いつもの朝。いつもの光景。
 車窓を流れる新緑、揺れる吊革。
 瞼を細めたまま動かない高校生。
「よっす」
「ん……おはよ」
 ずいぶん、眠そうな顔をしている。さすがに今朝は、チェシャ猫も疲れているらしい。
「たまには、座るか?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
「昨日は驚いたな」
 ふっと瞼が開いた。まじまじと俺をみつめ、それから、小さくうなずいた。こんな覇気のない囲夫を目にするのは、初めてだ。
「参ったね」
 今朝の新聞記事では、はっきり他殺と書かれていた。
「授業、あると思うか?」
「どうだろ……」
 昨日、保健室で湯船に聞いた話によると。
 橘はうつぶせに倒れ、後頭部に血がにじんでいた。床に垂れ落ちるほどではなく、見た目は小さな傷だったそうだ。ただ、息をしている気配はなかった。水影が脈をとったが、そもそも体温がなかった。
 宇美音が職員室へ知らせに走った。失神した囲夫を、湯船が保健室までおぶって運んだ。水影は、教師達が駆けつけるまで見張り番をしていたらしい。その間に思いついて、俺に電話したわけだ。
 俺のほうはというと。
 水影の指示通り、未緒と一緒に特別教室棟を見て回った。しかし、誰も残っていなかったし、どの部屋も鍵が閉まっていた。で、保健室で待っていた。しばらくして水影もやってきた。
 六時半くらいだったか、殿村に、発見者以外は帰ってよしと言われた。いや、むしろ邪魔だ帰れと命じられた。鞄をとってくるため、全員で一度だけ図書室に戻った。あ、囲夫はまだ意識が戻ってなかったから、湯船が代わりに保健室へ鞄を持っていったが。最後に、水影が図書室を南京錠で施錠した。
「あのあと、どうだったんだ? カツ丼とか食ったのか?」
 あえて、軽くふざけた調子で言ってみる。だが、その効果はなかったようだ。半分眠ったような目で、囲夫は面倒くさそうに答えた。
「いやあ、大したことなかったよ。めっちゃ待たされて、三回くらい同じこと聞かれて、三回くらい同じこと話して、それで終わり」
 視線を横へ走らせる。いつも通り、仏頂面で文庫本を読んでいる未緒がいた。

 昨日の夕方。
 囲夫は足止めされたので、俺は未緒と帰ることになった。玄関前に、えらい数のパトカーが駐まっていた。初めて事態の深刻さを思い知らされた。
 すっかり暗くなった道を歩きながら、ぽつぽつと、話をした。囲夫が失神したのは、血に弱いからだそうだ。かすり傷でも流血を目にすると気分を悪くするという。自分の鼻血で気絶したり、ホラー映画のCMに悲鳴をあげたこともあったらしい。
(むかし、いじめすぎたから)
 そうつぶやき、未緒は暗い顔でうつむいた。
 俺はいろんな意味で言葉を返せず、後はずっと無言だった。
「……噂ってのは、足が速いもんだな」
 校門を過ぎ、玄関に入る。殺人というセンセーショナルな話題をささやく声が、次第に大きくなっていく。
 正直なところ。橘の死が悲しいかと訊かれたら、答えにくい。入学から一ヶ月も経っておらず、授業を受けたのも数回程度だ。ショックを受けるとすれば、水影か。図書班の顧問として、それなりにつきあいがあっただろうからな。
 下駄箱を開ける。上履きを手にし、ふっと記憶がよみがえった。
(そういや、あれはなんだったんだ?)
 昨日の朝、ここに入っていた挑戦状。
 やけにあいまいな内容だった。挑戦状と題しておきながら、なにを挑戦してるのか、サッパリわからん。一応、気にはしていた。盗難にご用心という文章からすると、俺からなにかを盗むつもりのようだ。しかし、家に帰ってから鞄やポケットの中を確認したが、なくなったものはなかった。
 内ポケットで、携帯電話が震える。とりだすと、〈スチャ〉からのメールだった。
(こんな時間に珍しいな)
 内容は簡潔だった。
 ただ、意味がわからなかった。
「囲夫、時間はあるか?」
「ホームルームをさぼる気がないなら、あと十五分くらいはあるね。なに?」
 メールに書かれていたことは、三つ。
 図書準備室に来ること。
 ロッカーの鍵を持ってくること。
 一人ではなく、誰かと一緒に行くこと。