限界研[編]『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』を読んで、つらつら思ったことを整理しておこうと思います。以下はこの本の正確な解説ではなく、自分なりにこう解釈したという文章です。かなり大きなスパンの出来事を一個人の視点からアバウトに捉えており、客観的な正確さについては眉にツバしてください。

本格ミステリは衰退期なのか?

 この評論集の全体的なテーマは大きく分けて二つあると思います。ひとつは、社会環境の変化を受けて本格ミステリ作品内における論理のありかたにこれまでにはなかった変化が起きていること。もうひとつは、本格ミステリはいま衰退期にあり、ジャンルの発展を望むなら次に向けた手を模索する必要があるということです。要は、きちんと現状を認識して将来の不安に備えましょうということですね。

 まずは後者、本格ミステリは本当に衰退期なのかというところから始めましょう。結論を先に述べれば感覚的には私も同感です。ただ、誰もが納得できるように示そうとすると、これはけっこうな難問です。
 客観的に示すには統計的な数字があるとよいのですが、そもそも本格ミステリとはなんなのか統一的な定義はなく、従ってひとつひとつの作品を「あれは本格」「これは本格ではない」と判断することもできません。誰の目にも明らかな、議論の余地さえない説得力あるデータをだすことは事実上無理でしょう。
 そこで、もう少し枠を広げてミステリ全般はどうだろうと目を向けてみると、これは誰の目にも衰退期とは思えません。大型書店のミステリが並ぶ棚の数や新人賞の数を他のジャンルと比較してもいいですし、テレビをつければミステリドラマが目白押しです。エンターテイメントの代名詞としてミステリは広く受け容れられています。
 「なんだ、ミステリがそんなに流行っているなら、本格ミステリだってそうでしょう?」と考えたくもなるのですが、ここからちょっと慎重に考える必要があります。それは「本格ミステリとはなにか?」という根本的な問題とも絡んでくる問題だからです。

 飯田一史は序論で二つの点を指摘しています。ひとつは、それまで本格ミステリを知らなかったジャンル外の読者も引きつけるような求心性を失ったこと、もうひとつは若い世代からの支持を失ったということです。前者から説明していきましょう。

 われわれがかつて新本格ミステリに求めていたものは、本読みのあいだでの大衆的な熱狂であり、ここに注目していればあたらしい才能に出会えるというたしかな期待だったのだ。中高生時代、京極夏彦や森博嗣を回し読みし、学生時代に同世代の佐藤友哉や西尾維新のデビューに衝撃を受け、遡って読みあさていった綾辻行人や法月綸太郎、有栖川有栖、麻耶雄嵩らの作品は、ことごとくおもしろかった。

 もう少し丁寧に説明しましょう。もちろん現在も新しい才能はどんどん登場しているのですが、ゼロ年代前半までの新本格ムーブメントはある種の〈ジャンル破壊的熱狂〉とでも名づけたくなるような迫力に満ちていました。
 1987年に綾辻行人『十角館の殺人』からスタートした新本格は当初、京都大学推理小説研究会など大学ミステリ研出身の若い書き手を中心とし、1920年代から30年代の英米本格黄金期を復興することを志向していました。まず、これ自体が先行世代への抵抗とも呼べる運動でした。社会派ミステリやトラベルミステリといった中高年サラリーマンたち向けのリアリズムに抵抗し、形式美と人工美に彩られた、紙の上でしか実現できない虚構を描こうとするものでした。
 しかし、このような活動は長くは続きませんでした。そこへ次の爆弾が炸裂したのが90年代半ば、森・京極の登場です。京極夏彦はそれまで珍しかった千枚級の分厚い小説を継続して発表、妖怪小説という類を見ないテーマで広範な読者を獲得しました。森博嗣は理系の人々を描き、独特な詩美性のある文章とシャープな印象で人気を博しました。新本格第一世代はある種の様式美を英米本格黄金期に求めましたが、森・京極はそれぞれ独自の個性を本格ミステリという器に盛ったのです。
 そして清涼院流水です。1996年のデビュー作『コズミック』は名探偵や密室という本格ミステリらしい意匠を用いつつも、それまでの本格ミステリらしい謎解きは放棄され、伝奇小説的な世界観によって読者を圧倒しました。ここから西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった旧来の本格ミステリの枠には収まりきらない流れが生じます。
 もちろんこれらが新本格のすべてではないのですが、説明が長くなってきたため省略します。要するに、80年代後半からゼロ年代前半までの約二十年足らずの間に、伝言ゲーム的にある程度は継承しつつも先行作品のイメージを意図的にずらし、自身のジャンル枠そのものを食い破ろうとするかのような運動がいくつもの波となって次々に到達したのです。

 繰り返しますが、本格ミステリにはいまも新しい才能が生まれています。しかし、このような破壊的イノベーションが継続しているとまでは言い難いでしょう。新本格ムーブメントは、先行作品を裏切り「これのどこが本格だ!」と従来の読者を噴飯させるような、いわば「ルールは破らなければならない」というルールで進行したゲームでした。だからこそ、それまで本格ミステリに興味を持たなかった読者をひきつけたのです。

本格ミステリは若い世代からの支持を失ったのか?

 このような革新性が世代間の対立を招き、そして若い世代からの支持を失うことになったという後者の理由へつながります。飯田一史は東野圭吾『容疑者Xの献身』の評価を巡る、いわゆる『容疑者X』論争に象徴される世代間の認識のずれが埋められていないと指摘します。

 だが先にも述べたとおり、二〇〇〇年代を通じて我孫子武丸や二階堂黎人をはじめとする新本格の先行世代と、清涼院流水以降登場してきた佐藤、西尾、舞城王太郎ら若手をめぐる評価軸の対立は、デタントを迎えることなく、結果、若手作家の多くはミステリを離れた。さらには東野圭吾『容疑者Xの献身』評価をめぐって団塊世代の作家と新人類世代の作家や批評家のあいだの対立も深刻化した。いまの本格には、ジャンルをドライブする一体感もなければ、お互いを認め合ったうえで侃々諤々の議論によってあるべき姿を論じあうという光景も、ない。

 ここで、なぜ「若手作家」と「新本格の先行世代」が対立したのかという点が重要です。古くさいリアリズムに反旗を翻したかつての革命家たちは、なぜ新しい世代を受け容れられなかったのか。それこそが『21世紀探偵小説』の副題にある「論理の崩壊」へとつながっていきます。『容疑者X』論争で、脱格系こそ探偵小説の根本精神を継承しているとして支持を表明した笠井潔を有栖川有栖は批判しました。それに対し、笠井潔は次のように反論しました。

 欲しいから取るのが「愛」である点で、石神と西尾維新『クビシメロマンチスト』のヒロインは性格的に同型である。欲求と対象とのあいだに距離がない以上、いずれも動物的な存在といえる。しかし二人の作者による、動物的なものへの態度は対極的だ。動物的なもの(二一世紀性)を否定的に描いて探偵小説形式(二〇世紀性)から逸脱してしまう西尾と、動物的なものを一応のところ形式に収めてしまう東野。評論家は前者よりも後者のほうが、より「大きな玉子」だと判定した。しかし批評家のまなざしは、『容疑者Xの献身』ではなく『クビシメロマンチスト』のほうに、二一世紀探偵小説の可能性を見る。

 ここだけを引用してもわかりにくいのですが、大まかには次のようなことを述べたと理解してください。現代の社会状況を反映したならば、これまでの本格ミステリが守ってきた形式性、すなわち探偵役が手がかりを集めて推理を働かせ唯一の真実に到達することが「当然である」と考えるような常識はもはや通用しないと。だからこそ、本格形式が自壊した脱格系作品を支持すると表明したのです。そしてこの文章から六年近くが経過し「論理の崩壊」として具体的になにが起きているのかを整理したのが『21世紀探偵小説』となります。

 念のため補足しておくと、有栖川有栖と笠井潔の対立に代表されるような世代間対立は「容疑者X論争」のごく一部でしかありません。実際はもっと複雑です。皮肉にも、英米黄金期の探偵小説を理想とする論者もまた笠井潔と同じく『容疑者Xの献身』を批判していました。私には世代間という水平の断絶よりも、議論以前に議論の土台さえ摺りあわせることのできない垂直の断絶のほうが強く印象に残っています。

X論争黙示録
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 閑話休題。このようにして世代間の断絶が放置されたことで、若い世代へのアピール力を失ったといいます。飯田一史は十代の読者にノベルス離れが進行し、代わって中高大学生はライトノベル文庫を読むようになっていることを具体的な数字をあげて示しています。

 しかしいったいこのジャンルは、誰が継いでいくのか。一〇年前なら、西尾維新の戯言シリーズを読んでミステリ(らしきもの)を書こうと思った若年層の作家志望者は、いたかもしれない。いま西尾維新の『化物語』を読んでも、ライトノベルを書こうと思う人間しか現れないだろう。綾辻行人が島田荘司や笠井潔、連城三紀彦といったさらなる先達たちから(なかば勝手に)バトンを受け取ってはじめた新本格ミステリのリレーは、次にバトンを渡す若い世代がみえなくなりつつある。

本格ミステリはライトノベル市場を狙うべきか?

 以下、少し反論めいたことを書きます。反論というよりは、問題を正確に捉えるための説明といったほうがいいかもしれません。まずはライトノベルについて考えてみましょう。
 少なくともミステリがライトノベル市場で苦戦していることは明らかです。私はゼロ年代に諸処の資料を参考にしてライトノベル系ミステリのリストを作ってみたことがありますが、これは言い換えればリスト化できるほどしか作品が刊行されていないということです。

ゼロ年代ライトノベル系ミステリ注目作品リスト
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 逆にアスキー・メディアワークスが電撃文庫を〈卒業〉した読者向けとして創刊した一般文芸寄りのレーベル〈メディアワークス文庫〉にミステリ作品が多く、三上延〈ビブリア古書堂の事件手帖〉シリーズが大ヒットしたことにも表れているように感じます。
 鷹城宏は探偵小説研究会[編著]『本格ミステリ・ディケイド300』所収のコラム「ニアミスするライトノベル――ラノベと新本格の交渉史」で、ミステリを主軸とするはずだった富士見ミステリー文庫や白泉社My文庫、スニーカー・ミステリ倶楽部といったレーベルが消え、ライトノベルから一般文芸に作家が移動したり、むしろ一般文芸のほうからライトノベル的な感性・描写を窺わせる作品がでてきていることを解説しています。

 これにはいろいろな理由が考えられますが、私は漠然と、本格ミステリがリアリズムと闘争してきた歴史があるためではないかと考えています。わかりやすく言えば、ミステリは「オヤジ文化」から脱そうともがき、けっきょく脱し切れていないのではということです。
 例えば小学生から中学生が熱心に読むミステリとしてなにがあるか考えてみてください。それはシャーロック・ホームズであり、アルセーヌ・ルパンであり、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズでしょう。もしくは『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』といったマンガかもしれませんし、最近なら『ひぐらしのなく頃に』『うみねこのなく頃に』『逆転裁判』といったゲームかもしれません。
 それらは時代風俗が古びていたり空想的な設定が登場したりと適度に現実離れしています。当たり前の話ですが、あまりにも理屈っぽい話を好んで読みたがるような変わり者はごく少数派です。いきなり複雑な物語展開を愉しめる子供はそう多くはいません。カッコイイ正義の名探偵、悪の組織との対決、そういったわかりやすさに魅了されながら、徐々に推理の楽しさを理解していきます。子供が読む本には特有の明快さが必要です。

 新本格ムーブメントの当初は英米黄金期のルネッサンス運動だったと説明しましたが、それは一面に過ぎません。サークルに所属する大学生たちが旅行先で思いがけずクローズド・サークルに閉じこめられ連続殺人が起きる。あらすじからもわかる通りそれらは等身大の青春小説でもありました。形式美に満ちた世界を望みながらも絶えず失調を続けるような、プレ新本格の竹本健治『匣の中の失楽』に象徴されるように、それは90年代前後の自閉した若者たちの現実感を反映した小説でもあったのです。
 森・京極が理系や妖怪といったキーワードを媒介にして作家性の強い世界を創りあげたように、本格ミステリという形式性はどこか現実離れしているようでいて、むしろ大量の情報に埋もれ大量の物語を消費する現代人の感覚を精緻に表現する手段として機能してきました。
 こうしてミステリは新しい現実把握を可能にし、実際それが講談社ミステリーランドのジュブナイル作品の一部にも表れていると思います。しかしその高度な現実理解こそが、かつての少年探偵団やコナン・金田一少年にあった通俗さを犠牲にしているのではないか。現実の苦さと直面せざるを得ないようなミステリの悲劇主義的傾向がライトノベルとの親和性を損なっているように思うのです。
 1958年の松本清張『点と線』から半世紀以上が過ぎてなお、リアリズムの呪縛から本格ミステリが自由になりきれていないのかと考えると悩ましいものがあります。

 ただゼロ年代後半辺りから、ライトノベルのほうがむしろミステリが得意としてきた「等身大のリアルを描く」領域へ接近しつつあります。『生徒会の一存』『僕は友達が少ない』『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』といった、学校や家庭などのごく日常的な舞台を描く作品のほうが主流になりつつあるのです。
 実際、例えば玩具堂〈子ひつじは迷わない〉シリーズのように、身近な友人や家族の悩みを解消するにはどうすればいいかといった現実的な問題をミステリと一般文芸の両方の視点から描く画期的な作品も登場しています。日常系作品の人気を決定づけた「けいおん!」を制作した京都アニメーションによって2012年に米澤穂信〈古典部〉シリーズがアニメ化されたことによって、なにか大きな流れの変化につながっていくかもしれません。
 といって、今度こそライトノベルから見たこともない斬新な才能が生まれるとはあまり期待できないと思うのです。飯田一史『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』第Ⅳ部で〈涼宮ハルヒ〉シリーズを分析し、オタク第四世代ではオタク・コンテンツへの偏見や抵抗感が薄れてきたことと相まって一般的なエンターテイメントを期待するライト層が流入してきたことを説明しています。つまりライトノベルをミステリへ接近させるかもしれないオタク第四世代は、新本格ムーブメントに熱狂した第三世代のような、形式に挑戦する意欲や実験精神への興味を持ち合わせていないのです。

 結語として飯田一史は「いまこそ一〇代向けのミステリをもりあげていこう」(p.408)と提言しています。私は、そこに全面的には賛成できません。それをすることでひょっとすると第二のコナンや第二の金田一少年なら生まれるかもしれません。しかし、小中学生くらいの世代が求めるのは通俗的なわかりやすさであり、それまでミステリに興味の無かった者をひきつけるような強い求心性までは生まれないのではないでしょうか。
 もちろん、本当に第二のコナンや第二の金田一少年が生まれたなら、それはそれで良いことです。しかし本格ミステリというジャンル全体を再び活気づけるようなムーブメントにつなげるなら、せめて高校生か大学生以上を対象にすべきではないでしょうか。
 飯田一史はもう少し踏みこんで、一〇代向けというのはあくまで例に過ぎず「どんな読者に、どんな謎を、どんな推理方法で、どんな解明を提示し、どんな体験/感情を与える/催させるのかを設計し直す」(p.410)べきだと訴えています。要は、明確にターゲットを絞れということです。そこがどうも、ピンと来ません。ある特定の社会層がなにを求めているかなど、簡単もわかるものでしょうか。エンターテイメントとしてのごく当たり前なニーズと、ヒットにつながるような隠れたニーズとは異なるように思えます。
 新本格ムーブメント当初は多くの評論家やマニアが「いまどき館だの名探偵だの、なにを時代錯誤なことを」と思ったでしょうし、京極夏彦はあの弁当箱のような小説が売れに売れるなどと本気で予想したでしょうか。新本格ムーブメントはむしろ、大衆が安心して愉しめる通俗性に思考停止を感じて背を向け、若い作家たちが知的向上心だけを頼りに人工文学の可能性を手探りしてきたからこそ、奇跡的に時代の変化を先取りするようなことができた。そんな風にも思うのですが。

本格ミステリとはなんなのか?

 次に、本格ミステリは本当に衰退期なのか、そもそもそれはどういう状況を意味するのか考えてみたいと思います。さきほどミステリはオヤジ文化から脱し切れていないという話をしました。しかし、本当にミステリが若い世代に受け容れられていないかといえば、そうも言い切れない面があります。これは〈日本SF冬の時代〉と状況がよく似ていて、個人的には少し危機感を抱いています。

 現在もSFが冬の時代かどうかは、簡単には言えません。大森望が以下の記事で日本SF新人賞と小松左京賞の休止やSF専門誌「SF Japan」の休刊について書いていますが、その大森望責任編集による書き下ろし日本SFコレクション〈NOVA〉シリーズが巻を重ねたり、東京創元社主催の「創元SF短編賞」が2009年に始まったり「ハヤカワ・SFコンテスト」が再開するなど、なにやら隣の芝生は青そうにも見えます。

徳間書店のSF専門誌、11年の歴史に幕 - Ameba News [アメーバニュース]
http://news.ameba.jp/20110308-2/

 最近でこそ日常や学園を舞台とする作品が増えたとはいえ、まだまだアニメにしろライトノベルにしろ特殊なSF設定を用いた作品で占められています。ハリウッド映画の大半はCGを駆使したSF映画ばかりの印象があります。
 SF冬の時代という言葉は、ふたつの意味があるように感じます。ひとつは、世の中にSF作品は確かに多いけれど、ある一定水準を満たす高度にSF趣向を極めた作品の刊行数は少ないこと。ふたつめに、子供の頃は軽めのSF作品をほとんどSFとして意識しないまま読み、大人になると読まなくなり〈卒業〉してしまうようなジャンルとなっていること。いわばSFはどこか〈子供文化〉と化しているため、小松左京『日本沈没』や瀬名秀明『パラサイト・イブ』のように大ヒットを飛ばした国内SFが少ないのかもしれません。

 ちょっと、お伽噺をしましょう。新本格ムーブメントはひょっとするとSF夏の時代になっていたかもしれないと夢想することがあります。
 映画『スター・ウォーズ』は西部劇の馬や銃を宇宙船やライトセーバーに置き換えただけだと批判することができますが、これに「西部劇だってSFだ」と反論することもできるでしょう。「世界観や設定に高度な論理的整合性が備わった作品はすべてSFである」くらいの大胆な解釈をすれば、英米黄金期のルネッサンスを目論み極度に人工的なゲーム空間を描いた作品群は新しいSFムーブメントの出発点とみなされていたかもしれません。そこから先の森・京極にせよ、メフィスト賞受賞作品に代表されるジャンル・クロスオーバーにしても、現実には束縛されない人工的な作品世界を隅々まで設計しようとする意志が満ちていました。

 ジャンルの定義は曖昧です。例えば叙述トリックは新本格ムーブメントを支えた重要な技術です。しかし『21世紀探偵小説』所収の小森健太朗「叙述トリック派を中心にみた現代ミステリの動向と変貌」では、1950年代に活躍したマーガレット・ミラーなどサスペンス派の作家が発達させた技法として紹介されています。
 鮎川哲也など一部の作家はこれを犯人当て小説で読者に真相を見破らせないための稚気に富んだ技巧として利用しました。新本格ムーブメントの先頭に立った綾辻行人もこれを受け継ぎ、私を含む当時の読者に登場人物のたった一言で「世界が崩壊するような感覚」を味わわせました。
 サスペンスの手法が真相を伏せるための補助手段として利用され、それが読者に新鮮な驚きや感動を与える小説技法となり、遂には「現代本格では叙述トリックを使うと、本格ものど真ん中であるかのような把握が一般的になってしまった」(p.263)と称されるまでになったのです。

 逆の例も挙げてみましょう。高度に論理的で知的な思考が描かれているにもかかわらず、なぜか本格ミステリの範疇に必ずしも含まれない作品が数多くあります。
 例えば土橋真二郎〈扉の外〉シリーズ、明月千里〈月見月理解の探偵殺人〉シリーズ、御影瑛路〈空ろの箱と零のマリア〉シリーズといった強制ゲームを扱った作品で展開される推論は、一読しただけではなにが起きたのか理解しがたいほどの複雑さがあります。特に〈月見月理解の探偵殺人〉シリーズでは殺人事件が発生し探偵役が真相を推理する一般的なミステリとしてのプロットと強制ゲームが絡みあう話もあるため、本格ミステリとの線引きが困難な作品になっています。
 いかにして刑務所から脱走するかといった脱出テーマの作品や、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』など特殊能力者たちの知的バトルを描いた作品もあります。特に後者はマンガやライトノベルにも多数の作品があり、これを本格ミステリの範疇に数えるならばそれだけで大きく印象が変わるでしょう。
 これらが本格ミステリとして扱われないのはなぜでしょうか。読者にフェアではないから、ただひとつの答えがあるわけではないからとも言えます。もしくは、本格ミステリがたどってきた伝言ゲームにも似た作品同士の連なりの歴史と流れが独立していることが影響していないでしょうか。しかし、それは叙述トリックのようにひょんなことから交わる可能性があります。

 より範囲を広げれば、ストーリーの魅力として謎を活用することはごく一般的に行われていることです。料理マンガではどんな工夫で料理を美味しくしたのか秘密にされますし、スポーツマンガでは敵がどんな工夫で主人公の能力を凌駕したのかすぐには明かされません。正体や目的が不明の怪人物が登場したり、ヒロインの意味ありげな過去のワンシーンが繰り返し伏線として示されたりします。
 ジャンルの定義が曖昧だから、本格ミステリが衰退期にあるかどうかは人それぞれだ、などと言いたいわけではありません。本格ミステリにはかつて冬の時代があったと言われています。これについて検証した森下祐行氏は、それが単純にあった、なかったというような結論はしていません。それは「本格ミステリとはなにか」という問いへの認識と密接に関係しています。

「本格ミステリ冬の時代」はあったのか
http://www.asahi-net.or.jp/~jb7y-mrst/YUT/SP/FUYU01.html

 新本格ムーブメントを長く支え続けた叙述トリックの技法が、本来は本格ミステリの範疇には無かったにもかかわらず本格ミステリの代名詞となり、その一方で高度に知的な推論や描かれても本格ミステリとはみなされていない作品がある。本格ミステリが第二の冬の時代にあるかどうかより、本格ミステリがどのように変容し、人々がなにを以て本格とそうではないものを区別しているのか意識のありようを探ることのほうが本質的に重要な問題だと思うのです。

 なにを言いたかったのか、まとめましょう。ちょっと『21世紀探偵小説』を読むと、英米黄金期を理想とする堅実な推理の積み重ねを中心としてきた「ご立派な本格探偵小説」が21世紀になって突如危機を迎えたと理解する読者がいるかもしれません。しかし、それは間違いです。
 本格ミステリは絶えず危機にさらされ、絶えず社会状況の変化に応じてそのスタイルを変えてきました。あまり本格ミステリを読んだことがない人々が一般的にイメージする、ポアロや金田一耕助といった名探偵が皆を集めて真相を語るスタイルの作品が本格ミステリのすべてではありません。
 なんとなく文章の調子からすると『21世紀探偵小説』を批判したように聞こえたかもしれませんが、そうではありません。現代の社会状況がどのように作品内論理に影響を与えているか分析することを通じて、本格ミステリのイメージを刷新すること。これが、本格ミステリが衰退期にある(ように見える)からこそ為すべき評論の仕事です。ただ、それが近年になって突然起きたわけではないことだけは補足すべきと感じたため、このような文章を書きました。

 むしろ現在は、新本格ムーブメントがあまりにも成功した影響で、本格ミステリとしての評価が重視されがちなために、それこそが新しい冬の時代を招く恐れを心配すべきかもしれません。「本格ミステリ=英米黄金期の本格ミステリ」という強いイメージがかつての本格ミステリ冬の時代を生んだのなら「本格ミステリ=新本格ムーブメント」という固定観念が次の新しい冬の時代を生むかもしれません。それはSFが自由な文学でありながら、どこか「SFとはこういうものだ」という強いイメージに呪縛され、冬の時代が続いているように見えることと似ていないでしょうか。ここで停滞したなら、ずっと停滞したままです。

本格ミステリに新しい才能は生まれていないのか?

 各論にも触れたかったのですが、やたら長くなってしまったため最後にちょっと苦言を述べて終わりにします。個人的には本の感想として「俺の期待していたことが書いていなかった」という意見はなんの参考にもならないと思います。ただやっぱり、どうもこの評論集は最新のミステリシーンに追いついていないように読めるのです。
 最初のほうでも書きましたが、新しい才能は現在も継続して登場しています。似鳥鶏(2007年デビュー)や相沢沙呼(2009年デビュー)らは東京創元社のお家芸とも呼ばれた「日常の謎」をライトノベル的な感性で学園小説と融合させています。若い世代向けのミステリをもっと盛りあげようという提言をしながら、なぜこの辺りの動きが紹介されないのかよくわかりません。

 綾辻行人は読者にはフェアな犯人当てとしてのロジックを提示しつつも作品内では論理構築が極端に困難な作品『Another』がアニメ化までされ若い世代からも支持を受けました。「端整な本格」の代表とされた有栖川有栖もまた探偵役を極端に推理が困難な状況に追いこむ作品を継続的に発表してきました。謎の提示とその論理的解明という線を死守しつつも、本格ミステリの根幹をみつめなおし自明性を疑うような、ぎりぎりまで追い詰められる場にあえて身を晒そうとしています。

虚ろの騎士と状況の檻――ゼロ年代本格ミステリからセカイ系への応答〈試供版〉
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推理が探偵を殺す〈試供版〉
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 上述の通り笠井潔は探偵小説の形式性を保ち続けることは現代の社会状況を反映したならば不可能だと述べました。私はそれに半ばうなずきながらも、半ば首を振りたいと考えています。綾辻行人や有栖川有栖が形式性を保ちつつもそれが一瞬の油断で崩れかねない最前線に立とうとしています。
 これはどこか、2007年デビューの古野まほろに重なるところがあるように感じます。古典的本格探偵小説への信奉をたびたび表明しつつも、それでいて過剰な多重推理や執拗な論理展開に伝奇小説的趣向への逸脱する姿はどこか脱格系を連想させるものがあります。形式性の死守を最前線として脱格系と新本格第一世代がせめぎあう戦場では、もはや謎とその論理的解明が保てるか保てないかの線引き自体には意味がないのではないか。2009年デビューの円居挽『丸太町ルヴォワール』や城平京『虚構推理 鋼人七瀬』(2011年)ではもはや不可知論的状況が決定的になった世界が描かれており、そこでは旧来の本格ミステリファンも納得するほど論理的な推理が展開されつつも脱格系らしさが矛盾無く溶けこんでいます。
 要するに「団塊世代の作家と新人類世代の作家の対立」などという簡単な構図はとっくに終わっているのではないでしょうか。論理が壊れる壊れないなどという問い自体が無効化した、もっと複雑な状況へと移行しつつあるように感じるのです。