笠井潔は「ミステリマガジン」の「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」連載で、法月と飯城のやりとりを紹介した。そのうえで、法月「初期クイーン論」に飯城が充分な応答をしていないとした。
まず笠井はハルキス犯人説やスローン犯人説が、新たな手がかりの出現まで否定されなかったことに着目する。手がかりの真偽は、どこで物語を終わらせるかを決定する作者の恣意性にゆだねられているのではないか。
ある有限の手がかりにおいて推理が完結していても、その解釈と矛盾する新たな手がかりをひとつ追加すればドンデン返しされ、再検討が要求される。言い換えれば、論理的にパーフェクトな推理を構築したとしても、それは常に 「最後から二番目の真実」でしかない*1のではないか。ある推理が真実とみなされるのは、作者が恣意的に物語をそこで終わらせ、新たな手がかりの発見を打ち止めにするときだけではないか。
図3 に「最後から二番目の真実」問題の構造を示す。このように考えると、ペッパー犯人説が物語内真実とされるのはそこで作者が恣意的に物語を終わらせたからに過ぎない。法月「初期クイーン論」は、そのような作者の恣意性を〈読者への挑戦状〉の挿入によって禁じたことにクイーン作品の画期性があると指摘していたという。
推測になるが、笠井はここで飯城を批判したというより「ミステリマガジン」読者に経緯を説明したというほうが近いだろう。
法月「初期クイーン論」の主張は、偽の手がかりという趣向を導入したため『ギリシア棺の謎』はメタレベルの無限階梯化が潜む可能性を否定できず、結果的に作者の恣意性を避けられない(謎解きにおけるフェアプレイが成立しない)というものだった。
笠井が指摘した、手がかりの真偽は物語をどこで終わらせるかという作者の恣意性で決定されるという問題は、新たな手がかりの追加を禁じる〈読者への挑戦状〉という工夫で解消されていることが法月「初期クイーン論」で指摘されている。
飯城もまた「三つめの棺」で笠井の主張を同様に整理したうえで、改めて『ギリシア棺の謎』には作者の恣意性など無い(フェアプレイが成立する)ことを示そうとする。
ここで、論者たちの後期クイーン問題への態度に留意してほしい。法月・笠井も、飯城も、もはや探偵役が客観的真実に到達できるか否かを問題とはしていない。真実などどうでもよい、探偵役の推理が妥当であるか、読者にフェアプレイが約束されるか否かだけを問題としている。
事件の真犯人がジョウン・ブレットで、色仕掛けで籠絡されたエラリーがペッパーを犯人にしたてあげ『ギリシア棺の謎』には事実と異なる記述をした。そんな物語内真実であっても構わない。ただ問題編のテキストからペッパーを犯人として指摘することが果たして可能だったのか、論理的に妥当だったかだけを問題としている。
現実の似姿である以上、物語内現実は無限のはずだ。作者は有限のテキストを以て無限の物語の一部だけを読者に伝える。有限の認識能力に拘束された探偵役もまた、読者と同じく世界の全体像に触れることはできない。認識の範囲内で論理を駆使し無矛盾性を保つことは可能だが、そのような内的解釈を刷新し続けたところで、世界を客観的に一望する神の視点に到達することはない。
だが論者たちは、もはやそのような唯物論的世界観の不成立を嘆く段階を通り過ぎている。後出しジャンケンさえなければよい。伏線もなしにドンデン返しをしかけるような野暮さえなければよい。無人の森で巨木が倒れたとき音がしたのかしなかったのかなどどうでもよい。不可知論的センチメンタリズムを鼻で笑い、形式主義に魂を捧げた人でなしとして議論している。このことを理解頂けたならば、次のステージに進もう。