少し早めの夏期休暇をとった。帰省して実家の本棚を懐かしく眺めていると、兄が買いそろえていた『風の谷のナウシカ』(ANIMAGE COMICSワイド判)をみつけ、思わず全巻を一晩で再読してしまった。
最後に読んだのは十年以上前、まだ大学生の頃だった。発刊ペースがかなり空いていたため、全体的なストーリーラインを把握したのはこれが初めてかもしれない。
ちょうどマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)を読み終えた日だった。そのせいか、ナウシカの行動が「本当の正しさとはなにか?」を問い続けていたように思えてしかたがなかった。
再読のきっかけはもうひとつ、海燕さんの次の文章だった。ナウシカは、矮小な人間には自然の摂理をどうすることもできないとあきらめ、技術による生命の改変を拒否して、人類再生の道を独善的な判断で勝手に閉ざしてしまったのではないかと指摘している。
ナウシカの決断は正しかったのだろうか? - Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100524/p2
墓所における対話を読むと、確かにそう思えてくる。滅亡した古代産業文明の意識を投影されたヴ王の道化は、ナウシカと次のように対話する。
この対話の直前、古代人は「清浄な世界が回復した時 汚染に適応した人間を元にもどす技術もここに記されてある」(p.199)と述べている。古代人は決してナウシカたちを、たそがれの世界に生き残った者たちを見捨てたわけではない。すべてを最善の努力で救おうと入念に計画している。
ところがナウシカは、世界が滅びに瀕しているというのに「それはこの星がきめること」と責任を放棄し、それを非難されると「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」と脈絡のない開き直りをする。なにやら意味ありげではあるがよくわからない「いのちは闇の中のまたたく光」とはどのような考えなのか。この禅問答のようなやりとりはいったいなんなのか。ナウシカはどのような経験からこのような答えにたどりついたのだろうか。
映画でのナウシカは、蟲たちを愛し、愚かな争いをやめさせようと孤軍奮闘する平和主義者としてのイメージが強い。コミックスで描かれる彼女も基本的には同じだが、より過酷な生き様が描かれている。
クシャナ率いるトルメキアの親衛軍によってペジテ市が壊滅され、風の谷に落ちのびた姫君ラステルはナウシカに謎の石をたくし事切れる。その石は、かつて高度な科学技術を達成した巨大産業文明を滅亡に追いやった終末兵器、巨神兵を復活させるための部品だった。石を追ってきたトルメキア軍によってラステルの墓を荒らされたと知ったナウシカは激昂し、親衛兵のひとりを殺害する。
病に伏せる族長ジルの娘として、古の盟約に従いトルメキア軍に参加したナウシカは、クシャナに捕虜を解放させることを条件に戦場へでる。土鬼諸侯国の兵たちを鏑弾で翻弄するが、ナウシカを守ろうとした他の兵たちが身代わりとなってしまう。
ナウシカは戦いを愚かだと思いつつも、それと無縁ではいられない。理不尽な暴力に怒り刃を振るうこともあれば、自分を慕ってくれる者達を巻き添えにすることもある。彼女は自分の手が血に塗れていることを知っていた。
土鬼諸侯国を統治する皇弟のたくらみにより、人工的な腐海を実現する生物兵器として粘菌の開発が進められていた。だが粘菌の変異体が暴走し、大量増殖する。トルメキア軍を離れたナウシカは迷いこんだお堂で一人の上人と出会い、腐海の爆発的な広がりはあらかじめ予言された浄化のときに過ぎないとさとされる。だが、そのことばにナウシカは疑問を抱く。
だが、ナウシカは自分が間違っていたことに気づく。彼女は王蟲が人間の愚かさに怒っていると思い込んでいた。だが王蟲は自身を犠牲として新たな腐海の苗床となり、粘菌を捕食する。その眼は攻撃色の赤ではなく、穏やかな青だった。突然変異体の粘菌は食べ尽くされたわけではなく、新しい腐海に受け容れられていた。
ナウシカは恐らく、それまでと人間社会と自然との関係を二項対立的なものと無意識に解釈していたのだろう。だからこそ、人間の愚かさを王蟲たちがたしなめにやってきたのだと思い、そのために死んでいく「王蟲たちの苦しみや悲しみは誰がつぐなう」のかと疑問を感じた。
しかし王蟲たちにしてみれば、人の手から生まれた突然変異体の粘菌さえも、自然の大きな摂理に組みこまれた一部に過ぎなかった。上人のことば通り「神聖皇帝の愚行すらもその一部」に過ぎなかった。
人間社会と自然とを等価な関係とみなすこと自体が傲慢な思い込みに過ぎなかった。上人さまのことばの正しさを知ったナウシカは滅びを受け容れ、王蟲たちと共に新しい腐海に身を沈める形での死を選ぶ。
だが、彼女は死ななかった。王蟲はナウシカを漿液で包むことで守り、森の人セルムによって救出される。心象世界で、ナウシカは腐海の秘密を教えられる。腐海は有害物質を結晶化し、その後にはかつての自然が戻ってくる。腐海は滅びではなく、世界を浄化するためのシステムだった。
ナウシカは、人間から愚かしさが消えるまで、この清浄な土地のことを心に秘めようと決める。その決意にセルムは共に森の人となることを勧めるが、ナウシカはそれを断る。
こうして「たそがれの世界」で生きることを決意したナウシカは、トルメキアに進軍しようとする神聖皇帝の行く手を阻む。神聖皇帝は巨神兵を復活させるが、姫君ラステルにたくされていた石のおかげで巨神兵をとめることに成功する。ナウシカは、巨神兵と共に古代文明のさまざまな叡智が眠るシュワの墓所へと向かう。
巨神兵の毒に弱っていたテトが死亡し、埋葬のためナウシカは見知らぬ廃墟に降り立つ。だが、そこは古代文明の残滓が遺された街だった。街を管理していたヒドラによってナウシカは恐ろしい真実を知る。腐海も蟲も、生命を自在に操る古代産業文明の高度な技術によって創造されたものだった。
ここで、この物語は映画版でイメージするような「素晴らしい自然と愚かな人類社会」という二項対立のイメージを徹底的に払拭する。自然の奥深さを象徴するかのような腐海のシステムや王蟲の神秘さは、愚行の果てに滅んだ古代文明の技術によって生まれたものだった。
森の人セルムでさえたじろいだこの真実に、しかしナウシカはひるまない。愚かな人類がなぜ王蟲を創造できたのかと自問するセルムにナウシカは答える。
正直なところ「精神の偉大さ」「外なる宇宙」「内なる宇宙」といった修辞的文句に私は少し引いてしまうが、ナウシカの言いたいことはわかる。すべての生命には成長する力がある。たとえ蟲たちの創造主が自然であれ人間であれ、それは変わらない。
身も蓋もないわかりやすい例をあげるなら、それは親と子の関係に似ている。どんなに親(人類)が愚かであっても、だからといって子供(生命)まで愚かになるとは限らない。子供がどれだけ成長できるかは、その後の生き方によって決まる。子供は親に、生きる目標や人生設計を与えられて唯々諾々と従う奴隷ではない。
これを理解すると、墓所での古代人とナウシカが交わした言葉の意味が理解できる。すべての生命には学習し、成長する能力がある。「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた」のであり、古代人のおせっかいを受ける謂われは無い。生命が滅びを逃れるか否かは誰かが上意下達で決めることではなく「それはこの星がきめること」だ。
シュワの墓所へ向かう途上、ナウシカは次のように思索する。
墓所における対話でナウシカが発した答え、「いのちは闇の中のまたたく光だ」ということばの意味がここにある。
なぜ、蟲たちは誰かに導かれることもなく、あの深遠さを獲得することができたのか。それは無数の「無駄な死」が、先人達の試行錯誤の積み重ねが、無数の命ひとつひとつの成長しようとする想いと苦悩の堆積があったからだ。生命はそのような幾重にも重ねられた「無駄な死」という闇の中でわずかに成功した奇蹟の「またたく光」だ。
作者本人は進化論や創発現象を思い浮かべていたのかもしれない。だが、すでに自然と人間社会との対立という図式は乗り越えているのだから、ここではあえて別のこと、科学技術の発達とその代償にたとえてみよう。
自動車の利便さは、悲惨な事故死とひきかえに得るものだ。交通システムの絶えざる改善や、事故発生時の衝撃吸収装置といった発明が限りなく悲劇を減らしていくだろう。だが、それはいま起きている事故、たったいまこの瞬間に命を失い家族や親しい者を哀しみへと突き落としている不幸を救うものではない。
あるいは原子力発電はどうだろうか。アインシュタインが質量とエネルギーについてのあの美しい等式に到達してから、どれだけの血が流されただろうか。ヒロシマとナガサキへ落とされた原子爆弾や、チェルノブイリ原子力発電所事故について、その膨大な記録をここに記す余裕はない。
私は科学技術を否定したいわけではない。技術には人々を幸福に導く力がある。それは間違いない。だが、それを正しく扱うには哲学と倫理における深い思索が、政治と経済における新たなシステムの模索を必要とする。
なるほど、海燕さんの指摘されるとおり、人類は従来の人間概念を乗り越えてこそ未来があるかもしれない。蟲たちが古代産業文明の産物だと知っているナウシカは、そのような成長を否定しないだろう。だが同時に、未来とは大きな代償を払うことを覚悟して手に入れるものだ。人はそうして、自らの誇りをかけて傷だらけになりながら成長する。その尊厳は決して奪われてはならない。
ナウシカが長い旅路の果てにたどりついた正義とは、そういうものではなかっただろうか。
もちろん、ここまでナウシカの思想を理解しても、それでも墓所を破壊するのはやりすぎだったのではないかと思わないでもない。
ナウシカの思想に従えば、古代産業文明を築いた先人たちさえ「闇の中のまたたく光」には違いないはずだ。それを受け継がないのは巨神兵によって失われた無数の命、失われた古代文明という「無駄な死」を虚無へ沈めてしまう行為ではなかったか。ナウシカが当初、人間社会と自然とを二項対立的な関係とみなし知らず知らずのうちに自然を矮小化してしまったように、今度は古代文明とたそがれの世界とを二項対立化する過ちを犯してしまったのではないか。
もうひとつ、疑念を感じる箇所がある。破壊された墓所から噴きだした液体は、王蟲の血と同じ深い青色をしていた。物語の終盤、ナウシカは森の人セルムと共に、腐海や蟲たちが古代産業文明の技術であることや浄化後の世界では生きられないことを隠そうと決意する。
この点も、納得しがたい。確かに、愚かな人類はその真実を知ったならば再び無益な争いを繰り返すだろう。だが、それこそ「それはこの星がきめること」ではないか。強靱な精神と行動力、深い愛情と慈悲をたたえた唯一無二の超人である彼女は、墓所に代わる新しい権威として生命を侮蔑する側にまわってしまったように思えてならない。
たそがれの世界で苦しむ生命たちの成長力を信じず、世界再生のための計画に唯々諾々と従うよう操ろうとした古代産業文明は確かに生命を侮蔑していたかもしれない。だが、墓所に代わって真実を秘し、新たな世界再生への行動を開始したナウシカもまた、すべてを操ろうとする特権的存在になってはいないか。
この点に、セカイ系以降の作品群との違いを感じる。例えばアニメ「Angel Beats!」では、世界の意義をどう解釈するかは個々人が見出すものであり、それを強要する者こそが神にして悪だった。
救うべきはセカイか、それともボクか――「Angel Beats!」感想
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また、後期クイーン問題を巡る国内本格ミステリの変容も思いだされる。諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』によると、偽の手がかり問題を通して犯人役の特権性が描かれることで、それまで無根拠に信頼されていた無謬の名探偵という特権性が崩壊した。しかしそれはやがて、完璧な操り犯という犯人役の特権性すら幻想に過ぎないことが描かれる作品へとつながった。
操りによる特権化が崩れ、セカイ系という多元的世界観が出現し、現代は「正しさ」とはなにかが根本的に問い直されている時代なのかもしれない。目先の利益や固定観念に囚われず、世界を正しくみつめようとしたナウシカの苦悩は、時代を超えた普遍性を獲得しているように思う。