《解説》

CRITICA第7号

 評論「推理が探偵を殺す」の一部を試供品として以下に公開します。
 本稿の全文は探偵小説研究会機関誌「CRITICA」第7号に掲載されます。「CRITICA」の詳細、入手方法については以下のリンク先を参照してください。

探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/

「CRITICA」:探偵小説研究会
http://tanteishosetu-kenkyukai.com/critica.htm

 構成は以下の通りです。

  • 第一部 本格ミステリは政治的に正しいのか
    • 第一章 本格ミステリと他者性
    • 第二章 他者性のふたつの極
  • 第二部 不思議の国の名探偵
    • 第一章 最善を尽くした探偵
    • 第二章 真夜中の探偵
  • 第三部 名探偵に自由はあるか
    • 第一章 責任が探偵を殺す
    • 第二章 自由が探偵を殺す
  • 第四部 名探偵は政治的に正しく在るべきか

 全知全能の空想ヒーローではなく現実的な問題解決のエキスパートへ、ゼロ年代後半から顕著になりつつある名探偵像の変容とそこから生じる問題を、名探偵の政治的な態度をキーワードとして浮き彫りにします。
 第一部では基礎論として、正しい現実把握のためには論理性だけではなく他者性が重要になること、他者性にはマクロ-管理の視点とミクロ-個人の視点というふたつの極があることを解説します。管理の視点に偏れば社会的責任のため実存を犠牲とし、個人の視点に偏れば他者の欲望に自由意志を疎外されるという形で、いずれにせよ思考の自由が損なわれることを示します。
 第一部を踏まえたうえで、第二部と第三部では具体的な作品解説に入ります。第二部では有栖川有栖の試みをなぞります。社会正義が通用しない苛酷な状況で、それでもイデオロギーに染まらずニュートラルな思考を保ち、真実の共有こそ最善だと関係者すべてを導く理想的な名探偵像について「モロッコ水晶の謎」『乱鴉の島』『女王国の城』『闇の喇叭』『真夜中の探偵』から読み解きます。
 第三部では逆に、そのような理想的名探偵像が、他者性のふたつの極へ偏ることによって失調した例として米澤穂信『折れた竜骨』と古野まほろ『命に三つの鐘が鳴る』を採りあげます。
 第四部では、名探偵像がなぜ変容しつつあるのか情報環境の発達と社会のコンサマトリー化から推察し、そして「推理が探偵を殺す」問題が本格ミステリにとってどのような意義があるのか考察します。
 以下「推理が探偵を殺す」の第一部と第四部を公開します。一部、作品内容(真相、犯人、トリック)に触れる箇所を、文字色を背景色と同じにすることで隠蔽しています。その箇所を読むには文章をマウスで選択するかボタンを押して下さい。

第一部 本格ミステリは政治的に正しいのか

第一章 本格ミステリと他者性

 おまえは間違っている。いったい誰が、そう囁いてくれるのか。おまえはなにもわかっちゃいない。私の背を突き飛ばし、高らかに哄笑しながら蔑んでくれるのは誰なのか。
 他者性とはなにか。この問いについて考え始めたとき、心に浮かんだのは神経科学者のV・S・ラマチャンドランが紹介していたある患者のエピソードだった*1。英国オックスフォードのリハビリテーションセンターで、その女性の生気のない左腕をつかみ、目の前に示し、誰の腕ですかと訊ねた。「兄の腕です」と患者は答えた。彼女の兄は海を越えたテキサス州にいたというのに。
 右頭頂葉に損傷を受けた人々の一部には、左半身の麻痺を無視もしくは否認する傾向が生じる。疾病否認と呼ばれるこの現象の現れ方は人によってさまざまで、手を動かしたくないだけだと言い訳したり、ありありと幻の左手を目にしているかのような言動をしたりする。ふるまいや知性の面ではまったく正常に見えるにもかかわらず、左半身の麻痺だけは頑なに認めようとしない。
 ラマチャンドランはこの奇妙な現象が生じる背景を次のように推察している。疾病否認は右頭頂葉の損傷で生じるが、左脳の損傷では発生しない。左右の大脳半球には機能的な役割に違いがあり、言語に関する処理でも左脳は統語や意味の解釈を担当するのに対し、右脳はメタファーや寓意といった多義的な表現の解釈に関与する。右脳は木々を森として見る、顔の表情を読むといった感情を喚起する状況に対し適切な感情で反応する、全体観的な側面に関与する。
 左脳は感覚入力を経て流れこんでくる大量の情報を整理し、内的な一貫性がある安定した信念体系を構築する。それに対し右脳はおおまかな状況把握を担当し、全体的な不整合性があまりに大きくなったときには左脳の構築した信念体系を壊し、一からやりなおさせる役割を果たしている。矛盾を検出する機構を持つ右脳が損傷していると、誤った現実把握が訂正されないまま妄想の袋小路へと迷いこんでしまうのだという。
 脳機能がどのように局在しているか完全には解明されていない現在、この説明はあくまで仮説に過ぎない。しかし、人が状況を正しく把握するためにはなにが必要なのか考えるとき、この奇妙な症例は重要な示唆を与えてくれる。論理の力だけでは事実を知ることはできない。整合性が破壊されて初めて目を向けることができる現実がある。
 ある謎を説明する十の仮説があり、それを九つまで否定することができたなら、どんなに信じがたくとも残された最後の仮説こそが真実だろうか。麻痺した自分の左腕を兄の腕だと答えた患者は、なぜそう思ったのか理由を問われ「大きくて毛深いからです。私の腕は毛深くないですから」と答えたという。論理的探求の末に残された唯一の信じがたい仮説を信じるよりは、問題の前提そのものを疑うほうが健全な思考ではないだろうか。

 本格ミステリは人を固定観念の檻から解放し自由にさせる。もしくは自由にさせるものでなくてはならない。このような主張は長くミステリを愛読してきた者なら素直に首肯できるだろう。名探偵は政治的圧力に屈することなく、公正中立な立場から、無垢な幼子のような曇り無き瞳で諸事実をみつめ、錯覚や偏見に起因する思い込みを打破する存在でなければならない。
 二〇〇五年十一月、二階堂黎人は自身のウェブサイトにて東野圭吾『容疑者Xの献身』は本格ミステリではなく、従って本格として優れていると評価するのは問題があると述べた。これを端緒として主に早川書房「ミステリマガジン」での誌上討論「現代本格の行方」を中心とした、いわゆる『容疑者X』論争が一年近く続いた。
 小森健太朗は「ミステリマガジン」二〇〇六年七月号で、ある人物の独特な信念が描かれる『容疑者Xの献身』や、性善説を推論の基盤にする石持浅海『セリヌンティウスの舟』が「自らが幻想的に築き上げた友情なり恋愛の物語を死守しようとする人物が主人公」「主役たちが推理しようとせず、自らの物語世界にはまりこもうとする現代人の感性が反映されている」(一〇一頁)点で共通していると指摘した。

 推理を働かせるためには、自分自身の信念や仮説、幻想にしがみついていてはならない。自分が正しいと信じることや仮説や信条がそのまま通用するとは限らない。そのことをわきまえ、自分の信念や信実を一旦わきにおくことが必要だ。そして整合性を有していない事態に対面して、それに整合性のある説を見いだすまでは、目の前の事態との対峙を余儀なくされる。推理するためには、人は自分の信じる世界の外に出なければならない。

 小森は続けて石持浅海『扉は閉ざされたまま』において探偵役が犯人と奇怪な倫理観を共有していることを問題視し「石持と登場人物たちとの間に、批評的な距離観はなく、作者自身がこの倫理観を、疑われない前提としているように読める」(一〇二頁)と推察した。そのうえで、このような倫理観が違和感なく世間に受け容れられているのだとすれば「それはもしかしたら、二十一世紀小説の新しい可能性をひらくものなのかもしれないが、私には現代の病みを反映している面の方が大きいと思える」(一〇二頁)と結んでいる。
 疾病否認のエピソードから明らかなように、人が正しく現実を理解するには論理性だけではなく他者性も重要だ。たとえ虚構であろうとも、本格ミステリが真実を求める文学ならば、小森の主張通り作者ならびに探偵役は固有の信念に囚われてはならない。あらゆる価値観に対し批評的な距離感を保ち、読者に真の意味での自由を与えるものでなくてはならない。
 本稿は最終的に、おおむね小森の意見に同意する。ただ、ほんの少しそれを精緻に論じたい。本格ミステリは政治的に正しいのか。名探偵は公正中立の立場を保ち、事件の関係者と読者に自由を与える存在で居続けることができるのか。私は、それができないとは思いたくない。ただ、そのことの困難さをここに示したい。
 自分の信じる世界の外へでること、公正中立な立場を保つこと、自由であること。果たしてそれらすべてを単純に等号で結ぶことはできるのか。いくつかの作家と作品の試みを確認し、それらが二十一世紀小説の新しい可能性をひらくものであったか考えてみたい。
 第二部では有栖川有栖の〈空閑そらしず純〉シリーズを中心に、真実の共有が必ずしも望まれない特異状況下で探偵役の推理が政治的なものへと変質していく過程を解説する。そこで有栖川が目指す理想の名探偵像を確認した上で、第三部では米澤穂信『折れた竜骨』と古野まほろ『命に三つの鐘が鳴る』とを対比し、名探偵が政治的な正しさを保つことの困難さを浮き彫りにする。
 だが作品論に入る前に、もう少し他者性とはなにか整理しておこう。まずは他者性にふたつの極があることを紹介し、それが自由という概念とどのように対応するのか考察する。

第二章 他者性のふたつの極

 二〇一一年三月十一日午後二時四十六分、宮城県牡鹿半島の東南東沖でマグニチュード九・〇の地震が発生した。死者および行方不明者が二万人を超えた東日本大震災の経験を踏まえて、日本のSFが蓄積してきた思索を再検討し、新たな提言を行うことを目的として刊行された『3・11の未来』に、瀬名秀明は「SFの無責任さ」と題した文章を寄せている*2
 人は誰もがシンパシー(共感)の能力を有している。赤ん坊は母親の笑顔を模倣して微笑む。母親の気持ちを理解しているわけではなく、ほとんど自動的に笑顔を作る。模倣から始まった感情表現は、やがて他者の感情をごく自然に我が身のことのように胸を痛める共感へと発達する。
 瀬名は、シンパシーと似て非なる、エンパシーという概念を説明する。それはシンパシーの延長にある「自分とは境遇が違いすぎてとてもシンパサイズできない相手でも、相手の内面に入りこんで気持ちを忖度し、理解し、そのうえで一体化してゆく」(一二五頁)能力だという。
 SFはときに無責任に見える。しかし「真に無責任であるということは、その宿業を負いながらも、世界に対する透徹したまなざしを持つということ」(一二三頁)だという。地球規模、宇宙規模といった巨視的なまなざしを持つこと。マクロな存在にエンパサイズしたうえで、そこから等身大の人間に対し、単なるシンパシーではない思いやりの心を持つこと。

 空想すること、物語を愉しむこと、地球を思いやり、宇宙をイメージすること。地面が揺れ、津波が家屋をさらっても、季節は変わり桜は咲くように、それは私たち人間の摂理である。私たちが人間であること、それが震災に対するただひとつの勇気であり希望なのである。人間であることの無責任さが私たちの未来をつくるのならば、私たちはその無責任さを負って、いまだ見えない他者を思いやるのである。

 一方、同じ『3・11の未来』に藤田直哉が寄せた「無意味という事」では、SFが果たす役割について瀬名とは異なる意見が述べられている。日本SF第一世代は小松左京に代表される「実存にとって宇宙とは何か、宇宙にとって実存とは何か」という「意味への問い」に対し、筒井康隆に代表される「無意味の肯定」の同居からスタートし、その後も日本SFは科学や進歩を盲目的に肯定してきただけではなく、その反動を含みこんだダイナミズムのなかを生きてきたという。
 親しい人や家族の死を受け容れられず、悲惨な体験を意味ある物語にしようと人々はあがく。神なき世界で死や大災害や生に意味を与えられるのは自分自身しかいない。しかし、しょせん人は神ではない。「神のように意味を自分たちに賦与しながら、同時に自分たちが神ではないことを深く自覚」(三六二頁)しなければならない。

 「神」であるとは同時に、倫理的な裁きを与える存在であるということでもある。「道化師」はその神の倫理を嘲笑することで、「神の倫理」に対して「倫理的批判」を行う。「神の倫理」を放置すれば、硬直し、教条化された倫理主義の暴力が吹き荒れるだろう。しかし、ただ「道化」の祝祭を放置するだけでも世界は壊滅するだろう。

 瀬名が主張したように、日本SFは巨視的な視点から等身大の人間について在るべき姿を想像してきた。日常的な感性からは無責任としか思えない放言はしかし、他者への真の思いやりとなる。藤田が指摘したのは、日本SFには別の流れもあることだった。人は巨視的な時間と空間の広がりのなかではしょせん砂粒のような存在でしかない。その無意味さを自覚したとき、神の倫理に抗う道化師の祝祭が始まる。
 SFは、ミステリと同じく他者性の文学だ。それは科学法則や技術の発達、久遠の時の流れといった一個人にはどうすることもできない世界の広がりを描く。だが、それがSFのすべてではない。黎明期においてジュール・ヴェルヌが当時最新の科学技術を駆使したのに対し、H・G・ウェルズはタイム・マシンや身体を透明にする薬を空想科学的に発明し、現実世界の条理に束縛されない想像力を発揮した。
 神に課せられた戒律を嘲笑い、踏みにじること。人は自身の心の内に、もうひとつの他者性を眠らせている。世の不条理を受け容れず、無意味な死に意味ある物語を求め、他者との永劫のつながりを求める心。論理では決して割り切ることのできない原始的欲求もまた、この世の条理と等しく個人にはどうすることもできない。
 他者性には、ふたつの極がある。一方は神の側、人間を悠久の時と無限の空間に漂う塵芥のごとくみなす視点にある。他方は実存の側、血反吐を味わいながら神を嘲笑い生の無意味さにむせび泣く、等身大の人間の視点にある。しかし、なぜこのような違いが生じるか。他者性が、人をたったひとつの真実に導いてくれるものならば、他者性そのものもまた美しく整合性がとれた唯一無二のものであるべきではないか。

 ここで正しさという概念について整理しておきたい。もしも名探偵があらゆる知識を有し、事件現場の観察からそこに潜む法則性を漏れなく見出せるならば、犯人の名前はおろか犯行時の一挙一動を、いやそのとき犯人の脳裏を過ぎった刹那的な思考ひとつひとつすら推理の力で言い当てるだろう。ミステリの始祖とされるエドガー・アラン・ポーが「モルグ街の殺人」でデュパンに語り手の心を読ませたように、充分なデータと観察力、そして理性の力さえあれば、神ならぬ身でもラプラスの悪魔になれると考えたのが近代科学的な正しさだった。
 しかし現代のミステリ読者ならば、このような空想的名探偵の実在を信じないだろう。法月綸太郎は「初期クイーン論」にて*3一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて数学や論理学、芸術といった諸方面に影響した形式主義をS・S・ヴァン・ダインがミステリに採りいれたことを説明している。フェアプレイの遵守や科学的合理性の担保といったルールを設けることで「従来の推理小説から文学的・人間主義的な意味をはぎ取り、人工的・自律的な謎解きゲーム空間を構築する」(一七六頁)ことを目指した。
 形式主義的な正しさとは、ひとつの問いに対し答を求めるだけなら全知である必要は無いということだ。被害者を殺害した犯人Xに当てはまる名前を探すために、殺害現場の書斎の卓上にどんな微生物がいたかまで知る必要は無い。必要最低限の諸事実とその間に成立する法則さえ確かであれば、意味を考えることなく記号的論理操作だけで解を得ることができる。
 この姿勢を受け継ぎ理想の形にまで高めたエラリー・クイーンはしかし、やがて探偵小説形式の無底性に直面する*4。真実を結論するのに満足な、下位レベルの情報をどこで切り捨てればよいのか。ある証拠がただ単に証拠なのか、それとも名探偵を誤った方向へ誘導しようとする偽の証拠なのか、解釈を確定することはできない。
 一九八七年の綾辻行人『十角館の殺人』に端を発する新本格ムーブメントの作品群もまた、別の可能性を探り続けたといって良いだろう。叙述トリックが明かされたとき、読者は問題の前提理解そのものが誤っていたと知る。御手洗潔や京極堂といったキャラ立ちした名探偵たちは、データベースにアクセスするかのごとく時代と国境を飛び越え諸方面の知識を駆使し謎を解く。日常の謎が解き明かされたとき人は初めて自分の生きる日常に豊かな蓋然性が眠っていたことを知る。そこでは論理的整合性だけではなく、外部へ目を見開くことが求められてきた。
 しかし、他者性とはなんだろうか。論理性であれば、それは誰もが有している。記憶力や言語能力と等しくそれは脳の機能のひとつだからだ。ここまでの文章を理解してきた知的能力者なら「AならばBかつBならばCのとき、AならばC」という文章の正しさを否定できない。論理を駆使する能力に多少の得手不得手はあっても、時間をかければ誰もが名探偵の謎解きに満足する。
 だが他者性は本来、そのように都合の良いものではない。問題の前提把握を誤っていたなら、その新たに明らかになった前提もまた間違っている可能性はないのか。特殊知識の有識者でなければ解くことができない事件になぜ都合良く有識者が関与するのか。複雑怪奇であらゆる未知の法則に満たされた世界を見通すことなどしょせん不可能ではないか。
 他者性は外部条件によって規定される。都合良く推理に足る情報が労せずに得られるなら、それは形式主義的な正しさと本質的に変わりがない。有限の情報処理能力しか持たない人間は、常に有限の情報から判断を下さなければならない。情報が不足していることを承知の上で、手持ちの材料をやりくりして仮説を構築し、事件の関係者に耳を傾けさせ、正しいと信じさせるだけの理屈を整えた推理を披露しなければならない。
 不可知の領域があることを承知の上で、それでもなお真実の共有こそが最善の策だと他者を説得する推理。それは政治的な正しさに過ぎず、もちろん不完全なものだ。だが、全知全能の近代科学的な正しさや、細部を切り捨てて良しとする形式主義的な正しさに背を向けるのならば、この政治的正しさがどのようなものなのか理解しなくてはならない。

 一口に政治といっても、国政から猿山のボス争いまでさまざまだ。ここでは簡単に「最適解が不明な状況で問題解決のために必要な意志決定のための行動」としておこう。問題解決のための最適な手段が誰にでも合理的に判断できるなら政治が不要なのは明らかだ。
 政治的な正しさとはなにか。それは、正しさを考える仮想的な主体をどのように定義するかによって、違いが生じてくる。例えばイギリスの哲学者フィリッパ・ルース・フットが提案した思考実験を参考に考えてみよう。
 トロッコを運転しているとする。前方を見ると、五人の作業員が線路上に残っていた。あわてて速度を落とそうとするが、ブレーキが故障している。このままでは五人の命を奪ってしまうことは確実だ。待避線のほうへ進路を変えるべきか。しかし、そちらにも作業員が一人残っている。五人もの命を奪うくらいならば、一人の作業員を犠牲にするほうがましだろうか。
 判断材料がこれだけしか与えられていなかったなら、一人を犠牲にするしかないと考えるかもしれない。だが、待避線にいたのが自分の親しい人物だったならどうか。恋人や家族ならば、たとえ五人の命を犠牲にしてでも守ろうと決意することはないか。
 もう少し考えてみよう。待避線にトロッコ運転士の恋人がいたならば、五人のほうを犠牲にするという判断もありえるかもしれない。もし運転士が別人で、五人のうちの誰かの家族であれば、待避線の一人を犠牲にするしかないと考えるだろう。総員の納得できる妥協点を見出すには、その事態に関わる人々それぞれの利害を理解することが必要だ。
 第一の回答、ひとりひとりの人間をただの真っ白な箱のように等価のものとして眺める管理の視点に立つならば、そこには「一より五のほうが大きい」という単純な算術しか生じない。しかし第二の回答、個人の視点から一人一人の人間を他に代用などありえない価値ある人間としてみつめたならば、下すべき判断はまったく異なってくる。そして第三の回答、さまざまな人の立場から考えられるあらゆるケースを考慮し議論し尽くさなければ、公正な判断を見いだすことはできない。
 マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』では正義に対する三つの考え方を比較している*5。第一の考え方、最大多数の最大幸福のためには少数の犠牲もやむなしとする考えには二つの欠点があるという。
 一つ目の欠点は「正義と権利を原理ではなく計算の対象としている」(三三五頁、以下の引用も同じ)こと、二つ目は「人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準に当てはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しない」ことだ。これは先に説明した、トロッコ問題にて個々人を単なる数値としかみなさない管理の視点からは「一より五のほうが大きい」という単純な算術が判断根拠となってしまうことからわかるだろう。
 第二の考え方、個人の選択の自由を最大限に尊重するならば、一つ目の欠点は解消される。だが二つ目の欠点は解決しない。それは「尊重に値する権利を選び出すことはせず、人びとの嗜好をあるがままに受け入れ」てしまうため、質的な違いを考慮しておらず、むしろ独善的な価値観を増長させ公正な社会を実現できないからだ。
 公正な社会を達成するには「善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を」作りださなくてはならない。こうしてサンデルは正義についての第三の考え方、正義には美徳を涵養すること、共通善について判断することが含まれると結論する。
 ここまでに説明したことを踏まえた上で、自由という概念についても整理しておこう。自由という言葉は、一般的には意志の遂行が他者に阻害されないことを意味する。だが、他者性が自由を制約し、かつ他者性にふたつの極があるならば、自由にもふたつの極があることは自明の理だ。
 横井司は「泡坂ミステリ考」[「泡」は正しくは「己」ではなく「巳」]で泡坂妻夫「G線上の鼬」などを論じたうえで「泡坂ミステリは、我々が常にある種の思考パターンにとらわれていることを露わにすることで、我々が安易にそうしたパターンに陥らないよう戒めてくれている」(一二九頁)と指摘する*6

 ミステリは自由にも関わるし管理にも関わる両義的なテクストなのである。固定観念にとらわれない視点を提供するという意味において、ミステリは自由をもたらすテクストである。伏線を通して特定の認識へと導かれるという意味において、ミステリは管理するテクストである。泡坂妻夫のテクストはミステリのこのような両義性をよく象徴しているように思われる。

 世界を一望する管理の視点に立ち、自分自身すら他人と等しく盤上の駒とみなすとき、人は自分の属する社会のためになにを為すべきかを見出す。これは、自由というより責任という言葉で呼ぶほうがわかりやすいかもしれない。社会の不条理を引き受け、それでもなおすべてを望ましい方向へと進めるためにできるだけのことをする自由を得ること。だがそれは同時に、自分自身さえ群衆の中の矮小な一人に過ぎないことを受け容れることでもある。
 個人の視点からすれば、自由とは他者に行動を制限されないことだ。しかし、自由を求めるあまり社会から目を背け、周囲との交流を失うことは別の不安を呼びよせる。他者の欲望に知らず知らずのうちに支配され、操られているのではないかという不安。自分のいる閉じた世界は小さな箱庭に過ぎず、大きな陰謀にたやすく脅かされるのではないかという不安だ。
 管理の視点に近づけば世界全体を一望する権利を得るが、引き受ける責任の重さの分だけ自身をすり減らすこととなる。個人の視点に近づけば最大限の自由意志を獲得できるが、代わりに自分が他者の欲望に支配されているという陰謀に怯えることになる。
 ふたつの自由はトレードオフの関係にあり、問題を考える上でどのような情報に着目するか、仮想的な主体を管理の側あるいは個人の側のどちらに引き寄せるかで結論は異なってくる。そして、どちらに引き寄せるべきか個人にそれを選択する権限は必ずしも与えられない。他者性とはその言葉の意味からして個人にはままならぬものであり、必然的に名探偵もまたどちらの自由を得るか選択することは必ずしもできない。
 ここまで説明してきたことをまとめよう。第一に、人が正しく状況を把握するには論理性だけではなく他者性を必要とする。第二に、他者性は外部的な条件であり、情報処理能力に限界がある人間は必要十分な情報をそろえたことを確信することはできず、あくまでも政治的な正しさしか保証できない。第三に、政治的な正しさは仮想的な主体をどのように定義するかによって違いが生じてくる。
 物語内現実において事件と向きあう名探偵に、仮想的な主体を自由意志で選択できる保証はない。本稿はこれから具体的に作品の詳細な読解を通じて、神ならぬ身の名探偵が管理あるいは個人の視点へと接近することで、知らず知らずのうちに自由を失い、自身の推理によって殺される問題について検討していく。

...ここから各作品論に入ります...

第四部 名探偵は政治的に正しく在るべきか

 瀬名秀明は前掲の「SFの無責任さについて」にて、東日本大震災で直接の被災地ではない場所に暮らし電気や情報インフラの被害を免れた大多数の日本人が、溢れかえる情報が気になってならずツイッターやニュースに釘付けとなる情報災害を受けたと述べている。
 家族が癌と診断された者は必死になり、ときに専門家を凌ぐほど大量の情報を蓄積する。だが、そのような人々が本当に必要とするのはディシジョン・メイキングを助けてくれる主治医の言葉だ。専門家同士だけで閉じこもり、科学的知見から真理が確定できさえすれば事足れりとするのもよい。だが、有事のときに人々の安全を確保できるよう普段から鍛錬を欠かさないプロフェッショナルが組織にひとりはいるべきではないかと瀬名は主張している。
 古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』によれば、増える一方の非正規雇用、ワーキングプア、厳しさを増すばかりの就活戦線、ネットカフェ難民たちといった不幸なイメージとは裏腹に、現代の若者たちはむしろ生活に満足し幸せを感じているという*7。さまざまな世論調査の数字によれば「若者が元気だったらしい一九七〇年代と比べても、新人類が闊歩していたらしい一九八〇年代と比べても、バブルがはじけても世間はまだまだお祭り気分だった一九九〇年代と比べても」(九八頁)現代のほうが生活満足度が高い。
 ところがその一方、生活に不安を感じる若者の数も同じくらい高いという。内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、日頃の生活で悩みや不安を感じているかという問いに「不安がある」と答えた二十代は二〇〇八年には六七・三%に達し、逆に「不安がない」二十代はバブル崩壊以降ずっと減少傾向にある。
 このどこか矛盾した調査結果について大澤真幸の仮説が紹介されている。高度成長期やバブル期には「今日よりも明日がよくなる」と信じることができたため、むしろ今は不幸だと考えた。逆に、希望が見えない暗い時代には、自分がこれ以上は幸せになると思えないため「今の生活が幸せだ」と答えるのだという。
 古市は幸せな若者の正体をコンサマトリー(自己充足的)化という用語でも説明している。なんらかの目的達成より、仲間たちとのんびり自分の生活を楽しむ生き方への志向が一九七〇年代から徐々に進展してきた。人は自分の所属する集団を基準に幸せを考える。世間という準拠集団を喪失し、仲間たちとの小さな島宇宙に生きる若者たちには、社会の問題が自分には無関係に感じられるのだという。
 ただその一方で、変わらない仲間と過ごす日々は、長く続きすぎると閉塞感をもたらす。それを打破する魅力的でわかりやすい出口、非日常へとつながっている経路を若者たちは求める。古市は「とにかく何かをしたい」「このままじゃいけない」と焦る若者たちの、ナショナリズムや東日本大震災におけるアクションを紹介する。
 動画サイトやSNSを利用したインターネット経由の活動がこれらのアクションの背景にある。しかし古市は、震災ではソーシャルメディアの脆弱さが明らかになったという。福島第一原子力発電所の事故が発生してからは、放射性物質の危険性について膨大な情報が流れた。大学教授など専門家が何人も登場し、そんな御用学者は信用するなという情報が流れ、そして素性不明な専門家たちも参入してそれぞれが独自の説を披露する。

 この状態自体は別に問題じゃない。文系の学問でもそうなのだけど、そもそも科学というのは「たった一つの真実」を教えるものではないからだ。科学者たちが実験で明らかにできるのは「間違っていたら他人が反論することができるデータ付きの仮説」に過ぎない。そしてお互いがお互いの仮説を批判し合いながら、何とか「より間違いが少ないだろう仮説」を築き上げていく営みが科学だ。
 その意味で、インターネット上では「原子力と放射能の危険性を巡る大科学会議」という民主的なフォーラムが開かれたことになる。結構なことだ。
 だけど、多くの人が欲しいのは「より間違いが少ないだろう仮説」を巡る議論なんかじゃなかった。
「たった一つの真実」だった。

 巽昌章は『論理の蜘蛛の巣のなかで』において「一方の極に犯人、反対の極に探偵がいて、二人の間には目に見えない論理の糸が張り巡らされ、登場人物たちはそれに沿って動いている」(七六頁)という見通しのよい世界「完全な透明性を前提にした、探偵と犯人が両極に立つ世界イメージを疑ってかかるべきときがきているようだ」(七七頁)と述べた*8。「異質なものの混在する世界や拡散しようとする世界を、『探偵』のような仕掛けによって強引にまとめあげてゆく力は徐々に弱まり、結末で世界の分裂と混乱を強調する作品が増えているのではないか」(九二頁)という。
 この発言を踏まえて、諸岡卓真は『現代本格ミステリの研究』所収の「90年代本格ミステリの延命策」で、偽の手がかり問題の解決法として導入された奇妙な超能力者が、それでも決定不能性に直面することとなった過程を複数の作品から示した。後期クイーン問題は本格ミステリを終わらせるどころか、むしろネタとして貪欲に消費されることで九〇年代本格ミステリに延命策を与えることとなったと指摘している*9

 とはいえ、そもそもこの問題が解決可能なのかという疑問は残る。ここまで、偽の手がかり問題を軸に作品を分析してきた結果、むしろその解決不能の難問を、いかにして解決しているかのように見せかけるのかということが、本格ミステリの変容を生み出してきたと把握する方がより適切なのかもしれない。九〇年代の後半には、奇妙な超能力者という設定が多用され、本格ミステリ論理の根幹にあいている穴を、一瞬とはいえ埋めた。それと同じように、他の時代・他の社会の本格ミステリでも、その時々の何かがその穴を塞いでいるはずだ。このジャンルのダイナミックな変容を把握する上では、各時代・社会の「延命策」を探り、その展開を追いかけることが不可欠だろう。

 国内経済の長期低迷と若者たちのコンサマトリー化、そして情報技術の発達と社会への浸透がたがいに手をとりあうようにして人々をマスメディアなどの中間社会領域から断絶させ、島宇宙に孤立させた。かつて名探偵とは犯人との対立関係という図式を通して情報を整理し社会を見通すことを可能にする役割を果たしていた。しかし不可知論的状況が自明のこととなった現在、本格ミステリ論理の根幹にある穴は開きっぱなしのまま、名探偵はまったく別の役割を果たすことを求められている。有事に飛び交う大量の情報がむしろ人々を更なる不安へと招く状況において、自信に満ちた言葉で意志決定を補佐してくれること。全知全能の空想ヒーローではなく現実的な問題解決のエキスパートが求められているのではないか。
 だが、推理機械でははなく限界ある人間であることを大前提とした名探偵には新たな問題が待ち受けている。形式主義的な正しさが成立せず確実な真実を保証できない後期クイーン問題から、政治的な正しさを実現しようとすることが名探偵から自由を奪う「推理が探偵を殺す」問題へと焦点が移りつつあるのではないか*10
 第二部では、有栖川有栖の試みを追いかけた。複数の社会的文脈が混交し情報が分断する困難な状況で、それでもなお名探偵は政治的振る舞いを通じて真実の共有を実現しなければならない。そのためには管理の側にも個人の側にも偏らないこと、ひとりひとりの立場や状況を理解しつつも他者の欲望に惑わされず客観的な思考を保つことが重要だった。
 第三部では、その困難さを示した。米澤穂信『折れた竜骨』では探偵役が社会的責任を負うために自死を選び、古野まほろ『命に三つの鐘が鳴る』では自由主義を貫くため友を殺した。形式主義的な正しさを超えて政治的正しさを実現しようとするとき、探偵役は他者性のふたつの極のいずれかに引き寄せられ自由を失う恐れがある。どちらに引き寄せられるかは探偵役と環境の相互作用に依存し、探偵自身の意志では必ずしも防ぐことができない。フーダニットのため複数の犯人候補を相手にしなければならなかったファルク・フィッツジョンに個々人の過去や思想を深く掘り下げて調べる余裕はなかっただろうし、偶然にも被疑者や被害者の関係者だったからこそ二条実房はあれだけの調査ができた。
 人々が島宇宙に閉ざされ、趣味嗜好はおろか道徳的判断すら一致させることができず、論理パズル以前にそれを成立させる環境そのものが主題とされるようになってきたことは、ゼロ年代後半から現在にかけての諸作品を概観するだけでも明らかだろう。二階堂黎人は二〇〇四年に、家族や学校といった身近な素材だけを描く乙一ら若手作家を「キミとボク派」と呼び、広い視野と様々な主題を描くことに成功してほしいと呼びかけた。二〇一二年現在、青春ミステリや学園ミステリの勢いは未だ衰えそうにない。石持浅海作品はもとより歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』(二〇〇七年)など道徳の欠如や心の歪みを描いた作品は枚挙に暇がない。
 梓崎優『祈りと叫び』(二〇一〇年)では日本人が当然とし欧米と共有する価値観が徹底して拒絶され、探偵役は苦い無力感を味わうこととなる。円居挽『丸太町ルヴォワール』(二〇〇九年)や城平京『虚構推理 鋼人七瀬』(二〇一一年)では真実の共有どころか偽りの真相で聴衆を魅了することが重要視される。二〇一〇年に第十五回スニーカー大賞を受賞した玩具堂『子ひつじは迷わない 走るひつじが1ぴき』は特にユニークだ。謎を解く探偵役と、依頼者に対しどのような解決を与えるか事後処理を担当する役とを分ける工夫をしている。
 これまでたびたび繰り返してきたが、同じことをここに繰り返そう。人間の情報処理能力には限界がある。観察と推論から知りえることは有限でしかなく、人は都合良く問題解決に必要不可欠な手がかりを偶然得られると信じるほどおめでたくはない。
 それでもなお人は謎を解かなければならず、そのためには世界の有り様を仮定しなければならならい。理性と論理を信奉し、見落としさえしなければ不可知を超越できると信じるのか。あるいは、人と人とは決して解りあえず言葉を交わせば傷付けあうだけだが、それでも他者と向きあう以外に方法はないと考えるのか。どちらが正しいというわけではない。どちらも信念に過ぎず、他者を説得するときの政治的態度に過ぎない。
 だから、別のことを考えよう。推理が探偵を殺す問題は、どうあることが本格ミステリの発展を促すことになるのか。最初に述べた通り、私は少なくとも心情としては小森健太朗の意見に賛同したい。探偵が正しく状況を把握するには他者性に目を向けることが不可欠であり、従って当然、探偵は自分の信じる世界の外へ出なければならない。事件の関係者たちと批評的な距離を保ち、それぞれの利害や目的を理解しつつ、それでいて誰の側にも与せず、読者を偏見や錯誤から解き放つ自由な存在でなければならない。
 しかし、それは難しい。他者性に目を向けること、公正中立な立場を保つこと、自由であることを等号で結ぶことはできない。では、どうすればいいのか。本格ミステリはあくまで政治的に正しくあるべきなのか。不思議の国の名探偵を追いかける有栖川有栖の背中を追いかけ続けるべきなのか。
 九〇年代後半からゼロ年代前半にかけて起きたことが、再び繰り返されようとしているのかもしれない。後期クイーン問題が九〇年代の本格ミステリに延命策を与えたように、むしろ『折れた竜骨』と『命に三つ鐘が鳴る』という対照的な作品を生み出し現代の国内ミステリシーンに多様性を与えていることを喜ぶべきなのか。求心力と遠心力が同時に働くからこそカオスが生じるならば、むしろこの革新性に満ちた二十一世紀探偵小説の実験を更に推し進めるべきではないか。
 こうも言えるかもしれない。経済の長期低迷や高度情報化を背景に名探偵の政治的在り方が拡散しつつあるなら、だからこそ名探偵は時代に逆行する、真に説得的なファンタジーでなければならないと。一人の人間が、公正中立にして自由をもたらす存在になれるという嘘を全力でたくらまなければならないと。本格ミステリはフィクションに過ぎない。だが、虚構といえども果たすべき債務がある。
 どれが正しいのか、私にはわからない。いや、正直になろう。私は名探偵を信じたい。だが、こんな祈りがなんになるだろう。私の望みとは無関係に時代は動き社会は変わる。政治的正しさに付随する問題の理論的根拠をこのようにして文章にした時点で、私は自己矛盾を来しているのではないか。他ならぬこの文章こそが名探偵を殺したのではないか。
 いっそ誰か、私に囁いてはくれないか。私の肩を叩き、おまえは間違っていると告げてくれないか。それでもなお、理性と論理は魔法さえも打ち破ると。言葉を交わし続ければ、人と人とが解りあえる日がいつか来ると。これは兄の腕ではない、お前の腕だと誰か笑ってくれないか。