3/21(金)、MYSDOKU12に参加した。課題本は法月綸太郎『ノックス・マシン』(角川書店)。13時半から16時半まで3時間。会場はJR蒲田駅近く、大田区消費者生活センターの第1集会室。
 以下、印象に残ったことをかいつまんでレポートする。話題に沿って会話の順番を整理している。走り書きのメモからの再構成であり、正確さについては容赦願いたい。

ノックス・マシン

 会場に到着すると、参加者は男性ばかり……いえ、とりたてて含意はありません。さっそくsasashinさんから『ノックス・マシン』はどうでしたかと、裸の特異点の探り合いが。どうやら強烈なアンチと信奉者とが暗闘を繰り広げているようである。
 自己紹介で、青春小説としての法月作品に魅せられてきた者として、これはちょっとなと難色を示すsasashinさん。チンルウの青春小説として読めませんかとへたれ責めしてみるも、オーバードクターはもうオッサンとバッサリ。

 チンルウという名前の人物が登場した時点で、結末がどうなるか見当がついたとおがわさん。オートポエティクスというアイデアを、神林長平なら言語SFとして面白く仕立てたのでは。matsuoさんはむしろ、一直線にオチへ向かっていく、お約束的な過程を愉しんだという。
 タイムパラドックスの解決方法については、単純明快なワンアイデアが中心となる、1940-50年代のアシモフ風なSF。オートポエティクスとノックスの十戒との関係のように、やたら小難しい用語を並べて煙に巻こうとする箇所は現代的な、グレッグ・イーガン風のSF。これらふたつの側面が提示されるけれど論理的なつながりはなく、有機的に結びついていない。
 SFとして評価はされているか。早川書房の『SFが読みたい! 2014年版』では第6位で、ベスト10にランクインしている。
 ちょっと懐かしいタイプのSFだとmatsuoさん。藤子・F・不二雄『ドラえもん』のエピソードにも、タイムマシンで過去へ移動することで、結果的につじつまがあうパターンがよくあった。
 イーガンっぽい箇所についてはみんなツッコミまくり。虚数を入れとけばなんとかなるってどうよ、と嬉しそうな顔で突っこむmatsuoさん。もう、そこは雰囲気で流しましょうよ。読書メーターには、マニアックすぎるという感想がズラズラ。でも、これは難しいことは知らなくとも、素直に馬鹿話を愉しめばいい作品ではないかとおがわさん。

 中国人ではなく、忍者を登場させてはならないとすればよかったのではとmikio_at_ikarumさん。それなら、例えば第三項の秘密の抜け穴や通路は、忍者屋敷のことを指しているとわかる。こんな風に、第5項「中国人を登場させてはならない」は他の項目すべてに影響するからこそ、No Chinaman変換が必要なのだと説明できる。
 トークイベントでサインをもらったときに、みっつさんが作者本人に訊いたところ、時間移動による世界の分岐というアイデアを扱っているゲーム『STEIN;S GATE シュタインズ・ゲート』(2009年発売)は知っているとのこと。「でもノックス・マシンのほうが早かったでしょう?」と言われたそうな(「ノックス・マシン」の初出は『野生時代』2008年5月号)。

引き立て役倶楽部の陰謀

 みっつさんによると、S・S・ヴァン・ダイン『僧正殺人事件』を読んだけれども、作中人物のヴァン・ダインは無口な、存在感の薄い人物とのこと。
 マニアックなネタが詰めこまれた作品だけど、海外ミステリを読まない読者でも愉しめる小説ではないかとsasashinさん。量子力学を理解していなくとも「ノックス・マシン」を愉しめるのと同じ。
 読んでいる人には読んでいる人で、アガサ・クリスティ『オリエント急行の殺人』などとの細かい辻褄合わせが良いとmatsuoさん。「8 真相(編者による解題)」として編者が登場するのは『カーテン』を思いだす。クリスティの人生すべてをこの短編に込めようとするかのよう。
 本格ミステリとしてはどうか。“ペンは剣よりも強し……。”(p.93)とトリックを暗示するヒントはある。実は「編者」=「オートポエティクス」なのかもとsasashinさん。中国人が登場せず、十戒を守っているのだから問題なし!

 編者による解題は「要らん!」「同人でやれ!」の声多数。急にフィクションとして梯子を外されるのは興ざめ。あとがきとして巻末で記すべきではなかったか。ロジャー・シェリンガムの名前を登場させられなかったことに言及している(p.116)あたり、本当にあとがきとしての側面もある。
 この短編集は自己言及がテーマのため欠かせないのではないか。まさか本当にこんな小説が遺されるわけもなく、解題でもクリスティの人生については捏造されている。この時代におけるミステリの動向を、フィクションでもノンフィクションでもない歴史的事実を伝える寓話として読むことができる。
 解題の存在によってパスティーシュではなくなる。メタフィクションの試みとして、更に大きな広がりがあってもよかったのではとおがわさん。筒井康隆『虚人たち』では、虚構の存在であることを登場人物が自覚して物語が進むという。

バベルの牢獄

 電子書籍版は「ノックス・マシン」「ノックス・マシン2」しか収録されていない。その理由は、本作品の中核的なアイデアが、紙に印刷された書籍の形態であることを前提にしているから。
 しかし、今後どんどん電子書籍が普及し、紙の時代が遠ざかったなら、この作品を電子書籍で読んだ人は「昔はこんなトリックが成立したのか」と、むしろ新鮮な感動を覚えるのではと秋山真琴さん。
 なお電子書籍化の経緯は、2014年1月30日に芳林堂書店高田馬場店で行われた法月綸太郎×杉江松恋トークショーのレポートで触れられている。

法月綸太郎『ノックス・マシン』|KADOKAWA
法月綸太郎×杉江松恋 トークショーレポート
http://www.kadokawa.co.jp/knox/

 句点がワームホールというアイデアには「おまえは何を言っているんだ」「いや、面白いよ?」「中黒は暗黒物質で満たされてるwww」と和気藹々。
 こういった実験的作品が『このミステリーがすごい! 2014年版』で1位を獲得してしまうとはとmoriさんが首を傾げる。まあ『このミス』は書評家や大学ミステリ研会員といった人たちが投票者なので、ちょっとハイブロウな作品が選ばれてしまうことがあるもの。ぶっちゃけ、みんな変化球のつもりで二位や三位に選んだのが重なった事故じゃね?

 英雄オデュッセウスと一つ目巨人族の逸話で触れられる「誰でもないウーテイス」(p.142)は、この作品におけるNo Chinamanに相当するのかも。「引き立て役倶楽部の陰謀」でも、編者がNo Chinamanではないか。
 滅び去った紙の時代へのノスタルジーが良いとmikio_at_ikarumさん。他の作品も、失われつつある世界への郷愁が描かれている。やはり、これは青春小説なのかもしれない。

論理蒸発――ノックス・マシン2

 良い話だ、と秋山真琴さん。英雄になるはずが、名誉も肩書きも名前さえも奪われ、未来を失った若者の救済が描かれている。
 夏休みが三週間もあるなんて、ゴルプレックス社はホワイト企業ですねと佐多椋さん。しょせんヒロインはエリートなんですよとmoriさん。ブラックな国家に利用されるだけ利用され、一時はホームレスにまで転落した男が、世界的大企業の利益を守るべく身を捧げる……良い話どこいった。
 エラリー・クイーン『シャム双子の謎』が火種となる理屈が腑に落ちないというmikio_at_ikarumさん。法月綸太郎は評論「初期クイーン論」(『法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術』所収)で『シャム双子の謎』をゲーデルの不完全性定理に喩え、作者と読者が対等の立場で謎解きに挑むような、ゲーム空間の成立が危機に陥る作品として論じている。炎の猛威は本格推理小説の基礎を瓦解せしめようとする脅威を象徴しており、それを鎮火しようとする筋立ては、謎解きゲーム空間を守ろうとすることを暗示しているのではないか。その意味では本作もまた懐古主義ですねとmoriさん。
 また、別の評論「大量死と密室」(『法月綸太郎ミステリー塾 日本編 名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』所収)では『チャイナ橙の謎』と『九尾の猫』に触れられている。一九二〇年代から三〇年代にかけて英米で本格推理小説が隆盛した。それは第一次世界大戦という大量死の経験から、巧緻を極めた犯行計画と、それを見抜く精緻な推理を描くことで匿名の死に抗しようとしたからだと笠井潔が論じ、いわゆる大量死理論と呼ばれている。『チャイナ橙の謎』は、たとえ大都市の真っ只中でも、戦場のような匿名的な死が訪れうることを描いた。対照的に『九尾の猫』は名前にこだわり続け、個体のかけがえのない単独性を確保しようとしている。
 こういうことを、法月綸太郎が過去に評論家として論じていたことを踏まえると「ノックス・マシン2」の後半で『チャイナ橙の謎』や『九尾の猫』に触れられる理由がわかる。チンルウは名前を失いNo Chinamanとなった。しかし「見えない男」にも足跡がある(p.210)。青年エラリーの挫折と苦悩が、人生に希望を失った若者が尊厳を回復するまでの物語に重ねられている。

 “今からきみの裸の特異点を研究してみよう”(p.167)に、みんな肩を落として意気消沈。法月先生の四半世紀にわたる恋愛観の成長について対話を重ねたが、紙幅の余裕がないため割愛する。
 プラティバの恋人、テロリストのタムがベトナム人であることになにか意味はありますかねとmoriさん。わからないけれど、この短編集全体が無国籍な印象ですねとみっつさん。過去から未来、欧米からアジアまでグローバルに描かれている。
 映画『サマー・ウォーズ』のような印象を受けたとおがわさん。馴染みのない世界がわかりやすく視覚化され、世界を救うヒーロー物として愉しめる。版元が角川なんだから、アニメ化も期待できますねと佐多椋さん。だって、このミス一位だし!Anotherに続け!

 最後にプラティバがセンテンスを削除しているが、これは良いのだろうかと秋山真琴さん。この作品世界におけるクイーンは「金色の巨人の顔に~」を書いたのならば、残しておくべきなのでは。いや、クイーンはこのセンテンスを書いておらず、あくまでチンルウがプラティバへの個人的メッセージとして追記した(というふうに一読者として解釈した)だけなので問題ないのでは。
 早川書房の『SFが読みたい! 2014年版』で第1位となった『皆勤の徒』の作者、酉島伝法の同人作品に、小説が改竄される設定の作品があると秋山真琴さん。竹本泉『あかねこの悪魔』では「紙魚」が図書館に収蔵されている本の内容を改竄する世界が描かれているとおがわさん。
 作者と登場人物を同一視すべきではないと思いつつも、タイムマシンでノックスに会いに行ったり、謎解きゲーム空間を守るべくブラックホールに飛びこんだり、好き勝手し放題である。残された俺たちはどうすればいいんだ、長編が読めなくなるんじゃなかろうなと心配するmikio_at_ikarumさん。法月綸太郎が愛するミステリといえば、英米黄金期だけではなく、ロス・マクドナルドも含まれるはず。真実の故郷にたどり着いたなんて云わずに、ぜひロスマクでも短編を!
 作中時間は「引き立て役」→「ノックス」→「ノックス2」→「バベル」となる。「ノックス2」で開発された、ブラックホールへ身を投じ時間と空間をあべこべにして虚構の人格となる(p.213)技術が「バベル」で人格を走査し文章化する技術として利用されたのではとおがわさん。

 最後にひとりずつ、感想を云って終了。トークイベントで作者が明かした法月貞雄三部作構想を紹介するmikio_at_ikarumさん。『ノックス・マシン』と方向性がまったく異なるため、こちらは日の目を見ることはないのかもしれない。
 ハリウッド映画みたいなヒーロー物だと思えば面白いのかもしれない。読書会を通じて作者の意図を理解できたと敗戦の辞を述べておきます、とsasashinさん。なんてメンドくさいツンデレだ。

真相(編者による解題)

 以上のレポートは、杉本@むにゅ10号の死後、彼が孤独に暮らした六畳一間のアパート、卓袱台に残されたタブレットPCからみつかった未発表の原稿をHTML化したものである。
 ほとんどの読者は「あれ、まだ続きがあるの?」と思ったことだろう。ここからは法月綸太郎『キングを探せ』の内容に触れるため注意してほしい。まあ、既読でなければ意味がわからない文章になるだろうけど。

 「初期クイーン論」で法月綸太郎は、エラリー・クイーン『ギリシア棺の謎』を中心に、後期クイーン問題のひとつ、いわゆる「偽の手掛かり問題」を論じている。詳細は「ギリシア棺論争発掘録」を参照してほしい。

 偽の手掛かり問題とは、次のようなものだ。殺人が起きる。探偵は現場を調べ、手掛かりをみつけて推理し、犯人Aを指摘する。しかし実は、証拠だと思われたものは、真犯人が探偵に推理を誤らせるべく残した偽の手掛かりだった。賢い探偵は、証拠が偽物である可能性を検討し、今度こそ真犯人Bを指摘する。
 だが、その推理は正しいだろうか? 真犯人と思われる人物を操っていた、本当のメタ犯人Cがいるのではないか? いや、そのメタ犯人すらも操っていたメタメタ犯人Dがいるのでは?
 このような疑念は無限後退していき尽きることがない。ひとつひとつの手掛かりを解釈し、推論を積み重ねて結論に至るボトムアップの静的な推理ではこのような問題が生じる。

 後期クイーン問題へのひとつの回答として著された作品が『キングを探せ』だ。詳細は「探偵が推理を殺す〈試供版〉」を参照してほしい。

 ひとつの手掛かりから、ひとつの解釈だけではなく可能な限りの解釈をし、複数の図式を検証していく。犯人もまた探偵の出方を窺い、真相を隠蔽しようとする行為と推理行為とが動的に絡みあう。偽の手掛かり問題では作品全体を覆う犯人のたくらみを見抜けないという問題が生じたが、こちらでは探偵も犯人も相互に働きかけ騙しあうため、作品全体を支配する単一のたくらみは描かれない。
 No Chinaman変換は『キングを探せ』でも起きていた。問題編においては、あたかもそのような究極の意思保有者(すなわちキング)が存在するかのように描かれる。だが解答編に至り、キングはNo Chinamanとなる。作品全体を覆う個人が登場しないということは、換言すれば〈作者〉が登場するということだ。もちろん作者である法月綸太郎本人が作品世界内に登場するという意味ではない。作品全体のたくらみを体現する〈作者〉すなわちNo Chinamanとして登場する(杉本@むにゅ10号が死亡しているというなら、この文章を書いている編者とは誰なのだろう)。
 修辞的な言い方ばかりでは誤解を招くので平たく言ってしまおう。要するに、叙述トリックだ。究極の操り犯を消し去った代償として、作者は登場人物の言動を通してではなく、作品自体に作品のたくらみを語らせることになる。作品が作品を語る、この自己言及が生みだすブラックホールを、あなたは第四部13節のタイトルと本文の狭間で見かけたはずだ。謎解きゲーム空間を守るため、キングはそこへ飛びこんだ。

 同じ構造が『ノックス・マシン』に所収の短編すべてに表れている。興味深いのは、こちらではSF的修辞の力を借りて〈作者〉が直接的に登場し、読者と出会うことだろう。
 「ノックス・マシン」では、タイムパラドックスの解決に自己言及が利用され、チンルウとノックスが出会う。「引き立て役倶楽部の陰謀」では、編者が作品を解き明かし、クリスティの人生を捏造する。「バベルの牢獄」における正体不明の対話者は他ならぬ自分自身だった。「ノックス・マシン2」でプラティバとチンルウは、読者と作者の関係となる。
 ミステリは問題編と解答編の照応という垂直方向の整合性を探究し、SFは設定と物語との相互作用という水平方向の整合性を模索する。ふたつの作品は右手と左手のように類似しているが、異なるジャンルを土壌とし、正反対の次元へ枝葉を伸ばしている。

 すなわち『キングを探せ』は『ノックス・マシン』のキラリティだったのではないか――などと、したり顔でソーカライズして駄文を締めくくろう。