『ギリシア棺の謎』がメタミステリであるという飯城の主張を、法月は「初期クイーン論」で認めた。しかし、問題の本質はそこにはないと主張した。

[...中略...]しかしメタ・ミステリーという概念自体に、何かとりたてて新しい可能性が含まれているわけではない(そこにミステリーの超進化形態を見ようとする素朴な楽観論からは、「形式化」ということの意味を問う姿勢がまるごと抜け落ちている)。ここでより重要なのは、メタ・ミステリーという構造そのものが、根源的な「不均衡」にさらされていること、というより、そうした「不均衡」にさらされるところから否応なしに生じざるをえなかったということである。

 法月は、偽の手がかりを導入することでメタレベルの無限階梯化が生じるため、必然的に作者は証拠ないし推論の真偽を決定するために恣意性を導入せざるを得ないと指摘した。

『ギリシア棺の謎』の作品構造が、タルスキーのメタ言語のそれと同工異曲のものであることは明らかであって、「論理主義」的な謎解きゲーム空間の構築から必然的に派生したものだといってよい。クイーンの文脈においては、証拠の真偽性の判断が階梯化の契機になっている。しかし、『ギリシア棺の謎』のようなメタ犯人――ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を作り出す犯人、と定義しておく――の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくするものである。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性をも否定できなくなる。これは「作中作」のテクニックと同様、いくらでも拡張しうるが、その結果は単調な同じ手続きのくりかえしにすぎず、ある限度を超えれば、煩わしいだけのものになる。こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系のなかで判断することはできない。ということは、この時点で再び「作者」の恣意性が出現し、しかもそれを避ける方法はないのである(註12)。

 引用文の末尾にある註には、作者の恣意性の具体例としてノックス犯人説を否定する根拠となった金時計の千ドル紙幣の手がかりが指摘されている(なお、この手がかりは後に笠井、飯城によって詳しく検証されることになる)。

(12)たとえばこの小説のなかで、ある重要な容疑者が自分にとって不利な証拠を自発的に提供する場面があるが、探偵エラリーは、「彼が殺人犯人であれば、自分でできるあらゆる手段を講じて、その証拠が警察の手に落ちないようにしたはずだ、にもかかわらず、彼は自由意志でそれを告げにきた、もし彼が殺人犯または共犯者だったら、当然そうしたろうと考えられることと、まるっきり矛盾している」という推論を経て、この人物を容疑者リストから外す。しかし、この人物(三番目の誤った推理で犯人と名指しされる)が、エラリーがそこまで考えることを予想して行動していたとすれば、この推理は成り立たない。しかも実際に、真犯人はそれと同質の思考パターンで行動していたにもかかわらず、エラリーはこうした可能性についてひとことも触れようとはしないのである(なぜなら、それは自己言及的なパラドックスを招き寄せてしまうから)。クイーンは容疑者の行動の「自発性」を善意に解釈して、論理的な整合性を保とうとしているが、かえってこのような箇所に「作者」の恣意的な価値判断があらわれているといってよい。

 ここでいったん、混乱を避けるため「作者の恣意性」について補足する。
 一般的な文芸作品、それも自然主義文学の影響下にある小説において作者の恣意性といえば「わざとらしいオチ」「技巧偏重」「作者のひとりよがりな展開」を指すだろう。機械仕掛けの神を排し、ありのままの現実を透明な文体で写生する私小説のような作品こそ、作者の恣意性を排した作品のはずだ。
 しかし「初期クイーン論」ではこの言葉を、ミステリ作品の文脈で使用している。謎解き場面において探偵役から披露される推理に、読者にはおよそ認めがたい独善的な論理展開があること、すなわち謎解きゲームにおけるフェアプレイが成立しないことを「作者の恣意性がある」と表現している。
 例えば法月は〈読者への挑戦状〉が作者の恣意性を排す工夫だと述べている。一般的な文芸作品においては、物語の途中で読者に向かって作者が我が物顔に語りかけるなどという趣向は噴飯ものの不自然さであり、これこそ作者の恣意性と呼ばれるだろう。法月は、作者と読者との間の知的遊戯、謎解きという名のゲームという文脈で使用していることに留意してほしい。

 偽の手がかりという趣向を導入したことで、あらゆる手がかりの真偽を決定できない状態が生じた。ノックス犯人説を否定する手がかりが偽の手がかりである可能性を追求すると、メタレベルの無限階梯化が生じる。このため作者クイーンはその可能性に目をつぶり、恣意性を導入せざるを得なくなった。具体的には、ノックス犯人説を否定する千ドル紙幣の手がかりが偽である可能性を探偵役エラリーが検討していないことを指摘した。
 このような法月の主張を、飯城は「ギリシャ・リフレイン――『ギリシャ棺の秘密』をもういちど」で否定した。あらゆる手がかりの真偽を決定できない状態において、作者クイーンは手がかりの真偽を見分ける四つのルールを提示しているという。これらは読者にも納得できるルールであり、従って作者の恣意性は表れていない。

 補足すると、これらのルールを作者クイーンがあらかじめ〈読者への挑戦状〉などで明示していたわけではない。
 ルール①は、偽の手がかりが関与しない一般的なミステリ作品でも成立する基本的なルールだろう。もしも矛盾がみつかったならば、偽の手がかりが混じりこんでいることを考慮に入れ、推理を組み立て直さなければならない。ハルキス犯人説がジョウン・ブレットの新証言と矛盾し瓦解したことを思いだしてほしい。
 その他のルールはどうか。 偽の手がかりをしかけるほどの狡猾な犯罪者ならば、その合理的な思考からして当然*1このような行動を採るはずという想定からすれば、ルール②から④が成立すると飯城は主張している。では、これらのルールが『ギリシア棺の謎』でどのように適用されたか飯城の説明を見ていこう。

 まず法月から作者の恣意性が表れていると指摘を受けた、ノックス犯人説を否定する手がかりについて。
 ハルキス犯人説の崩壊後、ギルバート・スローンは被害者グリムショーの兄であることを密告する手紙が届く。疑いの目を向けた捜査陣は、スローンの部屋から空き家の地下室の鍵を発見する。地下室にグリムショーの死体を一時的に隠し、遺言書を燃やしたのはスローンではないか。美術館を訪れた捜査陣は、スローンの死体を発見する。覚悟の自殺を遂げたものとし事件は落着するが、エラリーだけはそれを疑い続ける。
 ナシオ・スイサの証言から、捜査陣が美術館を訪れる前にはドアが閉ざされていたと判明する。頭蓋を貫通した銃弾は隣にある画廊の壁にめりこんでいた。スローンが自殺したのならば、銃弾は画廊の壁ではなくドアに遺されたはずだ。こうして、ハルキス犯人説を工作した真犯人が今度はスローンに罪を被せようとしたことが判明する。
 スローンの金庫からは、被害者グリムショーが所持していた金時計が発見されていた。まだスローンが自殺を遂げたと世間に誤解されていた頃、ノックスはエラリーに情報提供を申しでていた。謎の訪問者としてハルキス邸を訪れた晩、ノックスはグリムショーに請われ千ドル紙幣を与えた。グリムショーはそれを金時計の裏蓋に隠したという。
 ノックスを犯人だと仮定しよう。その場合、ノックスはグリムショーと関与した証拠を揉み消すため、金時計から千ドル紙幣をとりもどしておくはずだ。だがノックスは進んで千ドル紙幣のことを情報提供した。ノックスが犯人であれば自身を犯人だと疑わせることになる千ドル紙幣のことをわざわざエラリーに教えてもなんの利益もない。従って、ルール③を適用すればノックスは犯人ではないと飯城は結論する。
(後に笠井潔の指摘を受けて、飯城はこのときの検討が不充分だったことを認めている。疑念を覚えた方はしばらくお待ちいただきたい)

 まず、エラリーが「ノックスは犯人ではない」と推理した理由――千ドル札の推理から。
 この千ドル札は、被害者グリムショーが金時計の中に隠し持っていたもので、ノックスと殺人事件との関与を示している。グリムショーの死体が発見された時点では、ノックスが事件に関与していることは捜査側は知らなかったわけだから、この千ドル札は「ノックスに不利な手がかり」ということになる。
 さて、ノックスが犯人だとすると、殺人の後でこの千ドル札を死体から回収して捨てるというのが、当然の行動となる。自分が謎の訪問者ではないことを示すために、苦労して〈ハルキス犯人説〉を作り上げたのに、自分が謎の訪問者であることを示す千ドル札を残しておくはずがないからだ。つまり、ノックスが犯人ならば、千ドル札という手がかりを残しておいても何の利益もない。ここでルール③を適用すると、ノックスは「千ドル札の手がかりによる解決によって利益を得る人物」ではない。つまり、犯人ではないという結論になる。

 ナシオ・スイサの証言によりスローン犯人説が否定された後、ノックスのもとへ二通の恐喝状が届く。一通目はアンダーウッド・タイプライターで、二通目はレミングトン・タイプライターで打たれていた。更にエラリーは、二通目の恐喝状は打ち損じから3の数字の上にポンド記号の下半分が印字されていることに気付く。通常、数字の3はナンバー記号と組み合わされるが、代わりにポンド記号と組み合わせた珍しいタイプライターを使ったのではないか。
 まさに、そのようなタイプライターがノックス家で使用されていた。金時計に隠されていた千ドル紙幣に基づく推理からノックスを犯人候補から除外していたエラリーは、真犯人が今度はノックスに罪を被せ殺人犯に仕立てようとしていることに気付く。犯人は、一通目のときはノックス家のタイプライターに近づくことができなかったが、二通目のときにそれを使用することができた人物だ。その条件に該当するのは、一通目の恐喝状を契機にノックス邸での張り込みを志願した、地方検事補のペッパーしかいない。
 飯城は、ポンド記号はノックス犯人説を、タイプライターの製造会社の違いはペッパー犯人説を示唆するが、ルール②とルール④の適用からペッパー犯人説こそが真となると説明した。

 この推理を、手がかりの真偽という角度から見直してみよう。

  • 手がかりa=脅迫状のポンド記号=〈ノックス犯人説〉を示す。
  • 手がかりb=二通めの脅迫状だけがノックスのタイプライターで打たれていたこと=〈ペッパー犯人説〉を示す。

 まず、この状況は、ルール②の「別々の解決をもたらす手がかりaと手がかりbが混在する場合」に他ならない。つまり、「名探偵に対してはっきりと提示されている方が〈偽〉である」という結論を引き出せるわけである。となると、どう見てもポンド記号の手がかりの方が露骨だから、手がかりaが偽となる。また、前述の千ドル札の推理からも、ノックスが犯人ではないのが明らかなので、やはり手がかりaは偽だとわかる。
 では、手がかりbも偽だということはあり得るだろうか? こちらはルール④の、「犯人が〈偽〉の手がかりを作る場合、偽の解決Aを示す手がかりaと偽の解決Bを示す手がかりbを同時に作ることはない」を適用すればすぐわかる。犯人がエラリーに対して、〈ノックス犯人説〉と〈ペッパー犯人説〉の両方を同時に提示したかったというのは、あり得ない話ではないか。

 一点補足する。ここで飯城は、タイプライターの製造会社が異なっていることよりも「どう見てもポンド記号の方が露骨」で「名探偵に対してはっきりと提示されている」としている。しかし、タイプライターの違いも数字の3の打ち損じも鑑定の時点で明らかにされている。果たして「どう見てもポンド記号の方が露骨」と断言できるだろうか。
 推測になるが、恐らく飯城は「名探偵に対して」という箇所に力点を置いている。数字の3の打ち損じという些細な痕跡から、ポンド記号と組み合わされた特殊なキーのタイプライターが使用されたと推理を進めるのは、常に細部を観察し些細なことにも不審を抱く名探偵という存在をおいて他にない。薄っぺらいハム(タイプライターの違い)とは違い、魅惑的な骨付きしゃぶり肉(ポンド記号)という意味で飯城は「ポンド記号の方が露骨」としている。

 物語が終わると同時に新たな手がかりが登場することはなくなる。こうしてルール①の適用によりペッパー犯人説が真となると飯城は締めくくった。

 ……かくして物語は終わる。そして、ここでやっとルール①「手がかりaに基づく解決Aと矛盾する手がかりbが発見されない限り、この解決Aは〈真〉とする」が適用されることになる。つまり、物語が終わった以上、新たな手がかりが登場することはあり得ないので、もはや〈ペッパー犯人説〉と矛盾する手がかりも登場しないことになる。ゆえに、〈ペッパー犯人説〉が真となるわけである。……ずるい手と言われそうだが、詳細な考察は次章にゆずり、本章ではこれ以上の考察は控えておく。