失礼します。そう声をかけて、保健室の扉を開けた。
 ベッドに囲夫が寝ていた。その傍ら、パイプ椅子に未緒がいた。
 正確には、未緒は座っていなかった。半立ちで、腕を伸ばして。
 囲夫の頬を、つまんでいた。
「………………」
 むにむに。むにむに。
 驚くほど柔らかく、伸びたり歪んだり。それにあわせて囲夫の表情が面白おかしく変わる。
 同時に、未緒の表情も変化した。笑顔になったり、愛おしそうになったり。
「アー、その……」
 未緒が、振り返った。俺の姿を認め、弛緩していた顔がみるみるうちに真面目な表情へと変わっていく。
 ぺたり。力が抜けたようにパイプ椅子へ腰を落とした。
「囲夫の具合はどうだ?」
「わたしはなんでもありません」
「他の奴らは、まだか?」
「わたしはなんでもありません」
 眼鏡を外すと、ハンカチでレンズを拭きはじめた。けっこう度があるらしく、レンズ越しの光景が歪む。
 手近な椅子に、俺は腰掛けた。頭の中で、猿の盆踊りを思い浮かべる。ぴーひゃらら、ぴーぴーひゃらら。
 来い。誰か来い。俺がこの沈黙に息詰まる前に、さっさと早く誰か来い。
「や」
 入り口が開くと、右手をあげた湯船が立っていた。
「湯船……恩に着る」
「ん? なにが?」
「なんでもない。まったく、なんでもない」
「あれ、保健の先生は?」
 これは未緒への質問だった。
「でてった」
 眼鏡をかけなおし、未緒は平常モードに戻っていた。
「用事があるみたい。職員室にいるって」
 今朝。図書準備室で倒れた囲夫を、俺は背負って保健室へ運んだ。教室に戻ると、とっくにホームルームは終わっていた。授業は中止となり、生徒はみな下校となった。
 といっても、俺は帰るわけにいかなかった。昨日の放課後、特別教室棟やその周辺にいた者は、会議室に集められた。けっこうな大人数だった。一人ずつ呼ばれては、警察の事情聴取を受けた。
 事情聴取の直前、図書班のメンバーに、囲夫が倒れたことを告げた。ただ、周囲に人の目があるため、なぜ囲夫が倒れたのか理由を言いにくかった。
 水影は俺の様子を察してくれたらしく、事情聴取の後で保健室に集まりましょうと提案してくれた。
「そういえば、昨日の試合って、けっきょくどうなったんだ?」
 湯船の顔で、思いだした。昨日の自己紹介では、特にその話題はでてこなかった。
「ンーとね、新入部員チームの勝ち」
 湯船が、誰もいないベッドの端に腰掛ける。ふよんふよんと、腰を上下させて柔らかさを楽しんでいる。
「ヘー、逆転したのか」
「ずっーと三対二だったけど、でっかいヒットで二点も入ってね。囲夫君スコア読めなくて訊かれたときだったから、よく覚えてるよ」
 軽く雑談をしながら待つこと十五分、水影がやってきた。
 さっそく、俺は説明を始めた。スチャのこと、写真立てと木槌がみつかったこと、合成音で電話があったこと。
 俺の話を聞き終えると、水影は即座に言った。警察に、伝えましょう。
「スチャという人がなにをしたいのか知らないけど、私たちが黙っているメリットはなにもないわ。花房君、身に覚えがないなら、ありのままに証言したほうがいい」
 そう、そのとおり。
 そのとおりなんだが。
「明日の朝、メールを受けとるまで待つわけにはいかないですか?」
「どうして?」
 ベッド脇、立ったままの水影は軽く首を傾げた。
「スチャという人は、警察に知らせるなと脅したわけではないでしょう? それくらい、覚悟の上じゃない?」
「いや……たぶんスチャは、俺が知らせないと思っている」
「なぜ?」
 俺は、息を呑んだ。
 自分がなにを言っているのか、よくわからなくなった。こんなことを言うつもりは、さっきまでひとかけらもなかった。おかしい。俺は、一度だってこんなことを考えたことはない。それなのに、自動的にその言葉は口からこぼれおちてきた。
「つまり……俺が、スチャを信じてるからです」
「殺人犯を? 名前しか知らない正体不明の人を?」
 水影の返答は早く、的確で、重かった。
 未緒や湯船が、気まずそうな顔をしている。
「確かに、スチャが犯人である可能性は高い。ほぼ確定だ。それは、俺も認めます」
 のろのろと、頭の中に言葉を探した。
「でもアイツは……」
 スチャと初めて言葉を交わしたのは、二年前。
 ネット掲示板に、ときどき書き込みをしていた。
 そこは、実際にあった刑事事件を話題にしていた。俺はよく、適当な推理を書き込んでいた。
 いまにして思えば、稚拙な内容だったと思う。だがスチャは、興味を持ったらしい。やがて、メールでの情報交換が始まった。
 たいがい、ネタを持ち込むのはスチャだった。情報収集力では、圧倒的にスチャが勝っていた。こんなのまで落ちていたと、犯人の個人情報や、殺人現場の写真を送ってきたこともあった。
 それを読みながら、俺は思う存分に奇説珍説を繰り広げた。推理が真相と一致したときは、爽快だった。
「アイツは……」
 その〈あそび〉から手を引いたのは、去年の六月。
 俺のいとこが、自殺したときだった。
「……違うんだ」
 これ、本当に自殺だと思う? わざわざ学校で首を吊るかな? 部活で仲の悪い子がいたみたいだね。自殺だとしたら誰かへのあてつけ? このクラスの裏サイトみつかったよ! 看護師の母親が推理ドラマ好きなんだってさ。当直だったみたいだけど病院の位置からするとアリバイ工作なんてあるかもね!
「手遅れになるようなヤツじゃ、ないんだ」
 俺は、メールを無視した。
 スチャから送られてくる情報を、すべて破棄した。
 代わりに、返事を書いた。もう、終わりにしようと。自分たちのやっていることは、不謹慎だ。
 どうしても、この〈あそび〉を続けたいなら。
 俺はおまえと縁を切る。
「……たぶん」
 俺は、バカだ。
 あのとき、よけいな返事なんぞ書かなきゃよかったんだ。黙ってメールアドレスを解約して、縁を切っていればよかった。
 だってそうだろう? 顔も、本名も知らない。性別も、どこに住んでいるのかも、学生なのか社会人なのかすら知らない。
 スチャなんて、俺にはただのデジタルデータだ。あいつにとっての俺だって、そうに違いない。
 それなのに、スチャは返事をした。短く、簡潔に。
 わかったと。
 この〈あそび〉を、終わりにしようと。
「………………」
 俺は、なにも言えなくなった。
 腰に手をあて、水影が俺をみつめている。睨みつけている、といってもいい視線で。
「花ちゃん」
 思ってもみなかった方向から、声がした。
「スチャって人は、犯人じゃないって信じてるの?」
 ベッドの上、囲夫が上半身を起こしていた。
「おまえ、いつから起きてたんだ?」
「えーとね、水影先輩に説明してる途中から。それよりさ、質問に答えてよ」
「いや、俺は……スチャが犯人ではないとは、思ってない。犯人で、間違いないくらいに思ってる」
「じゃあ、なにを信じてるのさ」
「――プライドだ」
 苦し紛れの言葉だった。だが、他に形容しがたい。
「知的プライドだ。スチャは、良識がない。ためらいなく犯罪にだって手を染める。人を傷つけることだってするかもしれん。だが、プライドを捨てることはしない」
「それって例えば、もしも花房君が推理で真相をつきとめられたら、スチャは自首するだろうってこと?」
「そうだ。スチャが犯人ならな」
 ぐっと拳を握る。喉ではなく、腹から声をだした。
「俺は、アイツの〈あそび〉につきあう」
 囲夫が、隣のベッドに目を向けた。湯船が気の抜けた笑顔を返した。
「ユーちゃん、事情聴取、正直に答えた?」
「うん。ちゃんと答えたよ」
「それってつまり、僕と一緒に野球部の試合を見てたこととか?」
「そうだよ? ずっと見物してたよね?」
 フッと短く息を吐き、囲夫は力のない笑い顔になった。
「ミーちゃんも?」
「言えるわけないでしょ、あんなこと」
 険悪な表情で、未緒は答えた。
「先輩は?」
「私は、なにも隠すことなんてないもの。訊かれたことには正直に答えました」
「あ、そっか。ずるいなあ」
 くすくすと囲夫は声をあげて笑った。
「……おまえたち、なにを言ってるんだ?」
 奇妙な雰囲気だった。水影も湯船も、どこか不気味な感じで微笑んでいる。未緒まで、不快そうにしていた顔がやわらいできた。
 ハア、と水影がため息をひとつついた。
「図書班の歴史も、おしまいかな。明日、まとめて怒られましょ」
「先輩、ごめんね」
「鍵は私が借りてくるから。朝八時、第二図書室に集合。いいわね?」
 ちょっと待って。
 おまえら、俺になにを隠してる?