を描く。親しみやすく胸に刺さる作品が受け容れられる、ミステリのカジュアル化の勢いは止まりそうにない。ネタになる、差別化要因といえば、造本に仕掛けがある泡坂妻夫[「泡」は正しくは「己」ではなく「巳」]『しあわせの書』『生者と死者』が復刊され、乾くるみ『イニシエーション・ラブ』(二〇〇四年)が二〇一四年四月に百万部を突破したのも記憶に新しい。
 急いで言葉を補うならば、私はそれらの作品が本格ミステリを衰弱させるとは思わない。先に挙げた作品が決してミステリとしての興趣を疎かにはしていないと保証してくれる者は多いだろう。しかし、不安は残る。果たして金魚王国は崩壊したのだろうか。今後五年先、十年先に、文脈を脱臼させずに重厚長大な論理を紡ぐ作品は生き残っているだろうか。あざとい現実逃避のための軽やかで口当たりの良い作品ばかりが市場を独占しているかもしれない。
 私はいっそ、それでも良いと感じている。そのときにはまた、真実という概念の思いがけない相貌が描かれているだろう。人は虚構を虚構と割り切れず、青臭い病が癒えることは無い。この指先よ届けとばかりに天を仰いで両腕を伸ばし慨嘆するのも、あの葡萄は酸っぱいに違いないと仲間たちで肩を組んで笑うのも、どちらも同じ現実逃避だ。物語が如何にして読者に現実を騙るのか、評論家はその技をみつめる。ミステリが本当の意味で真実を語っているか、リアルへの感性を鏡のごとく反映しているか評価する。物語を、世界で最小の共同体の相手として信頼に足るか見極める。
 子守歌は、幼子を眠りに誘うために歌う。だが、それだけではない。『リカーシブル』のラストでは、リンカとの取引を終えたハルカが、サトルを背中に負ぶり家路に着く。眠る弟に「大丈夫。大丈夫だから。もう心配ないから、ゆっくり眠りなさい、バカ」(三六三頁)とつぶやく。子守歌は、良き目覚めのための歌でもある。お前が眠っている間は私が守るから、きっと幸福な目覚めが待っているからとささやく。良き目覚めのための子守歌に包まれながら、人は束の間の夢をみる。物語とは、そういうものではないだろうか。