TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」は、関西方面のほうが早く放映されていた。近畿広域圏の毎日放送は木曜、関東広域圏のTBSテレビは金曜が放映日だった。いつも関東では、ネット越しに西の方から轟いてくる阿鼻叫喚に期待を高めながら放映を待つのが常だった。
 けれど、第10話は違った。2011年3月11日、関東では放映が休止された。その前日、関西方面では無事に放送された第10話の衝撃的な内容にネットは沸きたっていた。けれど、東日本大震災がすべてを変えてしまった。放映予定日は未定となり、震災から一ヶ月以上が過ぎた4月21日になって最終話まで一挙放送という形になった。

ねえ、私たちこのまま二人で、怪物になって、こんな世界、なにもかもめちゃくちゃにしちゃおうか。
やなことも、悲しいことも、ぜんぶ無かったことにしちゃえるくらい。
壊して、壊して、壊しまくってさ。
それはそれで、いいと思わない?

 ネットで第10話を視聴し、暁美ほむらのこのセリフを耳にしたとき、複雑な気持ちになった。自分がもし関西方面に住んでいて、この言葉を3月11日よりも前に聞いたなら、それは深夜アニメのなかで悲劇的なヒロインが口にするありふれたセリフとして印象に残らなかったかもしれない。
 けれど、自分がいたのは都内だった。電車がとまり、余震が続き、放射能の噂に怯える街に住んでいた。瓦礫と化した街で、半ば身を水に沈めた少女が、絶望のあまりに笑みさえこぼしながら世界を呪った言葉を、四六時中テレビで報道され続けていた現実の光景と結びつけずにいることなんてできるはずがなかった。

 この作品のプロットは自然で、それでいて意外だ。それぞれの人物が最善の判断をしたはずなのに、最悪の結果しか得られない。破局に向かうことが繰り返し暗示されているのに、それを信じたくないという想いが目をそらすことを許さない。意外な展開が、その意外さを強引だとか作者の自己満足だとは感じさせないようスムーズに進められていく。
 登場人物はみな、はじめと終わりとで百八十度イメージが転じている。巴マミは百戦錬磨の頼れる先輩から孤独にさいなまれる底辺者に、美樹さやかは幸せバカな元気娘から恋に破れ社会を呪う者に、徹底的な個人主義を貫こうとしたはずの佐倉杏子は愛と勇気が奇跡を起こす可能性を信じて散る殉教者となった。
 愛くるしいマスコットキャラだったキュゥべえは人類を家畜としか思っておらず、不穏な行動を繰り返す暁美ほむらこそが最善の結末を願っており、自分の弱さを何度も嘆いてきた鹿目まどかが最後の希望となる。これだけかけ離れたイメージの転換を、どうして不自然と感じないのか。個々のケースをひとつひとつ見ていこう。

 まずは巴マミから。中学二年生、鹿目まどかは転校生の暁美ほむらが猫に似た生き物を傷つけようとしているのを目撃する。キュゥべえと名乗る生き物は人語を解し、まどかに魔法少女となることを進める。人々を不幸へとひきずりこむ超自然的存在「魔女」を倒す義務の代わりに、なんでもひとつだけ願いが叶うのだという。
 魔女に襲われたまどかたちを、巴マミが救う。彼女は百戦錬磨を潜りぬけてきた先輩の魔法少女として颯爽と登場する。だが本当は、彼女は満たされていなかった。事故で瀕死の傷を負い、生き続けるためにはキュゥべえと契約するしかなかった。自分自身でも望まない理由で魔法少女となった彼女は、常に孤独を感じながら闘いを続けてきた。
 こうして巴マミは、頼りがいのある先輩というイメージから、報われぬ奉仕の日々に絶望する底辺者へと転じる。鹿目まどかから尊敬のまなざしを受け、魔法少女としての働きに誇りを見いだすことでようやく彼女は報われたかに思えたが、一瞬の油断から魔女に喰われてしまう。

 ではまどかの親友、美樹さやかはどうか。第2話で「幸せバカ」という言葉を漏らしたとおり、登場時のイメージは明るく健康的な少女だった。しかし、そんな彼女にもひとつだけ悩みがあった。かつての天才ヴァイオリニスト、上条恭介は事故で指が動かなくなり失意の療養生活を送っていた。ほのかな想いを寄せていたさやかは、彼のために魔法少女となる。
 しかし回復した上条に、まどかとさやかの友人、志筑仁美が想いを告白する。第1話で描かれた、魔法少女物としては定番である、永遠に続くかと思われた少女たちの友情は終わりを迎える。さらに、キュゥべえは契約がもたらす不利益を隠していたことが明らかになる。魔法少女となることで魂はソウルジェムと呼ばれるアイテムに吸収され、本来の身体は生ける屍に等しい存在となってしまう。
 こうしてさやかは、意中の男性の夢を叶えた代償として上条と結ばれることをあきらめる。屈託のない「幸せバカ」だったはずの彼女は恋に裏切られ、絶望の末に魔女へと転じた。ネガティブな感情によって汚れたソウルジェムは魔女の卵であるグリーフシードに変化する。魔法少女が魔女となることで生じる莫大なエネルギーを搾取することがキュゥべえのたくらみだった。

 次に佐倉杏子について。魔法少女は魔女のグリーフシードを利用して、絶えず自分のソウルジェムから濁りを取り除かなければいけない。よその町から流れてきた彼女は、他の魔法少女を傷つけてでもグリーフシードを手に入れようとする。一時は美樹さやかを殺しかけさえした彼女だが、キュゥべえが不都合なことを隠していると知ったことから迷いが生じる。
 世間に理解されなかった宗教家の父のため、杏子は魔法少女になった。しかし、その成功が魔法によるものだと知られたことで、むしろ家庭崩壊を招いた。他人のための願いはむしろ事態を悪くする、自業自得を覚悟して自分のためだけに行動すべきだとさやかを諭す。
 しかし、さやかは揺るがない。やがて絶望の末に魔女となったさやかを、杏子は救おうとする。利己主義者だったはずの彼女は第9話で「そういうもんじゃん? 最後に愛と勇気が勝つストーリーってのは」と、起こるはずのない奇跡を信じ戦いに散る。弱肉強食が信条だったはずの杏子は、友愛と奇跡の訪れに願いをかける者へとイメージが転換し、そしてそんな都合のよいハッピーエンドなど起こるはずもないという現実に儚く消える。

 巴マミ、美樹さやか、佐倉杏子。この三人が迎えたイメージの転換はもちろん、周到な伏線と構成力に支えられていることは疑いようがない。だが、それ以前にこの意外さを自然なものとしている強い理由がある。それは、現実という概念に対するネガティブなイメージだ。
 人知れぬ奉仕が報われることなどない。片思いの相手に尽くしたことが理解される日など来ない。愛と勇気が奇跡を起こすことなどない。そんなことは、誰だって知っている。日々の努力や願いがどこにもたどりつかないという不安を、誰だって抱えたことがあるはずだ。だからこそ、努力が実を結ばないという夢も希望もない物語に異和感を覚えない。
 暁美ほむらの物語は、そのネガティブイメージを最大限に発揮したものだ。彼女は同じ時間を何度も繰り返してきた。心臓の病から回復し、学校へ通うようになった彼女はしかし虚弱な自分に不安を覚え、魔女に襲われる。それを救ったのが鹿目まどかだった。ワルプルギスの夜、魔女との戦いに敗れたまどかは命を落とす。魔法少女となったほむらは、まどかとの出会いをやり直すため時間を巻き戻す。
 虚弱だったはずのほむらは、まどかを護るため全力を尽くし、成長していく。キュゥべえの裏切りを知り、まどかが魔女へと転じることで人類が滅亡することを知る。最悪の事態を回避すべく、ほむらは時間移動を繰り返すが思い通りにはならない。キュゥべえの陰謀を打ち明ければむしろ不審がられ、美樹さやかが魔女に転じることでそれが実証されると絶望した巴マミが暴走する。
 ワルプルギスの夜、辛くも魔女を倒したまどかとほむらは、しかしソウルジェムが黒く濁り魔女に転じようとしていた。そして、冒頭に引用したセリフをほむらはつぶやく。彼女が目にした地獄は、現実という概念のネガティブイメージをもっとも極端にしたものだ。たとえ時間を巻き戻し、やり直したところで失敗は避けられない。他人は自分の思う通りには動いてくれず、どれだけ尽くしたところでしっぺ返しをされるばかり。それならいっそ、こんな世界など壊してしまえばいい。ルサンチマンを抱え、ほむらは社会を呪い人々に復讐するモンスターになろうとする。

 けれど、鹿目まどかがそれをとめる。彼女は平凡な、けれど幸福な家庭で育った中学生だった。専業主夫の父に、キャリアウーマンの母、そしてまだ会話も覚束ない幼い弟。不自由なことはなにひとつなく、ただ自分の弱さ、なにも成し遂げることなどできないかもしれないという未来へのぼんやりとした不安だけを抱えていた。
 だからこそ、彼女は誰かの支えになろうとする。人々を救う巴マミの姿に憧れ、窮地に陥った親友の美樹さやかのために悩む。まどかは幸福に溺れる弱者だからこそ、そこに甘んじている自分を恥じ、強くあろうとする。これまで説明してきた通り、この作品は人物イメージの転換を利用して意外性を連打してきた。けれど、第10話で明らかにされた鹿目まどかの人物像は、私にとって最大の衝撃だった。
 これまでの多くの物語では、主人公は傷を負い、それを克服して成長した。逆境に負けず、ピンチを乗り越え、強さを身につけた者こそが主人公だった。けれど、鹿目まどかはこの王道にあてはまらない。まどかは平凡な家庭で愛され、なんの憂いもなく成長した。巴マミの死に怯え、美樹さやかを救うこともできず、キュゥべえとの価値観の違いにはただ言葉を詰まらせるしかなかった。
 それでも、彼女は変わらなかった。時間移動で経験を積んだ暁美ほむらは、まどかを魔法少女にさせないという選択を採る。そして、浅はかな考えでキュゥべえとの契約を交わそうとするまどかを責める。他人のために尽くすことは、本人だけではなく周囲の人々までも巻き添えにする。幾度と無くほむらの忠告を受け、キュゥべえに騙されていたことを知り、美樹さやかが迎えた絶望を目の当たりにしながら、それでもまどかは前に進もうとする。

 これは、魔法としか呼ぶことのできない物語の奇跡だ。温室育ちの鹿目まどかは、誰も救うことのできない弱者に過ぎない。だが、その弱さこそが現実を変えたいという大きな夢想へと変わる。苦労した者が願いを叶えるという夢想が通じない現実のネガティブイメージを、あきらめることを知らない幸福な子供が吹き払う。
 こう言ってしまっては興醒めかもしれないが、あえて言おう。この物語の作者は、幸せバカでしかない若い世代に、むしろ希望を託したのではないか。夢をあきらめないことの過酷さと現実の不条理さをわきまえたうえで、それでもなお、これからの世代に未来を託したのではないか。
 そう、このように言葉にしてしまうと陳腐なものだ。誰もそんなものを信じたりはしない。現実という概念のネガティブイメージから逃れられる者などいるはずがない。物語の結末もまた、手放しでハッピーエンドと呼べるものではなかった。人類滅亡こそ回避されたが、まどかは象徴的な存在へと転じ、地上から消え去る。ほむらはただ、まどかが愛した世界を護り続けるため、終わりのない救済を続ける。
 彼女の労力は、けっきょく報われることがなかった。だがそれでも、彼女は幻想のささやきに微笑みを浮かべ、黒ずんだ羽根を広げる。それはどこか、宗教的な光景だ。このラストシーンから、希望を手放さない狂信者となることでしか人は救われないという悲観的な解釈もできるかもしれない。
 けれど、彼女が信じているのは神ではない。彼女が信じるのは鹿目まどかとその物語だ。それは『魔法少女まどか☆マギカ』という物語内を生き抜いた、彼女に固有の物語だ。これを意義づけ、象徴化し、教訓とし、私たちが共有することはできない。なぜなら夢想が叶うことのない、絶望的で不条理な現実を知っている私たちは、誰も物語を信じないのだから。
 私たちはその代わりを、自分で探さなければならない。たった一日で日本の東西で運命が変わってしまうような、この不条理な現実を生き抜くための奇跡的な物語を、誰かと一緒に探さなければならない。