大澤真幸『虚構の時代の果て』によれば、一九七〇年以降の宗教ブームに生まれ拡大した新宗教は、それまでと比べ入信動機の傾向に違いがあるという。
旧新宗教への入信動機は「貧病争」という標語に要約される極端な生活苦が中心だった。しかし新新宗教からは、経済的には満たされながらも虚無感が漂う生活から脱出したいという、どこか漠然とした動機が増えてきた。
終わりなき日常から脱出しようとあがき、超越性を希求した九〇年代の若者たちは、やがてデカイ一発がやってくることを恐れつつ、しかしそんな日が来るとは本気では信じず、そしてどこかでその到来を狂おしいまでに切望していた。世界が終わる刻限を自ら決めた人々は、オウム真理教に入信しハルマゲドンという虚構の現実化をもくろみ、あるいは鶴見済『完全自殺マニュアル』を手にして去っていった。
世界は滅亡しないまま新世紀を迎え、すでに最初の十年さえ過ぎた。古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』によれば、現代の若者たちはコンサマトリー(自己充足的)化しているという。
内閣府の「国民生活に関する世論調査」によれば、二十代の約七割が生活に満足していると回答している一方で、同時に半数以上が不安を訴えている。幸せなのに不安という矛盾した回答の背景について、古市は大澤真幸の説を紹介している。
高度経済成長期やバブル期であれば、今日よりも明日がよくなると信じることができた。しかしバブル崩壊から続く長期経済低迷は、そのような希望を奪った。これ以上の幸せが来るとは思えない将来への不安が「今の生活こそ幸せだ」という回答をもたらしたのだという。
乱暴なまとめ方をすれば、九〇年代の不安とは高度経済成長期の「良い大学に入って良い会社に入れば生涯安泰」という、どこまでも人生のレールが敷かれ抜けだすことのできないイメージの残り火だった。安定した、しかし閉塞感漂う日常が終わりを迎えること。突然レールが途切れ虚空へ放り投げられることへの畏れと期待がないまぜになっていた。
しかし現在、もはやそのような極端な途絶のイメージはどこにもない。仲間たちとのんびり満ち足りた生活を楽しみつつも、同時にそれが永遠ではないと感じている。等身大の日常に満足しつつも、同時にそれが虚しく苦痛であるかのような日々。華々しく世界の終末が降臨するのではなく、ごく現実的な、みじめで卑近で当然すぎる不幸な結末へと向かう、長い長い衰亡期にあるのではないかという不安。
いわば九〇年代が「終わりが来る」もしくはその裏返しである「永遠に終わりが来ない」ことへの不安だったとしたら、ゼロ年代に幕を開けたのは「終わってしまっている」ことへの不安だった。
世紀の節目を挟んで若者たちの不安にこのような変化があったことを踏まえたうえで『ブラック★ロックシューター』について語りたい。しかしその前に、簡単に『けいおん!』と『魔法少女まどか☆マギカ』について触れておかなければならない。
京都アニメーション制作のTVアニメ『けいおん!』は二〇〇九年四月に放映開始され、二〇一一年十二月に全国上映された劇場版は興行収入十七億円および観客動員百万人を突破した。少女たちの等身大の日々を描き、とりたてて恋愛などドラマチックな物語を描かない日常系アニメのもっとも成功した作品と呼べるだろう。
二〇一〇年九月に終了した第二期『けいおん!!』では、軽音楽部のメンバー四人が卒業を迎えるが、同じ大学に進学し音楽活動を続けていくことになる。私はこの展開に、あずまきよひこ『あずまんが大王』を思いだし驚いた覚えがある。
女子高生たちの何気ない日常を描いた、日常系の始祖とも呼べる四コマ漫画作品『あずまんが大王』は一九九九年に『月刊コミック電撃大王』で連載を開始し、ラストでは登場人物たちの卒業後の進路が別れる。登場人物の一人、ちよちゃんの「そっか、卒業してもみんな一緒だ」というつぶやきには、たとえ別れを迎えても心のつながりは保たれるという気づきがあったのだろう。
これと比較して、仲良しを継続しようとする『けいおん!!』のラストは甘く、成長を拒否しようとする姿勢は現実を見ていないと感じられるかもしれない。しかし先に述べた、時代に応じた不安の変容を踏まえてみると、見方がまったく異なってくる。
それぞれが自分の未来に向かって旅立っていく『あずまんが大王』は、換言すれば子供はやがて成長しなければならないという押しつけがましい世の中、あらかじめ敷かれたレールを拒めない現実を描いた。だが『けいおん!』はそれを拒否する。この現在の最大級の幸福を、自分たちの力で終わらせないという決断こそが「終わってしまっている」不安への最大の処方箋だった。
コンサマトリー化した若者たちの価値観を肯定的に描いたのが『けいおん!』だったとするなら、その負の側面を描いたのが『魔法少女まどか☆マギカ』だった。
二〇一一年一月に放映開始したこのアニメは当初、監督が新房昭之、キャラクター原案が蒼樹うめという組合せから日常系アニメ『ひだまりスケッチ』のように少女たちの明るい日々を描くかのように思われた。しかし徐々に、シリーズ構成ならびに脚本を務めた虚淵玄の牙が剥きだしになっていく。
昨年十一月の中央大学文学会主催「笠井潔講演会 ~3.11とセカイ系~」後のトークセッションにて、笠井潔と藤田直哉は本作を「内ゲバ」と表現した。『魔法少女まどか☆マギカ』は少女たちの戦いを描くアニメであると同時に、誰かがババを引かざるを得ない、この社会システムの不条理を描く作品だった。
ストーリーの詳細については以下を参照してほしい。
誰も物語を信じない――「魔法少女まどか☆マギカ」感想
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第一話に登場する仲良し三人組は男女関係から亀裂が入り、魔法少女たちは仲間同士の争いを嘆く主人公、鹿目まどかの想いも空しく泥沼に落ちこんでいく。これはどうしようもなく「終わってしまっている」物語だ。それぞれの登場人物は自分が信じる最善の選択をしているつもりでも、結果的に思う通りには進まず絶望へと突き進んでいく。
ここで物語の中核が「いかにして不幸を解決するか」ではなく「いかにして他者を不幸から救うことができるのか」であることに注意が要る。主人公のまどか自身は間接的な形でしか不幸に見舞われていない。彼女は最終的に魔法少女たちを救うが、それは問題の現実的な解決ではなく、虚構の物語でしか成立しない詭弁に近いものだった。
他者の不幸を現実的に解決しようとする物語は多い。『ひぐらしのなく頃に』ではそれは人々の絆だった。ひとりで不幸を抱え込まず、問題を打ち明け共有し、現実的な行動で環境そのものを変える。ひとりぼっちというネガティブイメージにとらわれず、真の意味で客観的に状況を把握する。これらは『けいおん!』にも『とある科学の超電磁砲』にも『ペルソナ4』にも『サマー・ウォーズ』にも『Angel Beats!』にも『輪るピングドラム』にも通底していたメッセージだった。
しかし『魔法少女まどか☆マギカ』からは、そのような訴えは響いてこない。まどかに救われた魔法少女、暁美ほむらはいったん抱きかけた社会へのルサンチマンを捨て、まどかの残像だけを抱いたまま孤独に戦い続ける。絶え間ない「終わってしまっている」ことへの不安が仮初めに過ぎない仲良しを全否定し、どこにも逃げ場がないことを示したのがこの作品だった。
ようやく『ブラック★ロックシューター』について語る準備が整った。結論からいえばこの作品は『魔法少女まどか☆マギカ』とは真逆の視点で、真逆の結論に到達した作品だった。『魔法少女まどか☆マギカ』は社会の不条理に押しつぶされる少女たちの破滅を描いた。それに対し『ブラック★ロックシューター』では病根は少女たちの心と関係性そのものにあり、そのことの自覚と超克を経て仲良しの結成に至る物語だった。
フジテレビ「ノイタミナ」枠で二〇一二年二月に放映を開始したこの作品は、中学生になった少女、黒衣マトの友達作りから始まる。クラスメイトで、たまたま同じ絵本が好きだと知った小鳥遊ヨミと仲良くなろうと努めるが、なぜか拒まれる。
実は、ヨミは一人の幼馴染みから他の友人を作らないよう厳しく監視されていた。出灰カガリという名の少女はかつてヨミが原因で交通事故に遭い、車椅子での生活を余儀なくされた。だがそれは精神的な問題に過ぎず、肉体的には完治していた。
マトの強い説得により、遂にヨミはカガリとの病的な関係を断ち切る決意をする。カガリは意外なほどあっさりとそれを認め、遂には学校に登校しヨミ以外の友人を作るようになる。一方、ヨミのほうはマトが他の友人、神足ユウと親しくしている姿に疎外感を抱く。孤独に苛まれたヨミは遂に精神のバランスを崩してしまう。
ここには、少女たちの育むつながりが救いであり、同時に病でもある二重のイメージがある。たがいを束縛する共依存的な関係は停滞を生むが、しかしそれなしにヨミは孤独に耐えて生きるだけの力が無い。
ここで、併走して描かれてきた虚の世界の物語との関連性が次第に明らかになる。そこではマトたちの精神体が荒廃した世界で壮絶な闘争をいつ果てるともなく続けていた。マトの精神体、ブラック★ロックシューターがカガリの精神体であるチャリオットの首を切り落とす。そのことによって現実世界のカガリはヨミとの思い出を失い、結果的に心の病を乗り越えることができた。
なぜ、このような虚の世界が生じたのか。マトが通う中学校のカウンセラー、納野サヤの過去が明かされる。実はマトが幼馴染みと思っていた神足ユウは、ユウではなかった。彼女はかつて、親から虐待され学校ではイジメを受けていた。学生時代のサヤはユウの境遇を知り、友達付き合いを通じて悲惨な境遇を少しでも和らげようとした。
しかしある晩、その関係は終わりを告げる。失火によりユウの家が火に包まれる。駆けつけたサヤは、両親を恨んだユウが放火したのではないかと疑う。だが、その迷いをユウに目撃される。不思議なほど安らかに、ユウは微笑んでみせる。
ユウの微笑みはなにを意味していたのか。孤立無援だった彼女は、つらいときには自分の痛みを引き受けてくれる存在があるとサヤに告白する。それは現実的に考えれば、妄想に過ぎない。悲惨な境遇に耐えられず、解離状態に陥ったとしか言いようがない。真に孤独な人間、他者からの救いを一切期待できない本当にひとりぼっちの人間は、自分で自分を殺すしかない。実存を犠牲に、痛みから目を逸らす以外に生き抜く手段が無い。
そんな絶望の淵をさまよう者にとって、人はひとりではないという甘言こそが最悪の毒だ。他者がいて、差しのべてくる手をつかんだならば、殺したはずの自分がここにいることを否定できなくなる。両親を殺したと疑うサヤを目にした瞬間、ようやくユウは自分に救いが無いことを確信できた。だからこそ、微笑んだ。真の意味で孤独な人間には、孤独以外に救いが無い。
『魔法少女まどか☆マギカ』では問題は社会の不条理さにあった。神足ユウの不幸についても、現実的に考えれば原因は家庭内虐待や学校でのイジメにあるだろう。しかし、この作品はそれを解決しようとはしない。なぜなら本質は「終わってしまっている」ことへの不安にあるからだ。サヤがそうだったように、あるいはヨミを救おうとしたマトがそうだったように、救いの手を差しのべようとすることは更なる悪い結果をもたらす。救いをもたらそうとする少女たちの関係性そのものが病へとつながってしまうことにこそ『ブラック★ロックシューター』の本質的な問題がある。
現実世界に絶望したユウは、虚の世界にいた自身の精神体、ストレングスと入れ替わる。現実世界でストレングスは幻のような存在となり、黒衣マトの幼馴染みとして生きるようになった。サヤはやがてカウンセラーとなり、少女たちをあえて苦境に追いこむことで、ブラック★ロックシューターに精神体を殺害させ、記憶の喪失によって心を回復させてきた。それはかつてユウが創りあげた虚の世界と、そこにいるユウを守り続けることでもあった。
精神体が殺害されればヨミの心は回復するが、同時にマトとの思い出が忘れられてしまう。それを防ぐため、マトはユウの助けを借りて虚の世界へ侵入する。だが一足遅くヨミの精神体は殺害され、ユウは自身の精神体、ブラック★ロックシューターにとりこまれたまま脱出できなくなる。
一度はマトのことを忘れかけたヨミだったが、マトが行方不明になったことを知り記憶を回復する。ここで、問題の在処は救済者のはずの黒衣マトのほうへ移ることになる。仕事のため父親が不在がちな家庭に育ち、弱音を吐かず負の感情を嫌う、どこか潔癖すぎるマト。ブラック★ロックシューターとはそんな、傷つくことも傷つけられることも嫌い、悩みから目を逸らしたいというマトの思いを象徴した存在だった。
そのことを自覚したマトはブラック★ロックシューターから脱出する。一方、虚の世界に侵入したストレングスは自死を選ぶ。精神体であるストレングスが死ぬことで、ユウは現実世界に帰らざるを得なくなる。現実世界に怯えるユウを、しかしマトは説得する。マトとヨミ、ヨミとカガリ、そしてユウの四人は傷付けあいながらも共に生きていくことを決意する。
残念ながら『ブラック★ロックシューター』は、それほど成功した作品ではない。「ノイタミナ」の平均視聴率は2%を切り、虚の世界のわかりにくさが批判され、正直なところ最終話の駆け足ぶりには尺の足り無さを感じた。しかし、それでもこの作品の強い訴えには心震えるものがある。
意地の悪いことを言えば、もしユウの悲惨な環境が継続していたならば、この物語はめでたしめでたしでは済まなかっただろう。いや、そうでなくとも彼女たちの関係は、あっという間に些細な行き違いや誤解から再び崩壊する恐れが高い。記憶を失いでもしない限り、カガリはヨミを独占しようとし、ヨミはマトに嫉妬し、ユウは裏切りに怯え続けるだろう。
その意味で、この物語はこれまでの多くの物語のように、決して仲良しであることがすべてを解決したわけではない。彼女たちの連帯はそれ自体が再び病根に変わる可能性を持ち続け「終わってしまっている」ことへの不安から解放されていない。
だが、彼女たちはそれをすでに学び、自覚している。幸福も不幸も、自覚から生まれる。無我夢中で生きる者は幸福でも不幸でもない。ただ自身の生を他者と比較し、相対的な視線を持つとき、初めて人はそこに幸福や不幸を見出す。だが、いったい誰が真の意味で自分自身を客観的にみつめることができるのか。それは、傷つきながら血まみれになって死にものぐるいで学んでいくしかない。
人はひとりぼっちだ。それは逃れようのない事実だ。だからといって、あきらめきれる人間などいない。虚の世界でブラック★ロックシューターたちは戦い続ける。ヨミはマトのことを思いだした。あのカガリさえもまたヨミのことを忘れることができなかった。それはもう、理屈ではない。誰かとつながっていたいという想いは、無意識から湧きあがる衝動だ。「この世界より生きてくのがつらい世界なんてどこにもない」とユウは怯え、それでもなおブラック★ロックシューターに孤独の叫びと救済を求める訴えをぶつけることを避けられなかった。剥きだしのエゴと孤独に苛まれながら、それでもなお人は醜く生きていく。
世紀末、恐らくノストラダムスの大予言は見事に的中し、世界は一度滅びたのだろう。いや、きっと何度も何度も滅んだのだろう。だから、もう二度と滅びない。私たちはそんな最低の、これ以上の最低はない最低に最低などん底に最低のクソみたいな世界を生きている。それでいい。そんなことは、とっくに知っているのだから。