この後、飯城は『エラリー・クイーン論』第三部で後期クイーン問題について再度検討している。しかし『ギリシャ棺の謎』以外の作品も絡めて原理的な考察をしており、論争テキストという性質からは離れる文章となるため、本稿では省略する。なお、法月・笠井も『シャム双子の謎』(1933年)などを題材により詳細な分析をしている。

 ただし一点だけ、飯城が『ギリシャ棺の謎』を踏まえて興味深い主張をしている箇所があるため紹介したい。
 笠井はクイーン作品を通じて探偵小説の基礎を問い直してきた議論の流れを総括し、後期クイーン問題に理想的な解決策は存在せず、個々の作品毎にとりあえずの解決を見出す他ないと結論した。

『シャム双子の謎』が明らかにしているのは、このパラドックスに理想的な解決策は存在しないということだろう。それぞれの作者が個々の作品ごとに、難問にたいしとりあえずの解決を見いださなければならない。あるいは捏造しなければならない。中期から後期にいたるエラリー・クイーン自身の作家的軌跡において、この点は残酷なまでに明瞭である。偽の手がかり、メタ犯人、メタ証拠をめぐる問題系は繰り返し難問として提起され、苦しまぎれとも見えるとりあえずの解決もまた、際限なく捏造され続けてきた。[...以下略...]

 笠井の指摘に対し、飯城は『ギリシア棺の謎』は偽の手がかりを導入したことで、将棋や囲碁のような対人ゲームとなったことに着目する。そして、対人ゲームであれば(囲碁や将棋に必勝法が存在しないように)理想的な解決策が存在しないことは当然であり、むしろそれこそが魅力を生みだしていると解釈した。

 ここで結論を出したい。
 〈後期クイーン問題〉は、クイーンの『ギリシア棺』によって生まれた。
 それは、これまでの本格ミステリが描かなかった「名探偵対犯人」という対人ゲームを、『ギリシア棺』が初めて描いたからである。
 対人ゲーム、すなわち「プレイヤー同士が互いのプレイに影響を与え合うゲーム」においては、必勝法などは存在しない。常に、「とりあえず」の方法しか存在しないのだ。
 よって、〈後期クイーン問題〉には、「唯一無二の解決」などは本来あり得ず、常に、「とりあえずの解決」しか存在できないということになる。
 笠井潔や法月綸太郎は、〈後期クイーン問題〉に唯一無二の解決が存在しない点について、「探偵小説形式の自己崩壊」や「探偵小説形式の無底性」といった危機感を感じさせる表現を用いている。しかし、ここまで語ってきたように、それはスポーツや囲碁・将棋といった対人ゲームすべてに存在するものなのだ。例えば、「投手の配球パターンを読んで打者が打つ→配球パターンを読まれた投手がその裏をかいて打者を打ち取る」といった駆け引きは、対人ゲームの世界では、珍しくもなんともないだろう。
 だからといって、スポーツや囲碁・将棋が滅びてしまうわけではない。むしろ、「絶対的な必勝法」が存在しないことが多種多様な変化を生み出し、「とりあえずの解決」しか存在しないことが刹那的な魅力を生み出しているのだ。

 私はこの主張から、飯城勇三『エラリー・クイーン論』と同年に刊行された諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』所収の「90年代本格ミステリの延命策」を想起させられた。しかしこちらは『ギリシア棺の謎』から半世紀後の日本で起きた、新本格ムーブメントにおける後期クイーン問題の影響を論じた文章だということを留意してほしい。

 端的にいって、「初期クイーン論」で問われていたのは、決定不可能性に直面し続けながらも、どのような本格ミステリ作品が可能なのかということだったはずである。奇妙な超能力者たちが登場する実作は、見方を変えれば、作中にメタレベルを仮構するという方法によって、決定不可能性に直面することを避けている。「初期クイーン論」は、いわば本格ミステリを一度「終わらせる」ために書かれた論文だったが、結果的には、むしろネタとして貪欲に消費され、九〇年代本格ミステリに延命策を与えることとなった。その状況は、「初期クイーン論」以降、法月自身が十二年間も長編から遠ざかってしまったのとは極めて対照的だ。本来の意図と別のレベルで論文が受容されたことは、九〇年代における後期クイーン的問題受容の問題点として指摘しておかなくてはならないだろう。
 とはいえ、そもそもこの問題が解決可能なのかという疑問は残る。ここまで「偽の手がかり」問題を軸に作品を分析してきた結果、むしろその解決不能の難問を、いかにして解決しているかのように見せかけるのかということが、本格ミステリの変容を生み出してきたと把握する方がより適切なのかもしれない。九〇年代の後半には、奇妙な超能力者という設定が多用され、本格ミステリ論理の根幹にあいている穴を、一瞬とはいえ埋めた。それと同じように、他の時代・他の社会の本格ミステリでも、その時々の何かがその穴を塞いでいるはずだ。このジャンルのダイナミックな変容を把握する上では、各時代・社会の「延命策」を探り、その展開を追いかけることが不可欠だろう。

 論点2の末尾で、論者たちが物語内真実を一望に把握しようとする唯物論的態度から、ゲームが成立しさえすれば物語内真実など一顧だにしない形式主義者へと転じたことを説明した。飯城は、第三のステージが存在することを示したのではないか。
 形式主義者が夢想する謎解きゲームは唯一解が存在するパズルに過ぎず、その先に新しいゲームがある。それはルールさえ展開の影響を受けて動的に変化し続ける、複雑で多元的なゲームだ。もはや探偵役も犯人も特権的立場に位置することはできず、真実に到達するための最適解は存在しない。
 だがそれは、多様性に満ちあふれた、新しい可能性が待つ場所でもある。いや、正確に表現しよう。私たちはこれからそこへ向かうのではない。その旅路の出発点は海を隔てた遠い異国の地、初めの一歩を踏みだしたのは半世紀前だ。そして今日も、その暗い道を歩き続けている。