笠井潔は「ミステリマガジン」の「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」連載で、手がかりの真偽は物語をどこで終わらせるかという作者の恣意性によって決定されるという「最後から二番目の真実」問題の指摘に続いて、法月が「初期クイーン論」の註で指摘していた千ドル紙幣の手がかりについて検証する。

 金時計の裏蓋に隠された千ドル紙幣は、ノックスと被害者グリムショーの関連を示している。しかし、そもそもハルキス犯人説がジョウン・ブレットの証言によって瓦解した直後に、ノックスは謎の訪問者の正体は自分だったと明かしている。従って、仮にノックスが真犯人の場合、千ドル紙幣のことをエラリーに情報提供しようがしまいがさして違いはない。
 笠井は法月と同じく、クイーンは『ギリシア棺の謎』において手がかりの真偽を決定しうるメタ証拠(千ドル紙幣の手がかり)を発想したが、偽の手がかりがもたらすメタレベルの無限階梯化を切断できるものとはならなかったと結論する。

 もしもノックスが真犯人で、スローンに罪を着せるため美術館の金庫にグリムショーの金時計を入れたのだとしよう。この時点で、金時計は捜査陣に発見されることが予期されている。でなければ、偽の証拠という役割を果たすことができない。偽の手がかりとして捜査陣に金時計を提供するとき、裏蓋の奥に千ドル札を残しておいても取りだしてもノックスにはさして違いがない。千ドル札という物証から導かれる事実を、すでに自分の口から捜査陣に明らかにしている以上。
 このように「自分でできるあらゆる手段を講じてこの札が警察の手におちないようにしたはず」だというエラリーの断定に、さしたる根拠はない。恐喝状という証拠の真偽を判断するために提出された、金時計のなかの千ドル札というメタ証拠は、残念ながら求められている役割を果たしえないのだ。こうした事実はなにを意味しているのか。複雑きわまりないプロットの組みたてにおける若干の齟齬、たんなる作者の計算違いと見なすべきだろうか。
『ギリシア棺の謎』はエラリー・クイーンがはじめて「メタ犯人による証拠の偽造」を中心的なトリックに据えた画期的作品である。この新しいタイプの作品を構想した時点でクイーンは、メタ犯人の出現が「『本格推理小説』のスタティックな構造をあやうく」しかねないという危険性におそらく自覚的ではなかった。しかしメタ犯人を作中に導入することは、探偵小説における斬新なアイディアや奇抜なトリックという次元を超えて、泥沼にも似た形式の無底性を露わにする。どうしたら第四の犯人ペッパーを最後として、必然的ともいえるメタ化の悪無限を断ち切ることができるのか。そして苦しまぎれに発想されたのが、証拠の真偽を決定しうるメタ証拠という設定だった。

 この問題について、波多野健から寄せられた意見を笠井は連載のなかで紹介する。ノックスが真犯人であれば、千ドル紙幣はグリムショーとの関与を疑わせるため、殺害後にいったん金時計からとりだして手元に置くだろう。当時の千ドル札は超高額紙幣だったため、他の紙幣と紛れる可能性は低い。スローン殺しのときには、既にノックスはグリムショーとの関与を自ら告白した後だった。情報提供することでエラリーに良い心証を与えられると計算し、あえて金時計に千ドル紙幣を戻したうえで金庫に隠したのではないか。

 波多野氏が指摘するように、「エラリーが誤解したことを知った真犯人ノックスがその誤解を利用して、ジョーンズを引き入れエラリーと三人で本物そっくりの模写という二枚の絵の罠を仕掛け」た結果、「ペッパーは陥れられた」という可能性も否定できなくなる。警官に四発の銃弾を浴びせられ廃屋の地下室で絶命してしまうペッパーだが、じつはノックスに操られて絵を盗んだ、たんなる窃盗犯だったかもしれないのだ。このように『ギリシア棺の謎』は、第四のペッパー犯人説を最後の真相として完璧に閉じられた探偵小説空間をなしているとはいえない。第五の真相として、一度は否定されたノックス犯人説があらためて浮上しかねない以上は。

 以上の指摘に対し、飯城は「三つめの棺」で次のように反論した。ノックスが千ドル紙幣を与えたのは、グリムショーが殺される直前だった。従って、千ドル紙幣が隠された金時計を所持していることは、グリムショー殺しの犯人である有力な証拠となりうる。もしノックスが真犯人であり、金時計を金庫に残すことでスローンを偽犯人に仕立てようとしたのならば、千ドル紙幣のことをあらかじめ捜査陣に教えておくはずだ。だが、実際にノックスが情報提供したタイミングは、スローンの死体が発見された後だった。これは、ノックスが善意の情報提供者に過ぎないことを示している。

 ――しかし、この笠井説には致命的な間違いがある。もしノックスが真犯人ならば、スローンを殺す前に、エラリーたちに千ドル札の話をするはずだからである。
 金時計の中の千ドル札は、本来なら、スローンの自殺(実は他殺だが)が発見された時点で警察が見つけ出す可能性が、最も高かった。実際には、金時計の中までは警察もエラリーも調べなかったのだが、これは捜査陣の手抜かりであり、真犯人には予想できなかったはずである。
 では、警察が現場で回収した金時計を調べ、その場で千ドル札を発見していたら、どうなっていただろうか?
 まず、札の番号を銀行に問い合わせ、ノックスのものだとわかる。そこでノックスを尋問すると、彼は「忘れていたが、実は……」と語り出す。
 これでノックスは信頼できるだろうか? 当時の千ドル札と言えば、富豪にとっても大金である。しかも、これはすぐに使うために銀行から下ろしたのである(原文では「個人的な支払いのため」となっている)。それを忘れていたというのは、いかにも怪しい。
 だが、ノックスが、スローンを殺すにエラリーに話しておいたら、どうだろうか?
 ノックスの話を聞いたエラリーは、銀行に問い合わせ、その番号の札が、まだ使われていないことがわかる。今でも千ドル札は金時計と共に犯人の手元にあるのだ。そこにスローンの自殺事件が起こり、金庫を調べてみると、金時計と千ドル札が出て来る……。
 誰が考えてもこちらの方が、うまい手である。真犯人がノックスで、スローン犯人説を強化するために千ドル札を残したならば、必ず、スローンを殺すに、エラリーたちに話したはずである。繰り返すが、スローンの死体発見時に警察が千ドル札を見逃したのは、犯人には予想できない事態だったのだから……。
 にもかかわらず、ノックスはスローン殺害事件ので、エラリーたちに千ドル札の話をした。――よって、ノックスは犯人ではない。

 しかし同時に飯城は、笠井らの指摘通り千ドル紙幣はノックスが犯人であることを示す直接的な証拠とはならないため、エラリーの推理と合っていないことを認める。

 前節の結論は、エラリーの推理のうち、「ノックスは千ドル札の話を、スローン犯人説が受け入れられていた時に、自発的に話した」という部分には合っている。しかし、「ノックスが真犯人ならば、この千ドル札は(自分に不利になる手がかりなので)金庫に残す前に抜き取っておいたはずだ」という部分には合っていないのだ。エラリーの推理のこの部分は、笠井が指摘したように、間違っているように見える。前章第五節での私の考察は不充分だったことを認めなくてはならない。千ドル札は、ノックスが犯人だということを直接示す手がかりではないので、「ノックスの不利になる手がかり」とは言い難いのだ。

 飯城はしかし、千ドル紙幣はノックスが犯人だということを示す間接的な手がかりにはなりうると主張する。スローンが犯人であれば(例えば急に家宅捜索されることを危惧して)必ず千ドル紙幣を金時計からとりだしておくはずだ。ノックスが真犯人の場合も、スローンを犯人に仕立てるためには、紙幣を金時計に残したままにするはずがない。その場合、ノックスはスローン犯人説をエラリーに押しつけようと画策していたのだから、スローン犯人説を否定する根拠となってしまう千ドル紙幣のことを情報提供するはずがない。

 少し見方を変えてみよう。前述のように、犯人がスローンに罪を着せたいならば、千ドル札は破棄するはずである。これは真犯人が誰であれ、変わることはない。しかし、実際には破棄されていなかった。
 この事実により、次の推理が成り立つことになる。
 犯人が誰であれ、金時計の中の千ドル札の存在を知っていたならば、必ず破棄したはずである→しかし、紙幣は破棄されずに金時計の中に残っていた→従って、犯人は紙幣の存在を知らなかった人物である→しかし、ノックスは紙幣の存在を知っていた→ゆえに、ノックスは犯人ではない。
 言い換えると、千ドル札の存在を知っているノックスが犯人だとすると、彼は自分の不利になる偽の手がかりを作り出したことになり、ルール③の「手がかりaに基づく解決Aが〈偽〉だった場合、犯人はこの〈偽〉の解決によって利益を得る人物である」に反することになるのだ。

 最終的に飯城は、作者クイーンの記述に不足があったことは認めつつも、探偵役の推理に論理的な不備があったわけではないと締めくくる。

 確かに、『ギリシア棺』におけるエラリーの千ドル札の推理はわかりにくいし、誤解を招くように書かれてはいる。だが、千ドル札がノックスにとって不利な手がかりであることは、まぎれもない事実であり、スローンに罪を着せたいノックスにとっては、「いかなる犠牲を払おうとも、捜査当局の手に入るのを防がなければならない」ものであることも、まぎれもない事実である。そしてまた、ノックスが千ドル札の件を――スローンが殺された後で――自発的に話したことも、彼の無実をまぎれもなく示している。それが読者にわかりにくいのは、単に、作者クイーンの説明不足に過ぎない。決して、「探偵役の推理における論理的な不備」と批判されるようなものではないのだ。

 私感になるが、飯城の反論は見事なものと思う。反論は到底不可能と思われた笠井・波多野の主張をはねのけ、探偵役エラリーの思惑さえ超える論理を組み立てている。ただ同時に、そのアクロバティックさには危うさも感じられる。
 ノックスの無実を示そうとしたとき――情報提供はスローンの自殺を偽装する前でなければならないと主張したとき飯城は、真犯人がノックスならばスローン犯人説を強化するため金時計に千ドル紙幣を残したはずと仮定している。
 しかし次に、エラリーの推理に論理的な不備はないことを示そうとしたとき――千ドル紙幣はノックスが犯人だと示す間接的な手がかりになりうるため必ず破棄したはずだと主張したとき飯城は、真犯人がノックスならばスローン犯人説をしたてるためスローンの思考をトレースし、千ドル紙幣を残さないようにしたはずと仮定している。
 果たしてノックスを真犯人と仮定した場合、千ドル紙幣を残すほうと、残さないほうの、どちらが正しい推理なのだろうか。蓋然性を定量的に評価する手段がない以上、どちらが正しいとは断言できない。飯城の主張は少なくともどちらか一方しか成立しないようだ。
 エラリーの推理に論理的な不備はなかったとする飯城の解釈は可能なものに思える。しかし、推理には論理性だけではなく、充分な蓋然性も要求されて然るべきではないだろうか。蓋然性の見地から相反する二つの解釈をひきだしてしまう千ドル紙幣の手がかりは、読者が唯一の真相にたどりつくための妥当な手がかりにはなっていなかったと私は結論したい。