ずいぶん、宿題に集中していた。
一度だけ、未緒をみかけた。囲夫にスコアを訊いてから、十分も経たなかっただろうか。手に文庫本をぶらさげ、図書準備室に入り、数分と経たずにでてきた。
文庫の表紙イラストが、朝とは違っていた。今度は学制服の男子だった。タイトルに〈きんとん〉という文字があるから、上下巻かなにかなのだろう。
読んだことのある小説なら、話しかけるチャンスだったんだがな。あの文庫も、高校生に不適切だとかいう理由でここに納められた本なんだろうか。
それ以外は、ずっと姿をみかけなかった。なにせ天井近くまである書架だ、奥のほうにいるとさっぱりわからない。
だから、急に声をかけられたときはびっくりした。
「……あの」
顔をあげると、隣に人影があった。未緒が、息をこらえるような表情をして立っている。
「その……」
俺はシャーペンをとめ、言葉の続きを待った。
なんだろう。トイレの場所を教えてくれ、とかじゃなさそうだな。
「………………」
顔を逸らし、未緒はうつむいたまま、動かなくなった。
隣の机で勉強していた水影が、顔を起こした。立ち上がり、こちらへやってくる。
「花房君、よければでいいけれど、ケータイ見せてもらっても構わない? さっきの、新機種よね。合格祝い? もちろんメールとかは見ないから、少し触らせてくれる?」
「え? ああ、いいですよ」
内ポケットから携帯電話をとりだし、渡した。
「ありがとう」
水影は少し離れて、カウンターにもたれながら携帯電話を操作し始めた。
さて。視線を戻すと、やっぱり困った顔でフリーズしている未緒がいた。気のせいか、ちょっと怒った表情になっている。
口元が、小さく動いていた。耳を澄ますと、小声でブツブツ言っているのが聞き取れた。
「そうよ……そもそもなんでわたしがこんなことしなくちゃいけないのよ……あのこったらさいきんなまいきになってきてるんじゃないかしら……ここらでちょっとしめあげてや」
「へ?」
「は?」
小さく未緒は後ろに飛びすさった。不安と敵意が混じった顔で、俺を睨みつける。
「なに? なんなの?」
「い、いや。なんでもない」
なんだ? いま、こいつ、なにを言ってた?
(――ム?)
未緒の表情。不安そうにまばたきする顔。
そうだ。そもそも俺が、朝の通学電車でこの女子を気にしだしたのは……。
「ご、ごめんなさい!」
頬を赤くした未緒が、言い訳しながら後ずさっていく。
「あの、やっぱりいいの! なんでもなかったの! あは、あは、そうよね。私ったら、ちょっと勘違い。あんたなんかに話しかけることなんてあるわけないわ! え? あ、ち、違うの! あんたなんかなんて、ごめんなさい、私、口下手で、いまのは言い間違あひゃあ!」
カウンター前の水影に肩を叩かれ、飛びあがる未緒。
ごくろうさん。小さく耳元へささやくのが聞こえた。
「はい、花房君ありがと。そろそろ買い換えようかと思っていたけど、最近のは機能が多いのね」
机の上に携帯電話を置き、水影は廊下側の机へと戻った。
「あ、どうも」
さて。視線を戻すと、やっぱり――。
なんか……めっちゃ睨まれてるんだが……。
「あのな、寒桜さん」
「なによ」
「囲夫と紛らわしいから、下の名前で呼んでもいいか?」
ぎろん。
聞き覚えのある、変な擬音がした。
「好きにすれば?」
「すまんな」
俺、なんか悪いことしたか?
「ちょっと訊きたいんだが……先月の末、駅前にいなかったか? 水色のワンピース着てさ」
未緒は、きょとんとした顔になった。
それは三月中旬、玖乃杜高校の合格発表日だった。
強引にひっぱらないと、親父はすぐ約束を反故にする。無事に合格した俺は、親父の後ろ襟をひっつかんで、そのまま駅前のケータイショップへ連れこんだ。
店員が手続きをしている間、しばらく待ち時間があった。俺はぼんやり、ウィンドウ越しに表の通りを眺めていた。道路を挟んだ向こう側、スーパーがあった。歩道には二十台くらいの自転車が一列に駐輪されていた。
ひとりの少女が、歩いてきた。水色のワンピース、編み目の粗いニットの肩掛けを羽織っていた。
「その女子は」
俺は、一方的に語っていた。未緒は、隣の椅子で小さく縮こまっている。いつもの通学電車で見る、あの仏頂面になっていた。
「急に立ち止まると、動かなくなった。よく見ると、自転車に犬がつながれていたんだ。マルチーズだったと思う。たぶん、犬が苦手な子だったんだろうな」
少女はしばらく迷っていた。やがて、歩道を引き返すと横断歩道を渡り、俺の目の前を通り過ぎていった。小さな愛玩犬一匹のために、遠回りしたわけだ。
「……それで?」
「それだけだ」
「どうして、今頃?」
「いや、あのときの女子は髪がもっと長くて、肩の後ろくらいまであってな。私服だったし、髪にリボンもしていたし」
「そうじゃなくて」
すっと未緒は息を吸って、背筋を伸ばした。
「一ヶ月以上も前に、一度見かけただけの子を、どうして覚えてられたの?」
ああ、なるほど。
言われてみればその通りだ。なぜだろう。
「それは……そうだな……やっぱり……」
恐らく、深層意識のなせる技だろう。
四月、通学電車内で何度も未緒の顔をみかけた。しかし、短い髪で制服姿というギャップに、意識の上では三月のことを思いだせなかった。だが、深層意識は絶えずノックされていたのだろう。絶え間なく、コンコン、コンコンと。そしてついさっき、未緒の表情がひときわ大きな打撃音となり、寝呆すけのエピソード記憶が目を覚ましたというわけだ。
「か……かわいかったから、かな」
ん?
なにを言っとるんだ、俺は。
「………………」
目の前に、未緒の顔があった。口を半開きにし、眉根を寄せ、なにか苦いものを食べたような表情をしている。雲型の吹きだしをつけてセリフを書き込むとしたら「ウワ! きも!」「男子最悪!」てとこだろうか。
「えーと……」
未緒の表情が、どんどん険悪になる。ドス黒いオーラに空間が歪んできているような。
重い沈黙。
「花ちゃんゴメーン、待たせたね」
ガラリと扉が開いて。
人気絶頂の若手漫才コンビみたいに、ほがらかな表情の囲夫と湯船が立っていた。
「お! おう! 待っていたぞ、囲夫! ありがとな!」
勢いよく俺は立ち上がる。暗黒空間、脱出。
「なんのこと?」
「なんでもない! さあ、先輩、自己紹介でもなんでもしましょうぜ!」
ぎくしゃくと囲夫達のほうへ足を踏みだしたとき。
学ランの裾をむんずとつかまれた。
「花房君……」
「な、なんだ」
「花房君がみかけたのは、私。いい?」
なんかそれだと、本当は違うみたいな言い方だが。
「わかった?」
ぎゅり。学ランの裾がねじれた。
「わ、わかった」
パッと裾を離され、俺は数歩たたらを踏んだ。と同時に、チャイムが鳴った。
もう五時半なんだね。腕時計を見ながら湯船が言った。