この後、飯城は『エラリー・クイーン論』第三部で後期クイーン問題について再度検討している。しかし『ギリシャ棺の謎』以外の作品も絡めて原理的な考察をしており、論争テキストという性質からは離れる文章となるため、本稿では省略する。なお、法月・笠井も『シャム双子の謎』(1933年)などを題材により詳細な分析をしている。
ただし一点だけ、飯城が『ギリシャ棺の謎』を踏まえて興味深い主張をしている箇所があるため紹介したい。
笠井はクイーン作品を通じて探偵小説の基礎を問い直してきた議論の流れを総括し、後期クイーン問題に理想的な解決策は存在せず、個々の作品毎にとりあえずの解決を見出す他ないと結論した。
笠井の指摘に対し、飯城は『ギリシア棺の謎』は偽の手がかりを導入したことで、将棋や囲碁のような対人ゲームとなったことに着目する。そして、対人ゲームであれば(囲碁や将棋に必勝法が存在しないように)理想的な解決策が存在しないことは当然であり、むしろそれこそが魅力を生みだしていると解釈した。
私はこの主張から、飯城勇三『エラリー・クイーン論』と同年に刊行された諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』所収の「90年代本格ミステリの延命策」を想起させられた。しかしこちらは『ギリシア棺の謎』から半世紀後の日本で起きた、新本格ムーブメントにおける後期クイーン問題の影響を論じた文章だということを留意してほしい。
論点2の末尾で、論者たちが物語内真実を一望に把握しようとする唯物論的態度から、ゲームが成立しさえすれば物語内真実など一顧だにしない形式主義者へと転じたことを説明した。飯城は、第三のステージが存在することを示したのではないか。
形式主義者が夢想する謎解きゲームは唯一解が存在するパズルに過ぎず、その先に新しいゲームがある。それはルールさえ展開の影響を受けて動的に変化し続ける、複雑で多元的なゲームだ。もはや探偵役も犯人も特権的立場に位置することはできず、真実に到達するための最適解は存在しない。
だがそれは、多様性に満ちあふれた、新しい可能性が待つ場所でもある。いや、正確に表現しよう。私たちはこれからそこへ向かうのではない。その旅路の出発点は海を隔てた遠い異国の地、初めの一歩を踏みだしたのは半世紀前だ。そして今日も、その暗い道を歩き続けている。