飯城は更に、ハルキス犯人説とスローン犯人説が論理的にパーフェクトであり、新証言に覆されるまで手がかりの真偽が判明しなかったという笠井の主張に反論する。
 まずハルキス犯人説について。エラリーがあらかじめデミーの赤緑色盲も考慮していれば、ハルキスは盲目のままだったことがわかり、ハルキスは謎の訪問者ではないという結論にたどりついていたはずだと指摘する。

 「ハルキスが自分のネクタイの色を知っていた」という手がかりから導き出される解釈は、二通りあった。
 ①ハルキスの目は見えるようになっていた。
 ②デミーは赤緑色盲だった。
 ところが、エラリーは②の解釈を思いつくことなく、①の解釈に飛びついてしまったのだ。もちろん、①の解釈は、パーコレーターと茶碗の推理に都合が良いというのが、最大の理由だろう。
 しかし、ここで②にまで思い至ったならば、どうだっただろうか? もちろんエラリーは、二つの解釈のどちらが正しいかを検証したはずである。あとで実際にそうしたように、デミーの色盲検査を行うだけで良かったのだ。
 そして、もしデミーが赤緑色盲であることがわかったら、ハルキスは盲目のままだったということになる。一方、謎の訪問者は、足元の猫に気づいているので、盲目ではない。従って、「ハルキスは謎の訪問者ではない」という結論が導きだされるわけである。
 つまり、ネクタイの色の手がかりは、偽のハルキス犯人説を打ち破る〈真の手がかり〉だったのだ。

 飯城の指摘を受けて、笠井はエラリーの推理がパーフェクトではなかったことを認めつつ、それでも『ギリシア棺の謎』の時点でクイーンはまだメタ証拠の扱いに習熟していなかったという結論は動かないとした。

 ネクタイをめぐる手がかりは、パーコレーターの水という手がかりの真偽を判定するための、メタ証拠の役割を果たしえたかもしれない素材だ。しかし作中でハルキス犯人説を覆すのは、あくまでもジョアン・ブレットの新証言である。ネクタイというメタ証拠を前提とした推理および実験で、エラリーが自分からハルキス犯人説を覆す方向には、残念ながら物語は進展しない。この手がかりの意味するところを充分に繰りこんでいない点で、エラリーの推理には欠陥があり、たしかにパーフェクトとはいえない。
 であるとしてもネクタイをめぐる証拠が、作中でメタ証拠として有効に機能していないこともまた事実だ。この点では、金時計と千ドル札をめぐる手がかりと似たところがある。『ギリシア棺の謎』の時点で作者は、まだメタ証拠の扱い方に習熟していないという結論は動きそうにない。

 些末ながら飯城の主張について二点、補足しておきたい。
 第一点。飯城は「もしデミーが赤緑色盲であることがわかったら、ハルキスは盲目のままだったということになる」と述べているが、これは厳密ではないように思われる。エラリーは、ハルキスの視力が回復していなかったことまでは検証していない。ハルキスの眼疾が治り、なんらかの事情でそれを周囲に打ち明けなかった可能性は依然として残されている。
 推理が誤っていたと判明したところで、その逆が真実であると証明されるわけではない。確かにデミーが赤緑色盲であることを確かめていれば「ハルキスは視力が回復していた」という推理は誤りだと結論できただろう。だが、それは直ちに「ハルキスは視力が回復していなかった」ことを意味するわけではない。
 もちろん、デミーの赤緑色盲を確かめるほどエラリーが慎重であったならば、続いてハルキスの視力が依然として回復していなかったことも当然確かめただろう。従って飯城の主張通り、ネクタイの色の手がかりは少なくとも間接的には偽のハルキス犯人説を打ち破る真の手がかりとなっていた可能性がある。
 第二点。しかし、それでも飯城の主張は正鵠を射ていないように思われる。笠井は「その時点で与えられていた証拠や手がかりによる推理としては」論理的にパーフェクトだったと主張した。デミーが赤緑色盲であることを確認しなかったのは探偵役として怠慢だったかもしれないが、それはハルキス犯人説が論理的にパーフェクトだったこととは異なる問題だ。
 ジョウン・ブレットの証言という手がかりが、ハルキスの視力が回復していなかったという手がかりにすりかわったところで、新しい手がかりの追加によってハルキス犯人説が覆されたことには違いない。ある時点における手がかりから構築した推理としては論理的にパーフェクトだったとする笠井の主張を、飯城は本質的に論駁できていない。

 次にスローン犯人説について。飯城はクイーンが、偽の解決を鵜呑みにさせるほど弱くはない消極的な手がかりを数多く提示していると指摘する。

 そこで作者が提示したのが、「消極的な手がかり」。これは、「偽の解決を打ち破るほど強くはないが、偽の解決を鵜呑みにさせるほど弱くはない」という〈真の手がかり〉を指す。具体的に挙げるならば、次の五点である。

  • ①スローンとグリムショーが兄弟であることを密告した手紙の主が名乗り出ないこと。報復を恐れて匿名にしたのならば、スローンが自殺した後になっても名乗り出ないのはなぜか?
  • ②ベネディクト・ホテルにグリムショーを訪ねた人物のうち、一人だけが正体不明であること。犯人でないならば、なぜ隠れているのか?
  • ③スローンが自殺したとすれば、警察が逮捕に踏み切ったことを通報した人物がいるはずなのに、それが誰かわからないこと。通報自体は犯罪ではないのに、なぜ黙っているのか?
  • ④自己顕示欲の強いスローンが、日記に自殺の件を書いていないこと。自殺したのは、いつも日記を記す時刻だったのに、なぜ最期の言葉を残さなかったのか?
  • ⑤リッター刑事が以前、空き家を捜索した時に、暖房炉にあったはずの遺言状の燃え残りを見逃したこと。リッターが見逃したのではなく、その時点では遺言状はなかったのではないか?

 これらの手がかりと、「真犯人は偽の手がかりを作り出すメタ犯人である」というデータを組み合わせれば、「ベネディクト・ホテルの謎の訪問者こそ真犯人である。その人物は、スローンに罪を着せるために、警察宛てに密告状を書き、スローンに通報の電話を入れ、遺言状の燃え残りをリッターの捜索後に暖炉に隠した」という推理も成り立ってしまう。ただし、この推理は前述の「消極的な手がかり」に基づくものであり、確証はない。それでも、これらの矛盾点がある以上、スローン犯人説もまた――否定できるほどでもないが――「論理的にパーフェクト」とは言えないのだ。

 こちらもまた、首肯しがたい。この長く険しい議論は『ギリシア棺の謎』にフェアプレイは成立するか、探偵役/読者は唯一の真相にたどりつくことが可能か否かを争っていたはずだ。 消極的な手がかりに基づく、確証のない憶測を「推理」とは呼びがたい*1