二〇一二年四月〈サクラダリセット〉シリーズが全七巻で完結しました。最終巻を読み、以前レビューで書いたことはそれほど的外れでもなかったと安心しました。
これからの「サクラダリセット」の話をしよう
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その一方で、当然ですがマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』との対比だけでは説明できない箇所もありました。その補足を以て〈サクラダリセット〉シリーズ全体の感想に代えたいと思います。
サンデルの主張に無い箇所とはなにか。それは、幸福論です。同時にこれは、あまりにも高すぎるケイの理想がなぜ必要なのか、あるいはどうすれば実現できるのかという疑問への答えでもあります。具体的には『サクラダリセット5 ONE HAND EDEN』の内容と、それがシリーズ最終巻『サクラダリセット7 BOY, GIRL and the STORY of SAGRADA』の後半とどのように照応しているか眺めていくことで解説します。
『サクラダリセット5』で浅井ケイは、病院で眠り続ける患者、片桐穂乃歌が創りあげる夢の世界の調査を管理局に希望し、許可されます。目的は、相馬菫を咲良田の外に連れだすことでなにが起きるか試すことにありました。
二年前に死亡したにも関わらず、能力によって再生し、未来視の能力があるため管理局のシステムに取り込まれる恐れがある相馬。家族と一緒に咲良田の外へ移り住めば、特殊な能力に関する記憶を失い、記憶も置き換わるはずです。p.15「管理局にみつからないまま、私を普通の女の子にすることが、貴方にできる?」相馬菫の挑発的な笑みに、ケイは応えようとします。
しかし、ここでひとつ疑問が浮かびます。最終巻『サクラダリセット7』を読了した方ならば承知の通り、ケイは管理局の脅威から逃れさせるため相馬をいったんは咲良田の外に逃がしますが、その後で戻らせているのです。いったいどのような心境の変化がケイをそうさせたのでしょうか。
片桐穂乃歌の能力を管理局は「ワンハンド・エデン」にカテゴライズし、危険視していました。夢の中でなら、痛みを忘れ、動かなくなったはずの足で走り、たやすく幸せを得ることができます。しかし、あくまで偽物に過ぎない片手間の楽園に入り浸るべきではないと管理局は判断し、夢の世界に入ることができる人物を制限していました。
偽りの楽園は否定されるべきなのか。管理局の協力者、宇川沙々音はこの世界を嫌いだと断言します。自分のための世界に閉じこもり、他人とつながろうとしない姿勢をp.232「私の心はそういうのを、気持ち悪いと判断する」と主張し、物質を好きなように作り変えることができる能力で夢の世界のあらゆる人工物を消失させてしまいます。
宇川の判断は正しかったのでしょうか。ケイは、楽園のはずの夢の世界になぜか夜になるとモンスターが現れることに疑問を抱きます。かつて片桐穂乃歌は、隣の病室で眠る人と言葉を交わすためにこの能力を使っていました。宇川沙々音が否定した閉じた楽園ではなく、誰かと繋がる夢の世界を望んでいました。しかし管理局に能力を危険視され、人との繋がりを失いました。その結果、片桐穂乃歌は代償としてモンスターに襲われる少女ミチルを夢の世界の神さま、チルチルが救うという、一人ごっこの「気持ち悪い」世界を創りあげてしまったのです。
他者を拒絶するかに思えた能力は、むしろ切実に他者との繋がりを求めて生じたものだった。では、そのような本来の使われ方さえしたならば、問題はなかったのでしょうか。
未来視を超えた絶対的な未来を綴る能力を持つ野良猫屋敷のお爺さんは、夢の世界を訪れてもチルチルになにも望もうとしませんでした。p.242「神が与える楽園に囚われたまま、抜け出せないでいるのなら。魂を奪われることと、どれほどの違いがある?」そして老人は独りきり、洋館にこもり真実を書き綴るばかりで誰とも触れあおうとしませんでした。
猫と意識を共有する能力を持つ少女、野ノ尾盛夏はかつて老人の家をたびたび訪れていました。夢の世界で老人と再会した野ノ尾は、自分が他の人間に馴染めない子供だったこと、そして人間社会の煩わしさを持たない老人が最初の友人だったと告白します。しかし老人は、偽物の青を本物の青だと信じ込んではいけないと諭します。
ここで青とは、幸せの象徴です。あらゆる望みを叶えてくれる神さまを拒絶し、たった独りで閉じこもってきたはずの老人はp.207「誰かと一緒にいなさい。それだけでいい。隣にいる人が笑うことを、幸せと呼ぶんだ」と語ります。
宇川沙々音に夢の世界を壊され、片桐穂乃歌は能力を使うことを止めます。現実の世界に戻った野ノ尾は病室のベッドに横たわる老人に笑いかけようとしますが、老いが進んだ姿を前にしてそれができなくなります。一人きりでも悠然と生きていく強さに魅せられていた彼女は、老人の弱さを目の当たりにして動揺したのです。
老人が恐れていたのは、恐らく他者への依存でしょう。神さまにあらゆる願いを叶えてもらうことは、野ノ尾が孤独な老人の姿に憧れつつ、その弱さには目を向けようとしなかったことと同じように、偽物の幸せでしかない。偽物の幸せでは、隣にいる人に笑ってもらうことはできません。
さて、このように訴えかけられても、まだ疑問が残ります。偽物の幸せで、なにがいけないのでしょうか。このことについて考えるには、そもそもここで問題にされている孤独とはどのような性質のものなのか正確に理解する必要があります。それはただ単に、他者との触れ合いがないということを意味してはいません。
宇川沙々音が夢の世界の人工物を消失させた後、春埼美空は夕陽に照らされた教室で、チルチルになにを望むか問われます。チルチルの創りだしたもう一人の自分と対話し、春埼はひとつの答えにたどりつきます。p.301「私は成長したいのです。ケイにとって、私が何よりも価値を持つ人間であれば、何も怯えずにいられます」
春埼が怯えていたことは、全体最適と実存のどちらかを優先すべきかという問題のことです。浅井ケイの幸せを望むことは、同時に浅井ケイを独占したいという感情でもあり、それは同時に浅井ケイの幸せを最優先しないことを意味します。これが、偽物の青です。全体最適と実存のどちらを優先すべきか。春埼美空はその問題から、そして浅井ケイの弱さから目を逸らしていました。
このようにして、片桐穂乃歌の問題は野ノ尾盛夏と老人との関係へ、そして春埼美空と浅井ケイとの関係に重ねあわされます。p.289「貴女は、貴女の小さな楽園にいた。とても安易な場所で、貴女自身を守っていた」他者に依存しないためには、自分が成長しなければならない。隣にいる人の弱さまでも受けとめて、微笑ませられるだけの力を手に入れなければなりません。
作者はなにも、すべての人が強くあるべきだ、もしくはすべての人が成長しなければならないと訴えているわけではないことに留意してください。強いことと、正しいこととは別です。p.324「人は弱くあるべきだと、ケイは言っていました」夢の世界を壊そうとする宇川に対しケイは、貴女の強さを尊敬するが、正しいと思ったことはないと告げます。
成長したいという想いは、それは言葉を変えればただの我儘です。私ならあなたを幸せにすることができるという傲慢さは、むしろ人や自分自身を傷つけることがあります。シリーズ最終巻『サクラダリセット7』の「2章 ヒーローとヒロイン」では、咲良田から能力を消そうとした浦地正宗のたくらみをケイが阻止し、あらゆる不幸を解決するという理想を実現するため管理局の能力を手中に入れます。管理局の手から逃れるため一時的に街をでていた相馬菫は、咲良田に戻ると同時に蘇った数々の悲惨な記憶に耐えられず、意識を失います。
それすら予想していたケイを宇川は、善でも純粋でも正義の味方でもないが、ヒーローではあると告げます。しかし、ケイはp.321「僕はただ、我儘なだけです」と答えます。たとえケイですら、目的のためには一匹の猫を犠牲にせざるを得ませんでした。p.351「僕は世界で二番目に、相馬菫の幸せを願っています」万能ではないケイは優先順位をつけざるを得ません。他人よりは知人を、知人よりは友人を、相馬菫よりは春埼美空の幸せを願います。相馬菫を助けに行くのか、彼女を一番にするのかと問うミチルに、ケイはp.352「二番で納得して貰いに行くんです」と答えます。
これは、相馬菫にも同じことが言えます。相馬はただケイの幸福のために、未来視の能力を利用して最大限の努力をしました。ですが、それは同時にケイを傷つけることでもありました。相馬菫がした努力こそが、相馬菫を不幸にし、あらゆる人々の不幸を取り除こうとするケイの理想を唯一阻んでいました。人を幸福にしようとする努力がむしろ他人や自分自身を傷つけてしまうかもしれないのなら、どうすればいいのでしょうか。
答はシンプルです。p.370「僕は君がしてきたこと全部で救われた。君の何もかもに、感謝している。間違いないよ。君の言葉のすべてが、君の努力のすべてが、僕の確かな幸せを作った」伝えればよいのです。p.370「だから、お願いだよ。これからも僕を助けて欲しい」それが、浅井ケイが相馬菫を咲良田に呼び戻した理由でした。
このようにして、作者あとがきによればp.421“とても当たり前でありきたりなこと”について書いた物語は幕を下ろします。全体最適と実存とのどちらを優先すべきかという問題。総員の完全無欠な幸福を願う理想。その実現のために必要な成長、そして弱さを受け容れること。それでもなお残る不安と苦しみを打ち消すための伝言。言葉を正しく伝えること。あなたは私にとって世界で一番ではない。それでもあなたは私を幸福にしてくれた。私にはあなたが必要だ。
とても当たり前でありきたりなことが、整然とした論理的つながりを以て、物語と響きあいながら過不足なく全七巻に収められていたことがわかるかと思います。